A mouthful description of my impressions
開高健の著書に「今夜も眠れない」という本があります。
学生時代は興味のある面白い本ばかりを読んでいて、早く眠らないと明日の授業が辛いぞと思いながらも、その先を早く読みたい誘惑に駆られてつい朝まで読んだ日々をとても懐かしく憶えています。
近頃はそんな本についぞ出会ったことがない。
というのはやはり嗜好が違ってきており、misteryを読まなくなってきたからだとも言えます。
misteryを読みたいとは思っているのですが、さて何から読めばその世界の虜にさせてくれるのか、最初の一冊が肝心で未だに不安で手をつけられずにいるというわけです。
ここに紹介した本は、その時の思いを記録にとどめておきたい、いい本を自分の思いを通して他の人に感じてもらいたい、そんな動機で記述しています。
過去ログ:
〜2004 /
beautiful passage(流麗な句) /
「だまされることの責任」 佐高信/魚住昭 角川文庫 2009.10
共同通信記者だった魚住昭は、「野中広務 差別と権力」や瀬島龍三の軌跡を追った「沈黙のファイル」などが有名だ。
その魚住と佐高さんの対談集で、2人とも思想的には同範疇だ。
僕は野中さんという人が好きで、ハンセン病訴訟で国の責任と認め患者を救済したり、松本サリンの河野さんに真っ先に謝罪に行ったり、
この人の思想的スタンスを知りたかった。時に権謀術数を駆使し威嚇をし、時に弱者へ限りない弱さを露呈しながら援助する。
野中さんが総理候補の頃、麻生太郎が差別発言をしたとして、自民党総務会で麻生を非難したそうだ。
「総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会の会合で『野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ』とおっしゃった。
そのことを、私は大勇会の三人のメンバーに確認しました。君のような人間がわが政党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。
こんなことで人権啓発なんかできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」
野中の激しい言葉に総務会の空気は凍りついた。麻生は何も答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたままだった。 – 魚住昭『野中広務 差別と権力』より
野中さんは小泉に敗れて引退してしまったが、弱者切り捨ての日本を作った小泉の罪悪は大きい。
歴史にイフは無いのだが、僕は残念で仕方がない。
あの時に世論がそうであったように、敗戦時もまた同様だったらしい。
伊丹万作の「戦争責任者の問題」というエッセイが掲載されているが、国民全部がだまされたと言って、自分の責任を回避しようとしていた頃、
だまされること自体が悪であると彼は書いた。
日本人の気質として責任の分散は真骨頂で、戦後もずっとこれは続き、日本に民主主義が根付く気配はない。
全体で決めて全体が責任を取り、そうやって朧気で幼稚な国家が出来上がってしまった。
民主党に期待を寄せてはいるが、鳩山さんも「国民が許すなら国債発行も視野に入れる」と軌道修正している。
もっと断固とした意志を言えないのか。ここでも責任が見え隠れしている。
加藤和彦じゃないけれど、日本という国家に夢を持てない人たちがたくさん自殺している。
大江健三郎(伊丹万作の義子、伊丹十三の義弟)あたりは、とうに日本を捨てているのではないか。
長くなりますが、印象に残った文章を記述することにします。
「一度脱落した人間に対するものすごく冷たい視線、切り捨ててしまう視線というのが、日本の社会構造の中にある。
もっと言えば、お互いに差別されはしないかと戦々恐々としながらしか生きていけないような、目に見えないけれども重層的な差別の構造が
根深くあって、それが凝縮され、はっきりと現れるのが在日と部落に対する、あるいはハンセン病の元患者たちに対する差別ではないかと
思うんです。・・・・・・・
丸山真男は、日本人には自由なる主体的意識が存せず各人が行動の制約を自らの良心のうちに持たずして、より上級の者(従って究極的価値に
近いもの)の存在によって規定されていると指摘したうえで、抑圧の移譲による精神的均衡の保持とでもいうべき現象が発生すると書いている」
「終の住処」磯崎憲一郎 2009.9
はっきり言って読みにくかった。飛躍が大きすぎて、唐突さも頻繁だし、難解過ぎるのだろうか。
テーマは素晴らしいと思ったし、感覚的に同調できると思った。
どんなに理解しあえない夫婦でも、長い時間一緒に生活したら、そっちの方が重たくなってくるということを作者は語っていた。
”人生においてはとうてい重要とは思えないようなもの、無いなら無いに越したことはないようなものたちによって、かろうじて
人生そのものが存続しているというのが実感で、こんなこと早く終わらせなきゃ、と思うような些細な出来事の連続です。
なのに、そんなものたちによって人生が構築されているという不思議さ。過ぎ去ってしまった後の懐かしさ。
でも、それを悲しいと思うんじゃなくて肯定したいんです。”
「不遇の提督 堀悌吉」宮野澄 光人社 2009.8
”ある時、同僚から「貴様は、大分県でなければ(堀は大分県杵築市出身)、すぐに世界のことを話題にする。
決して国のためというようなことを口にしないな」と詰問された時、堀は「国の方針というのは、世界の平和、全人類の幸福に沿うものでなくてはいけない。
また国内では大分県や各県の人達の幸福増進こそ大切である。この点をはずして、国家の行く道は存在しない。
物事は具体的に考えなければならない。国家のためというのは、大分県のためと世界のためとを併せているのだ」と答えている。”
どうですか。今度の選挙の役に立ちそうでしょうか。青臭いかもしれませんが、やはり山本五十六、井上成美が尊敬した人ですから。
「すべては宇宙の采配」 木村秋則著 東邦出版 2009.8
木村秋則さんは、福岡正信の名著「わら1本の革命」の自然農法に感銘し、「奇跡のりんご」を作り上げた人だ。
NHKのプロフェッショナル仕事の流儀にも出演し、一躍センセーションを巻き起こし、今や国際的にも活躍している。
その彼が、龍神やUFOを見たり、宇宙人に会ったり、曼荼羅のような白い球が自分の周りに飛んだり、いろんな体験を公表した。
俄に信じがたいし、夢なのではとは思ったが、茂木健一郎は「木村さんにとっては幻覚ではなく、紛れもない真実である」と、まえがきに記している。
突飛な話はともかくとして、僕が印象深かったのは、完全無農薬でりんごが実を付けなかった時のことだ。
りんごの木1本1本に「どうにか頑張ってくれよ」とかの労りの言葉を掛け続け、道路沿いの木は隣に聞こえるので、声を掛けなかった。
すると、翌年に道路沿いの木はことごとく枯れて、ほかの木はしっかりと大地に根を張り、少しずつ元気になった。
ぶどう畑でモーツァルトの音楽をかけたりするのに似ているが、音楽ではなく情のある言葉なのだ。
「ワープする宇宙」を著したリサ・ランドールの、物質と反物質の残滓と存在の問題。
いくら栄養分などを補ったとしても、連作障害は起こるという謎。
これを解決するのが紛れもなく「言葉」だということを読んだことがある。
つまり、物質は複数の複合体なので、「個」のレベルである分子や原子に遡及し、その「個」に言葉のエネルギーを与えるということらしい。
ということで、畑に出た時は大きな声で、ナスに向かって「トマトになってくれ」と言い続けようと思うが、やっぱり頭がおかしくなったと思われますよね。
「茶の湯のことば」 淡交社 2009.8
もてなし、しつらい、よそおいの三章に分かれていて、それぞれの言葉に趣きと風情があり、心が和みます。
例えば、もてなしの章の「涼一味」。涼一味とは、亭主が演出した涼味の一瞬を、掬い取って味わう瞬間をいうらしい。
玄関の打ち水、水の打たれた露地の踏み石、手桶を持って迎付けに出た亭主が蹲踞(つくばい)に空ける水音、床の花の露・・・
例えば、「葉蓋」。夏の酷暑に、水を張った水指の口を覆う、その葉のことを”はぶた”という。
日本人の情緒の繊細さは素晴らしいですね。もっともっと勉強したいと思います。
BShiで放送される「猫のしっぽ カエルの手」も素晴らしい番組です。
京都大原で過ごすイギリス人のベニシアさんの四季の日常を番組にしています。
日本人より「和」の心を楽しんでいます。8月18日からアンコール放送がありますので、お見逃し無く。
話が戻りますが、千利休が確立した茶道は、秀吉の及ばない境地だったのではないか、などと考えたりします。
山本兼一の「利休にたずねよ」を早く読んで、少しでも繙きたいと思っています。
「奇跡のリンゴ」 石川拓治 幻冬舎 2009.3
久し振りに本物に出会えた喜びを感じる。
人と自然との距離感、自然の完結システム、人の立ち位置、土の概念。
近頃、広がることへの疑問を感じている。
遅々とした変化には歪みは無いが、急速な変化は大きな歪みを伴う場合もある。
まして多くの場合、変化が必要ではない時も多いが、それでも大抵の人は、大きいことはいいことだと考えている。
木村さんが言っているように、人間は自然のほんの一部であり、自然を思い通りにするなんて、そんなばかげたことは考えないほうがいい。
自然のシステムにうまく乗せて、大きさとか、形とか、色とか、そんなものは考えないで、そのシステムから産み出されたものを享受していく。
青森のリンゴ農家、木村秋則さんの記録である。
「男道 清原和博」 清原和博 幻冬舎 2009.2
彼の不器用さが涙を誘った。
天真爛漫な子供が、野球という社会を通して、ヒーローであるが故の大きなリスクを受けながら大人になってゆく。
日本シリーズ最終戦の9回の突然の涙の訳、ピアスに込められた意味とは、桑田への恨み、確執、許し、巨人軍の不誠実さ。
ここまで語ることのリスクは大きいのではないかと思ったが、そこが彼の天衣無縫さなのだろう。
仰木監督の接し方には男の潔さを感じた。
人が普遍性を持ち続けるのは、決して能力の高さではない。
むしろそれに付随し自分自身が育んできた、温かさ、明るさ、顔、それらが人を引きつけるのではないかと思った。
「大分学」 辻野功 明石書店 2009.2
辻野氏は大分人ではないが、縁あって大分に来て大分人以上に勉強している人だ。
温泉の源泉数は圧倒的に2位を引き離して大分県が5,081件でトップで、2位の鹿児島県は2,835件だそうだ。
考えてみれば車ですぐの所に温泉が湧出していて、生活の中に溶け込んでいる。
京都に住んでいる叔父が、京都では車で何時間も行かなければ温泉に入れないので、大分はいいところだと言っていた。
日出藩のこと、銘菓一伯のこと、赤猫根性のこと、重光葵のこと、阿南惟幾のこと、宗麟や荒巻淳、いろいろと面白い話がある。
僕がワクワクして読んだのは、勝海舟と坂本竜馬が鶴崎から下郡、光吉、野津原あたりを通って、長崎に向かったことだ。
司馬氏の「竜馬がゆく」では、史実に忠実ではなくて、周防灘を経由して馬関海峡を通り、伊万里湾に向かったと記しているようだ。
正確な竜馬ロードは分からないが、強いロマンを感じる。
「海舟日記」には次のように記されている。
大御代はゆたかなりけり旅枕一夜の夢を千代の鶴さき
十七日 野津原に宿す。五里、山の麓にて、人家可ならず、八幡川あり。
大抵一里半ばかり、川堤に沿うて路あり。海道広く、田畑厚肥、桃菜花盛、関東の三月頃の季節なり。
ホントに面白い本です。大分県人は是非一度ご一読を。
「山桜」 藤沢周平 新潮文庫 2009.2
時雨みちという文庫本の中に収められている僅か26頁の短編だ。映画にもなった。
藤沢周平に関しては、蝉しぐれ等で映画化したもの、市井人情ものなどで数篇しか読んでいない。
司馬遼太郎は「竜馬がゆく」を手始めとしてかなりの小説を読んでいるが、読後感は明らかに違う。
両者はそれぞれに素晴らしく大好きなのだが、藤沢周平は細やかな深さが感じられて味わいがある。
まだ数点しか読んでいないのでよく分からないが、弱者の視点から書いているのものが多いようだ。
日本人は確かに判官贔屓といわれるが、それを差し引いても藤沢周平の作品に流れる概念は「誠実さ」であるように思う。
何かの本で読んだことがあるが、2.26事件で教育総監の渡辺錠太郎が青年将校らによって射殺された。
その射殺現場に子供の頃居合わせた娘が渡辺和子で、ノートルダム清心女子学園の役員である。
彼女はマザーテレサが来日した時の通訳だったので、ご存知かもしれないが、彼女がアメリカに留学していた時の話。
渡辺さんが修道会のテーブルに皿を配っていた時に、一人のシスターが、「渡辺さん、今あなたは何を考えながらこの皿を配っていますか?」と聞いた。
渡辺さんは、「えっ、何も考えていません・・・」と答えた。
シスターは、「渡辺さん、あなたは時間を無駄にしています。あなたはこの皿を使う人の幸せを祈りながら配ることができます。世の中に雑用という仕事はありません」と言った。
簡単な仕事とか難しい仕事とか区別している内は、その程度の仕事しか来ない。
頼まれた仕事をどれだけ誠実にやっているかを上の人は見ていると思う。
お茶を入れる仕事は難しい仕事ではないかもしれないが、それをきちんとこなせないのであれば、責任のある仕事はその人に任せることは出来ない。
社長から言われたことも、部下からお願いされたことも、一旦引き受けたなら淡々と確実にこなしていく。
1,000人との約束だからする、1人との約束は後回しでは無い筈だ。
10,000人の前でも一生懸命にお話をする。50人でも一生懸命にお話をする。それが誠実であるということだ。
藤沢作品の底に流れる清らかさは、誠実であるということかもしれない。そういう匂いがするのだ。
「午後の最後の芝生」 村上春樹 中公文庫 2007.1
村上春樹の作品を読むようになった。
特に短編小説に興味を持つようになった。
学生時代に安岡章太郎の「ガラスの靴」を読んで、アンニュイな独特の雰囲気の読後感を味わったが、あの時の感情が蘇ってきた。
今回再び読んだのは、「中国行きのスロウ・ボート」に収められている「午後の最後の芝生」である。
心象風景の記録というか、人間の心を追いながら、時には自己を深く見つめ、或いは第三者の目から推測したり、様々な角度に照準を当てながら村上春樹のセンテンスを構築していく。
彼の構文はなんとなく嬉しくもあり、一つ一つの言葉がさりげなく押しつけもなく掲示されている。
だから、自分が選択してポジティブに取りに行こうとすれば、すぐそこにあるような感覚を起こしてくれる。
何となく読後感がいいと言おうか、温泉のぬるま湯にでも長く入って、外に出たら秋の微風が頬を撫でて通って行くような、そんな心地よさを感じている。
「ケータイを持ったサル」 正高信男 中公新書 2005.8
常にケータイを持ち歩き、厖大な数のメル友と四六時中交信し、靴のかかとを踏みつぶし、あるいはルーズソックスをはいて、電車内でも平気で化粧をしたりする一連の行動には、実は一貫した原理が背後に存在する。
それを、この本では「家のなか主義」と命名している。
いつでもどこでも「家のなか」感覚でいたいという願望の現れは、例えばプラットホームのコンクリートの床に、セーラー服姿の女子高生がじかに尻をついて座ったり、あぐらをかいたり、車内でもあたりかまわずへたりこむように腰をおろすスタイルに現れている。
公の場を拒否して、私的世界の中だけで生きようとしているのである。
公の世界を拒否して、私の世界の内部だけで生きようとするあまり、そうした行動は極端にサルに類似してしまうと筆者は説く。
その姿勢は、昨今の「ことばの乱れ」に端的に象徴されている。
サル化へと傾斜を深めた背景には、激化する「子ども中心主義」が深く影を落としているのである。
本当は自立してもおかしくない年ごろであるにもかかわらず、まだ親にたよらなくては何もできないと思いこむことで、自らの行為を正当化する。
無意識の内に親は、子どもを手もとから放さないようにし、依存させるような態度をひけらかす。
子どもは子どもで社会化する勇気を欠くものだから、ここぞとばかりに親に甘え、何のことはない、親子相互依存で共存共栄をはかっているのだ。
母親が外で働く機会を持たないなら、加齢に伴って早期に社会的かしこさを失う。
それは、子どもとの信頼関係の形成を困難にする。
おのずと、母親はモノで子どもの歓心を買おうとする。子どもがそこへつけ入る。
結果として、子離れできない母親と、母親離れできない子どもの「カプセル状態」が誕生する。
自分なりに要約すれば、以上のようなエッセンスになると思う。
「男、が、いた。開高健」 高橋昇 小学館 2005.4
これはフォトアルバムである。
開高に同行した高橋氏の積み上げられた写真集であり、印象文だ。
僕が中学生時代に印象深かったCMがある。
「今日は皆目坊主なのだ・・・」
ウィスキーのCMで、この後もずっと続くが、いまではすっかり忘れてしまった。
彼の年譜の中から探し出そうとするが、未だ見つかっていない。
彼は「フィッシング」を愛した人間だった。
「不良品」 宇梶剛士 ソフトバンク・パブリッシング 2005.4
僕にそっくりの俳優がいる、と妻が以前から言っていた俳優が宇梶氏だ。
最初は何かイヤだなと思いながら、それでもテレビに出てくると、よく似てるじゃないかと思っていた。
タレントか俳優かも皆目分からず、いつか「ジェネジャン」というトーク番組のダイジェスト版を見た。
とてもシリアスな番組で、「たけしのテレビタックル」の比ではない。
ちょうど「いじめ」を扱っていて、考えさせられる討論だった。
面白く、かつ盛り上げるための人選なのだろうが、馬鹿げた人間も加わっていた。
その中でキラリと光る人物が、宇梶氏だった。
人としての重みが他の人と較べると歴然としており、大人と子供の違いがあった。
東大卒のヘンなオヤジが執拗にまくし立てるが、無目的の挑戦は、第三者から見て苦笑を禁じ得ない。
宇梶氏の議論は落ち着きがあり、深さがあり、良識があった。
かつての暴走族の総長としての雰囲気は感じられなかったが、すべてを通り越して覚悟を持った大人の宇梶氏の姿を垣間見た。
とても魅力のある人物に映り、半自伝を読むに至ったという訳である。
「失踪日記」 吾妻ひでお イースト・プレス 2005.3
作者の失踪、自殺未遂、ホームレス、肉体労働、アル中、病棟生活。
笑いながらも悲惨な実話が凄い。
「身体から革命を起こす」 甲野善紀 田中聡 新潮社 2005.3
「ナンバ」とは何なのかと問われれば、返事に窮する。
ナンバの実体が分かっていないし、それを応用する知識も持ち合わせていない。
ただ、自分の走りにナンバを取り入れて、何らかのプラスアルファを考えている。
生活のあらゆる面でナンバを取り入れることが出来るようだが、かと言って奇跡のナンバというわけにもいかないだろう。
例えば走りにナンバを取り入れるのなら、二軸走法を行うということだ。
わかりやすく言えば、自転車のペダルの漕ぎ方がナンバなんだろう。
しかも蹴るのではなく、あくまでも押すという作業をしなければいけない。
二軸で走ることによって腰の回旋運動を停止させ(或いは最小限に止める)、上体は前のめりに倒れかかり、その力によって足を前に押し出し、蹴るのではなく押すことによって前進する。
添えられた両手は足と交互に振るのではなく、足と同じ動きを取る。
走りに関して分かりやすく書くと、こんな感じかな。
しかし、いざ実際に応用するとなると、非常に難しいし、方法が分からないといった言い方が適切かもしれない。
手の動きに関しては足と同方向を数年間続けているが、たぶん誰も分からないだろう。
そういう目でみなければ分からないものだ。
この本は、エッセンスを記述しており、初心者には分かりやすいんじゃないかと思う。
武術的動き、野球などのスポーツ工学、日本人の歩きの歴史、楽器演奏や呼吸法など。
僕が興味を持ったのは、介護における介護者の動きだ。
ちょっとした方法を変えることによって、介護者の力や腰の負担を殆ど軽減させたりする「技」という知識をもっと広めてほしいものだ。
「痛快!経済学」 中谷巌 集英社文庫 2005.2
「痛快!経済学2」 中谷巌 集英社 2005.2
「2010年、私たちの貯蓄率がゼロになる!そのとき日本は生き残ることができるか」
帯の見出しは大袈裟だが、とにかく面白い。
「2」から読んだが、面白くて「1」も読んだ。
中谷氏の筆力による分かりやすさは際立っている。
経済学に接したことがない読者を対象にしているが、まるで高校や大学の授業の教室にいるようで、とても心地よく感じた。
マーケットメカニズムとは何か、政府の基本的役割とは何か、競争原理や成果主義における議論、日本型経済システムの欠点、IT革命による変化、そして国債の発行による巨大な累積財政赤字の問題。
巷間、「国家破産」が叫ばれているが、僕には全く見当がつかない。
民主主義とは何かをもっと知らなければ世界についていけないし、日本型民主主義のウソが経済をダメにしているかもしれない。
驚くほどデタラメな国家行政、それが戦後ずっと続いてきた。
NHKは自分が何処が悪いのかさえ分かっていない有り様。もう全くダメ。
国民はすべてを知らないで、国家に従ってきた。それがこのザマだ。
理想に燃えるような人間がたった一人でもいい。
そこからすべてが始まると思いたいね。
「由布院の小さな奇跡」 木谷文弘 新潮新書 2005.2
面白くて一気に読みました。
感動しました。
湯布院映画祭でマキノ監督の特集を組んだ時のお話。
車椅子のマキノ監督の背後で、監督を囲むように岡本喜八、津川雅彦、鈴木則文らがマキノ組の歌を歌った。
監督の挨拶・・・
先日、監督のことを実行委員の人に聞くと、裏話があった。
車椅子の監督が湯布院に来て歩き始めたらしい。
お父さんが歩き始めたよ、東京の娘さんたちを呼び寄せた。
これだけ魂のはいった映画祭なのだ。
由布院の原点の話。志手、中谷、溝口の三人がヨーロッパを50日間旅した。
ドイツのバーデンヴァイラーという小さな町のホテルのオーナー、グラテヴォルさんの話に三人は感動した。
「町にとって最も大切なものは、緑と、空間と、そして静けさだ。その大切なものを創り、育て、守るために、君たちはどれだけの努力をしているのか?君は?君は?君は?」
この詰問が三人を奮い立たせた。
静けさは心の緑だ。自然な生活風景や木々が心を和ませ、余裕のある空間を演出してくれる。
由布院にはそんな気持ちで来てほしい。
変わらないということは、大変な努力がいることだ。
経済や効率を考えれば、変わっていくのが当たり前なのに、ましてこの国では。
以前、松下竜一氏の「風成の女たち」という本を読んで熱くなりましたが、同様の熱い気持ちになりました。
ノンフィクションですから当然ですよね。
地域おこしというジャンルを通り越して、いい本です。
「水古風」1〜5巻 画 はしもとみつお 作 グレゴリー 小学館 2005.2
〜ニッポン人のススメ〜という副題が付いている。
もうずいぶん前に読んだモノだが、忘れていた。
日本人は異文化を躊躇無く受け入れ、それを見事に消化し、自分たちのものとしてきた。
取捨選択しながらではなく、すべてを模倣しながら、それは結果として良かったに違いない。
しかし、得るものがあれば必ず失うものがあるように、代償としての良き習慣も捨て去ってしまったかもしれない。
この物語はイスラエル人のミズコフを通して、作者グレゴリーの目から日本の美しさを賛美する。
読後の一服の清涼感は、今この時だけの瞬間的な思考には止まらず、日本人であることの誇りさえ甦らせてくれる。
大森貝塚の発見者として有名なエドワード・S・モースは、東海道五十三次の街道が広くて美しいことにびっくりしたそうだ。
世界に類を見ない民族であることに異論は無いだろうが、今何かを忘れかけているのではないか。
そういう自省の念が頭を過ぎるのは、僕だけではないだろう。
作家の開高健の枕元には、2冊の書物が置いてあった。
一つは「旧約聖書」。
そして、もう一つは「小倉百人一首」。
雅なまほろばの京に思いを馳せるのは、ロマンだけではなく、読まずにはいられない現実の何かがそうさせるのだろう。
水古風然り。
「思い出に残る食事」2チャンネル管理人 西村博之編 2005.2
ひとつひとつの物語が映画になるような、グッとくるお話の数々。
泣きました。
「智慧の実の言葉」ほぼ日刊イトイ新聞語録 監修 糸井重里 2005.2
”こんなに努力したのに、と思っている時点では、圧倒的に努力が足りない。”(読者投稿)
”一度読んだ本は、読んだことにならない。二度読んで、はじめて読んだことになる。”(経済学者 岩井克人)
”自分にとって、ほんとうに大事なことってなんだろう。
自分にとって、ほんとうに大切な人って誰だろう。
このふたつを、本気で思っているだけで、いい人生が送れるような気がする。”(糸井重里)
「運命の法則」幸運の女神と付き合うための15章 天外伺朗 飛鳥新社 2005.1
ソニー在籍中にCDやAIBOを作った人で、現在はソニー・インテリジェンス・ダイナミクス研究所所長。本名土井利忠。
面白くて一気に読んだ。
麻雀をやった人なら分かると思うが、ツキは必ず巡って来るし、手放さないようにすることが勝利に繋がる。
”内からこみ上げてくる喜びや楽しさを追い求めると、人は「フロー」という状態に入ることができる。
「フロー」は人にとって、喜びや楽しみの源泉であり、なおかつ、幸運を招き寄せる。”
”仕事でも遊びでも、ボーッとしているときでも、内発的報酬に基づくフローもしくはマイクロフロー状態を大切にすることが、スムースな人生の秘訣といえよう。”
つまり、雑念の無い状態、例えばスロージョッグをずっと続けて、とてもハイな状態(ランニング・ハイ)になることがある。
それはマイクロフロー状態であるかもしれない。
そんな感覚はとても鋭敏で、いろんなアイデアを創造できる。
哲学者の池田晶子は、ジョギング中に考えをまとめ、それを忘れないように大切にして、執筆活動をしているそうだ。
CD開発時における「燃える集団」と呼ばれたソニーの技術陣は、フローが長く続いていた。
NHKの「プロジェクトX」でも紹介されて、「燃える集団」は有名になったが、NHKは「フロー」理論までは紹介しなかった。
というよりも、科学的な説明が出来ないものに対して、評価は与えられないというスタンスだろう。
フローが継続すると、次々と素晴らしいアイデアが湧いてきて、難問を悉く打破していくようになるそうだ。
若き芸術家が、素晴らしい作品を一気に創造していく状況と同様だ。
筆者は言っているが、物理学を中心とする近代科学は進んでいるには違いないが、心理学はまだまだ未開に近い状態であるようだ。
運命を引き寄せるには、感覚を大切にして気づきを養うこと。つまり共時性。
そして、何にもまして自己が正直で誠実であること。
「座右のゲーテ」齋藤孝 光文社新書 2005.1
この新書が無ければ「若きウェルテルの悩み」や「ファウスト」しか知らなかった。
彼のお陰で、エッカーマンの「ゲーテとの対話」を知った。
具体的かつ本質的と書いているように、いつでもヒントを呈示させてくれるだろう。
ドイツの「知の巨人」なんだから。
「東大コーチ」影井秀 スターツ出版 2005.1.1
WEB小説で100万アクセスを超えて有名になり、ついに単行本になった。
近頃こういうケースが増えており、出版社に持ち込まなくても、先ず売れるということが分かってから本が出版される。
アマは選択肢が増えて、チャンスが多くなったし、どちらにも都合が良い。
これは、自己啓発的小説だ。
いい刺激になりました。熱いっていうのは、やっぱり心が動く。
現役東大生の小説は、深くて熱いモノを感じるし、若き魂に揺さぶられました。
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