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山路龍天氏の言葉。( 『悪霊』について )
     〔山路龍天・筆「『悪霊』ノート ――スタヴローギンをめぐる図像論的分析の試み」(『ドストエフスキーの
      現在』(江川卓・亀山郁夫共編。JCA出版1985年初版。)に所収。p5)

『悪霊』という、表題からして恐ろしい、ドストエフスキーの「不安な途轍もない作品」のなかでもとりわけ不安にみちた小説は、スタヴローギンが舞台の前面に踊り出るや、それまでのステパン氏とワルワーラ夫人との牽引確執相半ばするサロン喜劇から、急転直下にほとんどの登場人物の破滅へと突進する。巻末の奈落は死屍累累、自殺・他殺・横死あるいは病死をひっくるめ、十一才の少女と生れたばかりの嬰児を含めて、十一人の名のある屍を数える。有象無象の悪霊たちが跳梁する運命の夜の魔宴は、ボッシュの地獄絵図にも似て、対岸の大火災を背景に荒れ狂った。この不安このうえない雰囲気、この猛烈な墜落の速度に匹敵するのは、ひとりシェークスピアの『マクベス』あるのみの感がふかい。


        〔語注〕
          ・「不安な途轍もない作品」  △小林秀雄が用いた表現。
          ・牽引確執=互いの駆け引きやもめ事。
          ・死屍累累=死体が数多く重なり合うさま。
          ・嬰児=赤ん坊。  ・屍=死体。
          ・有象無象の=この世の有形無形のあらゆる。
          ・跳梁する=わがもの顔に走り回る。
          ・ボッシュ(ボッス)=欧州のフランドル(現在のオランダ・ベルギー地方)の画家。1450頃〜1516
                      自由奔放な想像力で、妖怪や地獄、人間の欠陥を風刺する題材を描いた。
                      代表作として、「聖アントニウスの誘惑」「十字架をになうキリスト」など。
          ・対岸の大火災  △『悪霊』第3部第2章の3における町の大火のこと。
          ・ひとり=ただ一つ。
          ・『マクベス』=シェークスピアの四大悲劇の一つ。

    ※、山路龍天(やまじ・1940〜。)は、プルーストなど、フランス文学の研究家。 現在、同志社大学言語文化教育研究センター教授。
      上の箇所は、『悪霊』の雰囲気や後半における内容の一気のすさまじい進行について、たくみに述べた文章であり、その表現ぶりには大いに感心しました。  
      上の文章のような、語感やイメージ(比喩)やリズムにすぐれた表現を用いた名調子の文章を読むのは、私は大好きです。

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5.
清水孝純氏の論。( 『悪霊』『未成年』の論 )
     〔 清水孝純著『道化の風景―ドストエフスキーを読む』(九州大学出版会1994年初版。)p192p193より。〕  

『悪霊』という作品において、ドストエフスキーは到り着く所まで到り着いたのである。それは黙示録的作品であり、全篇(=全編)を貫いて流れるのは、毒々しい風刺とシニシズム(=物事に対する冷笑的な態度。)である。これほど、ドストエフスキーが、悪のかたちを、凡(あら)ゆる面から徹底的に描き切った作品はないのであって、そこでは、希望は、最後に、やっと、その曙光(しょこう)を暗澹(あんたん)たる天の一角にのぞかせるに過ぎないのである。いわばここで、仏教的にいえば往相(おうそう。=行く姿。)が極(きわ)まるといえるだろう。
一方『未成年』は、それまでの全作品の間題性を、未成年という若々しい魂の鋳型に流し込んで、その過去を、混沌たる情熱の坩堝(るつぼ)の中で、その未来性にむけて点検した作品なのである。それは、真の還相(かんそう。=たち戻っていく姿。)の積極的な肯定に立脚してはいないが、しかし、全体は、『悪霊』の結末にほの見えた曙光の、ほのぼのとした光で照らされている。そこでは、『悪霊』でみられた毒々しさは影を潜(ひそ)めている。
風刺は、一般的に、対象に対して、感情移入を遮断したところに成り立つ。従って、『悪霊』における中性的な語り手の設定は、風刺を成立させるのに適したものであったかもしれない。それに反して、『未成年』のような手法自体は、風刺性を持ちにくいのであり、その点でもドストエフスキーの現実への対し方の変化が窺(うかが)われる。    
   ※、清水孝純(たかよし。1930〜。)氏は、元九州大学教授。現在、福岡大学教授。   http://www.coara.or.jp/~dost/BT-2.gif  



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梅原猛氏の論。( 『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』の論 )
   〔『心の危機を救え―日本の教育が教えないもの』(光文社199510月刊)p117p118より。〕 
                            
 私はふたたびここでドストエフスキーを思い出す。ドストエフスキーはこのように言った。「長い間、人類は形は違っても神というものを信じてきた。それが宗教であるが、その宗教によって道徳は形成されたのである。しかし現在人間は宗教を信じない。人間が宗教への信仰を失ったとすれば、宗教によって養われてきた道徳も失われるのではないか」 これがドストエフスキーのはなはだ深刻な問いであり、この深刻な問いによって彼は『カラマーゾフの兄弟』という小説を書いた。『カラマーゾフの兄弟』の主人公の一人であるイワン・カラマーゾフは、神を信じず、そして神を信じないとしたら、あらゆることが許される、罪のうちでもっとも重大な罪である親殺しすら許されると考えたのである。この親殺しはイワンの思想に深い影響を受けた下男スメルジャコフによって実行され、イワンの父フョードル・カラマーゾフは殺されるのである。スメルジャコフは、じつはフョードル・カラマーゾフと女乞食の間にできた子どもであり、スメルジャコフは、イワンの思想に基づいて父殺しを実際に行なったのである。この宗教がなくなったとすれば、道徳もまたなくなるのではないかという問いは、じつに深刻な問いである。それは百パーセント肯定されないとしても、人間が宗教心を失うことによって、道徳心もまた失われやすいというのは明らかなことである。近代ヨーロッパにおける最大の哲学者であるイマニュエル・カントはキリスト教の信仰から道徳を解放し、その道徳心に最高の価値を付与しようとした。そして、これが有名な 「汝(なんじ)自身および他人の人格をけっして単に手段としてではなく、同時に目的として取り扱え」というはなはだ厳格な人格主義の道徳となって、結晶するのである。しかしカントのように道徳を宗教の規範から引き離して独立せしめ、それに最高の価値を与えることができるかどうか。これはむずかしい問題である。カントと違って「人間は宗教を失って、一日一日殺人獣になっていく」というのがドストエフスキーの考えである。ドストエフスキーはそこでロシア正教に帰るよりしかたがないと考えるのであるが、はたして近代人が古い宗教に帰ることができるかどうかもまた疑問なのである。
   
 ※、梅原猛氏は、日本の古代史研究家・哲学者・劇作家。現在は、国際日本ペンクラブ会長。若い時期からドストエフスキーの文学
    に親しんできた人でもある。上の書は、その年に起こった「地下鉄サリン事件」を取り上げつつ、日本の戦後教育の在り方を問
    うた梅原氏渾身の警世の書。事件がオウム教団幹部らによるものであることが明らかになっていく中で、なぜ彼らが無差別大量
    殺人未遂行為を行うことになったのかという原因の一連の考察において、梅原氏が言及しているのが、上の記述である。同書の
    p204p206では、同じ趣旨として、「ドストエフスキーは、宗教がなくなったら道徳もなくなるのではないか、という不安を感
    じて、そういう問題を『悪霊』や『カラマーゾフの兄弟』で問うたのである。」
と述べている。また、同年の62日付けの朝日
    新聞朝刊で、「地下鉄サリン事件」や「オウム真理教」の立場を論じつつ、「近代社会は宗教を失うことによって道徳を失い、
    人間はまさに知的な野獣になったというドストエフスキーの警告は正しい。」
と、梅原氏は同じ趣旨を繰り返されている。

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