34.
五木寛之原卓也の対談より。〔新潮社版全集の発刊記念の際に編まれたパンフ『ドストエフスキー読本』に所収の、
                 両氏の対談「なぜドストエフスキーか」より。1978年。〕

   原:それで思い出したんですけど、何年か前、ドストエフスキー生誕百五十年(注:1971)の時に、
     僕らが五木さんに講演を依頼しましたね。
  五木:ありました。読売ホールで。
   原:あの時に、とても面白いことを五木さんが言われた、最後にね……
  五木:演題が「流行作家としてのドストエフスキー」だった。
   原:そうそう。その時に「これからは明るく楽しいドストエフスキーを読みましょう」と言ったのが、
      非常に記憶に残っているんです。
  五木:まあ、半ば冗談ですがね。ドストエフスキーという時に、作品からくるイメージよりも、
      彼の写真とか肖像画の絵のイメージが、一般の読者には先に来る面がある。
      それがどれも髭(ひげ)をはやして、頬(ほお)がこけて、いかにも予言者という感じでしょう。ところが
      若い頃のドストエフスキーっていうのは、丸顔でちょっと額(ひたい)が禿()げたような感じで、
      どこか剽軽(ひょうきん)な人に見えるんですよ。ああいうドストエフスキーもいたんだ
      ということを切り捨ててしまうと、晩年の深刻な面だけを見てしまうことになる

   原:僕は、それは大事な指摘だと思いますよ。つまり、予言者の面だけを問題にして、もう一つの面が忘れられてしまう。
      丸谷才一(注:作家)さんが、前に短い文章でそのことに関連して……
  五木:言ってますね。ドストエフスキーのユーモア、僕はそういうものが好きだと。
      中野重治(注:作家)さんも、やはりそういう意味のことを書いておられた。

        ―途中、略―

  五木:なるほど。
   原:ところが、
そうした腹を抱えて笑うドストエフスキーの作品
           
 (注:中期の『伯父様の夢』『スチェパンチコヴォ村とその住人』などの小説のこと。)
      というのは、日本の読者の中では比較的軽く見られているのではないかという気がしますね。
  五木:全然ないというふうに思っていいんじゃないですか。

        ―途中、略―

    原:あ、なるほど。
   五木:とにかくドストエフスキーぬきにして現在のあらゆる文学も哲学も語れない、というさなかにありながら、
      
ドストエフスキーの愛すべき本当の読者は、どんどん減っていると思います。ドストエフスキーは
      おそらく、髪の毛もあれば、肉も皮膚もあり、髭(ひげ)もある存在だと思うんだけども、ミイラか標本教室
      の骨みたいに、思想的骨格だけが語られているんです。
    原:愛読する人より、論じる人が多くなりすぎた
   五木:ドストエフスキーは、もっと素直に読んでみる必要があるなあ。
                            〔「意見・情報」交換ボードの[97810]に書き込んだ分〕

★五木寛之(ひろゆき。1932〜。)氏は作家。原 卓也(19302004)氏は、ロシア文学者・ドストエフスキーの小説の翻訳家。   http://www.coara.or.jp/~dost/BT-2.gif
     


35. 中村真一郎著『小説入門 ― 人生を楽しくする本』(光文社カッパブックス。1962年初版)の中の
  「『白痴』はユーモア小説」より。

ドストエフスキーは、人物たちの変人ぶりを書きながら、そのおかしさを笑っています。ところが、きまじめな読者は、それを大まじめで読んでいるので、そのおかしさがわからないのです。ですから、ドストエフスキーを読まれるかたは、ぜひ、あれは、ユーモア小説のような要素も、それから、センチメンタルな要素も強いものだというふうに思って、気を楽にしてお読みになるのがよろしいのではないかと思います。〔「意見・情報」交換ボードの[97914]に書き込んだ分〕

★中村 真一郎氏は作家・文芸評論家。

上の中村氏の指摘は、我々ドストエフスキーの小説の読者が、頭に置いておくべき事柄かもしれない、と思いました。
        


36. 江川 卓訳『罪と罰』(旺文社文庫。1966年初版。二冊。)の下巻の「解説」(筆・江川卓)より。

日本ではドストエフスキーの作品がどうも深刻に受けとられすぎているように思う。彼の思想や心理的分析がきわめて深刻なものであることは疑いないところだし、そういう読み方のできる作家であることはまちがいないのだが、ただその深刻さが形而上(けいじじょう)的、哲学的にだけ一面的にとらえられてしまうと、とんだ誤解を招きかねないということだ。
先年、あるロシア人文学者と話しあったとき、話がたまたまドストエフスキーのことにおよんで、日本では彼の作品がベストセラー級の売れ行きを示していると話したことがある。と、そのロシア人はちょっと小首(こくび)をかしげて、皮肉な調子で聞き返した。
「ほう!それはすばらしい! でも、日本人の一般読者にそんなにドストエフスキーがわかるのですかね?」
私は日本の読者が早くから欧米文学の洗礼を受けており、その鑑賞力はきわめて高いこと、そこでドストエフスキーの作品に提起されているいわば全人類的な問題を自分自身の問題として受けとめることができるのだ、といったことを説明した。だがロシア人は、やはり皮肉な微笑を消さなかった。
「ほう!日本人はドストエフスキーを哲学的に読んでいる!? これは発見だ! 
 私たちはもっと文学的にドストエフスキーを読みますがね
話していくうちに、このロシア人がドストエフスキーについて抱いているイメージは、われわれのものにくらべてはるかに形而下(けいじか)的であり、現実的であることがわかった。たとえば『罪と罰』のイメージも、まずペテルブルグ(現在のレニングラード)の下町のイメージとだぶって浮かんでくる。ラスコーリニコフの病的な夢想や独得の哲学も、その町によって生み出されたもの、つまり、形而上的な作者の思弁からではなく、現実の極限的な表現の一形態としてとらえられているのだ。そこでペテルブルグ(ペテルブルグにかぎらずロシア)の現実生活の実感をもたない日本人にドストエフスキーがわかってたまるか、という皮肉も出てきたらしい。私はこのロシア人ほどドストエフスキーを割りきって考えることはできない。彼の後期の作品、たとえば『カラマーゾフの兄弟』などには、まさしく思想と思想との格闘といった一面があるように思われる。しかし同時に、私はこのロシア人から、日本のドストエフスキー愛好者のひとつの盲点を衝()かれたようにも感じた。彼の作品はけっして宙に浮かんだ何かではない。それは彼を生んだ風士と時代にあまりにも深く根をおろしている。その根を見つめないかぎり、ほんとうにドストエフスキーを理解したことにはならないのではないか。 ―以下、省略―

  ★江川 卓(たく。1927)氏は、ドストエフスキー文学の翻訳・研究家。元・中京大学教授。   http://www.coara.or.jp/~dost/BT-2.gif
        


37. 小林秀雄・筆「未成年」の独創性について」(新訂「小林秀雄秀雄全集」第6巻に所収)p17p18より。
        ※旧仮名遣い・旧表記は、現代表記に改めました。

言葉に現れるものよりも内部に残っている方がずっと多い(注:『未成年』の中の言葉)――ドストエフスキイはこの事実を、片時も忘れなかった作家である。いや、この平凡な事実がどれほど人間相互の間に奇怪な関係をもたらしているかを比類のない感受性で追求した作家であった。およそ彼ほど哲学とか思想とかを好んだ小説家はない。彼の作品ほど思想の重荷を負った小説はない。しかも、全作品中、抽象的思索あるいは常識的思想の片鱗(へんりん)すら見出すことは出来ない。全作品に盛られた無数の議論はすべて彼のいわゆる「内部に残っている方」を振り返り振り返り語られている。いつもそれを語る人物と内部的な連繋(れんけい)がある。思想は常に各人の思想でありしかも各人の各状態各瞬間の思想である。一と口(ひとくち)で言えば彼の創造した諸人物は思想の極度の相対性の上に生きている。例(たと)えば「カラマアゾフの兄弟」中の「大審問官」でイヴァンがアリョオシャに語る長々しい抽象論など、あれがいわゆる議論とならず、眼前にアリョオシャと言う人物を感じている、やや取り乱したイヴァンという男の生()まの言葉としている作家の繊細な手腕を見よ。この点ドストエフスキイは誠(まこと)に傍若無人なリアリストであった。なるほど単純に考えれば、こういうことは彼が単に何をおいてもまず小説家であったということを証明するに過ぎないと言えるのだが、それは軽薄な考えで、彼ほど人間と思想との問題に深く突き入った作家は、彼以前にもなかったし、彼以後にもないという点が大切なのだ。人間たちが思想によって生き死にする有様(ありさま)を、彼ほど明瞭に描いた作家はない。人間は思想に捉(とら)えられた時にはじめて真に具体的に生き、思想は人間に捉えられた時に真に現実的な姿を現すということを彼ほど大胆率直に信じた小説家はないのである。どの面をとり上げてもいい、諸人物は思想のように普遍化されて生き、思想は肉体のように個別化されて生きている一種悽愴(せいそう)(=ひどく痛ましい)リアリティを感ずるであろう。

  ※小林秀雄(19021983)氏は、文芸・美術評論家。  http://www.coara.or.jp/~dost/BT-2.gif

上で小林氏が指摘しているように、思想をいだいている各登場人物には各々の思想が肉化されていて、彼らはその思想を生きている、という点は、ドストエフスキーの小説の大きな特徴であるように思います。
ドストエフスキー研究家の中村健之介氏も、
ドストエフスキーは、作中人物の性質と観念とを見事に結合させる。性質と観念の「相性」を的確にかぎつけるドストエフスキーの嗅覚(きゅうかく)は、きわめて鋭敏である。(『ドストエフスキー人物事典』より)
と述べています。