韓国の歴史
その24、三国の統一戦争、高句麗の滅亡、その2 : 安市城の戦い
気がつくと随分ながくここに来ていませんでした。気にはなりながら、ちょっと忙しくしていました。ヨンジュンさんのタムドック王のドラマ撮影も、まだ予定の半分ほどが終わったばかりとか。放映も予定がドンドン遅くなって、ちょっと気が気ではありません。よほど、念を入れての撮影のようですね。神話時代のファヌンに扮しての撮影がつい最近行われたそうです。高句麗の建国の最初ファヌンが出てきましたよ。この韓国の歴史、その1を読み返してみました。紀元前2500年近く前のお話です、今から数えると4500年前です。気が遠くなるような昔ですね。それから様々に国名が変わりましたが、ファヌンから高句麗、そして、この後、渤海、高麗、そして朝鮮王朝、現在につながる韓国の歴史です。
解説はコリョ大学歴史教育学科ソ・ミンギョ教授
隋の後に登場した唐の太宗は、高句麗征伐への野心に燃えていました。一方、高句麗の内部でも穏健派と強硬派に分かれて葛藤が起こっていました。強硬派の淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)がクーデターで高句麗の実権を握ると、654年、唐の太宗はそのクーデターを理由にして高句麗に侵略してきました。遼東城の戦いで高句麗は初めての惨敗を喫し、次に安市(アンシ)城で運命を賭けた一戦が始まります。

遼東城と共に安市城は屏風のような山に囲まれ満州平野を流れる大河遼河に水路でつながる天然の要塞でした。

安市城は戦略的にも重要でその周辺は遼東でも有名な鉄の産地です。したがって安市城は経済的にも、軍事的にも重要な要地です。遼河周辺がほとんど唐の占領下に入り、残っていたのは安市城だけでした。唐としても東へ進出するためには、安市城を是が非でも占領しなければなりませんでした。

戦争が起こってから3ヶ月経って安市城のそばに着いた唐の太宗と唐軍は城を囲んでおり、城の中には住民も含めた高句麗軍10万がいました。淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)は安市城を支援するため、15万の兵を送り込みます。安市城の外で唐軍と支援軍で激戦が始まりました。結果は高句麗軍の惨敗でした。唐の太宗は高句麗軍の将校3500人を唐に連れて行き、兵士3000人を生き埋めにして殺しました。

唐の太宗はこうして高句麗の支援軍を殲滅しましたが、安市城は占領できませんでした。「降伏しないと全部生き埋めにしてやるぞ」「お前ら降伏しないと一人残らず殺してやるわ」城の外と内で怒声が響きあいます。

唐軍が城を囲んでからかなりの日々が過ぎましたが、高句麗軍は籠城するだけでいっこうに出てきません。こうした長い攻防戦に飽きた唐の太宗はなかなか落ちない安市城を陥落させるための奇策をたてます。城の東南に土の山を築き始めたのです。安市城の内部が見えるほどの高い山を作り、城を攻撃するという作戦でした。延べ50万人を動員して、60日をかけて巨大な土の山が完成しました。しかし事件が起こりました。どしゃぶりの雨のためこの土の山が安市城の方へ倒れ込んでしまったのでした。土の山が倒れてきたため、高句麗の城壁の一部も破壊されました。唐軍が攻撃するチャンスでもありましたが、結果的には高句麗軍がその混乱を利用して土山を占領してしまいました。唐軍の努力は無駄に終わり、寒い冬がやってくると、結局唐の太宗は兵を引き揚げる決心をしました。

「兵を引き上げろ」
68日間の攻防戦の末、ついに高句麗軍が防御に成功したのです。唐の太宗は捕虜7万人を連れて兵を引き揚げました。満州平野を横切って流れる遼河、唐の軍隊が引き上げる道である遼河の河口は馬が多くて移動に容易ではない所でした。遼河の河口は今も雨が降ると洪水になる沼地帯でした。中国の歴史書によると、太宗自らが草を引き、道を作りながら兵を引き上げたと記しています。

唐軍が引き揚げざるを得なかったもう一つの理由が唐の太宗の負傷だったといわれています。一説では唐の太宗は楊萬春将軍が放った矢に当たり、片方の目を失くしたようです。実際の記録では、唐の太宗は遠征期間中に、いろいろな病気に悩まされたそうです。楊萬春将軍は後に高句麗が滅ぼされてからも最後まで安市城に残って、抗戦を続けたことでも有名です。

楊萬春将軍は独特な個性の持ち主だったようです。淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)がクーデターを起こした時も投降するどころか一戦を交えると凄んだそうです、668年に高句麗のピョンヤン城が陥落して滅びたにもかかわらず鴨緑江以北の40あまりの城は降伏を拒んだのでした、その抗戦の中心が安市城でした。しかし最後は安市城の攻撃で高句麗復興の運動は終わってしまうのです。記録でも楊萬春将軍は非常に優れた人物として評価されています。

戦争では負けなかったのですが、高句麗が安市城の戦いで蒙った被害は大きかったのです。たとえば安市城の攻防戦でも3万人以上の人が連れ去られ、遼東城では兵士が1万人、農民が4万人捕虜になりました。遼東城だけでも食料50万石が奪われました。645年の戦いでは安市城を除く遼河地域全ての城が陥落しました、高句麗としては軍事的にも経済的にも人の損失が大きかったのです。

安市城の戦いは高句麗だけではなく唐にも損失を与えました。唐の太宗は翌年も再び高句麗攻撃を行いますが、太宗は結局それから4年後に高句麗征伐の時の病気が元で亡くなりました。高句麗攻撃を止めろと言い残して亡くなったそうですが次の王になった息子の高宗は父の遺言を無視して再び高句麗攻撃を敢行します

当時の国際政治から見ると唐としては必ず高句麗を征伐する必要がありました。しかし唐の内部でも高句麗征伐に対しての意見が分かれていました。それほど高句麗は強い国でした。結局645年の戦いも勝利を収めたとはいえないのです。

高句麗は中国からの度重なる侵略を防ぎながら、民族の誇りを守りました。しかし、その誇りを維持するために、ものすごい国力の損失、すぐには回復できないほどの深い傷が残されたのでした。
先日、「墨攻」という日韓中国・香港合同で製作された映画を見ました。紀元前の中国春秋時代のある小さな城塞都市のお話でした。一人の墨家という非攻を唱える集団の人物が、10万人の敵を相手に戦う話。唐が引き上げるに際して、将校3万人、農民4万人を捕虜にしたと、ありますが、昔の戦争は全くの人海戦術だったんだと思いました。墨攻の映画での戦闘場面の大群は、ものすごい迫力でした。安市城を攻める時も、きっと映画と似たような光景が繰り広げられたんだろうと思います。一人一人の命の尊さを考える暇もない、何かむなしさを感じてしまいます。タムドク王はただ強かったというだけではなく、民衆の生活も文化の向上もよく考えた名君とのこと。救われる思いがします。
広開土大王(カンゲドテウァン):374〜412 朝鮮・高句麗第19代の王(在位391〜412)。正しくは国岡上広開土境平安好太王。略して好太王・広開土王という。
その23、三国の統一戦争、高句麗の滅亡、その1 その25、三国の統一戦争、高句麗の滅亡、その3