●天皇陛下のパンフレット

   大飯先生現わる

 「大崎です」。突然中谷を訪れた男がそう名乗って、庭やできたばかりの湯の岳ガーデンを大きなカメラでぱしゃばしゃ撮って帰ったあと、梅木から「あれが二科の大崎聡明じゃ」と聴かされて中谷は驚いた。梅木は県の美術協会に属して写真をやっていたから詳しいのである。そうでなくても梅木は人のつながりに強く、いまや<つぼみの薫平>から変って<人事の薫平>と称ばれている。さて数日が経って大崎が写真を持って現れた。中谷はもういちど驚いた。わが家がなんとも美しく、晴れやかに写っていたのである。そこで湯の岳郷の連中が集まった。

 「お主できるなッ」というわけである。反応は速い。万象苑のパンフレット作りが始まった。「写真は撮りますよ、しかし文章は書いちください」。文章は中谷が書く。映画の予告篇を書いていたから書けるはずだという。デザインは?デザインを決めるのに幾晩も大飯喰らいの夜が続いた。富永は紹介ずみの胃丈夫だし、大崎も酒を飲まないから食事には並々ならぬ情熱を燃やす。立派な顔と立派な服と、立派な口をゆりたてながら堂々と召上がる。富永はたちまち感動してしまった。「腕もいいが胃もいいなあ、先生」。それから大崎は大飯喰らいの先生になった。♪うちの先生はくらいが高い、何のくらいか飯喰らい、などと唄っては「さてデザインじゃがなあ」とやっているから話は一向に進まない。結局中谷一任ということになった。

 中谷は一夜漬けで決めてきた。ニッ折、カラー、表は白地に小さなカラー写真一枚、図柄は湯の岳郷が誇る猪鹿鳥料理。見開きは一面の写真刷出し、ここが飯喰らい先生の勝負どころで、夕闇、銀のような三日月がかかる、その下の萱葺きの万象苑。雪見障子の硝子をとおして暖かい電灯が洩れ、中には家族団欒らしい風情が伺える。それを一発で決める。裏は柿をむく美女の手はんなりという仕立である。

 「よしッ」と大崎先生は立ち上がった。宵から闇の夜まで数時間、月も移り、中の家族団欒役の富永一家もヘトヘトになって、撮影は終り、写真が出来できた。みんな満足であった。みんな上機嫌でまた飯を食った。一緒に飯を喰うことで愛情を確かめあう、奇妙な集団である。

 ところが困ったことが起きた。裏表紙の<美しい女の手>がみつからないのである「手をみせよ、手をみせよ」と由布院の表町や裏町をうろうろする中年前期の男たちは大方の妻たちのひんしゅくを買ったのだが、そんなことはいまや芸術づいてしまった中年衆にとって何ものでもない。進め進めとやるうちにやがて自薦、他薦、紹介がぞくぞくと登場し始めた。中に一人の美女がいた。みんな「これだッ」と言った。しかし中谷がノウと言った。「おれのイメージは少女の手じゃ、シワひとつ、筋ひとつゆるせんのじゃッ」。

 すでにオカシクなってしまっていた一同はそうじゃ、そうじゃと寝返ってその美女を落第させた。その紹介者が岩尾浩介で、後その美女と結婚し、由布院に移り住むことになる。彼が別府の仕事場に通いながら由布院に創った案内標識、その他デザイン、イラストの仕事は由布院観光にひとつの視座を与えた。さらに<よそ者>が住みついて、そこにはっきりと由布院の仕事が残されてゆくという事実が由布院の観光仲間に新しい眼を開かせたことも看過できない。いま由布院が進めようとしている織物や竹工や、その他いるいろの能力者移住大歓迎の動きはこの頃から芽生えてきたと言える。物を輸入するよりも人を導入しよう、物はその人に作ってもらえばいいという思想はゆっくりと育ってきたのである。

   ミス由布院もびっくり

 それはさておき、万象苑のパンフレットはなかなかできない。毎晩飯ばっかり食っていても仕方がない。業を煮やした富永は大庭小枝子に頼んで柿をむかせ、さっさと裏表紙を撮ってしまった。大庭小枝子は三人姉妹でやっている酒場やまなみの長女でしっかり者の美人である。<柿をむく美女の手>といったのに「それじゃああんまり可哀そうしゃ」と仏の富永が仏心をだして、顔まで入れて写したのでデザインの中谷はカンカンに怒ったが、客は小夜子の美女ぶりに惚れてパンフレットは大好評であったからこの勝負、富永の勝である。翌年の温泉祭のミス由布院に、観光代表の一家は大庭小枝子を強力に推している。

 小夜子は準ミス由布院になった。ところでこれには後日譚がある。ミス由布院たちを数名選彰するという仕事を請負った観光協会はほかの温泉祭の行事には何ひとつ参加せず、あなたをミスに推薦すると大騒ぎにもちあげて、さてミス決定後は<おめでとうミス由布院>とさらにもちあげ、揚句の果てに「お祝いに九州一周の旅行に招待する」と吹きあげている。なんと豪華なミス選彰よと思うのが当然で、また、その看板に偽りはなかったのだがおしまいの詰めはちゃんと合っている。

 「ミス由布院をひきつれて、由布院観光からご挨拶に参りました」とやったのである。

 なんのことはない、手当日当なしの観光宣伝隊要員である。五台の車にふり分けられ、行く先々の旅行代理店や会社、官庁で「由布院をよろしくお願いします」と挨拶させられたミスたちは失敗(しくじ)ったと思ったがあとの祭りだった。九州中を走り回らされて四日目に這々(ほうほう)の態で由布院に帰ってきた。それでも若さのお蔭か、面白かった、愉しかったとみんな大喜びだったのだからこの生き馬の眼を抜くような企画も存外名刀の切味だったのかもしれない。

   日本一のパンフづくり

 大崎聡明の腕に惚れ込んでしまった宮永たちは大崎と組んで由布院パブリシティを展開しようと企んだ。もちろん文無しである。富永は俳句をよくし、梅木は県美協の写真会員、中谷は映画を撮っている。三人とも話が粒だつ。受けが巧い。大崎はよしッと重い腰をあげた。いや重そうにみえたのは体重のせいで大崎の腰はみごとに軽い。いちど乗るといだてんの先生となって湯布院中を撮りまくった。これにはみんな驚いた。驚いてあわてて町長を口説きにゆく。当時湯布院は国体を眼の前にして町中が湧きたっていた。天皇・皇后両陛下が由布院に行幸啓なさるというのである。駅舎を建て直し、道に花を飾り、土産物を用意し、……その土産物に観光仕掛人たちは喰らいついた。<両陛下に湯布院の立派なパンフレットを差しあげよう>。安っぽい、刷り残りのパンフレットなど献上できるものかッ。「よしッ」と岩男町長がうなづいた。「すぐ作れッ、天皇・皇后両陛下に湯布院パンフレットをッ」。こうして豪華な観光パンフレットが一部の観光屋たちの手で、町の金を費って作られることになった。<天皇陛下万歳ッ>と彼等は叫んだ。

 それから二ヶ月、眼も落ちくぼむ昼と夜があってパンフレットが完成した。内容はこんな具合である。

 形、四角い。大きな瓦みたいな形。表紙、一面の緑の苔の上に隠れ切支丹の十文字の刻み。次。画面一杯に黒い牛の尻。牛が由布院盆地をみおろしている。はるかな由布院盆地そのコピー。<ゆふいん……すり鉢型の盆地いっぱいにお湯が湧くといった風情。それでいていわゆる温泉場の感じではなく、明るい昼間の観光地、いやむしろ別荘地といった感じです。/九州横断道路がはしる東九州の高原地帯。別府から車で40分。そのまま足を伸ばせば2時間で阿蘇。すばらしいドライブウェイです。/そんな中にぽつんと置き忘れられたように静かに生き続けている町、それがゆふいんです。海抜五百m。それほど高くはありませんが廻りに高山が連なり、その吹きおろしで夏はすばらしく涼しいのです。/町にはいろんな建物があります。旅館、スポーツセンター、保養所、別荘、厚生病院、国民宿舎、商店、農家、文化ホールetc……そしてそれらのひとつひとつが”ゆふいん”の味わいを創っているのです。……町中いたるところに温泉が湧き、人々は朝餉の煮たきから飼牛のみがきまで、この透きとおった豊潤な温泉を費って暮してきました/人口一三〇〇〇人のちっぽけな盆地”ゆふいん”。それでいて一昼夜に10万石のお湯を噴きあげ、数十万町歩の郊外緑地をもつ”ゆふいん”。旅館街に灯のともる頃、はずれの杜では若衆の村太鼓も始まろうという町。/ハイウェイを牛が漫歩し、猪料理とスパゲッティが同居する町。それがわたしたちの故郷”ゆふいん”です。/そこで人が生れ、語りあい、日々を生きる。ゆきずりの娯しみではなく、一緒にこの世を生きている者の深い慰め……。”ゆふいん”の味わいはそんなところではないでしょうか。一期一会、お立寄りくだされば嬉しく思います。>

 この長いコピーに大崎は<長過ぎる>と注文をつけ、コピーライターの中谷はどうしても譲らなかった。いま由布院が目指している標的を十七年前のこのコピーが正確に狙い撃ちしているのがわかる。

 次。淡い銀刷り。一面の盆地の朝霧が美しい。コピー。<九州の旅に出て/私は由布の嶺を越えた/嶺の霧は深かった/麓の村の/霧のなかで/娘が水を汲んでいた/いづこの農家の庭にも咲く紅い叢花/霧のなかで/娘が花を摘んでいた/身も心も淡く濡れそぼって……津村信夫(鄙の歌)より>

  見開き、左頁、湯気たちのぼる原生林の下の金鱗湖。白黒写真。次頁、見開き、カラー。山裾の民家。れんぎょうの黄色い花群。<ゆふいんはお湯の里、山の町、高原を走る九州横断道路のターミナル。そしてわたしたちにとって、かけがえのない、ふるさとです>。

 こんな具合に頁は進められ、民家風な旅館や近代的なホテルが登場し、山家料理が現れ、湯の平の石畳情緒が紹介され、金鱗湖のしみじみと美しい夕景に銀刷りで<ゆふいんの盆地はその昔、大きな湖でした。いつの頃からか作物が実り、人が棲み、お湯が湧きだして仙境ゆふの里となりました。爾来ある時は大友・黒田の軍勢が疾風のように馳けちがい、またある時は参勤交替の毛槍が行列をなして通りました。そして今、九州横断道路沿いの新しい観光地として注目を頂いております>。

 夜神楽の撮影では大崎が長老の渡辺功に厳しく当った。「さあ脚をあげてえッ。よいしょッ、もっと脚をあげてえッ、よいしょッ」。須佐之男命の大面をつけて百回近く脚をあげさせられた渡辺はとうとう眼を廻してひっくり返ってしまった。すると大崎が言った。「昔から言うじゃありませんか、天皇陛下のためならば、なんで命が惜しかろう」

   晴れ舞台まっしぐら

 こうして天皇陛下のパンフレットは完成した。製作の富永も、撮影の大崎も、コピーの中谷も、デザインの波多野義孝も、印刷の佐伯印刷平岩八重子もくたくたになった仕事だったが、評判は芳しくなかった。<なんと持ちにくい四角い形>。<天皇陛下に牛の尻を向けるとはなんたる不敬>。<いい旅館とホテルだけ写っている>。<こんな料理はある所でしか食べられない>。<野点に出ておるのはどこどこの奥さん方じゃ>等々。

 さてパンフレットは侍従から陛下に渡されたという噂がきかれ、それでどうだったか訳のわからないうちにフンファーレが由布岳にこだまして国体騒動劇は終っていった。夏の終りの、気のぬけたサイダー色の空。

 その年の十月のある日、佐伯印刷の平岩八重子から中谷に電話がかかってきた。「クナイチョウから注文がきましたよッ」。宮内庁つまり天皇陛下から追加注文がきたという。ああ再びわれらが天皇陛下。「なんとみごとなパンフレットよ」と賞めちぎる声が急に身近に沛然と湧き起こった。町長が喜んだ。議会で大自慢してみせたという。

 もちろんスタッフは喜んだが、いちばん喜んだのは佐伯印刷の平岩八重子である。「何十冊お送りしましょうか?宮内庁は冊数を言われないんですよ」。「天皇陛下に問合わせてみましょうか?」と中谷が言った。平岩副社長の笑いはこぼれんばかりであった。この頃の大分は新産都をめぐって大手印刷会社の侵略の標的になっていた。凸版印刷やライト印刷が博多に根城を置いてその巨砲を大分の地に定めつつあった。博多の秀巧社や熊本の城野印刷も果敢な殴り込みをかけてきていた。大分の中にも弱小の印刷会社が合同して外敵に当るべきだという声が起こったりして世はまさに戦国だったのである。戦国の世に錦の御旗はいつも強い。<天皇がお賞めになった佐伯印刷の技術>は大分を一刷毛さっと刷いた。「やろうッ」と男スタッフ共が言った。「やりましょうッ」と女副社長が叫んだ。そしてパブリシティ戦争が始まった。

 天皇のパンフで撮り溜めたカラー写真を使って絵はがきを作ろう。そこでさっさと作ってばら撒いたらこれが翌四十二年二月の日本商工会議所・日本観光協会主催第七回全国観光地エハガキコンクールで第一席、日本商工会議所会長賞をとった。天皇のパンフの余光である。町もスタッフも印刷屋も阿波踊りのよいよい気分になった。五月には岩男町長が大崎、富永らスタッフと佐伯印刷をごった返す春祭のホールの中で晴れやかに表彰した。

 そして七月、今度は天皇のパンフが日本印刷工業会、日本印刷出版研究所の主催する第九回全国カタログ・ポスター展のパンフレット部門で最優秀日本印刷工業会々長賞を受賞した。こうなるともうだらしなく突走るほかはない。「ポスターを作ろうッ」日観運の二十日会が受けて立った。朝霧もやる金鱗湖。二艘の川舟をつないで板を渡した上に旅館の面々三味太鼓と熱燗の薬罐を持って乗り込んだ。

 十一月である。霧深く、冷気みなぎる中を賑々しく湖中にくり出す。♪もうし、もうし床屋さん、頭をハイカラさんにつんでおくれうしろ短く前長く、とにかく別嬪さんの好くように。湖水一面、乳色の濃い霧である。舟影もみえない。「どこかあッ」「こっちじゃッ」「もっとこっちに来おいッ」「もっと西じゃあッ」「ゆき過ぎたあッ」「もっと後ろおッ」「もっと奥ッ」「はっきりせえいッ」「寒いどうッ馬鹿野郎ッ」、みんな自棄気味になって、薬罐の酒を喰らい、太鼓を叩き もおしもおし床屋さん、とやるのだがだんだん寒さが滲みてきて意気が沈む。

 「寒いなあ」。金鱗湖旅館の佐々木副支配人が立ち上がって舟べりで小便をし始めた。そのとき薄陽がさあっと照った。「本番いきまあすッ、騒いでッ騒いでッそれッ」 もうし、もうし床屋さん、と始まったが小便は急には止まらない、おいおいッと言ううちにバシャリ、バシャリとシャッターが切られて、とうとう佐々木副支配人の舟べり立小便の姿は美麗なポスターとなって全国津々浦々に配送されていった。