11月30日(日)

 目を覚まして時計を見たら、午前7時だった。
 (今ならまだ間に合う。明日、研究室に行くまでに元に戻っていればいいのだ。でも、やっぱりやめようか? ・・・・待ってるだろうな、山本のやつ。どうしよう?)
 迷った挙げ句、午前7時半、ぼくは錠剤を口にした。

 女に変身したのに、ぼくはまだ迷っていた。コーヒーを飲みながら、部屋の中を熊のようにうろうろする。
 11時になった。山本の笑顔を思い出す。
 (ええい。取って食われる訳じゃない。いくらなんでも最初からホテルに誘ったりはしないだろう。もし、そんなことになったら、断れば済むことだ。何時間か付き合ってやればいいのだ。よし、決めた)
 新しい下着を身につけて、ワンピースを着る。バンビに向かう途中、ショッピングセンターに寄って、あまり高くないヒールの靴を買って履き替えた。ふと、店の中を歩いている女性の足元に目がいった。
 (パンスト。そうだよ。女はパンスト穿かないとな)
 引き返してパンストを一足買った。
 (山本のために物いりだなあ。止めとけば良かった)
 支払いするときに、そう思った。しかし、使ったお金はもう戻ってはこない。トイレに入ってパンストを穿いた。
 (ええい!ものはついでだ)
 化粧コーナーに行って、入念に化粧を施して貰った。今日は断り切れなくて、あまり高くないファウンデーションを買わされた。
 (山本に請求してやろうかな?)
 そんなことなど出来ないけれど、心の中でそう思う。

 バンビに着いた時、午後1時を少し回っていた。ドアを開けて中に入っていくと、山本がそれこそ嬉しそうな顔をして、ぼくに向かって手を挙げた。
 「やあ、美樹さん。来てくれないかと思ったよ」
 「約束してたから」
 ついさっきまで迷ったなどとは言えない。それに、山本の笑顔を見たら、今日1日は迷いを捨てて、女として付き合ってやろうと決めていた。
 「コーヒーで良いだろう? ここのコーヒーは最高なんだ。マスターのブレンドは素晴らしいよ」
 「いいわよ」
 「マスター。コーヒー、1杯追加ね」
 「コーヒー追加ね。毎度あり」
 「今日は綺麗に化粧してるんだね」
 「いつもはぜんぜんしないんだけど、さっき化粧品売場の前を通りかかったら、販売員に捕まっちゃって」
 (こんな小さな嘘くらい入ってもいいよね)
 「綺麗だよ」
 笑顔を向けられて、ずきんと心がざわめいた。
 「ありがとう」
 「化粧してない君も素敵だけど。そのワンピースも似合ってるよ」
 「うまいのね。お世辞が」
 「本心からさ。この前から言ってるだろう?」
 「黒沢明監督の羅生門って見たことがある?」
 「この前テレビでやってたね」
 「ひとは、決して他人に本心を明かさないで、自分の都合のいいようにしか言わないってことが描かれていたと思うんだけど、どう?」
 「ぼくが君を手に入れるために、心にもないことを言っているというのかい?」
 「そうじゃないの?」
 「疑ったらきりがないさ。相手を心から信じる。それしかない。ぼくは君の言うことをすべて疑いなく信じるよ。騙されるなんて決して思わない。それが恋というものだよ」
 見事な切り返しだ。ぼくの言うことを疑いもなくすべて信じると言われて、ぐらぐらっと来た。
 「ほんとに、ほんとにわたしが好きなの?」
 「何度も言っているだろう?」
 「わたしの何処が良いの?」
 「すべてさ、なんて言ったら、却って疑われるだろうけど、それしか言いようがないなあ。言い換えれば、フィーリングだと思うよ。このひとしかいないって言う」
 「おととい、会ったばかりなのに?」
 「時間は関係ないよ」
 山本は好きだ。気が合う。そばにいて疲れない。だけど、それは同性だからこそ言えることだ。今、目の前にいる山本に対して、同じような感情はあるけれど、ぼくは今は女だ。ぼくも好きだなんてとても言えない。
 「考えさせて。時間が欲しいわ」
 山本の真剣な眼差しに、そう答えざるを得なかった。
 「いいよ。いつまでも待つよ」
 「話題を変えましょうよ。楽しく行きましょう」
 「そうだね」
 それからぼくと山本は、3時間あまり、取り留めのない話をした。以前見た映画の話やコンピューターの話題。コンピューターに関して山本はかなり詳しいのには驚かされた。

 その間、山本はコーヒーを2回お代わりし、ぼくは紅茶とチョコレートパフェを注文した。
 チョコレートパフェなんて、男だったら気恥ずかしくて、とても食べられない。だから、女になったついでに一度食べてみたかったのだ。コーヒーも美味しかったけど、このチョコレートパフェは、絶品だった。これを食べるためだけに女に変身してもいいなと思うくらいだった。
 (女に変身したい理由がまた増えた。山本に会うために女に変身したいなんて事にならなければいいけど・・・・。馬鹿、馬鹿、そんなことになるはずがないじゃないか)
 「安くて美味しい居酒屋があるんだ、付き合ってくれないかい?」
 「わたし、アルコールには強いわよ」
 「酔わせてどうかしようなんて思ってないよ。君の方からその気になってくれるまで待つって言ったろう?」
 「ごめん。信用するわ。ほんとはわたし、アルコール弱いの」
 「じゃあ、酔わせてものにしよう」
 「馬鹿!」
 山本の口調から冗談だとわかっていた。
 「冗談だよ。行ってくれるんだろう?」
 「今更断れないわね。これから夕食作るのも面倒くさいし」
 「じゃあ、行こうか。マスター、お愛想して」
 「わたしの分、いくら?」
 「君は出さなくて良いよ。ぼくがデートの無理に誘ったんだから、ぼくが払う。当然だろう?」
 そうきっぱり言われては、言い返す言葉がない。
 (あの時は、仁美とデーとしたときはどうすれば良かったんだろうか? お金がなくたって、男のぼくが支払うと言うべきだったのだろうか?)

 連れて行かれた居酒屋は、バンビから歩いて5分くらいの裏通りにあった。目立たない場所にあるのに、お客が多いのにビックリした。
 刺身に焼き魚、貝のバター焼きなど、とても美味しかった。ふたりでビールを1本だけ飲んだ。ぼくは半分のビールでほろ酔い加減だ。
 支払いはやはり山本がした。ぼくに有無を言わせなかった。男はこれくらいでなければいけないんだなあと今更ながら反省する。
 店を出たのは午後9時前だった。当て所もなく、ふたりで歩く。山本の手がぼくの肩を抱いている。ぼくも少し酔ったせいか、自制心が薄れて、山本の腰に手を回して、もたれ掛かって歩く。
 「あんまり遅くなったらいけないね。送っていくよ」
 山本のそんな言葉に少し安心した。このままだと、誘われたらホテルでもどこでも行ってしまいそうだったからだ。
 送って貰いたいのはやまやまだ。だけど、そうして貰うわけにはいかない。そんなことをしたら、ぼくがぼくだってことがばれてしまうからだ。
 「いいわよ。一人で帰れるから」
 そう言ったのに、山本はぼくから離れようとしない。
 「夜道は危ないから、君を危ない目に遭わせたくないよ」
 (困ったなあ。断るわけにもいかないし、かと言って、住所は知られたくないし)
 そんな気持ちのせいか、アパートと反対方向へと進んでいく。

 あれっと思ったら、雨がぽつりぽつりと落ちてきた。暗いから気がつかなかったけど、空はどんよりと曇っていた。
 「あれえ。天気予報じゃ、降らないと言ってたのに」
 「濡れるよ。走ろう」
 慌てて駆け出したけれど、ぽつぽつどころか、土砂降りになってきた。
 「ここでしばらく休んでいこう」
 手を引かれて入ったのは、ラブホテルだった。近くに喫茶店でもあればいいのに、他に雨宿りするような所はなかった。周りにはラブホテルしかなかったのだ。
 (山本は雨が降り出すのを知っていて、他に雨宿りの場所のない所へ連れてきたのだろうか?)
 そんな疑惑が頭を持ち上げる。それにしても、まるで小説の中のような進行具合だ。雨宿りしたラブホテルで二人は結ばれる。
 (とんでもないよ!)
 ホテルの一室に入ったが、山本に背を向けてベッドに腰掛けた。
 (山本に迫られたらどうしよう)
 胸がどきどきする。はち切れそうだ。

 突然、山本が立ち上がってぼくの方に歩み寄ってきた。
 「ここまで来て、君もそのつもりだったんだろう?」
 山本らしくない下卑た笑みを浮かべた。
 「そんなことないわ。あなたが無理矢理ここに連れ込んだのよ」
 「いいじゃないか」
 「いやよ、止めて!」

 ふと気がつく。山本はまだ、ベッドの向こうに腰掛けている。ぼくの妄想だった。ぼくは潜在意識の中で山本が迫ってくることを期待しているのだろうか?
 「風邪引くよ。服脱いで、熱いシャワーを浴びたら?」
 「初めからここに連れ込むつもりだったんでしょう?」
 「そんなことないってば。君がこちらに歩いてきたんだよ。ぼくは君のうちがこちらにあるのかと思って」
 そう言われれば、そうかもしれない。こんなところにラブホテルがあるなんて知らなかったのだ。ぼくは言葉を失った。黙って床の絨毯を見つめる。雨に濡れた体が冷えて寒くなってきた。
 「・・・・シャワー、浴びるわ。見ないでね」
 「分かっているよ」
 衣服を脱いで、シャワーを浴び始める。また、どきどきし始めた。裸の山本が入ってくるのではないかとちょっと心配になった。しかし心配することはなかった。山本はテレビのスイッチを入れて見始めたようだ。ほっとする。熱いシャワーを浴びながら、立場が逆転したような錯覚を覚える。ぼくがベッドに座っていて、裸の女がシャワーを浴びている。そんな錯覚を。
 体を拭いて出ようとしたが、服はまだ乾いていない。バスタオルを体に巻き付けて、ベッドのそばに戻った。
 「あなたも浴びたら?」
 「そうする。寒くなってきたよ。ところで、風呂上がりの君は、一段と可愛いね」
 「馬鹿! 早く向こうへ行って!」
 山本はシャワールームへと消えていった。
 (どうすれば良いんだろう? 外はまだ雨が降っている。ワンピースはおろか、下着もまだ乾いていない。困ったなあ。山本はどう思っているんだろうか? チャンス到来と思っているのだろうか?)
 そんなことを思っていると山本が腰にバスタオルを巻いて出てきた。痩せているのに結構筋肉質だ。
 「それ以上、近寄らないでね」
 「分かった、分かった」
 山本は冷蔵庫からコーラを取り出して、ぼくと反対側のベッドの端に腰掛けて飲み始めた。
 「わたしにも頂戴」
 「いいよ」
 そう言って、山本はぼくのそばに座り直して、自分の飲んでいたコーラの缶をぼくに手渡した。山本のそばをすぐに離れるべきだったのに、金縛りにあったように立ち上がれなかった。
 コーラを飲むぼくを山本はじっと見ている。山本の真剣な眼差し。ぼくは再び山本の魔法にかかってしまった。山本がぼくの肩を抱いてキスするのを拒絶できなかった。長いキスのあと、山本の手がぼくのバスタオルにかかったが、ぼくは抵抗しなかった。ぼくは山本が好きだし、今は山本を受け入れられる筈だから良いじゃないか。そんな気分になっていた。ぼくはまだ酔いから醒めていない。いや、居酒屋を出たときからこうなることを期待していたのかもしれない。
 ベッドの上に横になって天井のシャンデリアをぼんやりと眺めながら、山本の手が、唇が、舌がぼくの体をはい回るのを心地よく感じていた。
 山本がぼくの中に入ってきたとき、ビックリすると同時に、信じられない面もちだった。もちろん、女になったときにぼくの体に腟があることくらいは確かめていたから、女としてセックスできるとは思っていたけれど、実際にできるなんて思ってもみなかった。