ドストエフスキーの文学の面白さ・魅力

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ドストエフスキーの小説の「面白さ・魅力


ドストエフスキーの小説には、対話のシーン、話者が出来事や回想を語るシーンが多くて、 短時間(短期間)の間に展開される室内での「会話劇・内面劇・思想劇・活劇」といった特徴があり、 世間の歴史小説に見られるような大河的なストーリー展開や登場人物の外的行動の展開が欠けているという批判もありますが、 『罪と罰』『白痴』などは、登場人物や事件が次から次へと現れてきて、各場面はスリルや緊迫感に満ち、読者は、しばしば、「巻(かん)を置くあたわず」「憑()かれたように読みふける」 といった熱中状態に陥ってしまいます

ドストエフスキーの各小説には、途中、山場(やまば)となる劇的な場面が必ずいくつかあって、 ドストエフスキーの手腕によっていのちを吹き込まれた名場面のボルテージ・精神性の高さというものは、読者に忘れがたい印象を残します。

読者を引きつけていくこれらの傾向は、大衆紙への連載ものとして、ドストエフスキーが読者へのサービスを常に意識していて、 読者を引きつけようと各場面でその様々な職人芸を発揮していることはもとより、 『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』などに見られる、 下手人捜し、種々の謎をあとあとまで残したままの展開、謎めいた人物の登場、 といった謎めいた推理小説ふうの傾向、次に何が起こるのか予想しがたい傾向にもよっています。

主要小説以外の、あまり知られていない中短編小説や小品にも、 それぞれ独自の味わいやユーモアがあり、 ドストエフスキーの小説群の多彩さや意外な面を知ることができます。
しばしば小説の舞台となっているペテルブルグの街の描写やその幻想的な場面の味わいも、 なかなかのものがあります。
 
文学作品に対してはその本文の各「表現」に関心のある私としては、 作中にしばしば現れるドストエフスキーの「語りや表現」の「したたかさ、手慣れた(時に、荒削りな)うまさ」 には、感心しています。

ドストエフスキーの小説の中の各会話は、しばしば非常に長くて、 その小説全体の語り手や各登場人物がひとたび熱中して語り出すと、読み手も、 その饒舌(じょうぜつ)に辟易(へきえき)しつつも、思わず引き込まれ熱中してしまいます。

青年期を中心に、自意識過剰で社交界ではその振る舞いや言動がぎこちなく、 時に奇矯(ききょう)であったされるドストエフスキーですが、 氏の語りのうまさ・自在さというものは、日頃においても、相当なレベルに達していたと思われます。
『罪と罰』の老婆殺害シーンにおける各表現である、
(斧はちょうど脳天にあたって、)彼女はきゃっと叫んだが、ごく弱々しい声だった。」
「ふいに床の上へ
ぐたぐたとくずおれた。」
「血は
コップをぶちまけたようにほとばしり出た。」
「恐怖は刻々に強く彼を
つかんだ。」
(殺害後、よりによって、来客があり、)ベルのブリキめいた音が響くやいなや、彼はふいに、部屋の中でだれかが身じろぎしたような気がした。」
(以上、米川正夫訳)
などの簡潔なしたたかさ(時に、戦慄的な表現)は、何度読んでも、ほんとに、舌を巻く思いです。
同じく『罪と罰』で、
風雨で川の水かさが増した夜にスビドリガイロフが見た夢の中に出てくる少女が話すカタコト言葉である、
「母ちゃんがぶちゅんだもの。」
(茶碗を)こわちた。」
(以上、米川正夫訳)
や、そのあとの、
不意に、少女の長い黒い睫毛(まつげ)がひくひくッとふるえて、すこしもちあがり、 その下からずるそうな、きらッと光る、何か子供らしくない目がのぞいて、パチッと ウインクしたような気がした。(工藤精一郎訳)
といった箇所なども、
その表現(日本語訳語)には、じつにおもしろいものがあります。
他の小説でも、そういった堂にいった巧みな、ハッとする表現は、数多く挙げることができます。

ドストエフスキーの小説の文章(原文のロシア語の文章)は相当な「悪文」であると、日本の翻訳家によっても、しばしば評されていますが、日本語訳文を読んで、私たち日本人には、そういった面はほとんど感じられません。
翻訳者の名訳ぶりや日本語訳語の味わいにもよっていると思いますが、ドストエフスキーの書く文章は、日本語訳に適した文章なのかもしれません。

他の作家に比べて少ないとされる都会派作家ドストエフスキーの自然描写、場面の背景描写も、必要とされる場面に現れるその筆致 、たとえば、『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の章の
「一日も過ぎて、暗く暑い、『死せるがごときセヴィリヤの夜』が訪れた。
空気は『かつら()とレモンの香ににおって』いる。
深い闇の中に、とつぜん牢屋の鉄の戸があいて、老いたる大審問官が手にあかりを持って、 しずしずと牢屋の中へはいってきた。」
(米川正夫訳)
などには、他の文学作品からの引用も見られるとは言え、侮(あなど)れないものがあります。
 
近年出版された江川卓氏の「謎ときシリーズ」(新潮選書)は、ドストエフスキーの小説の中の各々の名称や表現の、秘められた多義性を指摘し紹介したものとして、 表現に関するドストエフスキーの凝り性、ドストエフスキーの文学表現の多層性ということを、世間のドストエフスキーマニアに改めて、知らしめました。


各登場人物の魅力ということが、挙げられます。

ある登場人物が初めて登場してくる際には、ドストエフスキーは、きまって、 その登場人物の外貌や癖などを軽く描写しますが、
そのデッサンふうの描写、たとえば、
『カラマーゾフの兄弟』のドミートリイの外貌の描写(新潮文庫上巻のp126511行目)
『悪霊』のスタヴローギンの外貌の描写
(新潮文庫上巻のp631519行目)
などは、 鮮やかな職人芸というべきものであり、実に印象的であり、その人物の性格や内面までも暗示させた、きわめて慎重になされたものであることに読者は気付きます。
癖毛(くせげ)がどうしてもなおらず、いつも頭髪の一部がぴーんと立っているシャートフ(『悪霊』)
耳が長く大きく先が不揃いにとんがっているシガリョフ(『悪霊』)
など、登場人物のキャラクター作りもなかなかのものです。

ドストエフスキーの小説には、世間から悪評を受け自らもそのように振る舞っている登場人物が、 時に、秘めた「心・考え」の「清らかさ・高さ」を示す珠玉の言葉を吐露するシーン があって、読者はハッとして心打たれることがありますが、
これなども、ドストエフスキーの小説の大きな魅力です。
これは、各登場人物に対して、また、善性を必ず内に秘めている人間というものに対して、 ドストエフスキーがこまやかな同情や愛情や信頼を向けているからでしょう。

主人公の大半が青年であるという点も、若い読者を引きつける点になっていますが、 勝ち気な婦人や娘、子供たち、しがない初老の男を描くのも実にうまいのは、周知の通りです。

また、ドストエフスキーの各小説に脇役として登場してくる道化役たちが周囲に振りまく滑稽さ・ユーモアというのも味わいがあり、ドストエフスキーの小説では、脇役までが実にうまく描かれていると言えます。

現代日本の代表的なドストエフスキー研究家である中村健之介氏も次のように語っています。
ドストエフスキーの文学世界にはおもしろいことがそれこそ山ほどあって、おいそれとは語りつくせるものではないのだが、 かれの小説を読みさえすればだれでも楽しめるものは何かといえば、それはまず登場人物だろう。ドストエフスキーの作品を論じた評論や研究が、 しばしば、登場人物論であるのはもっともなことである。 かれの文学の魅力は何よりもまずその作中人物から発している。」
(
中村健之介著『知られざるドストエフスキー』のp3より。)


小説というものは、息抜きとして、気軽に読めるという面も要求されると思いますが、 私としては、 ドストエフスキーの作品が孕(はら)んでいる思想性や宗教性も大きな魅力なのです。

ドストエフスキーの小説ほど、「人間や人生やこの世界」に関するいろんな根本的な諸問題を、 真正面から、あるいは、択一という形で、読者に突きつけ、 「人間や人生やこの世界」について深く考えさせてくれる小説群は、古今の小説史上、あまり見当たりません。
ドストエフスキーは様々なテーマを個性的な登場人物の性格やそのストーリーに上手く含ませていくわけですが、人間や人生やこの世界の深淵(しんえん)を不意にかいま見せるような、 登場人物たちの何気ない会話の設定も、これまた、すばらしいものがあります。

そして、ドストエフスキーの世界のさらにありがたい点は、ドストエフスキーは、作中で、
・人間というものの、獣性・残酷な悪魔性・情欲・嫉妬心・罪悪性・歪(ゆが)められた性格
神が支配しているはずのこの社会やこの世の、悲惨で非合理な現実
を読者に繰り返し突きつけつつも、登場人物や読者をそういった世界にそのまま無情に突き放してしまうことなく、一方で、各作品の中には、
・その突破口としての光明や救いの可能性
・それらを体現するやさしさや親しみや善意志にあふれる善なる登場人物たち
が必ず用意されている
という点です。

ドストエフスキーは、人間にとっての「苦悩」の価値を認め、「苦悩」をむしろ愛した人間でしたから、各登場人物と一体化していく読者は、小説を気軽に楽しむどころか、 登場人物たちと心痛ましく苦悩を共にしていくことになるわけですが、
それと共に、作中に現れてくるその救いを暗示する光明を一方に見い出し、それに照らされて、 その結果、悲劇の舞台劇を観た後のように、その苦悩が少なからず浄化されていく(カタルシスされていく)経験をしたり、
罪ある人間というものに対する、同情・寛容な精神
生やこの世に対する愛や感謝の念
というものを自己の内に形成させられていくことになります。

ドストエフスキーの小説の場合、その「光明や救い」の内容には、具体的には、 キリスト教(ロシア正教)的な教えや発想が多分に含まれるわけですが、私は、ドストエフスキーの世界の中に、そういった宗教的な教説とともに、 善悪・聖俗・有神論無神論など、あらゆるものを止揚(しよう)し、共々包み込むような、 広い「愛・ゆるし」の世界を感じてきました。


難解さや謎を多く秘めたドストエフスキーの「文学・思想」 に関して後世の作家・思想家・読者たちが語る「ドストエフスキーの文学・思想」論を読み聞くということも、私の楽しみの一つです。

多彩な壮観さを呈する古今東西のドストエフスキー論には、 それがドストエフスキーの作風やドストエフスキーという人間に対して批判的なものであっても、 各論者の個性、さらには、ドストエフスキーから与えられた謎や課題と真摯(しんし)に取り組んだ論者の苦闘や生きざままでもが表れていて、感動的であり、いろいろ考えさせられます。
 
今後も積み重ねられていく古今東西のドストエフスキー論の総体は、 ドストエフスキー文学にまさるともおとらぬ人類の精神的遺産になっていくだろうと思われます。

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