陰陽道と臼杵

俳人加島英国は天明二年、臼杵の掛町の多葉粉屋に生まれた。十四歳にして一万吟を
読み、「臼杵古今和歌集」「連歌てにおはの大事」「倭千字文」「俳諧系図」などに多くの句
を残している。又藩の年表「温故年表」や武士町人の出来事を丹念に書き留めた「桜翁雑
録」を手がけた郷土史家でもある。そして子・英彦とともに親子二代で経営した寺子屋は藩
内最大の寺子屋であった。
伊能忠敬が臼杵にやってくると英国は領内海岸地図の手伝いをし、測量下絵図係、絵図係
を任された。これは英国が町人ながら天文地理の知識に秀でていたからだという。藩代表と
して幕命の測量を手伝うほど地理・方位に詳しい、あるいは興味を持った英国は文政十一年
に京の土御門へ正式入門し陰陽道を学んでいる。
以下はその一部
許状
一可着白直垂事
右許状如件      土御門殿
  文政十一年十一月七日
 豊後臼杵国  加島弥平太とのへ
誓約之事
今度御門下儀懇願之通蒙御許容儀奉異存候事
一、安家御正統之外不可致混雑他流異説候事
一、御伝授之学派勿論不欽口外而弄勤学習練可仕事
一、仮可存戯輩不信之意事
一、師門之大恩永不可致忘却事
一、懇望之者有之私為弟子教習学輩出来之節者一々訴尊師家請高命而高量可仕事
   右条々於相背者可蒙、天神地祇、殊泰山府君之冥罰者也仍神文如件
 文政十一年戌子十一月三日   加島英国(花押)

何のために陰陽道を学んだのかは不明であるが当時の地理・方位を詳しく知るために
陰陽道は重要な学問のひとつであったと考えられる。
この他に英国の子・英彦や、「臼杵小鑑」を書いた鶴峰戊申も陰陽道を学んでいるがいずれも郷土史
に貢献した人たち。彼らがわざわざ京都へ行き阿部晴明の陰陽道に入門したのは何故だろう。陰陽道を持ち帰り臼杵の何に役立てたか大変興味深い。(妖怪とは関係ないにしろ・・)
陰陽道と英国の関連資料が臼杵図書館に多数あるとのことなのでミワリークラブは特別調査団を派遣し
さらに詳しく調べたいと思う。


戻る