●由布院の味を求めて何百里

   家を建て始めた

 由布院の戦後二世たちが跳梁し始めたのが昭和四十年であったところに歴史のひだが見える。前年の三十九年十月一日、新幹線が東京大阪間を走っている。二日後の十月三日、九州横断道路開通。十月十日から東京オリンピックで日本中が湧きかえるといった時期である。その背後で四十一年の大分国体の準備が進められ、また大分新産都構想も着実に進んでいた。湯布院だけが悠然としておれるわけがない。先頭の中年に近い若者たちはまず中古車を買い、それにうち乗って月賦に追われながら排煙の中をやみくもに走り出した。そこが一世たちとちがうところである。一世たちは決して無謀に走りだしたりはしなかった。借金もほとんどしていない。

 どだい旅館というものを、金を借りてまでやるものと思っていなかったのである。もっとも当時は金融事情も悪かった。大分県信用組合ができたのが二十九年の暮れ、別府信用金庫ができたのが三十一年の四月である。大分銀行は三十九年の春にようやく出張所を開いている。借りようにも貸してくれなかったと一世たちは言う。やる気はあったのだと。

 しかし二十日会の研修旅行で呼子に行ったとき、香椎荘の奥様が湯上りに鯛の刺身を食べた。それを見て食べたい連中が騒ぎだし、当時会計だった中谷宇兵衛が「鯛の刺身を食うとはなんたるぜいたく」と歎いたというからあんまり元気のいい一行ではなかったようだ。

 さてやみくもに走り出して二世たちは何を始めたか?家を建て始めたのである。万象苑、夢想園、玉の湯、亀の井別荘、山水館、日の春、これらはみんな四十年代前半に新築、あるいは増改築をしている。中古車から替わって火の車に乗ったことになるが、それでも臆せず連中は走り続けた。四十年の春、突然富永岩夫が楽山荘を買いとって盆地の中央に進出したのが建築ラッシュのきっかけである。いつも富永は現象のきっかけを作る。楽山荘は香椎荘の一部であったのが財産相続の関係で他人の手に渡ったものである。それを買いとって整備し、万象苑と改名して瀟洒な旅館を始めた。いよとみ旅館の老朽した建物とがっぷり組んで三年間、富永はその借金を零(ゼロ)にし、そのうえ万象苑を開くだけの銀行信用を築いたのである。それが二世たちのやる気をあふったことは確かだった。

 富永のやり方は徹底していた。風が吹くと翌朝四時に起きて扉の閉まらない車に乗り込み、大分の市場に駆けつける。風落ちの果物が安いからである。その夜は低料金のお客にも果物がたっぷりついた。鮎は小鮎しか買わなかった。小鮎は煮びたしにする。大きいのを一匹つけて客が食べ残したらもったいない。小鮎二匹なら残った方は煮返して家内の惣菜にするという。行商の野菜屋には<よそを回ってうちには最後においで>と言った。たいていの宿は最初に来いというところを逆である。それで最後にゆくと<余ったものを持って帰っても仕方があるめえ、みんな置いていきよ>、つまり安い野菜を買うのである。それで野菜屋も喜び、客も喜び、<ああおれは仏の岩(いわ)じゃ>と言う。仏の岩はこうして旅館を立派に盛りたてた、三十五才である。戦後二世の一番槍であった。

 中谷はいちど富永に援けられたことがある。

 銀行からも親戚からも、借りるだけ借りてしまった三十九年の暮れであった。六十万円なければ手形が落ちなくて年が越せない。寒い夕暮れである。ゆくところもなくて富永を訪ねると富永はすり切れた畳に寝転んでミカンを食べていた「ずいぶん傷んだなあ」。畳を撫でながら中谷が言うと「うん、そろそろ替えようと思うちおる」「替えんでも裏返しゃもう一回使えるでえ」「ほう、そりゃいいことを聞いた」と富永が起き上がった。「裏返すたあ大した智恵じゃなあ」。そう言いながら富永が畳の端をくるりとめくると、裏はすり切れて赤くなっていた。とっくの昔に裏返して使っていたのである。

 その晩、中谷は富永に金を借り、無事正月を迎えた。中谷はそのことを恩に感じ、以後富永・中谷のタッグはさらに深まる。

   毛色のちがいがみえてきた

 香椎荘の隣りに同じ萱葺きの別荘風旅館万象苑が進出したことで由布院旅館界につむじ風が起きた。当時由布院には約二十軒の旅館があったが、その中で別荘風の旅館は香椎荘、亀の井別荘、玉の湯の三軒で、いずれも小さな、微力の旅館であった。<田圏の保養温泉>という基本的性格は当時の由布院にはまだしっかりとみえておらず、別府、天ケ瀬型の宴会観光の残照の中で三軒の別荘旅館はすこしばかり毛色の変わったチビ旅館といった役どこるを出ていなかった。そこに万象苑が斬り込んできて事態は一変した。それまではホテル風の山水館も、観光旅館風のことぶきも、同じ由布院の旅館ということで、ばくぜんと仲間意識を持ってやってきたのだが、同じ村落の中に別荘風旅館が四軒固まってみると、どうにも特性がめだってしまう。いままでみえなかった由布院盆地内の、各旅館の性格のちがいがはっきりとみえてきた。別荘風旅館の魅力と、ホテル風、あるいは観光旅館風の宿の魅力は、がちがうのではないかという話が出てきて、そうであれば由布院も総まとめにして魅力作りの話を進めてもせんないことではないかということになった。特に富永はいよとみ旅館を由布院観光ホテルと改名して客足を誘った経験があり、それは一応成功したが、名前と建物のイメージのちがいからよく客の苦情を受けた。料金を上回る扱いをしても、客が抱いてきたイメージを裏切ると決して客は満足しない。それを富永は身を以って知った。個性に合った経営をやろう。そのことを富永は<似合うた糞をひろうや>と言った。みんな笑ったが中味の重要さを理解したのはごくわずかの仲間たちだけだった。

 四十年の秋、国体に備えて駅が全面改造され、構内に観光案内所ができたとき、中谷は由布院の旅館を五つのタイプに分けて表示しようと主張した。近代ホテル風、観光旅館風、別荘旅館風、入湯滞在風、その他の五種である。中谷の案は否決された。旅館の資格によって国観連、日観連と分けるやり方や、地図の上の集落による分け方が錯綜して結論に到らなかったのである。旅館の個性を強調して独自の経営を展開すべきだという視点はまだ定まっていなかった。それが採択されるのは四年後、中谷が九州観光コース地図を完成するときまで待たねばならない。

 由布院観光はすこしづつ前へ進んでいた。

   つぼみの薫平登場

 昭和四十一年の春、玉の湯に男手ができた。

 梅木喜代子の婿、梅木薫平が勤め先の日田博物館を退職して旅館経営に入ってきたのである。一世の国分新一が酒を過ごして厚生年金病院に入院している時、梅木は病気の母親を同じ年金病院に入院させて、単身嫁の実家に乗り込んできた。乗り込んできたといっても彼は痩身の優男である。すき間から静かに入ってきたといった方が似つかわしい。あだ名づけの名人の仏の岩が早速梅木に一発啓上した。

 曰く<つぼみの薫平>。みんな思わず膝を叩いた。ぴったりだったのである。

 さて<つぼみの薫平>はひっそりと動きだした。別荘旅館の仲間で共同のちらしを造ると言えば「写真、撮りましょうか」と眩いてびっくりするような、しっかりした写真を撮ってきた。小鹿田焼きを料理に使おうかという話がでると「ご一緒しましょうか」と言って車の隅にひっそりと乗り、小鹿田の里の工人に丁寧に紹介した。彼が大分県美術協会の写真の会員だったという話や、博物館時代に小鹿田焼きと深くかかわっていたという話はあとになって知られたことである。そんな梅木も時にギロリとした一面をみせることがあった。例によって弱少の別荘旅館がどうやって生き抜いてゆくかを語り合うために集まった秋の夕暮れのことである。場所は玉の湯、集まったのは富永、中谷、それに梅木の三人でまず飯を食おうということになった。「蝮食べますか?」と梅木が言う。好奇心の中谷が「食う食うッ」と叫び、食欲の富永が「何でもいい、腹に納めようえ」と怒鳴り、つぼみの薫さんが用意にかかった。七輪に火を起こし、蝮をぶつに切って皿に盛り、小皿と箸を並べ、実にこまごまと働く。「どうした蝮かい?」と訊くと「採ってきたんです」。

 九重の山に花を採りに行ったらおったから採ってきたと言う。「赤じゃから旨いですよ」。

 ぶつを金網に乗せて焼くとじりじりと脂がしたたり落ちて奇妙な匂いが部屋中に立ち込めた。焼けましたというので中谷がまず一片とって醤油をつけ、口に放り込んだがそのまま黙っている。「どうですか?」と梅木。「ふむ、なかなか」と中谷。少々あいまいである。「どれッ」と掛声をかけて富永が一片頬張り「うめえじゃねえかい、なあ?」と同意を求めながらばりばりと食べ始めた。梅木もコリコリと噛んでいる。中谷は一片でやめにして焼酎を呑み始めた。うめえ、うめえと富永は仇のように食っている。さて一口、ガシリと食い切って噛んでいると手にした蝮の腹の中から白いものがゆっくりとせり上がってきた。

 ゆらゆらと湯気をたてている。それをみて富永は「ぐえッ」と叫んで放り棄てた。蝮の子がせり上がっていたのである。そのとき梅木が解説をした。「蝮は胎生ですから蛇の姿になって口から出るんです」「やめちくりいッ」と富永が悲鳴をあげた。「すみません」と言って梅木はまたコツコツと蝮を噛り始めた。中谷は蝮より薫平が恐ろかったとその日のことを述懐している。

   別荘旅館の手練者(てだれ)たち

 さてこれで万象苑の仏の岩、亀の井別荘のほら健、それに玉の湯のつぼみの薫平と、四軒の内三軒まではニツ名の手練者が揃った。残る香椎荘にも伊藤スミという手練者(てだれ)がいて、香椎シズ奥様亡きあとの、そして大川絹光番頭去ったあとの店を盛りたてていた。スミは香椎源太郎中将の家内料理人だった人で、朝鮮の漁業王の舌でみがかれたその腕は、群を抜いて第一級のものであった。かつて大正から昭和にかけて宮家や財閥や多くの文人墨客を、味の格調の高さで惹きつけていた亀の井別荘の中谷巳次郎は、その技のすべてを嫁の武子に伝えたのだったが、その武子もスミの料理にはどこか敵わないところがあると言っている。ちなみに武子は宇兵衛の妻、健太郎の母である。ところで<ほら健>という中谷のあだ名だが、当初中谷は<能書きの健>と称ばれていた。ところが同じ町内に<能書き>と称ばれる人物がほかに二人いたのである。日の春の主人から商工会指導員になり、さらに岩男病院の事務長になった日野進一郎と、毛糸屋から日野進一郎の後を襲って商工会指導員になったUターンの佐藤雄也(たかや)の二人である。現在日野進一郎は別府女子短期大学の医療事務の講師を兼任し、佐藤雄也は役場横に食堂「木綿」を経営する傍ら、PTAなどで活躍しているがともに理路整然、弁舌さわやかを以って鳴る方々である。その人たちに中谷を加えて三人も<能書き>がいたのでは話がややこしい。そこで一夜連中が寄り集まって三人の個性を分析し、研究した結果発表されたのが<能進(のうしん)><あご雄(たか)><ほら健>であった。

 能書きを述べる進ちゃん、あごをたたく雄也(たかや)さん、ほらを吹きあげる健ちゃんと いった感じである。このあだ名が縁で佐藤雄也は中谷健太郎に近づいてゆき、四十三年の町中を踊り歩く新機軸の盆踊り大会や、四十四年の虫追蝗攘(こうじょう)祭の復活にタッグを組んで活躍することになる。商工会と観光協会に籍をおく二人の動きは町に大きなインパクトを与えたが、それを仕掛けたのは町長岩男頴一であったしかしその流れは別の折に追いかけることにしよう。ここでは四軒の、個性を売ることだけに賭けて観光界に勝負を挑んだ、小さな別荘旅館の手練者たちをみつめてゆけば足りる。

   身体を張って食物修業

 四十一年初夏、親友の志手康二を誘って四人組は京都に食べ歩きの旅に上った。弱小の旅館はまず食べもので勝負すべきだ。われら別荘旅館が範とするのは京都である。というわけで一同、銀行から金を借りて夜行列車に乗った。志手康二は別荘旅館仲間ではないが身上を賭けて鉄骨コンクリー三階建ての夢想園を建設中である。<家族向き、山のホテル>とするところに料理への模索があった。

 富永は独断専行で独り旅。梅木は子供ができて喜代子夫人がそれを腰にひっかけるように抱え、すたすたとゆく。薫平はおしめや下着などをリュックに詰めこんでゆさゆさとゆく。中谷は同じく独断専行だが妻の明美が子供を連れて物見遊山風に加わったというので怒っている。伊藤スミは終始無言でのっしのっしと歩く。三条河原町を出たところで中谷の声が大きくなり、妻を怒鳴りつけて別れ話まで出る騒ぎになったが、梅木がとめに入り、志手が荷物をとりあげて制圧し、富永が「京の都は三条河原町、喧嘩狼籍ばちくりあげの段ッ」と大見得を切ってまるく納めたり、そんな変てこな一行であった。その頃、中谷は亀の井別荘を四室から十室に増やしてどうにか公旅連の資格をつなぎとめてはいたが、無理な設備投資のせいで辛い修羅場を走っていた。そんな中から弟、次郎を京都の料亭に修業に出して、送金しながらさらに将来に備えていたのである。その次郎が世語になっている料亭に挨拶にゆく、誰か一緒に行ってみるかいと中谷が言うと、「うん」と言いながらみんなぞろぞろとついてきた。中谷はかんだたの気持ちである。先斗町の座敷に上がって名前を通すと立派な恰幅の御主人が出てきて挨拶をする。こうなると中谷も退けなくなって、では一同ご馳走に預かろうという話になった。さて次々に料理が出てみんな大いに満足し、この辺で次郎のを賞めようではないかと言うことになった。いま何をしおるんじゃろう、たぶん漬物を切りよるんじゃろう。そこでひとしきりリ漬物の切り方を責めてみたがなんとも頼りない。「こりゃ本人を呼んで目の前で賞めんとぴんとこんでぇ」と富永が言う。次郎はよれよれのシャツを着て現れた。そこで富永が「あんたが切った漬物が美味かったがなあ」と言うと次郎は言下に「私が切ったんじゃありません」と言う。「そんなら何をしよるんかい?」「鍋を洗うたり、俎板を洗うたりしております。」「そりゃここにはねぇものばかりじゃなあ」「……」「何かここにあるものであんたが手がけたものはねえんかい?」「まあ氷ぐらいです」。みると鮎の背ごしに氷のぶっかきが乗っている。

 富永がううむと哺って「この氷の割り方がなんとも言えん」。次郎もあまり嬉しそうではなかった。さて勘定になって中谷が「私にどうぞ」と恰好つけたのはよかったが勘定書をみて「こりゃまた、小銭がないが」と呻っている。すると隣に坐っていた伊藤スミが「小銭でよかったら私が」と言ってさっと二、三枚掴ませてくれた。一万円札であった。中谷は危機を脱した。この処置をめぐって伊藤スミの評価は大いに上がり、中年若者の間に大先輩への畏敬の眼が芽生えた。実際のところ伊藤スミはたいしたおばさんだったのである。若い頃は米一俵さしたという腕力はすこし衰えていたが、がっちりと若者にくっついて梯子食いの試練の旅を何ひとつ残さず平げてゆく食物求道の精神はすこしも衰えていない。「わしゃ負けた」と富永が言った。<歯がいい。胃がいい。尻がいい>と”三いいの富永”が伊藤スミには冑を脱いだ。「張り合うたらいかんでえ、命を損なう」。

 そう言っていた宮永は京極の居酒屋で塩辛粥を食いすぎて体調を壊し、眼が塩辛のようになった。伊藤スミは元気に由布院に帰ってきた。

 こうして食べ歩き修業を重ね、さらに折あるごとに寄り集まってしゃべり、飯を食い、食いまくっているうちにすこしずつ好みの食べものの全容がみえてきた。それは何度食べてもあきることが少く、ややこしい手をとらず、材料も比較的手に入りやすいものたちであった。各種の鍋料理や刺身、油を使った揚物、炒めもの、煮物などがヴォリュームたっぷりに食卓に持ち出された。しかしそれらはみんな自分たち用であった。お客様にはさすがにこれはいけんじゃろうという慮りが、まだ彼等を縛っていた。

 それらが客膳にしっかりと並び始めるまでに彼等はまだ何千回もの飲食の夜を経なければならなかった。そして猪鹿鳥料理が生まれた。