韓国の歴史
その15、三国時代の生活@ 豊かな平野と博士の国、百済
長くこのページお休みをしていました。突然のヨンジュンさんの来日、韓国伝統料理のお店「ゴシレ・高矢禮」」のプレオープンの記者会見でそのスッキリとしたお姿を見せて下さって、タムトック王の若き時代を演じられるその準備の姿なのかな?と思いました。またあっという間に帰国されたとのニュース。ラフなスタイルのヨンジュンさんは、現代の若者、ちょっと美し過ぎる普通の若者で、安心をしました。さあ、韓国の歴史も少し急がないと、ドラマに追い越されそう・・・です。お暇な方お付き合いください。
今から千数百年前の人々は何を着て何を食べ、どんな家に住んでいたのでしょうか。そして村の仕事は?様子はどうだったでしょうか。今のソウル近郊の金浦平野から全羅南道の羅州平野までの広い野原を開拓しながら豊かな国を作った百済の人々。彼らは三国の中でも最高の技術力を持って洗練された文化や風流を楽しみながら優れた建築物や工芸品を残しました。百済の初期の都である漢城、今のソウル周辺の漢江にはいくつかの船着場があり、地方からの特産物などが西海と漢江を通じて運ばれ、都に入りました。城の門は防御のためにその数が制限され、城の門を通って城の内と外の道がつながっていました。特に夢村土城と風納土城(プンナップソン)をつなぐ道路は漢城の中心街で、百済の人々はその付近を中心に村を作って住んでいました。
当時の村の様子は風納土城の内部からもうかがうことができます。3〜4軒の家が一つの世帯共同体になり、四角い家や六角形の中庭を持っていました。古代から朝鮮王朝の後期まで、韓国の人々は一日二食でした。百済も一日二回の食事が普通で、主食はお米。主に玄米ですね。そして小麦、豆などの穀物を食べていたと考えられます。風納土城からはそれぞれの家にかまどがあり、鳥や豚などの肉を食べ、また漢江に近いので、フナや銀魚などの川魚を食べていたと考えられます。古代以来、白菜の漬物、今風にいうと白キムチを食べていたことが確認されています。世界的に有名な韓国のキムチは三国時代にも食べていたんですね。
もちろんお酒もありました。百済の人々はそば粉でカビ(=麹(こうじ))をつくり、米と混ぜてお酒を作りました。カビを使うと、アルコール度数が高くなり、何よりも大量生産が可能になったのです。醸造技術の革新であったわけです。このような先進的な醸造技術は百済人の須須許理(すすこり)によって日本にも伝えられました(古事記に記載されいるそうです)。現在も京都の嵯峨神社では須須許理(すすこり)をお酒の神様として祭っているそうです。日本酒を始めて造ったのは百済人だったということでしょうか。
このように百済の料理文化が発達できたのは、三国の中で一番広い平野を持っていたからだと考えられます。百済の人々は三国の中でも最高の農業技術を誇っていました。現在も韓半島では最高の穀倉地帯は全羅道の湖南平野です。そこも最初は普通の原野だったのでしょう。しかし百済の人々はそこに溜池を掘り、かんがいの水路を作って原野を肥よくな穀倉地帯に変えたのでした。湖南平野の生産力は5世紀以後、百済の経済的な基盤になり、その豊かな生産力は洗練された文化を生み出したのでした。
中国の文献や「三国史記」によると、瓦を作る瓦博士、寺の塔を造る路盤博士などの記事が出ます。百済では博士の集団が物づくりを仕切り、博士の承認なしには作品が完成されませんでした。百済は中国との直接の交流を通じて文化を受け入れ、それをより発展させたのが多くの知識や専門的な経験を持つ博士の集団でした。 博士は最高の専門技術者に対して国が与えた職位の名称でした。国が後押しして養成した博士らは、国内だけではなく外国にも派遣されました。新羅の皇龍寺の九重の塔や仏国寺の釈迦塔、日本の飛鳥寺と法隆寺の五重の塔も、これら博士らの手によって作られたものと考えられます。日本に漢字を伝えたと言われる王仁(わに)博士も有名です。
普通の野原を科学的な水利かんがい施設で、韓半島最大の穀倉地帯に作り上げた百済の人たち、彼らは高い生産力を基盤に豊かな生活をして高い文化を作り、その文化技術の担い手だった博士らは、百済の文化を外国にも伝えたのでした。
前回の乙支文徳将軍のお話を書いてから1ヶ月以上がたってしまいました。その間、私は旅行に行っておりました。そしてこの歴史をのせるにあたり最初に書いたこと、私が昔から気になっていつかは見たいと思っているものが3つある。と。その一つは歴史をのせるきっかけになった広開土大王の功績を記した好太王の碑、それからロゼッタストーン、そしてハンムラピ法典(石碑に楔形(くさびがた)文字できざまれている。高さ2.25mのこの碑は、前1760年ごろにつくられた、有名な言葉で「目には目を」がある)の3つです。今回の旅行でルーブル美術館に行ってその中の一つ、ハンムラピ法典を見てくることが出来ました。感動しました。仕切りも何もない、触ろうと思えば触れるそこに黒光りする石碑が立っていました。何度もなんども前後左右から眺めました。とてもうれしい瞬間でした。
その14・高句麗の乙支文徳(ウイチムンドク)将軍と撒水(サルス)での戦い その16、三国時代の生活A 高句麗、その一山城と味噌の文化