韓国の歴史
その11、三国の仏教の受け入
人間の生き方を深く考えることからくる矛盾などの海容から仏教の禅の修行はいまや、欧米でも広く受け入れられています。韓国の有名な山々にはどこでもと言ってもいいくらいお寺があり、今も支持されている宗教なのです。韓国はもちろん、日本にも大きな影響を与えた仏教は何時頃、韓国に伝わったのでしょうか。
「三国史記」によると、高句麗は375年に仏教を公認したとあります。中国の東晋の影響が大きかったといわれていますが、その以前から仏教は入っていたとみられます。百済は384年に東晋の僧侶である魔羅難陀(マラナンタ)が仏教を伝えたといわれます。新羅は仏教公認に至るまでいろいろな余曲折を経て、かなり後の時期である6世紀の前半に公認されたと記されています。

しかし実際は高句麗にはもっと早い時期に伝わったと見られます、4世紀半ばに作られた高句麗の墓からはハスの花の模様も発見されています。高句麗の領土になった今の中国の遼東地域には既に1世紀ごろには仏教が伝わっていました。高句麗の人々はかなり早い時期から仏教を知っていたと思われます。

高句麗の小獣林王が仏教を公認したのは政治的な必要性によるものと考えられます。社会体制の再整備のための精神的な統合の重心的な役割を仏教に求めたのでしょう。その後、中国から留学僧が帰国したり、あちこちに寺を建てます。今の平壌にあった都の中に寺が9つも建てられたといわれています。
高句麗の仏教の繁栄を物語っているといえます。
百済では、西暦526年にインドに留学した謙益という僧侶が持ち帰った仏教の経典を翻訳したり、聖王の時には日本の大和に経典と仏像を伝えています。中でも日本に仏教が伝わったのは重要な意味を持ちます。仏教が各地に散っていた皇族集団を中央集権的な律令国家に改革する理念的な装置になったからです。
日本からこの仏教伝来を見たとき、伝来説には私伝説と公伝説とがあります。522年(継体天皇)説などの私伝説と552年(欽明天皇)説および538年(宣化天皇)説の二公伝説です。公伝二説中,552年説は『日本書紀』を原拠としている。また欽明7(戊午)年は宣化3(戊午)年に他ならず,史実上から見て538年仏教公伝説が有力である。皇室・大臣蘇我・大連物部勢力による三極分立が深まった時代にあたり蘇我氏は渡来系氏族と関係を早くからもち海外事情に通じた氏族である。物部氏は軍事・刑獄を主業に祭祀にも通じ,祭祀専業の中臣氏と並ぶ守旧的傾向の強い氏族である。大臣・大連をそれぞれ蘇我氏・物部氏が勤める欽明朝に伝来した仏教の受否をめぐる抗争は『日本書紀』によると,蘇我氏が〈西蕃の諸国もっぱら皆これを礼す。豊秋日本あに独り背かんや〉と奏したのに対し,物部氏は中臣氏とともに〈蕃神を拝さば恐らく国神の怒を致さん〉と同奏したのを端緒とする。この対立は587年の物部氏の滅亡時まで半世紀に及ぶが,554年(欽明天皇の百済渡来僧交替,577年(敏達天皇の百済の律師・禅師・比丘尼・呪禁師・仏工・造寺工の渡来,584年(同13)の仏殿営作と法会の設斎,588年(崇峻)の百済僧9人・寺工・鑪盤博士・瓦博士・画工の渡来など,この間仏教文化の受容はしだいに進み、推古朝には飛鳥文化の中心である仏教文化の隆盛を見ましたた。
このように高句麗と百済は仏教の受け入れに積極的でしたが、新羅はやや異なっていました。まずは外来の宗教に対して非常に否定的でした。
高句麗や百済は陸や海の道を通じて中国との交流が盛んに行われ、世界文化との接点がありましたが、新羅の場合、地理的にも中国との直接交流ができないため、高句麗や百済を通じて間接的に仏教を受け入れました。さらに自己の文化への執着が強く、外来宗教の受容に慎重な立場を取っていました。
こうした状況は、言い換えれば、新羅は各部族長の発言力が強く、独特な身分制度のために、国王が貴族を抑え切れなかったという意味になります。6世紀前半の法興王(ポップンオウ)の時代に新羅は、加羅の征服に成功し、高句麗や百済と争う重要な時期でした。法興王には国の貴族や百姓などを一つに統合する契機が必要だったのでした。
このとき、法興王の側近の一人異次頓(イチャドン)は仏教を広めるために、自ら殉教者の役割を買って出ることを王に申し出ました。
王「国をまとめるには仏教が一番良いと考えるが、あのように貴族の反対が強いので手も足も出ないのじゃ」
異次頓(イチャドン)「王様いかがでございましょうか。私の死によって仏教をわが国新羅に広めることが出来るならこの上ない幸せでございます。」
王「罪も無い命をムダに奪うわけにはいかんのじゃ。」
異次頓(イチャドン)「王様、私の命を国の未来のために喜んで差し上げましょう。」そしてイッチャドンは王の命令だと偽って大規模な寺の造営を始めます。偽った王の命令を出したイッチャドンを死刑にしろと王は命令します。
王「すぐイッチャドンの首を斬れ」イッチャドンは死の間際に自分が死んだ後 奇跡がおこるだろうと予言します。
異次頓(イチャドン)「おれが死ぬとき、奇跡が起こる。それはお釈迦様が存在することの証となる筈だ。」イチャドンの首を斬ると牛乳のような白い血が流れ、周囲が暗くなり 地震が起こり、空からは花びらが降ってきたと言われます。自分の命を犠牲にした姿を目の前にして感動した貴族たちは、国王の仏教公認の決心を認めざるを得ませんでした。ひとりの死が歴史を変えたのでしょう。
法興王(ポップンオウ)は仏教によって 王の権威に挑戦する貴族や有力部族をけん制することが出来ました。そして仏教を通じて体制の整備、中央集権的な政治力量を発揮したのです。

そして新羅には建築や工芸などの分野で仏教文化が広がっていますがその中でも慶州(キョンジュ)駅東側のたんぼ地帯にその後が残っているファンギョンジが有名です。
法興王(ポップンオウ)の後の王の時代に建て始めたファンギョンジが一番大きくて有名です。もともと寺を建てた場所は龍がすむと噂されていた沼があった所です、それで龍を納めることの出来るお釈迦様の寺を建てたという説話が残っています。
ファンギョンジはとても大きなお寺でした。ここに王がやってきて法要を執り行っていました。木造の八角の九重の塔はその美しさや華麗さが中国に伝わるほどのものでした。高さは80mあまりあり、新羅に敵対する九つの敵による災いを避けるために九重にされていたといわれています。しかし、高麗時代にモンゴルの来襲で焼かれてしまい、今はその美しい姿を見ることが出来ません。 
そのほかにも新羅には数々の仏教遺跡があります。キョンジュ一帯では今も地面を掘ると仏教関連の出土品があります。たくさんの仏教遺跡がまだ土の下に眠っているのです。

このように三国での仏教の発展は、それぞれ中央集権国家としての改革の過程と重なるという共通点を持ちます。仏教を通じて国民の思想の統一を図り、国王を中心にした中央集権化のために大きな役割を果たしたのです。
その後も仏教は従来からあった土着信仰を吸収しながら、古代国家の成立過程で現れた社会的な葛藤を解消させ、国家の次元を高める役割を果たし、さらに韓国文化の成立にも大きな影響力を及ぼしたのでした。

三国の仏教受容関連年表
372年 高句麗に中国の前秦から仏教伝来
384年 百済に晋より仏教伝来(摩羅難陀の到来)
527年 新羅、仏教を公認(異次頓の殉教)
6世紀末〜7世紀前半 渡来人系僧侶(行基、慧慈)、仏師(鞍作鳥)らが大和で活躍
538年 日本の仏教公伝説
ソン・スンフォンの元マネージャーの結婚式に現れたヨンジュンさんは、姿は現代のスーツ姿でしたが、その立ち居振る舞いは既に広開土大王(カンゲドテウァン)でしたね。実際のドラマでは高句麗王はどのような姿をしているのでしょうか、次回の韓国の歴史は「高句麗の古墳壁画」です。壁画、高句麗のその時代の姿が描かれているんですね。本当に楽しみです。(広開土大王(カンゲドテウァン):374〜412 朝鮮・高句麗第19代の王(在位391〜412)。正しくは国岡上広開土境平安好太王。略して好太王・広開土王という。碑文によれば始祖鄒牟王(朱蒙)17世の孫ということになっている。父は故国壌王。18歳のとき父王の死で即位。39歳で没するまで,西北は燕,南方は百済,およびこれと結ぶ倭人と戦い領土的発展につとめ,王国の基礎は,この王のときに確立したといってよい。)
その10、新羅の花郎(ファラン) その12、高句麗の古墳壁画