ち    え
智慧

彼岸の心−人間らしい心

智慧とは、知恵、知識に対するもので、
仏道を行ずることによって、新しく身につくところの
叡知、知見をいいます。


今週は彼岸に到る為の修行の第六番目の修行
「智慧」 についてお話ししましょう。

「心眼を開き智慧を進める」という言葉があります。

心眼とは、肉眼に対していったもので、
仏道を行ずることによって、
いままで見えなかったものが
新しく見えてくることをいいます。


さらに言えば、自分自身のありのまま在る姿が、
ありのままに見えてくることです。
そして、必然的に、人格的な変容と、
成長、成熟をもたらすことになります。

このプロセスとして大切なことは、
「聞慧・思慧・修慧」につとめるように
教えてくれています。

まず、聞慧について
「大般涅槃経」に仏法を聞くについては、
たんに耳に聞くだけでは駄目で、心の耳を傾けて、
先師の説くことを しみじみと、
ひたすらに聴聞することが大切と説いてあります。

次が「思慧」で、
聞法した道理を、深く正しく思惟することです。
人間は、いつもその内面に於いて、みずから
人間の尊厳を傷つけてしまうような、
地獄や餓鬼や畜生という、泥のような汚れた心を
宿して生きています。
その為に、人間は、この暗黒の世界に
転落してゆく可能性を宿している存在です。

と同時に人間は、人間のあるべき理想の姿としての、
仏の心をも宿しています。
それ故に、人間はひとしく、いつでもその高み、
清浄にして真実なる世界を目指し、
向上しようと願い続けている存在でもあります。

常に転落か向上かの道の選択を迫られて
生きているなかで、
仏様と仏様の教えこそが間違いないと
しっかりわかってきて、
まことの自分に目覚めてくることが大切です。

次が「修慧」
自分の身命をかけて、その教えの如くに修習、
実践していくことです。
すなわち、布施・持戒・忍辱・精進・禅定と
五つの徳目を日々夜々に心掛けて
実践してゆくことが大切です。



昔、あるお金持ちの未亡人が居た。
親切でおだやか、やさしい人と近所の評判がよかった。
そして、そこにひとりの女中がいて、
この人もよく働く利口者だった。

ある時この女中が、「うちの主人は世間の評判通りの
腹からよい人なのか、または今の環境が
そうさせているのか、一つ試してみよう」 と考えた。


そこで女中は次の日、なかなか起きないで
昼頃起きてきた。
主人は機嫌が悪くて
「どうしてこんなに遅く起きたの」と、とがめた。
「一日や二日遅くなったからといって
そうイライラ怒るものではありません」
と答えると、一層不機嫌になった。


女中は、次の日も遅く起きた。
主人は怒って棒で女中をたたいた。
このことが近所の人に知れ渡って
よい評判を落としてしまったという話がある。

誰でも人はこの女主人と同じで、
心におもうよい環境にいると、
穏やかで、思いやりがあって
布施も持戒も教え通りに出来る。
しかし環境が心に逆らってきても、
なお今まで通り続けられるかが問題です。


自分にとって面白くないことを言われたり、
衣食住が満たされない状態のときでも、
なお静かな心と、善い行いを続けられるかが
問われます。

環境がすべて心にかなう時だけ、
心静かで善い行が出来ても、
立派な人とはいえません。

逆境に転じても、忍辱の行につとめ
精進を重ね、禅定の心を練る時、
始めて仏の智慧の光が輝きだして、
静かにして、謙遜な、よい人といわれる様に
なるのです。


私達は、学校教育において、
さまざまな知識を与えられ、それを基盤として
物事の正邪を判断しています。
ところが具体的な出来事に対して、
何かを判断する場合、知識では、
どうにもならない場合が多くあります。
当面する対象に心を集中させ、
波立つ心を静め澄ませるとき、
そこに限りない智慧の光が現れます。

この世のすべての存在や、現象の背後にあって、
今まで見えなかったほんとうの姿が
見えるようになるのが、佛教でいう般若の智慧です。
それは理屈や知識を越えたもので、
なまじっかの人間の知恵ではどうしても
判断出来ないものです。

私達は法律や規則、或いは社会的倫理や道徳を
守って社会生活を営んでいます。
しかしこれらは普遍的なものではなくて、
その時代や思想の変化によって
善であったものが悪になったり
悪であったものが善になったりして移り変わり、
真の拠り処とはなりません。
真実は昔より今日、今日より未来にかけて
永遠に変わることのないものの
姿を見ることの出来る智慧が大切です。


仏の教えの実践によって智慧をいただいて、
いつの時代、どのような場合に於いても
決して利己的でない判断が出来る
生き方をしたいものです。

乱れた心で渡る人生は、暗がりの部屋に
目隠しをして入ったようなもので、
つまづき つまづきして、苦しむようなものです。
その時、明かりとなるのが智慧です。
この智慧を磨く為に、常に禅定の心を保つように
心がけねばなりません。
禅定の心を保つ為には、布施や持戒、
忍辱の教えを守り、精進することが大切です。
したがって、此岸から彼岸に到る為には、
六度の修行のどの一つも欠かすことが出来ません。



「人をのみ渡して おのが身は
           岸にのぼらぬ 渡し守かな」

菩薩様の生きざまを説かれた古歌です。
菩薩様は、自分の幸せを願わず、先ず
  @世の中の いのちあるものを助けぬかれます。
  この菩薩の精神にめざめて
  A世の中の規則を守り
  B忍耐強く
  C努力を惜しまず
  D心を静かにして
  E正しい智慧をみがこう。

ーまけよ蒔け 仏の種も 彼岸からー
                  −鬼貫



宮沢賢治

1896年 岩手県に長男として生まれる
東北地方は 大地震、大津波、
大洪水、或いは低温、冷雨等の
天災多く
 凶作が続き 飢饉という不幸に
農民が苦しむ時代であった。
賢治は苦しむ農民救済の為
肥料の勉強をして、農業指導と
創作活動に懸命になるも、32歳の時に発病。
1933年(昭和8年)急性肺炎で死亡。
前日も、容態悪化のなかでも、
農民の肥料相談に一時間も応じる。
そして翌9月21日午前11時に死亡
法華経を信奉し、その教えの如く一生をすごした。
法華の精神と己の生き様が
「雨ニモマケズ」の詩にうたわれている。

釈迦の苦行

紀元前5世紀初め頃
ヒマラヤ南麗の都に住む
釈迦族の王子として生まれる

人や動物の「病」「老」「死」を
目のあたりにして苦悩が始まる。
29歳の時、何不自由ない生活に
見切りをつけて出家。

六年間の苦行の後、菩提樹の元に座り
瞑想に入る。






仏陀

悪戦苦闘の末、この世の真理を
見極め 開悟して、仏陀 釈尊となる。
45年間の伝教活動を通して
八万四千の法を説く。
80歳の時 
シナガラの沙羅双樹の林で、
最後の教えを説き、
入滅された。









玄奘三蔵訳経像
玄奘三蔵 
玄奘は10歳で出家。
27歳の時
仏典を求めて天竺(インド)へ旅立つ

草木一本もない灼熱と砂嵐の吹きつける
砂漠を歩き、雪と氷に閉ざされた
厳寒の天山山脈を越える苦難の旅を続けて、
3年後にようやくインドにたどり着く。
インドで仏教の奥義を極め、
仏像や仏教原典を沢山たずさえて
17年後に帰国。
帰国後は仏典の解釈につとめ、
中国仏教興隆の基礎を築かれた。









天台大師







鑑真和上

742 第9次 遣唐使船で
僧・栄叡 渡唐。
鑑真和尚に出会い、来日を依頼。
時に和上 55歳。
されど、和上一言
「これ仏法の為なり、なんぞ命惜しからん」
743〜753年にかけて
5回 渡般計画をたてたが失敗。
753年10月 第6回目
遣唐使の帰国に合わせて密般。
沖縄に到着 和上の眼 失眼!!
  754年2月  瀬戸内海を抜け、大阪に到着
東大寺大仏殿で受戒会
東大寺に戒壇を設立
 763年5月6日  唐招提寺を建立、
戒壇を設け示寂 








伝教大師















「雨ニモマケズ」
宮沢賢治

雨ニモマケズ 風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ
欲ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシズカニワラッテイル
一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ
南ニ死ニソウナ人アレバ 行ッテコワガラナクテモイイトイイ
北ニケンカヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイイ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ クニモサレズ
ソウイウモノニ ワタシハナリタイ