〔 生涯の事跡・トピック ( 生涯における《明》と《暗》 ) 〕
※、文末の( )内の数字は、その事跡の時の、ドスト氏の満年齢。
▲はリンク先に関連の画像あり。
(1).【 モスクワの貧民慈善病院内の官舎に出生、兄弟姉妹や使用人の多い大所帯の家族構成、
専制君主的な気むずかしい病院長(元軍医)の父親、やさしくて敬虔な母親、兄ミハイルとの仲のよさ、
幼少期の厳格で敬虔で教育熱心な家庭環境、読書・朗読を愛好した家庭環境(0歳〜11歳)、
領地を得て小地主となる(9歳)、夏季のダーロヴォエ村での田園生活(9歳〜15歳) 】
氏は、元軍医であった父ミハイルが医員(のちに病院長)として勤めるモスクワの貧民街にある
マリヤ貧民慈善病院の建物内の職員官舎の一室で生まれ、
《明?》病院の敷地内を行き来する貧しい患者たちを目にしながら、少年期を送った(0〜12)。
※、▲ドスト氏の生家
父ミハイルの年功により、一家は、いちおう、「貴族」の称号は得ていて、のちに領地を持つ小地主
にもなったが、氏の一家は、暮らし向きはそれほど豊かではない正教ヘの信仰心のあつい中産中
流階級に属する家庭であった。
《暗》まじめで謹厳でありながら、癇癪(かんしゃく)持ちで気むずかしく猜疑心が強い偏屈な性格
の▲父ミハイルは、息子たちに病院の校内から外へでることも近所の子供たちとつきあうことも禁
じるなど、子供たちに厳しい日課やしつけを課した。そういった怒りっぽくて厳格な父に対して、
氏は、早くから気をつかい、父親の顔色をうかがいながら少年時代・学生時代を送った。
一方、《明》▲母マリヤは、モスクワの中流商家の娘で、陽気で賢く、気だてのやさしい信心深い正
教信者であった。
氏は、三男四女のうちの次男であり、使用人も数多く同居していて、氏が少年期の家庭は大所帯
だった。
( 《明》年子(としご)の兄ミハイル(長男・1820〜64)とは、一卵性兄弟と言われたほど、幼い頃よりい
つも一緒に行動していて仲がよく、文学の夢を語り合う仲間であり、よき相談相手であった。
ほかに、弟のアンドレイ(三男・1825〜97)・ニコライ(四男・1831〜83)、妹のワルワーラ(長女・1822
〜93)・リュボフィ(次女・1829)・ヴェーラ(三女・1829〜96)・アレクサンドラ(四女・1835〜89)がいた。
その他、家族と同人数ぐらいの女性の使用人たちが一緒に住んでいて、子供たちの乳母たちや子
供たちの面倒をみる婆やたちも出入りしていた。
次女リュボフィは、ヴェーラと一緒に双子として生まれたが、生まれて数日後に死亡(7)。
弟アンドレイは、のちに、少年期の一家についての貴重な回想記を残している。 )
4歳から、母は、氏にアルファベットを教え、
《明》日々夜は、子供たちを部屋に集めて『聖書』やカラムジン著の物語などを読んで聞かせ、
また、《明》使用人たち(乳母だったアリョーナ・フローロヴナやルケーリヤ、農奴出の召使いの
ばあやアリーナ・アルヒーポブナ)が巧みに語るおとぎ話にも子供たちは夢中になった。
《明》夜の時間帯はやがて一家での文学書の朗読会や読書の時間となり、氏の文学への親しみ
の最初の下地をつくった。
《明》10歳の冬にモスクワ大劇場でシラー作の『群盗』を観て、モチャ−ロフの名演に深く感動した。
11歳からは父は氏や兄にラテン語や幾何学の予備教育を始めた。
9歳の時、父がトゥーラ県の田舎のダーロヴォエ村を購入し、その翌年にはその隣村チェルマー
シニャも買い入れ、父は領地と100人余りの農奴をかかえる小地主となる。
( チェルマーシニャ村の領地の買収後に屋敷からの出火で、《暗》両村は焼失してしまうが(10)、
その夏には領地の屋敷は罹災から復興した。)
《明》9歳以降15歳まで、毎年、夏は、母と兄弟たちとダーロヴォエ村を訪れて当地の田園生活
に親しんだ。
(2).【 私塾への通い(11歳〜12歳)・私立寄宿学校時代(12歳〜15歳)・ペテルブルグへ(15歳〜)・
文学熱がいっそう高じた工兵学校時代(16歳〜21歳)、両親の死去(15歳・17歳)、
1年間の勤務ののち、作家生活へ(22歳)】
《明》少年期からすでに早熟の文学好きで、同じく文学好きの兄ミハイルとともに、寄宿学校に入学以降、
13歳頃から、ロシア内外の文学作品を次々と読破し始め、将来大作家になることを夢見た。
上級学校へ進学する準備として、1833年の春から、兄ミハイルとともに、
・フランス人スシャールの経営するモスクワ市内の私塾(11〜12)
( 《明》この私塾で氏はフランス語を徹底的にたたきこまれ、在学中の1年間でフランス語の読み書き
と会話に習熟する。)
に通った(朝馬車で通った)のち、
兄ミハイルとともに、
・チェルマークの経営するモスクワ市内の私立寄宿学校(中学課程)(12〜15)
( 1834年の秋に入学。この寄宿学校は、文学教育に熱心で、氏は教師の感化でプーシキンの文学に
傾倒し、文学への熱中が始まり、兄ミハイルは詩作にふけり、塾生たちとはつき合いが悪かった氏は、
散文小説、特に伝奇小説や怪奇小説に心奪われた。
《暗》卒業する年の1837年の2月に母マリヤが病気で亡くなる(15)。
( 生来病身がちであった母マリヤは、1836年の秋ごろから健康が衰えはじめ、翌年の2月に
肺結核で亡くなった。
母の死のあと、兄ミハイルとともに、一時、クマーニン家(母の姉の婚先の富裕な商人)に引き
取られて過ごした。父ミハイルは、妻の死後は、病院長を辞して他の子供たちとダーロヴォエ
村の領地にひきこもった。)
《明》1836年に教師の感化でプーシキンに熱中し始めたが、《暗》翌年の1月末に決闘でたおれたプ
ーシキンの死をその一ヶ月後の3月に知り、兄とともに大いに悲しむ。)
・工兵学校入学準備のための、コストマーロフの経営するペテルブルグの私立予備校(15〜16)
( 《明》1837年の5月にモスクワを離れて初めて首都ペテルブルグに行き、父から遠く離れた都会ペテ
ルブルグで学校生活を開始(15)。
在学中に、ロマン派詩人シドローフスキーや工兵学校生グリゴローヴッチと知り合い、影響を受ける。)
の寄宿生活を経て、
父の選んだ、
・ペテルブルグの▲陸軍中央工兵学校(16〜21)
( この学校は、当時の工業系エリート学校であり、主として西部国境地帯の要塞構築要員としての工
兵将校を養成することを目的とした学校であった。
一緒に同校の入学試験を受けた兄ミハイルは不合格となって、兄はレーヴェルの工兵部隊に入隊
することになり、《暗》兄の勤務先が変わった同年の4月以降は兄とは離ればなれになり、その後
は、兄宛の書簡を書き送ることが始まる(16〜25)。
周囲が堀に囲まれた旧ミハイロフスキー宮殿が校舎になっていた学校生活は、代数学や築城学の
講義を聞き、軍事訓練に明け暮れるもので、《暗》氏にとって形式的な学校生活は苦痛でしかなく、
《明》日々、夜の自由時間などは、好きな文学や読書に没頭し、バルザック、ジョルジュ・サンド、ビ
クトル・ユゴー、ホフマン、シラー、シェークスピアなど、ヨーロッパの作家の文学作品を次々と読破し
た。入学後にいっそう高じたこの文学熱や教師との関係がうまくいかなかったことなどのため、最初
の進級試験で落第をしている。( 父親の監視の中、学校生活は嫌っていたものの、氏は各教科の
勉学には専念し、成績はそれほど悪くはなかった。)
《暗?大明?》入学して2年目の1839年6月に父ミハイル横死の知らせを受け衝撃を受ける(17)。
( 父ミハイルは、妻マリヤの死後、病院長を辞してダーロヴォエ村の領地にひきこもって酒びた
りとなり、領地の農奴たちに対する専横により、彼らの恨みを買って領地で殺害された。)
1841年の8月に野戦工兵少尉補に任ぜられ通学見習生となり(19)、工兵宮殿内の寮を出て、
《明?》市内で同級生と共同の下宿生活を始める。
在学中に、最初の創作として戯曲を三作ほど(『マリア・スチュアルト』『ポリス・ゴドゥノフ』『ユダヤ
人ヤンケル』)創作し、仲間の前で朗読している(現存せず)(20)。 )
に5年間在籍し、
同校卒業後、
・ペテルブルグ部隊工兵団の製図局
へ配属されたが(21)、
《明?》勤務になじめず、
( その間、バルザックの小説『ウージェニー・グランンデ』を翻訳し(22)、雑誌に掲載された。)
《明?》一年後、中尉に昇進後に職を辞し退役して作家生活に入った(22)。
(3).【 処女作『貧しき人々』での華々しい文壇デビュー(23歳)と、批評家たちに不評だったその後の作家活動(24歳〜27歳) 】
《大明》1845年の5月、完成した処女作『貧しき人々』が認められ、文壇に華々しくデビューする(23)。
( 『貧しき人々』の原稿を徹夜で読んで感動した詩人ネクラーソフと友人グリゴローヴッチに
その早朝たたき起こされて、前途を祝福される。数日後、この小説をすすめられて読んだ当
時の有力な文芸批評家ベリンスキーにも絶賛を受けた。)
しかし、
その後に出した長編『分身』短編『プロハルチン氏』中編『主婦』中編『弱い心』短編『ポルズンコフ』
などの各小説は、
《暗》ベリンスキーを初め、批評家たちの手厳しい批評を受けて不評であり、
《暗》迎えられた上流社会の文芸サロンも、貴族出の作家たちに小馬鹿にされたり、からかわ
れたりして、自尊心が強くて自意識過剰のドスト氏にはたいそう居心地が悪かった(24〜27)。
※、▲ドスト氏25歳の時の肖像画(友人のK・A・トルトーフスキー画)
(4).【 「ペトラシェフスキーの会」内のサークルへの参加と活動(26歳〜27歳)と、
逮捕・投獄・特赦(銃殺刑を免れる)(27歳〜28歳) 】
そういった中、
氏は、気の合う文学仲間(グリゴロービィチ、ベケート、フマイコフ兄弟など)との共同生活(23、25)を経て、
農奴制度の廃止や裁判・出版制度の改革などを掲げる空想的(キリスト教的)社会主義者たちの集まり
である▲ペトラシェフスキー主宰の「ペトラシェフスキーの会」内のいくつかの秘密結社のサークルに接近し、
《暗?》彼らの勉強会・社会革命活動に参加し始めた(26)。
彼らとの気楽な共同生活の中で、中編『白夜』長編『ネートチカ・ネズワーノワ』などの創作も平行
して行われた。
ところが、
それらの急進的サークルに関わっていたかどで、
《暗》1849年4月23日に会員全員とともに突如逮捕され(27)、
《暗》▲ペテロ・パヴロフスク要塞への8ヶ月間に渡る投獄を経て、
( その獄中で、中編『小英雄(のちに「初恋」と改題)』を執筆。)
《暗》予告なしに▲銃殺刑の宣告を受け、セミョーノフスキー練兵場で銃殺刑の直前までいった時、
《大明》皇帝の特赦の勅命が処刑場に到着して、銃殺刑を直前で免れた(28)。
※、ペトラシェフスキーの会の活動やメンバー、逮捕後の取り調べや軍法会議での判決、
銃殺刑前後のことについての資料や情報は、
・『ドストエフスキーとペトラシェフスキー事件』
( 原卓也・小泉猛共編訳。1971年集英社初版。)
・『ドストエフスキー裁判』
( N・F・ベリチコフ編・中村健之介編訳。
北海道大学図書刊行会1993年初版。現在市販中。)
に詳しい。
銃殺刑直前の様子やその時の心境は、
・小説『白痴』の第1編の第5(新潮文庫では、上巻のp108〜p111)
で、主人公のムイシュキン公爵の口を借りて詳細に語られている。
○ 4月23日に逮捕されたサークルのメンバー一覧。
( 過去の掲示板での書き込み記事より )
(5).【 シベリアの地オムスクでの監獄・囚役生活(28歳〜32歳)と、セミパラチンスクでの服役生活(32歳〜37歳)、
マリヤとの結婚(35歳)を経て、ペテルブルグに戻り、作家活動を再開する(38歳〜) 】
その特赦後、ただちに、
《大暗》シベリア流刑送りの身となり、冬季の一ヶ月に渡る苛酷な護送ののち、
《大暗?》 四年余りに渡って、▲シベリアの地オムスクの収容所で、囚人たちと、劣悪な環境のもと、
過酷な囚役の監獄共同生活を送った(28〜32)。
( 常時足かせを付けられた囚人たちとの▲共同の監獄・囚役生活の間、
《大暗?》表向きは、読み書きや外部との手紙のやりとりは一切許されなかった。
《明》護送中にデカプリスの妻たちから贈られた聖書が、流刑中の唯一の座右の本となった。
《暗》▲監獄内の囚人達との共同の衣食住(特に寝床)の生活は劣悪であったが、
《明》日々の規則的な生活と屋外での肉体労働は、氏に体力づけとそれまでの心の病の治癒
を、ある程度もたらした。)
さらに、
《暗》その後5年余り、オムスクよりさらに東南の地セミパラチンスクで、一兵卒としてシベ リア国境警備
の軍職に服役(32〜37)。
( この時期は、《明》読書や執筆をする自由や時間はあった。
その間、軍務免除とペテルブルグへの帰還の嘆願書を繰り返し提出している。
《明》人妻マリヤとの恋愛(32〜35)を経ての結婚生活(35〜)や、
《明》町に地方検事として赴任してきたブランゲリ男爵との親交(33〜)もあった。)
※、▲セミパラチンスク時代(36歳)のドスト氏の肖像
服役終了後、
《大明》剥奪(はくだつ)されていた諸権利を回復し、ペテルブルグに住むことも許され、足かけ10年ぶりに、
世間での作家活動への復帰を果たした(38)。
( 喜劇ふうの長編『伯父様の夢』・長編『スチェパンチコヴォ村とその住人』を発表して文壇に復帰(38)。
引き続いて、長編『虐げられた人びと』とシベリア流刑体験記『死の家の記録』を雑誌に連載(39)。 )
※、流刑中の囚人たちとの共同生活のことについては、
・氏の小説『死の家の記録』(新潮文庫)
・出獄後に兄ミハイルに宛てた手紙(1854年2月22日付けの手紙)
に詳しい。
(6).【 人妻マリヤとの恋愛・最初の結婚生活(32歳・35歳〜42歳)、妻マリヤと兄ミハイルの死(42歳)、
欧州旅行(40・41・43歳)と『地下室の手記』の発表(42歳)、アポリナーリヤ・スースロワとの愛人関係(41歳〜44歳)、
若い口述筆記者アンナと再婚し、アンナは生涯のよき伴侶となる(45歳〜59歳)、癲癇(てんかん)の持病化、
『罪と罰』で世界的な名声を得る(45歳)、もうけた子供達のこと 】
セミパラチンスクでの服役中、
《明》人妻マリヤと恋愛に陥り(32〜)、
《明》アル中の教師だったその夫の死後に結婚(35)。
その最初の▲妻マリヤとの夫婦関係は、
《暗》結婚直後の氏の癲癇(てんかん)発作や、肺の病を得た彼女のヒステリー性の性格などのために、
まもなく冷めてしまい、彼女は、長期の転地療養もむなしく、
《暗》肺病を悪化させて、氏の看病の中、病没(42)。
その三ヶ月後には、
《暗》よき相談相手であった最愛の兄ミハイルも病気で亡くして兄の莫大な借財や彼らの遺族の扶養を
引き受ける、など、
《大暗》1864年(42歳)はドスト氏にとってまさに厄年と言える年だった。
妻マリヤの看病の中、2回の欧州旅行(40、41)での西欧文明の体験(幻滅体験)の影響をもとに、
作風の転換作とみなされる中編小説『地下室の手記』を発表(42)。
その間(かん)、
《明?》新進の若い女性▲アポリナーリヤ・スースロワとの愛憎のからんだ愛人関係もあったが(41〜44)、
( スースロワとの欧州での密会体験などにもとづき、中編『賭博者』を発表(45)。)
《大明》小説『賭博者』の原稿締切期限に間に合わせるために口述筆記者▲アンナ(25才も年下)を雇った。
その後、氏の小説の執筆形式は、
深夜に書斎で練った構想や本文の部分下書きを記した「創作ノート」
( てんかん発作に見舞われる時期は記憶が一時失われることが多いので、氏は、
創作の維持のためにも、構想や思いつきをノートにメモすることを日頃から心がけていた。)
に基づいて、
《明》彼女と協力しての口述筆記となる。
( 名作『罪と罰』は1965年1月から雑誌「ロシア報知」に連載が始まったが、その末部(第6部の
7節以降の分)は、アンナとの口述筆記の助けを借りて創作され、連載は12月に完結した(45)。)
《大明》その口述筆記者アンナを見そめて、『罪と罰』の連載終了の翌年2月に彼女と結婚(再婚)(45)。
結婚後10日にして早くも、
《暗》アンナも夫の癲癇発作を目(ま)の当たりにすることになるが、
《大明》彼女は、かしこい寛容な良妻として、氏の生涯の終わりまで氏に忍耐強く仕えた。
氏の最初の妻マリヤには、パーヴェルという連れ子(男の子)があり、氏はその出来の悪
い連れ子に生涯手を焼いている。
《暗》最初の妻マリヤとの間には子供はできなかった。
一方、
《明》氏の二番目の妻アンナの間には四人の子供をもうけたが、
そのうちの二人を、その幼少期に失っている(46・56)。
子煩悩(こぼんのう)であっただけに、子を失った氏の悲しみは、悲痛を極(きわ)めた。
氏は、結局、
《明》生涯に一男一女(長男フョードル・次女リュボフィ)を残した。
※、妻マリヤ・妻アンナ・愛人スースロワとのことは、
・『ドストエーフスキイの三つの恋』( スローニム著、池田健太郎訳。角川書店1959年初版。)
・『ドストエフスキー伝』
( アンリ・トロワイヤ著、村上香住子訳。中央公論社1982年刊・中央文庫1988年刊。)
・『ドストエフスキーの恋人スースロワの日記』
( ドリーニン編・解説、中村健之介訳・解説。みすず書房1989年初版。)
に詳しい。
ドスト氏はこの時期、欧州へ3度、旅行している。(40、41、43)
( 1度目の欧州旅行は、社会復帰してから三年目の40歳の時、単身でパリ・ロンドン・ジュネーブ・フィ
レンチェ(=フローレンス)などに3ヶ月足らず旅行・滞在。ロンドンでは万国博を見て回った。帰国後、
欧州見聞記『冬にしるす夏の印象』を記した。
2度目の欧州旅行は、41歳の夏、この年から肺病が重くなった妻マリヤ(最初の妻)をウラジミールに
転地療養させていた氏は、愛人スースロワとともに2ヶ月間、パリ・ローマなどで過ごす。
先発していたスースロワを追ってパリに向かう途中のヴィスバーデンで賭博場で一時5000フランを
儲(もう)け、この時以来、ルーレット熱にとらえられる。
3度目の欧州旅行は、妻マリアが氏の懸命の看病もむなしくモスクワで病没した年の翌年である43
歳の7月から3ヶ月余り、再び、ヴィスバーデン、コペンハーゲンなどで、スースロワとの恋愛やルー
レットに熱中。賭博にふけって一文なしになった宿先で、『罪と罰』を起稿。コペンハーゲンから旅船で
帰国。)
(7).【 生涯にわたる浪費癖と借金生活、妻アンナとの欧州滞在(45歳〜49歳)、『白痴』『悪霊』の執筆(47歳〜51歳)、
長女ソフィアの死(46歳)、賭博への熱中(41歳〜49歳) 】
金銭管理の無頓着さや浪費癖なども手伝って、
《明》経済状況が比較的安定した晩年の時期
を除いて、
《暗?》生涯、債鬼に追い回される。
アンナとの結婚の二ヶ月後より、債権者や夫側の係累(亡き兄ミハイルの未亡人や先妻の連れ子など)
をのがれて、
《明?》妻アンナを伴い四年二ヶ月余りにわたって欧州で滞在・放浪生活を送った(45〜49)。
( 45歳の春にペテルブルグを出発し、順に、ドイツのベルリン・ドレスデン・バーデンバーデン、
スイスのジュネーヴ、イタリアのミラノ・フィレンチェ・ヴェニス、さらに、オーストリアのウィーン、
チェコのプラハなどに滞在し、再びドレスデンを経由して、49歳の春にペテルブルグに帰還。)
この欧州での滞在・放浪生活の間に、長編『白痴』を執筆・完成し、次の長編『悪霊』も構想・連載される。
( 欧州放浪の一年目、
《大暗》初めて得たわが子である長女ソフィア、生後三ヶ月目にして肺炎で死亡(46)。
この欧州滞在生活は、妻の母から送られてくる送金やロシアの出版社から送られてくる前払いの
稿料によってかろうじて支えられていたが、賭博への出費などで、食事代にこと欠く日々もあった。)
氏の有名な賭博癖(41〜49)も、
《暗?》この欧州での放浪生活中にさらに高(こう)じることになる。
( 欧州滞在中、ハンブルグ、バーテンバーデン、ヴィスバーデンなどにある賭博場に通っている。
《明?》氏の賭博癖は、欧州からの帰国後には、止(や)んだ(49)。)
※、欧州滞在中の生活のことは、
・『アンナの日記』( 木下豊房訳。河出書房新社1979年刊。)
・『回想のドストエフスキー』( アンナ著・松下裕訳、筑摩書房1973・1974年初版。)
に詳しい。
(8).【 ジャーナリストとしての個人雑誌の出版や言論活動・『作家の日記』の連載(39歳〜59歳)】
氏には雑誌の編集者・ジャーナリストとしての才もあり、
後半生は、
《明?》文学・政治評論雑誌である『時代(ヴェレーミャ)』(39〜42。兄ミハイルとの共同編集。)、
『世紀(エホーパ)』(42〜43。兄ミハイルとの共同編集。)、『市民』(51〜52。メシチェルスキー公
爵が刊行していた保守派週刊誌。1年4ヶ月ほど編集長を任せられる。)の編集にも従事し(39
〜43、51〜52)、
晩年は、
《明?》月刊個人雑誌『作家の日記』を中心に、
時事問題・社会問題への発言も活発に展開した(55〜56、58、59)。
氏には、当時のロシアの対外戦争をめぐって、戦争の価値を述べ戦争を賛美する発言もあり。
※、ドスト氏の対外戦争に関する独自の考えは、
『作家の日記』1877年4月号の中の、
・「戦争はかならずしも災厄ではなく、ときには救いでもある。」
・「流された血は救ってくれるか?」
( ともに、ちくま学芸文庫の「作家の日記(巻4)」のp278〜p291。)
などの文章に見ることができる。
(9).【 スターラヤ・ルッサでの親子水入らずの家庭生活・『未成年』の執筆(51歳〜59歳)、次男アレクセイの急死(56歳)、
『カラマーゾフの兄弟』の連載(58歳〜59歳)、中央社交界への出入り、プーシキン講演の栄光(59歳) 】
《明》『悪霊』完成後は、生活も安定し、ペテルブルグの南の地▲スターラヤ・ルッサに別荘を設けて、避暑
の時期には、ペテルブルグのアパートを離れて、その地で過ごした。
《明》親子水入らずのその幸福な家庭生活の中で、
( その間、
《大暗》次男アレクセイが、三歳にして (遺伝と思われる)てんかん発作を起こして急死(56)
という大きな悲しみもあった。)
『未成年』『カラマーゾフの兄弟』の創作、個人雑誌「作家の日記」の執筆、
などの創作・執筆生活を送った。
※、▲ドスト氏が晩年に住んだアパート。
《大明》晩年、モスクワのプーシキン記念祭で「プーシキン講演」を行い、
熱狂的な喝采(かっさい)を受ける(59)。
( 氏は、晩年は、中央の社交界にも頻繁に出入りし、
文学の夕べなどで、しばしば自作の朗読を行い、聴く人たちを魅了していたが、
このモスクワのプーシキン記念祭での「プーシキン講演」では、
プーシキンの文学の予言的優秀性を取り上げつつ、ロシア人の全人類的なすぐれた資質
とその使命たるべき世界的同胞愛の実践を壇上で演説し、聴いていた聴衆に熱狂と感動
の嵐をひき起こした。)
※、この「プーシキン講演」の草稿は、
・『作家の日記』(ちくま学芸文庫の『作家の日記』では、巻6のp31〜p67。)
に収められている。
(10).【 『カラマーゾフの兄弟』の完成(59歳)、持病の悪化による突然の急逝・盛大な葬儀(59歳) 】
《大明》最後の大作『カラマーゾフの兄弟』のいちおうの完成
を得たわずか80日後に、
《暗》晩年氏を悩ませた肺気腫などの病気が悪化し、
《明》ペテルブルグの自宅の書斎で妻子や知人にみとられながら、 《暗》急逝(59)。
※、▲ドスト氏のデスマスク
氏の葬儀は、まれにみる盛大さで行われた。
( 自宅から出棺し、埋葬地の▲アレクサンドル・ネーフスキー修道院に向かう道々、
《明》学生や乞食たちも含めた約三万人の人々が沿道に押し寄せ、棺のあとに従った。 )
※、アレクサンドル・ネーフスキー修道院にある▲ドスト氏の墓。
〔 (1) 〜(10)は、のちに、適宜、追加記入・追加補足します。〕