●おかしくも素敵な二代目たち

 ここに二十日会という会がある。由布院観光軍団の牙城である。先代の旅館主たちが月に一度集まって飯でも食おうと造りあげた懇親会であったのがいつのまにか果敢な機動部隊に変身している。

 理由はわからない。<駅長さんも太鼓判>の国鉄推薦旅館の集まりであったり、それが日本観光旅館連盟に変わったときはその由布院支部になったりしたが、いまは観光連絡協議会ふうのものになっている。行動の震源地は観光協会の常任理事会に移っているが二十日会が由布院観光に重要な位置を占め続けていることは間違いない。二十日会に一貫して流れているものは当初からの<飯でも食おうえ>の懇親の思想と、十四、五人から二十人内の身の締まった規模である。この二つが二十日会の血と肉である。この血肉で二十日会が走る。身軽に、商売仲間を語らって……あれは自動車と共にやってきたように思う。三十八年九月、玉の湯で二十日会が開かれた。前庭の噴湯のあたりで草花など眺めながら待ち合わせていると、突然砂塵をまいて一台の乗用車が入ってきた。トヨペット、角型、鼠色。背中にカポネが乗るようなトランクがついている。今では博物館物だがその頃でも相当な古物であった。それが古鉄屋のような音をたてて停まると、中から富永岩夫が悠然と現れて「やあ諸君ツ」と言った。

 これにはみんな驚いた。富永岩夫は人も知る計数学者であり、合理主義者でありガッチリ主義者である。その上、無免許ときている。車など買う筈がない。そう恩った。ところが買ったのである。トヨペット・カポネ型。二年月賦、金十万円。「どうかい、この貫禄は?」そう言って背広の内ポケットから「いこい」を出しぱッぱッとふかした。その日、富永は背広を着ていたのである。玉の湯の国府新一がこわごわ近づいてカポネの天井を撫でまわす。国府はシルバーピジョンというスクーターを持っている。それを買ったとき国府は会う人ごとに釈明した。「なあに税金にとられるよりかこげなものでも買うた方がいいわい」。その頃玉の湯は赤字続きで税金を払っていなかった。それからこうも言った。「これに乗ると酒を飲まれんじゃろう?身体のためにはその方がいいから思いきって買うたんじゃ」結局国府は酒をやめず、シルバーピジョンはあちこちの酒屋の軒下で錆びていったが国府はそれを大事に思っていたのだ。「おい、今日はお祝いをしゅうかい?」と国府が叫んだ。こんなとき国府の眼は期待と喜びに震えている。

 「あれあれ、また飲みごとかい、それもよかろう」ことぶきの徳山がそう言い、話は決まった。富永岩夫車購入の宴である。「どうせやるなら向の原に行こう」と国府が言った。なぜ向の原かというとこういう時には必ず厳然たる理由があるのであって、向の原には鮎獲りの瀬上が居る。鮎はいまがいちばん美味いときである。「みてごらんこの空の色を、向の原の川原は美しかろうで」それで向の原に決まった。

 「どうせゆくならとみ香も連れてゆこうえ」

 また国府が提案した。酒宴に関しては国府は並々ならぬ企画家である。とみ香は永年由布院で芸妓を勤めていたが、九州横断道路開通を目前に、引退して故郷に帰ると言う。「よし、今日は引退披露じゃ、わしの車に乗せちやろう」と主役の富永が言い、助手席を空けて後ろに宿屋の面々がぎゅうッと詰まった。残りは日野進一郎の車に乗って出発である。日野の車はグリーンのトヨペットで由布院唯一の新車であった。一同気分が昇っている。富永が「いっぱあつ!」と叫んでキイを廻し、おもむろにセルボタンを押すと正しく一発でかかった。無免許でも年功は古株。

 ところがこの大カポネ号、玉の湯の橋のわずかな上り坂を上りきらんのである。富永もいささか慌てて背広など脱ぎ放って頑張るのだがどうにもならない。後席のぎゅうぎゅう詰め連中が降りて力任せに押してやったら大カポネ号は大げさな音をたてて悠然と橋を上った。徳山が汗を拭きながら「国府さんの犬んごとあるのう」と言った。国府は猟をするから犬を飼っている。ある日山に行って国府がひょいと小川を跳んだ。ところが犬が渡りきらんできゅうきゅう蹄いている。

 「恥を知れツ」と国府が叱るとさすがに老犬も毅然として宙を跳んだ。小川の真中に飛沫をあげて落ちた。国府は犬をおんぶして山を降り、以後猟をあきらめた。

 これじゃあみんな乗ると行きつかぬかもしれぬと言うのでカポネにはとみ香だけを乗せることにしてほかの者は中谷の車に乗り替えた。中谷の車はコニー三百六十という軽四輪である。それも古い。それに臭い。隣の鯉重という鯉屋の鯉運搬用の車を借りているから鯉臭いのである。それに中谷も無免許である。本人は自信満々だが乗り合わせる方は嬉しくない。しかし向の原までゆかねばならぬ。青い煙を噴き放ってコニー三百六十は出発した。

 これが新進気鋭の若手たちの当時のモータリゼーションであった。日の出屋の志手康二の場合はもっとひどい。志手は米屋もしていたから配達用にミゼットという三輪の軽トラックを持っていた。その頃は誰も車を持っていなかったからこれが羨ましくて仕方がない。ある夏の日、大分で交通公社の大会があったとき、みんなであれに乗ってゆこうという事になった。たちまち十数人の旅館主たちが荷台にびっしりと坐り込んだ。ミゼットはよたよたと出発した。中の原の坂にかかると当然ミゼットは動かない。みんな降りてぶらぶらと峠を越えた。そこから先は一気呵成である。別府湾めがけて山風を切って走り降りる。杉乃井の下で志手は突然車を停め、急いで幌をかぶれと言った。「荷台に人を乗すると違反になる。捕まるとあんたたちも同罪でぇ」。みんな驚いて幌の中に入った。

 ところがこれが地獄の一丁目で、別大国道に入ったら車がびっしりと続いている。空はかんかん照りで幌の中はたちまち蒸風呂になった。宿屋の主たちは養豚場に送られる豚である。それでもみんな律義に幌の中に隠れて別大国道をじりじりと走破した。大分の会場に着いてミゼットの幌の中からぼろ雑巾のような男たちが次々に現われたときには通行人が振り向き、走って見物にくる人たちもいてさすがの宿屋連も嫌になったという。

 さて日野進一郎は慎重に愛車トヨペットを駆る。維持費や修繕費や車検費を計算すると新車の方が経済的だという思想から彼は新車を買った。したがって車をこよなく大事にする。向の原への道は舗装されていない。

 タイヤに押されて砂利が跳ぶ。それがコツンと車底に当たると日野は車を停めて車底を覗く。コツンコツンと当たり始めると走る時間と覗く時間が同じぐらいになって、隣りの中谷コニー号の、いくら踏み込んでも四十キロ以上出ないという走行とちょうどいいバランスになる。さて大カポネ号を先頭に三台の乗用車は色づき始めた田圃の間を走り続け、やがて向の原の川原に着いた。まず富永が悠然と降り立ち、それからとみ香がよろよろとよろばい出てきた。「どうかしたの?」と日野が声をかけると車の扉が閉まらなかったと言う。「閉まらんから持っちおってな」と富永に言われて「ハイ」と乗り込んだが「旦那さん、車が右にゆくとわたしゃ扉にしがみついたまんまワァーッと身体が外に出てしまうんよッ」。これにはみんな驚いたが富永は「なに多少いたらぬところもあるわい」。

 さて川原にござを敷き、酒瓶を並べ、瀬上が段取りしてくれた鮎を焼きにかかる。川は背光り、せせらぎ、土堤には薄、まことに結構な風景である。さあ始めるかというのでとみ香も気をとり直してハイヨと三味を構えようとしたが腕が上らない。もういちどやってみるが駄目である。突然国府が富永をにらみつけて怒鳴った。「おい扉の閉まらんようなボロ車なんか買うなッ」。富永はその車を二年間無免許のまま愛用し、それから九万円で下取りさせて幾らかましな中古のトヨペットを買った。富永が免許をとったのはそのあとである。

   二世たちが走る

 三十九年一月、父要が死亡したあと、志手康二は車を買った。中古のトヨタバンである。

 先代の実用ミゼット時代が終って、すこしは情感も云々するマイカー時代が始まっていた。住の江の永井一郎が死亡し、日の春の衛藤開(さとし)、亀の井の中谷宇兵衛が続き、いよとみの富永佐喜義が隠居、金鱗湖の山田順三が引退、香椎荘の香椎シズが病欠と、由布院の戦中から戦後にかけての一世たちは次々に戦列から姿を消していった。三十八年に一世直系の日野進一郎が身を退き、四十二年には戦後派のことぶき、徳山介義が死亡して、由布院地着きの戦後一世は長老格の山水の小野順吉と玉の湯の国府新一だけになってしまった。昭和三十年代に由布院観光はほとんど世代の交替を完了する。その終幕に三十九年初冬の九州横断道路開通劇が用意されていた。日本全体が経済成長の波に乗って天空高く走った時代である。由布院観光の中心は一世から二世の手に移っていった。

 いよとみは佐喜義に替って富永岩夫が、日の出屋は要に替って志手康二が、亀の井は宇兵衛に替って中谷健太郎が各々の才能をひっさげて第一線に躍り出ていた。山水の小野和俊は長老格の父順吉の下についていま一歩戦列への踏込みは浅かった。彼が父の後を襲って町議会に出馬し、旅館組合を背景に活躍し始めるのはずっとあとになる。玉の湯は料理を担当する国府新一の下に、経営者溝口岳人の養女喜代子が帰ってきてすこしずつ情熱を燃やし始めていた。早稲田の演劇科から日活や東宝のシナリオ研究所を経てきた彼女は、変ってゆく由布院の状況と将来の可能性を、小さなよく見える眼でしっかりとみていた。三十八年に日田市の博物館に勤める青年の許に嫁いだが、一年後にはその青年と一緒に由布院に帰ってきて玉の湯を継いだ。青年は昆虫学に通じ、カメラをよくし、登山を好み、人付き合いが爽やかであった。

 青年の名前は梅木薫平と言った。現旅館組合長の溝口薫平である。

 こうして決して若くはないが気力と機動力は充分に持ち合わせている二世たちが二十日会に集結した。この連中が九州横断道路の開通を越えて四十年代を突走り始める。その道は由布院温泉観光協会復活の道であり、由布院の自然を守る会から明日の由布院を考える会へとつながる道であり、いま植樹計画から温泉保養地造りを推し進める道である。仲間は雑種雑色、いずれも多生済々であったが、バネ仕掛けの人形のような跳力を持っていた。指宿視察と称して無免許のまま鹿児島までぶっ飛ばした組もいた。別府の大衆酒場二十八万石で芸者付きの新年会をやろうと触れ込み、自分の女房に踊らせて芸者代を浮かせた男もいた。台風の晩に別府の秋葉裏に女を買いにゆき、女が避難して誰も居なかったので空しく帰ってきた連中もいた。帰ってみれば家は派手な雨洩りで、鍋・釜・洗面器総動員でポチャン、ポチャンとやっていたからさすがの中年若者も鼻白んだという。

 そういった連中が表仕事としては商工会の観光部を通じて仲間以外の町人まで動かしたり、岩男町長に直言して町の観光予算を制禦コントロールしたりする一方、裏では暇あるごとに集まって侃々誇々の時を過ごし、飯を食い、酒を飲み、画策し、走ったのである。その中心的な拠点に二十日会があった。彼らがバラバラに空中分解しなかったのは一見ルーズにみえながらしっかりした例会日を持つ二十日会の仕組みに負うところが大きい。

   周遊地を撃て

 その二十日会が三十九年六月に組織改革をした。政治部が総務部に、経営部が事業部に、観光部が宣伝部に変わってさらに実戦的な組織になった。事務局長という役を新しく作って富永がその任に当たり、各部を統括。志手が会計役で予算を握り、中谷が書記になって進行を制禦した。

 会長には小野順吉を頂き、対外折衝の責に当たってもらう。こうして体制を整えた二十日会は各部長の活動の上に立って果敢なゲリラ戦を展開していった。

 周遊地指定は四十年代の晴れやかな幕開きだった。この運動は初め岩男町長を通して進めてきたのだが途上、九州横断道路への国鉄バス乗入れ問題がからんできた時点で岩男町長の動きは急に鈍くなった。敏感な政治感覚が、そうさせたのだろう。四十年二月の駅長歓送迎会の席上、岩男町長はこう挨拶した。「町は周遊地指定に全面的な努力をする。しかし運動は旅館が中心になってやって欲しい。費用の一切は自己負担のこと、町には予算がない。新しい駅長は有能な人だから協力を仰ぐこと。周遊地指定は必ずできる」。すべて岩男町長の言葉どおりになった。

 四十年四月、小野会長を頭に縁故を頼って日の春の石割支配人と金鱗湖の新貝支配人が上京した。石割は石田国鉄総裁に、新貝は前東京駅長に、それぞれ縁があると言う。この駄目押しの折衝で〈新規指定はしない〉という今までのたて前が、ひっくり返って、由布院・湯の平単独指定の可能性が強く表面に出てきた。もっともこの土産には国鉄バス乗入れ誘致運動を展開することと、参院選に岡本悟運輸事務次官を応援するという荷札がついていたが、そんなことはかまいはしない。一晩で中谷書記が町への運動展開要望書を書き、国鉄へも同様のお願い書を書いて印鑑をべたべた捺して提出した。岩男町長まじめな顔をして受けとったが議会にはかけなかった。広瀬代議士をとおして運輸省関係へ紹介の労をとってくれたりはしたが周遊地指定に関してはほとんど観光業者が、それも二十日会が独力でやり抜いた感がある。

 それにしても秋月新駅長は個性の強い人であった。彼が舞台裏で猛烈に滑車を手繰って周遊地指定を軌道に乗せたのだという説がある。国鉄内部としてはそんなことがある筈がないと言うが、そんな説が生まれるほどこの新駅長の言動は迫力に満ちていた。岡本悟の参院選をエネルギッシュに展開して旅館主たちをへきえきさせる一方、二十日会毎に大演説をぶってみんなを興奮させた。本局や管理局から偉い人がくると先頭にたって応待の陣を張り、宴会がすむと「おい残った料理と燗瓶を全部持ってこいツ」と命じて働いた者全員に大盤振舞いをした。二年間の在任期間に由布院駅を全面改築し、国体を迎え入れ、そして何よりも特記すべきことは、由布院温泉観光協会を復活させてこの地を去った。由布院温泉観光協会はその後押っ取り刀でたすきがけの成長を続けている。

 秋月作夫は大分駅長を最後に国鉄を退職した。

 さてこうして周遊地指定は実現した。まる二年の月日をかけた事業であった。これを機に二十日会はますます行動にみがきをかけ、生まれたばかりの観光協会をやんわりと育てながら、やがて少しずつその体内に入ってゆく。四十年代前半の変身の過程である。

   奇人奇才の群

 周遊地指定運動を進める一方、事業部は民謡ソノシートを作って全町に配布した。担当は富永と中谷である。町に買い上げて貰う一方で各旅館や店に卸し、ガッチリ儲けながら町内に広く滲透させてゆくという方式である。それから絵ハガキを作ってこれも町内旅館に卸したり町に買上げてもらったりしている。もちろん儲けている。そのうえこの絵ハガキはソノシートの表紙でもある。表紙がカラー写真四枚で構成されていて、それを切り離すと絵ハガキになる仕組みである。だからソノシートの表紙を増刷するだけで絵ハガキがどんどんできた。九州横断道路地図を作ったときには先に町や城島観光ホテル、九重レークサイドホテル、亀の井バスなどに呼びかけて買取りを約束させ、その金額の中で作って由布院の旅館の分だけは増刷扱いにして格安の値段に抑えた。こんな仕事を通して大分の大崎聡明(写真家)や別府の岩尾浩介(グラフィック・デザイナー)、佐伯印刷、丸和プリントなどが由布院に拘わってくるのだが、その語はもうすこし先にのばそう。駅前番頭をなくす話。それに関連して駅内観光案内所を造る話。専従職員を置く話、共同仕入れを拡大してゆく話、従業員の引抜き防止規定の話等々、聞いただけで疲れる話が、これに続く。そこで中狂言……。

 亀の井別荘の鯉・人乗合軽自動車は事故を起こした。お客が蕁麻疹になったのである。

 鯉アレルギーの人であった。これで中谷も賃借車をあきらめて車を買った。ルノーの中古車である。これに乗って無免許でうろうろするうちに警察当局からも免許持ちと思われ、とうとう交通指導員にされてしまった。ところがある日、別府に建築家の磯崎新を迎えに行って磯崎を乗せたまま一斉取締まりに遭い、事が露見してしまった。交通指導員が無免許運転では話がややこしい。一日も早く免許をとるようにと説諭されて<はよいけッ>とばかり追いだされた。それで中谷も免許をとった。

 「そんなら私も」玉の湯の溝口喜代子が言った。「私もルノーを買うわ」。喜代子は中谷の又従妹に当たる。それでいつも<私も>と言う。二匹目のどじょうは確率が高い。一匹目のどじょうは中谷が掬うものと決めている。

 喜代子は自動車学校に行った。とびぬけて熱心に勉強し、普通の人の三倍時間乗って卒業した。土堤を乗り越えて場外に落ちるような事件もあったそうだが、助手席の教官は<力いっぱいサイドブレーキを引き、ハンドルを切ろうとしたのですが、彼女のアクセルを踏む脚力の方が強く、彼女のハンドル握りの方が強かったのです>と包帯の下から述懐したそうで、とにかく彼女は無事卒業した。そしてルノーを買った。中谷のルノーより一万円だけ安く、そしてその分だけ凄い音をたてる。

 早速ルノーに乗って、安全運転のため歩くのと同じくらいの速さで、爆音をたてながら由布院の駅前通りを進んでゆくと前をゆく人に当ててしまった。商工会副会長の佐藤松馬である。思わず「ごめんなさいッ」と叫ぶと松馬翁はふり向いて「そげぇ押しなさんな、わしゃゆっくり歩きたいのじゃ」と言った。

 そんなスピードでまたある日、由布院街道を進んでゆくと、黒い立派な車が向うからやってくる。それがだんだん道脇に寄っていって、やがてガタンと溝に落ちた。通りすがりに「大丈夫ですかあ」と見舞いを言うと、落ちた車の窓から岩男病院長が顔を出し「あんたの車がきよるからなんとかよけようと思うたけど、やっぱり駄目じゃった」と言った。

 翌日岩男病院に喜代子が陳謝に行って出てきたら車がない。どうしたのかしらんと道に出たら愛車ルノーは道の向こう側に落ちてひっくり返っていた。サイドブレーキをひかなかったので坂道を滑りおりたのである。さてみんなで引きあげてもらって轟々と玉の湯へ帰ってきたが入り口の曲り角で電柱に接触し、後ろのフェンダーをぽろりと落としてしまった。すると喜代子の養母しげよが出てきて言った。「九電も危いところに電柱をたてるのぉ」。

 こうして由布院観光の機動力はますます充実度を増し、いろいろの人物が奇策縦横の活躍を始める。三十年代後半が波欄模索の時代とすれば四十年代前半は勇躍跳梁の時代であった。