瀬戸内紀行 詳細版 
   20 京から落ちのび大宰府に入った平氏を九州から追い落とした緒方三郎惟栄



大宰府駅



大宰府天満宮(以前撮影したもの)



大宰府政庁跡
惟栄挙兵と平家追い落とし

  17:00 へとへとになりながらなんとか大宰府に到着。高速を降りて6Kmで大宰府天満宮につく。

  この大宰府こそ緒方三郎惟栄が天下にその名を知らしめたところ。

     
 「 大神氏系図 」によると、惟栄の兄に 臼杵 惟隆(これたか) 、弟に 佐賀 惟憲(これのり) がおり、なお妹は 日田郡 大領(たいりょう) (郡司長官) 大蔵永平(おおくらながひら) に嫁ぎ 永宗(ながむね) を生む。養和元年(1181)2月、肥後 菊池 隆直(たかなお) と反平家の兵を挙げたが、平家は 大宰少弐(だざいのしょうに) 原田 種直(たねなお) に命じ反撃、平 貞能(さだよし)を肥後守に任じ討伐させたため隆直は降伏。惟栄は屈せず 知行国主(ちぎょうこくしゅ) 藤原 頼輔(よりすけ) の 目代(もくだい)を追い出した。頼輔は子 頼経(よりつね) を代官として院の命令として平家追討を説得、反平家で一致した惟栄はこれを受け入れた。寿永元年(1183)8月、平家が都落ちして 大宰府 に着くや、兵を北道 中道 南道に区署し、三方から大宰府を攻略。中道は親類 日田(大蔵) 永秀(ながひで) (永宗子)、北道は兄臼杵惟隆が豊前から筑前三笠郡に、主力惟栄は南道で肥後→筑後を 迂回(うかい)して、大宰府を攻めた。平家方は筑後 竹野本荘(たかのほんしょう)に主力を向けて惟栄軍を防いだが敗れ(『 平家物語 』)、原田種直 山鹿秀遠(やまがひでとお) らに守られ、大宰府を落ち秀遠の 山鹿(やまが)城 (遠賀郡)に入る。しかし惟栄軍の追撃におびえ、豊前 柳浦(やなぎがうら)( 企救(きく)郡)に移り 内裏(だいり)造営を企てたが、長門方面の源軍来攻を恐れ讃岐屋島に遷った。





東風吹かば 匂ほいおこせよ 梅の花
主なしとて 春な忘れそ
 
(菅原道真・「大鏡」)

  学問の神様として名高い菅原道真公をまつった大宰府天満宮は、毎年多くの受験生が参拝に来る。中には、そんな暇があったら勉強しろと言いたくなるくらい遠くから来る人もいる。


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取材 奥嶽小僧 2001年8月7〜10日 

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