(せっ) (しょう) (かい)    44

皆様お変わりございませんか、はや四月、桜の季節になりました、

 境内の桜もみごとに咲いています、懸命に咲いている桜、またその桜の花の散る時の美しさ

花見にいかれて、桜を手折って帰る方がいます、一寸寂しく感じます、桜の枝を切ると、その枝の根元から枯れるそうですね、花の木が可愛そうな気がします、殺生です、

殺生といえば、このごろ殺生な事件が新聞を、賑わさしています、簡単に人を殺す、いやですね、幼女誘拐、殺害事件、このような記事を見るたびに、生命(いのち)の尊さを考えてしまいます、

「なぜ人の生命(いのち)を殺してはならないのですか、」と質問すると、「そんなこと常識だ」と言って、取り合わない人がいます、

ここで私たちは、改めて、単純なようで「明確な答」を出しにくい質問を、考えてみる必要が

あると思われます,

『生命は大切なもの』と言う答に誰も異論をさしはさむ人はいないでしょう、言うまでも無く私達一人一人の生命(せいめい)の誕生までにわ、何代も、何百年、何千年という、生命の無限の連続があったのです、また、それぞれの時代に、めぐり会いの不思議な縁があったからこそ、私達がこの世に生を与えられているのです。

その、与えられた生命(いのち)の中で、誰でも、自分ほど可愛いものはない、自分こそ、一番、自分にとって可愛いものだと考えていると、お釈迦様は述べられました。

そして「自分が、一番大切なものを、(いと)しんでいるように、他人も、その他人の大切なものをい愛しんでいるのだから、決して、他人の大切なものを侵害してはならない」と説かれたのです、

(ぼん)(もう)(きょう)』という、お経の中でも、生きとし生けるもの生命(いのち)を殺したり、殺そうと思ったり、殺すことを誰かに頼んだりする、殺生(せっしょう)を禁じることを、いの一番に説かれているのです、    そして、これを犯した者には、重圧極まりない報いがあると、されています。

犠牲になった、少年少女の冥福を祈ると同時に、改めて、私たち生命(いのち)の重みを考えること

これは、一つの供養にもつながるのです。