●孤立する観光軍団

   実盛どんのごう死んだ

 昭和四十四年六月、NHKふるさとの歌まつりは無事放映された。放映ご無事の縁の下にはびしょびしょの冷汗や、やり繰り上手の曲芸の笑いが埋まっていたのだが、そんなことは忘れてしまったと仕掛人たちは言う。

 佐藤「よう覚えんですねえ、わしらは中学ん校庭の暗闇ん中で蝗攘祭りが来るのをじいっと待つちおったから…。蛙が鳴きよったんだけ覚えちおりますわ」

 中谷「確か石武村に行ったんじゃったなあ。岩男町長出身の…長因寺の本堂に集まってもろうち村の衆をくどいたんじゃったろう?出ちおくれち言うて。」

 佐藤「そうそう、あそこで高田氏議員さんたちの間で♪後(あた)あ富貴(ふうき)万福利(まんぷくり)の囃子言葉が決まったんですわ」

 中谷「そうじゃ岳本の喜六老が前半の 実盛どんのごう死んだあ、をどうしてもり思いださんで困ったなあ」

  実盛どんのごう死んだ、後(あた)ぁ富貴万福利…。鉦、太鼓、銅鍵、鍋釜までが響き合って、暗い田圃の道を近づいてくる。松明の火が田植えを終ったばかりの水面に映える。高田氏議員が豆しぼりの鉢巻きに紺の手甲脚絆、さらしの胴巻き、わらじ履きといういでたちで先頭に立った。あとに大久保勝巳ほか石武村の面々、それに商工青年会や牛飼たちがわらわらと続く。牛の背に藁人形を結わえつけ、手には松明、音の出るものは何でも持ち出してひっ叩く。どんがん、どんがん、 実盛どんのごう死んだ、後(あた)ぁ富貴万福利いッ…長崎のおくんちが焼酎をたらふく飲んで繰り出したような騒ぎである。実際昔は大酒飲んで繰り出したので、松明の火が藁屋根についてしょっ中、火事になった。虫も困るが火事も困る。それで祭りはとりやめたと故佐藤喜六老が言った。明治中頃のことだという。

 それはともかく歌まつりは無事終った。もちろん混乱はあった。トップシーンを飾るはずの蛍の光はほとんどテレビに映らなかったし、(雄と雌を一つの篭に入れたため交尾してしまって力を失ったのである)一時間半の巨蛇退治を二分三十秒でやれと言われて須佐之男命の広末長老が真青になったり、それから各村落の盆踊りチームが競って出場したのだが、口説き手の歌詞と曲がみんな少しずつちがうため踊り手が吃驚してよろめいたりした。(歌詞については岩男彰病院長や津江の佐藤清隆を頭とする温湯(ぬるゆ)村落の口説き手たちが一晩中謡い放しで採録し<由布院くどき手本>一冊にまとめたのだった)。岩男頴一町長の子息(当時高校生)が一夜それを借りて読み、憤然として曰く、「なんか、くどき方はのっちおらんッ」つまり女子高校生のくどきには役立たなかった、という話も残っている。さて川西の棒踊りで棒を受けそこなって頭を叩かれた踊り手もいた。塚原の甘酒祭りで脚がしびれて動けなくなり、担がれて退場した式服の婦人もいた。はらはら、もたもたと祭りは進んだのである。

 それでも結局の所、庄内から旦那歌舞伎に助っ人して貰ったほかはほとんど地元湯布院御調達の芸能づくめで、やり抜き、この大にぎわいのふるさとの歌まつりを無事乗りきったのだった。岩男の殿様のご不在の折にである。これが由布院にある種の力と自信をつけさせた。それゆけわっしょいと祭り衆は走りだした。翌四十五年は八月十六・十七日の盆地祭りとなって蝗攘祭りは町の中心部に溢れ出る。牛は温湯や並柳や各村落から続々と参加し、集合場所の小学校校庭には牛雲古の湯気が あたたかく濃密にただよった。山から急におろされた若年たちは背中のくらを嫌って跳びはねた。藁人形の感触に怒りだし、松明の火や焼酎瓶や、目茶苦茶な鳴りものにおびえて走った、それを二本手綱でおさえ込みながら「それッ」と新町に踊りでる。どんがん、どんがん、 実盛どんのごう死んだッ、後ぁ富貴万福利ッ。行列は興奮の渦となって新町通りを走りぬけ、橋から右に折れて川原に出た。夏の夜風が頬を吹く。静かな川原にどんど火が燃えていた。……とまあこういった感じにことが進む筈だったのが現実は常に厳しい。牛はとうとう鞍をのせないままの、ただ黒いだけの、面白くもなんともない奴が、ぞろぞろ出てくるし、まったくのろのろとしか歩かないのだ。歩きながら晴着のみなさまの前で雲古を落とし、失香を流したりしてそれはだらしがない。

 それに牛を扱うのはかなりお年の人たちで(若者たちはどんがんどんがんと自棄っぱちに鳴りものを叩岩、雄叫びをあげるが牛は扱えない)。かつてはぴんと張りつめていた赤胴色の肌に、白いさらしと紺の手甲脚絆を巻きこんで勇ましく出てきてはいるが、そんなに浮かれ道中なるものではない。だいいち牛は高価な財産なのである。四十万円も五十万円も八十万円もする牛もいる。それを調子にのってどんがんどんがんと走らせて、足でもくじかせた日にはいったい誰が責任をとるというのだ?というようなわけで黒い牛と藁人形と、それらをゆっくりと曳く牛飼いたち、それに急に火がついたように騒ぎたてている若者の一団という、まるでニューオーリンズの黒人街の葬式のような一行が、黒い夜道を松明の火を燃やしながら歩いてゆくのだった。

 さて川原では次々にどんど火に藁人形を放り込む、わあッと喚声が上がる。商工会が用意した花火が上がる。さすがに祭り気分である。(もっともこの花火の音に牛が驚いて暴れだしたというので翌年から花火は牛が川土手を渡ってしまってから、つまり祭り気分が終ってしまってから上げられることになった、合掌)。

   仕掛人は消えた

 さてそれでも祭りはたったのである。その証拠に翌年も、そのまた翌年も新町を練り歩く盆踊りと、牛を曳っぱる蝗攘祭りは、お盆の賑わいの最後を飾って催され続けたのだから。

 それは懸命の努力であった。黒い、ただ黒い牛を、曳っぱり出して、裸、褌に鉢巻き巻いて、夜の道を歩くのである。人が祭り気分に酔いしれて、遭いっばいによろめき歩いているとき、牛飼いたちは大事な牛を曳いてわが村の、わが家の牛小屋へと急ぎ、帰ってゆく。そこのところがわからない。祭りに興奮して浴衣がけで走っている人たちも、だんだん祭りが有名になると喜んでいる観光屋たちもその牛飼いのさみしさがわからない。懸命に椅子卓子を運び、牛の雲古掃除までしてまわっている町役場の職員も、やっぱりわかってはいない。盆前の忙しい数夜を藁人形づくりに追われる人たちの、当夜、酒の勢いかりて、鳴り物はげしく叩いて囃すほかはない、ただそれだけの若者たちの、胸の空っぼさがわからない。人たちはそのさみしさを、空っぽさを何かで埋めようとする、とりあえず眼の前の、その祭り騒ぎの底に身を浸すことによって。

 それで何年かは続く、彼等の夢のかけ橋を渡って祭りは六年続いた。しかしそこまでであった。

 この時観光屋はまるで無能であった。三人の仕掛人も消えていた。中谷は<ここまで形を作ればあとはみんなでやるべきだ>と宣言して身を引いた。平岡は公民館に返り咲き、社会教育主事の仕事と興禅院経営の仕事に追われ始めていた。ようやく父虎峰師の病い重くなっていたのである。佐藤雄也ひとりが商工会指導員の立場から商工青年会を曳いてどんがんの藁細工仕事に突入していたが一人ではその仕事に埋没してゆくほかはなかった。その彼もボーリング場支配人へと職を変え、ますますその指導的立場を弱めていった。こうして祭りは拠り所を失った。いったい何のために、誰のために牛を曳き、叫び、怒鳴るのか?何のためでもよかった。誰のためでも、それが何かのためであり、誰かのためであればよかった。みんなそうあって欲しかったのだ。岩男町長のためでもよかったし、観光立町のためでもよかった、みんな何かのためにわっしょいと景気よくやりたかったのだ。ところが誰もそれを受けとめる者がなかった。岩男町長は勘の鋭い人だったから多分この祭りの無理の部分をみとおしていたにちがいない。出初式の消防長の役の時ほどすっきりと彼は采配を振らなかった。議員以下役場内の空気もこれに従った。当然である。

 窓口にされた商工観光係はほとんど災難だったし、共同進行責任を負わされた総務課は大きな荷物を担がされたのだ。担がせたのは観光屋たちだというように舞台は回っていた。それも一部の観光屋たち、富永、志手、溝口、中谷らがその元凶であるということになった。それはそうだった。彼等がお白粉つけてシャモジ叩く、うらさびしげな春の温泉祭りに反発して、農村由布院の土の匂いを撒き散らす夏の夜の蝗攘祭りに情熱を燃やしたのはたしかだった。もちろんNHKの全国放送は当時としては天から小判が降ったようなありがたい企画だった。観光屋が双手を挙げて突っ走ったのは当然である。しかし彼等は走り続けなかった。息を切らしてしまった。盆の十六、十七日と言えば年でいちばん忙しい日々である。宿のない旅客たちが駅の待合室や、共同温泉の脱衣場や、あちこちの道端の車の中で仮眠する日なのである。観光界の指導者と言ってもいずれ小さな旅館主たちである。ランニング・ステテコに汗たらして調理場に立ち、風呂の湯加減みて走っていた。鍋釜叩いて実盛どんのごう死んだ、どこるではなかったのだ。ましてお盆前の藁人形作りには、暇もなければ技もない。せいぜいお酒でも贈って汗だくの若者たちを励ますに止まった。中谷が藁人形の顔を画いたり、幟に武者絵など画いて手伝ったがそれだけのことだ。藁人形はもちろん、松明づくりから草履の手配まで、農家の大久保勝巳や商工青年の若者たちが夜を徹してやったのだった。

 要するに観光軍団は無能だった。非力で貧乏だった。全国一のパンフレットを創ったり郷土料理作戦でマスコミを煙に巻いたりすることはできたが、これほどの祭りを、町中を巻きこんで押し進めてゆく能力にも、気力にも、もちろん財力にも欠けていた。観光屋たちはようやく町内で孤立しかけていた。しかしまだまだ祭りは続く。動きだした大きな轍に曳きずられながら役場職員や商工青年や、牛飼いやそして一部の観光屋たちはよろよると走り続けた。祭り車はひと握りの人たちの汗と、情念をのせたまま暗い坂道を転げ落ちていった。

   君は、ゴルフ党か

 こうしてたすきがけの湯布院の変身が始まる。世はGNP世界第二位とかで、ものみな強気に満ち溢れ、新全総の経済ラッパは高らかに鳴り響いて大分新産都の都町をネオンの海に染めあげていた。湯布院にもその風潮が流れ込んでくる。ゴルフ場は防縮のスポーツシャツに真新しいキャップを被った<湯布院弁>の紳士で溢れ、四十六年、ボーリング場が町なかに出来ると岩男町長以下町議会議員全員が玉を転がしにでかけた。いちど廃業した城島のクラブ<りんどう>はたちまち蘇生し、夜は紅い灯を高原の中に点したが昼には<つけ帳>を持った美女たちがまなじりを決して湯布院の町を走り回るのだった。

 そしてその頃、由布院観光衆がうちだした路線が<生活観光地>の思想である。「観光の中身は特別に観光用に造られるべきではない。その土地の暮しそのものが観光の中身なのだ。村の生活が豊かで魅力あるものでなくて、なんのその土地に魅力があろうか!」これを言いだしたのは亀の井の中谷で、玉の湯の溝口が全面的に同意した。

 なぜこんな場違いな路線が出てきたのか?

 なんのことはない、この二人がゴルフができなかったからである。それで牧野がゴルフ場に侵蝕されることに腹を立てた。このことがその後の由布院観光に大きく作用することになる。中谷は稀代の運動神経劣等生で、平均棒は上ったまま動けない。鉄棒は尻上りゼロ、懸垂ゼロ、走れば一人遅れてあとの組の先頭に立つから教師があとの組のスタートを遅れさせたというくらいのものである。

 溝口も山男とは言うものの生来骨皮型柳腰の優男で、肺手術をする前は鉄棒で大車輪をしたと言うが誰も信じない。そんな二人に比べて桃太郎の富永は真に頑健な歯と、胃と、腸を持っているし、夢想園の志手は肺手術をしたのが嘘のようないい身体をしている。なにしろ家系は日出の剣術の先生で御用捕方の頭をしていたというし、父上は豪勇の警察官で、戦後、花祭りの折に朝鮮人が群れて暴れていると聞いて独り乗り込み、四、五人を<ちい投げた>という。「そん息子にしちゃ出来が悪いのう」と富永は冷かすのだが、やはり志手は身体を動かすことを好いている。それで富永も志手もたちまちゴルフに入れあげた。山水館の小野和俊はもともとラガーである。それに父上の小野順吉が由布院でも草分けのゴルファーだからこれは一家をあげてゴルフに走る。その風潮にライオンズクラブや岩男町長たちが拍車をかけた。湯布院のエリートたち、文化人たちはみなゴルフをするということになった。事実湯布院のゴルフ場は美しい。山下湖畔の大草原で、空にそびゆる由布岳の頂上を狙って打つショットは豪快である。まことに、ゴルフバックを叩いてみれば文明開化の音がする。「町長も楽じゃねえぞ」と岩男町長はこぼした。「このせわしいのに東京からお偉いさんがくりゃあゴルフの付き合いもせにゃならん」(それにしちゃあ付き合いがいいのうという声もあり)「しかしあんないいゴルフ場があるちゅうことも東京の人たちに知っておいてもらわんとの、良いものをみせて、味わせて、惚れさせて帰らせる、これが観光じゃ、町長がいちばん働きよる観光屋ぞうッ」

 確かに岩男町長はたくみな橋を渡っていた。土臭い論旨にたちながら一転して高所から睥睨し、恫喝し、鮮やかに舞ってみせた、しかし富永や志手や小野、それに溝口や中谷は律義者である。富永たちは中谷らの執拗な論の詰めに納得させられて生活観光地造りの片棒を担いだが遊びは捨てなかったし、中谷たちも仲よく付き合う所からしか話は煮え詰まらないとしながらも遊びの仲間に溶けこむことはしなかった。

   蛇頭の旗の下に

 こうして湯の岳郷グループの兵児替え仲間たちはすこしづつ空中分解していった。ゴルフのできる仲間と、できない仲間とに。  

 しかし中谷が<生活観光地>を言いだしたのは突然のことではない。彼が十数年も前からそちらの方に傾斜していたことは事実である。それは三十七、八年のお神楽びいきや、民謡による行脚宣伝にも伺える。その資質は彼の家系が雪深い北陸の出であることとも無縁でないかもしれないが、それよりも彼が生れ育った温湯(ぬるゆ)村、あるいは津江集落に深く拘わっているように思われる。温湯村は大友時代、切支丹豪族怒留湯(ぬるゆ)主水正(もんどのしょう)の所領であった。古くは村社六所宮(ろくしょぐう)から仏山寺、金鱗湖、天祖神社を領し、中でも仏山寺を中心とする津江村はいまなお静かな歴史の匂いを残している。

 そういうわけで温湯村の気風は質実である。例えば三十九年、横断道路開通のとき、温湯村はお白粉塗りのどんたく行列を拒否して代りに狭霧台の真正面にどでかい温泉マークの文字焼きを造り、火をつけた。火は昼も夜も赤い炎煙をものものしく噴きあげて、全国からやってきた開通記念ドライバーの長蛇の列を驚かしたのである。温泉祭りの山車も温湯村は蛇を出した。蛇の大頭を造ってそれを屈強の村人が四人で担ぎ、振り回す。前に神楽の鬼の面をかぶった神人がからみ、要所々々で蛇と斬合いをしてみせながら進むのである。それに鍋釜、鳴りもの持った囃子方が随行する。♪ガンガラ、ガンガラ、無茶苦茶な音である。後ろには多勢の村の世語役たちが割竹を持ってしたがう。蛇頭から長い布が出ていて、世話役連が割竹をしなわせて布を持ちあげると布は半月形にふくらむ仕掛けになっている。由布院は村落が点々と離れている。村はづれにくると蛇頭をトラックにのせ、胴布はたたみ、一同後ろの荷台に押し乗って、春風の中を突っ走る寸法である。のちにこれは観光協会で採用され、九州一円から山口、徳山にかけてこの無茶苦茶な蛇踊りが走り回ることになった。さすがにこのときは蛇頭を振り回す強力はなく、最初からトラックの運転台に据えつけたが頭は自由に動く。布をかぶって、獅子頭のように表情たくみに操る仕掛けである。その操り人に志手康二がなった。<うまいぞおッ>と掛声がかかる。コウちゃんは一生懸命やる。<うまいッ蛇頭いちばんッ><なにをやらしてもうまいッ><素人たあ思えませんッ><蛇頭に餌をやらないでください。お腹をこわします>

 いろいろ言いながら街中を抜けると一面の田圃である。そこで富永がいちだんと声をはりあげた。「コウちゃん、うまいッ」みんな合点してそれに合わせる。「うまいぞ、コウちゃんッ」誰もいない田舎の一本道をコウちゃんの蛇だけが懸命に頭振り振り進んでいった。

 一連の催事には中谷の企画が働いていた。しかし温湯村には中谷の企画をよしとして受入れる雰囲気があった。またその雰囲気を吸いながら中谷も温湯村に育ってきたのである。だから中谷の企画、必ずしも町のスケールの中では受入れられていない。例えば温泉祭りの催しに温泉樽御輿を提唱したが受入れられなかった。

 各村落から温泉をいっぱいに汲み入れた樽御輿が町の中央の小学校校庭に乗リ込んでくる。沿道の観衆に湯しぶきを撒き散らしながらわっしょい、わっしょいと到着する。校庭中央にはダンプカーで運ばれた泥土で、固い山が造られている。その頂点にその日第一等賞の景品目録が御幣とともに高々と突立てられている。掛声といっしょに各御輿から湯が汲まれ、この泥山にぶちかけられる。当然泥山はヌルヌル山になる。そこで裸一貫の男たちが頂点の御幣を目指して這いのぼる。当然チームワークも大事である。一同ワァッと散ってわれ勝ちに登る。曳きおろす、蹴落とす滑り落ちる。回りからざんざと湯水がかけられる。しぶきが光る、湯気が舞う……そしてついに金剛力の男が頂上の御幣を欄む、というような温泉祭りはどうだというのである。それからもうひとつは同じく小学校の校庭に村中からビニール天幕類を持って集まる。それを校庭に敷きつめて全消防車を総動員し、点検放水をする。当然校庭中が放水の雨になる。そこで水着いっちょで何かやろうというのである。さんざ降る放水の雨が老若男女の冒険心をかき立てる。そんな夏祭りを何か考えようという。いずれも却下されて実現しなかったが、その発想の系譜にはすで に<暮しの文化><生活観光地>への芽生えがみえる。それはボーリングやゴルフとどこかあい入れない匂いを持っていた。由布院観光は深い亀裂を抱えたまま日本列島改造の嵐を迎えようとしていた。