韓国の歴史
その20、三国の統一戦争:百済の滅亡、その2
ヨンジュンさん演じるタムドック王、今はどこで、撮影中でしょうか?キルギスの草原での撮影がまじかに迫っているとの報が飛び交っています。タムドック王、広開土大王(カンゲドテウァン)高句麗の名君と言われた王です。名君とは、どういう王のことを言うのでしょうか?強くて聡明、それでいて、愛に満ちている。その上、ヨンジュンさん演じるタムドック王のように美しければもう言うこと無しですね。名君は、人の意見の聞ける人、人の言葉にも耳を貸せる人だなと今日の韓国の歴史、百済の王から学びました。
百済の義慈王は王になってまもなく新羅に対する総攻撃を行います。一方、大耶城デアソンの戦いで娘とむこを失った新羅の金春秋は、百済への復しゅうを模索しますが、思うようにはいきませんでした。
当時は百済の方が新羅より国力が上回っていたからです。百済は660年に滅びるまで実に13回も戦っています。結果は9勝4敗、2年に一度は攻撃してくる圧迫に指導層は危機感に襲われます。それに対抗するには大国の力を借りることでした。新羅は高句麗とも交渉し、海を渡って日本の大和とも話してみましたが、彼らとの交渉はいずれも失敗しました。結局は中国の唐と手を結びます。一種の生存戦略でした。
唐の関心は高句麗にありました。 隋のあとに建国した唐は初期から何回も高句麗の攻略戦に挑みましたが、大きく負け続け、唐の太宗はこれからは高句麗征伐は諦めろという遺言を残した位です。まず唐は百済を滅ぼしてから、前と後から高句麗を攻めて滅ぼすという戦略をたて、その戦略的な立場から新羅と同盟を結び、百済征伐の兵を出します。新羅は唐と連合して、百済攻撃の準備を進めます。
一方、国民に尊敬されていた義慈王も人が変わったような変身ぶりを見せていました。百済の宮中では毎日のように宴会が開かれ、義慈王は飲酒歌舞にはまって明け暮れていたようです。
忠臣で有名なソンチュンが義慈王に国の政治にもっと精を入れるように忠言をしましたが、義慈王はその意見を受け入れず、むしろソンチュンを牢屋に入れてしまいます。ソンチュンは牢の中で死を待ちながら忠誠を篭めた建白書を差し出します。
私は死んでも国を忘れることはないでしょう。必ず近いうちに戦争が起こります。その戦争で兵を動かす時は、地形をうまく利用しなくてはいけません。川の上流に陣を構えて、敵と戦えば国を守ることが出来るでしょう。この建白書は何を意味していたのでしょうか、具体的に見てみましょう。百済の都を敵の攻撃から守るには、陸地の方からはチミョンという峠を、そして海からはキボルポという港を守ることが出来れば、百済は安全だという意味でした。新羅と唐の連合軍の侵略を防ぐ上奏を行いましたが、受け入れてもらえず、ついに百済は、没落の日を迎えてしまいます。国を守るために忠臣の上奏を義慈王はついに無視しました。ソンチュンは結局牢の中で死んでしまいます。
その頃、百済の人々の間には、不吉な噂が広まっていました。宮中の古い木が風も無いのに揺れたり、人の泣き声みたいな音を出しました。海辺では死んだ魚の群れが浮かんだり、都の井戸はみんな真っ赤な血の色に変わりました。百済は滅びるぞ、百済は滅びるぞ、宮中では幽霊が現れて、百済は滅びるぞと大きな声で叫んで地面の中に消えたという事件もありました。義慈王はその幽霊の消えた所を掘って調べさせました。地面の中からは亀が発見されました。その亀の背中には「百済は満月であり、新羅は三日月である」と書いてありました。義慈王は巫女がその意味を百済は力が尽きて滅びる運命にあり、新羅はこれから繁盛すると解釈したため、この巫女を死刑に処しました。
義慈王はもう一度、違う巫女を呼んで占いをさせました。王の顔色を察したその巫女は満月は全盛期の象徴で、三日月はまだ力が弱いという意味ですと答えました。義慈王は喜んでまた宴会を開いたのでした。この噂を聞いて一番喜んだのが新羅の王になった金春秋キム・チュンチョでした。
金春秋は息子を唐に派遣して、兵を興し、百済を攻撃する時が来たと知らせました。660年の春、唐は本格的に戦争の準備に取りかかります。唐の大将軍の蘇定方が最高司令官に任命されました。彼は13万の大軍を率いて山東半島を出発します。
唐の軍隊は山東半島を出発し韓半島の西海岸に沿って、キボルポに入ります。今のクムガンの入り口、つまりチャンハン・クンサンの辺りです。同時に新羅はキム・ユシンが率いる5万の兵が百済の東部の国境を突破しパンサンボルに進出しました。
新羅と唐の連合軍が押し寄せてきたという知らせで、百済の朝廷は大混乱に陥りました。義慈王は敵の攻撃を防ぐ方法を探しますが、臣下たちは違う意見ばかり主張して、意見がまとまりませんでした。「唐を先に攻撃してから新羅と戦いましょう」「いやいやまずは新羅をやっつけてから後に唐と戦うべきです」「それが正しい」「いや違うぞ」このように意見がまとまらないうちに、事情は急変しました。
すでに唐の軍隊は錦江クンガンの河口に達し、新羅の軍は灘?タニャンという峠を越えました。義慈王は最後の手段として、桂伯ケベク将軍に決死隊を率いて抗戦するように命じます。
黄山伐ハンサンボルの戦いは660年の百済の最後を飾った大決戦でした。新羅の侵略に何の準備もできなかった百済には勝ち目がない戦いでした。義慈王の命を受けた桂伯将軍は、最初から敗戦を悟り、愛する家族が惨めな目にあわないように、自分の手で切り捨てて、決死の覚悟で戦いに臨みました。
愛する家族まで犠牲にした桂伯は5千の決死隊を率いて黄山伐へ向かいます。しかし広い野原で5万の新羅軍を相手にすることはできません。桂伯は険しい谷間に軍勢を三つに分けて新羅軍を待ち伏せしていました。彼は自分の決死隊にこう言いました。
「昔中国の越のこうせんは5千の兵で呉の70万の大軍を相手に勝利を収めたことがある。恐れることは何もない、今こそ勝利をおさめて国を守る時だ」と桂伯の激励に励まされた百済の兵は気勢をあげて新羅軍に奇襲攻撃を敢行しました。彼らの勢いに驚いた新羅軍は3回も後退を余儀なくされました。しかしその結果は・・・。
キルギスでの撮影がまもなく、始まるよ、ヨンジュンさんがいよいよキルギスへ、との報を聞き、どうか素晴らしい地で、思う存分の撮影が出来ますように、との思いを込めて、photo letter を作りました。どうぞ、演じるヨンジュンさん、見守る私たち、どちらへもエールを送ります。Fighting ! (2006.10.12 by Mie)
広開土大王(カンゲドテウァン):374〜412 朝鮮・高句麗第19代の王(在位391〜412)。正しくは国岡上広開土境平安好太王。略して好太王・広開土王という。
その19、三国の統一戦争 : 百済の滅亡 その1 その21、三国の統一戦争:百済の滅亡、その3