「頑張ってね」
「あ、ああ」
今日のプレゼンテーション用の書類を入れた鞄をぶら下げて、ドアのノブに手をかけた。マンションを出ていくのがこんなに怖いと思ったことはなかった。行きたくないようー。心の中でそう叫んでいた。
「ほら、もっと胸を張って、男らしく!」
男らしくって言ったって・・・・。ぼくは今は女だよ、とも反論できない。
「・・・・分かってるよ」
呟くようにそう答え、菜穂子に追い出されるようにして部屋を出た。廊下には人影はない。ぼくは、キョロキョロ見回しながら、ゴキブリのようにこそこそと廊下の端を歩いて、階段を降りていった。
誰にも会わなかった。ホッとして通りに出ようとしたとき、大家のおばさんとバッタリ出会った。挨拶しないわけにはいかない。
「お早うございます」
ぼくはできる限り低い声で挨拶した。
「ああ、お早うございます。今日もいい天気ですね」
「はあ、そうですね」
「あなた・・・・。ああ、杉本さんのご主人ね。お仕事頑張ってくださいね」
「ありがとうございます。じゃあ、行ってきます」
「はい、はい。行ってらっしゃい」
ふうと安堵の溜息が出た。杉本さんのご主人ねと言った。と言うことは、ぼくは男に見える、大丈夫と言うことだ。そう思いながら、通りをバス停に向かって歩いて行ったが、ふと大家のおばさんは、目が悪かったことを思い出した。来月白内障の手術を受けると言っていたのだ。そうか、ぼくのことがよく見えなかったんだ。そのことが分かって、再び急に不安が押し寄せてきた。
辺りを見回しながら、バス停へ向かった。子どもの頃、千春という名前を知られないかといつもビクビクしていたことを思い出す。そう思いながら、知られたっていいんだ。名前なんてどうでもいいんだと気がついてから、堂々としていられるようになったことを思い出した。
ビクビクする必要なんてないんだ。ぼくは男だ。堂々としていれば、誰も気がつかない。・・・・はずだ。
バス停には、サラリーマン風の男、OLらしい女、数人の女子高生、幼稚園の子どもを連れた若い女などがバスを待っていた。
「お姉ちゃん、どこ行くの?」
ぼくのそばに立っていた幼稚園児の女の子がぼくのズボンを引っ張ってぼくに聞く。あちゃあ、ばれてたよ。さすがに子どもは鋭い。困ったなあ。ぼくは、身を固くして、黙って立っていた。
「これ、小百合。知らない人に声をかけちゃ、だめでしょう」
母親らしい若い女が、幼稚園児をぼくから少し離れた場所へ連れていった。ぼくはホッとした。
後ろで女子高生たちが囁く声が聞こえてきた。
「ねえ、あのひと。男? 女?」
「男じゃないの? 男物のスーツ着てるもの」
「そうかなあ。女の人に見えるけど」
「そう言えば、そうかなあ」
「どっちでもいいけど、格好いいわね。すらっとしていて」
「そうね。でも、男だったら、ちょっとあれっぽくない?」
女子高生の方を振り返って見なかったけれど、恐らくオカマじゃないかというようなジェスチャーをしているのだと想像できた。
「きゃははははー」
甲高い笑い声が響き渡った。ああ、女の笑い声なんて嫌いだ。やだ、やだ。早くバスが来ないかなあ。
それから3分後、バスがやってきた。女子高生たちは乗ってこなかった。ちょっと安心した。
椅子はもうみんな占領されていて座れない。いつものことだし、20分程度だから、吊革にぶら下がって我慢することにする。市の中心部に向かうに連れて、バスが混んできた。
あと5分で降りるバス停に着くという頃、ぼくのお尻を触るやつがいる。何て事だ。ぼくを女だと思って、痴漢行為をしているのだ。ぼくは手を回して、そいつの手の甲に爪を立ててやった。顔を顰めたのは、斜め後ろに立っていた中年の男だった。
撃退したのもつかの間、今度は反対側のお尻を撫でられていた。ぼくは、また爪を立ててやった。
「何するんだよ」
痴漢を働いていたのに、男は怒りだした。こっちの方が頭にきてるんだ!!
「男のお尻を触りたかったら、ゲイバーでも行ったら」
その男を睨み付けて、そう言ってやった。男は、ビックリしたような顔で、次の停留所で降りていった。
まわりにいた人たちに、頭のてっぺんから足の先まで何度も見つめられてしまった。あんなことを言ったのに、ぼくはとても男には見えないなと言うような視線だ。
やめてくれエエエエ。
バスがぼくの降りる停留所に着いた。ぼくは、逃げ出すようにバスを降りた。もうバスになんて乗りたくないようー。
会社まで急ぎ足で歩いて行く。一緒にバスを降りた人たちが、ぼくを指さしてオカマだ、オカマだと言っているような妄想を抱く。やだ、やだ、やだあああ。
やっぱり休めばよかったよ。しかし、今日のプレゼンテーションは、ぼくしかできないし・・・・。ああ、もう! どうしてこんな事になっちまったんだ!!
会社の玄関を通りすぎ、何も見ずにまっすぐエレベーターへ向かった。
「杉本さん、お早うございます」
受付嬢の沢田知加子が声をかけてきた。ぼくは、片手をあげただけで、沢田嬢の方は振り返らず、丁度扉の開いたエレベーターへ飛び込んだ。だんだん憂鬱になってくる。
5階で降りて、情報管理部の部屋の扉を少し開ける。もうみんな来ている。中に入ろうかと躊躇ったあと、思いついて、部屋のすぐ前にある小会議室の中へ入って、沢口部長に電話した。
「はい。沢口です」
部長が出た。ぼくは声を低くして話した。
「部長。杉本です」
「杉本? 声がおかしいが、どうかしたか?」
「ちょっと風邪で」
ゴホゴホと二度ほど咳払いをし、声をさらに低くして喋る。
「そうか。もうすぐプレゼンの時間だぞ。どこにいるんだ」
「小会議室です」
「小会議室? どうしてそんなところにいるんだ。打ち合わせをするから、すぐにこっちへ来い」
「それが、ちょっと・・・・」
「ちょっと、なんなんだ!」
最初はいつもの口調だったが、次第にいらいらした口調に変わっていくのが分かる。
「すみません。大変なことが起こってしまって・・・・」
「大変なこと!? まさか、今日、プレゼンテーションできないなんて事は言わないだろうな」
「い、いえ、そうじゃないんです。ちょっと問題が・・・・」
「問題? 何が問題なんだ!」
「あのう。それが・・・・」
「とにかくこっちへ来い! 電話じゃ、埒があかん」
部長は爆発寸前だ。
「部長。何も聞かずに、小会議室へ来て貰えませんか? お願いです」
「わしが行くのか?」
部長の不機嫌さがひしひしと伝わってくる。
「はい。申し訳ありませんが・・・・」
「どういう理由だ?」
「訳はこちらへ来ていただければ分かります。お願いします」
ぼくは、ほとんど泣き出しそうな声になっていた。
「しょうがないな。行ってやる」
ガチャンと乱暴に電話が切れた。あああ、部長の機嫌を完全に損ねてしまった。だけど、仕方ないよなあ。
すぐに小会議室のドアが乱暴に開けられた。
「いったい、どういうつもりだ!」
そう言いながら部屋の中へ入ってきたのに、部長は首を傾げて不思議そうな顔をした。
「杉本君か?」
「は、はい」
沢口部長は、バスの乗客たちと同じように、ぼくの頭のてっぺんから足の先まで何度も見た。
「ほんとに杉本君なのか?」
「ぼくです。杉本です」
部長は首を傾げた。
「まあ、いい。それで、大変なこととは何なんだ?」
「ぼくを見て気がついたでしょう?」
「・・・・そうだな」
そう言ったまま、部長は言いよどんだ。
「ぼく、おかしくないですか?」
「うん。・・・・いつもの杉本君と違うなと思った」
「そうなんです。いつものぼくと違うんです」
「違うって、何が違うんだ?」
「もう分かってるんでしょう?」
「・・・・イヤに女っぽいなと思ってるんだが・・・・」
やっぱり気付いていた。見てすぐに気が付くようでは、誰もが気が付くはずだ。こうなったら、正直に打ち明けるしかない。打ち明けなければ、このまま仕事を続けていけないだろう。
「部長。昨日の夜は、ぼく、ちゃんと菜穂子と寝たんです」
「おかしなことを言うな、君は。夫婦だから一緒に寝るのは当たり前だろう」
「ただ寝たって言う意味じゃなくて、あのう・・・・」
「分かった。皆まで言わなくても分かる。しかし、そんなことを言うためにわたしを呼んだのかね? 杉本君」
「い、いえ。そう言うつもりじゃなくてですね」
「じゃあ、どういうつもりだ?」
「昨日の夜は、ちゃんとした男だったんですけど・・・・」
部長は、ぼくが何を言い出すのか興味津々という顔をしている。
「今朝、目が醒めたら、ぼく・・・・」
「目が醒めたら?」
「女になっていたんです」
「ははっ! 何の冗談を!!」
部長は、怒ったような顔をして部屋を出ていこうとした。
「部長! 待ってください。ほんとなんです。冗談なんかじゃないんです」
「杉本君が、今日は妙に女っぽいと言うことは認めよう。しかし、女になってしまった? 馬鹿も休み休み言いなさい。そんなことが起こるわけがないじゃないか!」
「自分でも信じられないんです。でも、実際に起こってしまったんです」
「証拠は? 証拠を見せたまえ」
「・・・・証拠・・・・ですか?」
「そうだ。そんな奇想天外なこと、信じてくれって言う方が間違ってるよ。確たる証拠でもあれば、信じてやらんことはない」
「確たる証拠と言っても・・・・」
「証拠がなければなあ」
「ぼくに裸になれって言うんですか?」
「まあ、そうして貰えれば、確実だが」
「胸はサラシを巻いてますから、すぐには・・・・」
「ペニスがなくなったって言うのか?」
ぼくは真っ赤になった。
「ほんとなのか?」
「・・・・はい」
「嘘だろう。まさかそんなことが・・・・」
見せるのは恥ずかしいし、かといって、言葉だけでは信じて貰えそうもない。
「あのう、部長」
「なんだ?」
「上からなら、触ってみてもいいです。そしたら、ないのが分かりますから」
「そんな趣味はない!」
沢口部長は憮然として言う。
「だけど、そうしないと信じて貰えないんでしょう?」
「あとで、わたしがホモだなんて言いふらしたりはしないだろうな?」
「そんなことはしませんよ。ぼくが女になってしまったことを信じてもらうためですから」
「分かった。じゃあ、ちょっと触らせてもらおう」
部長は、誰もいないのが分かっているのに、部屋の中をキョロキョロと見回してから、ぼくの股間をズボンの上から触った。
「ほんとに・・・・ない!」
部長は目をぱちくりさせて驚きの表情を見せた。
「信じて貰えました?」
「ちょ、ちょっと待て。もう一度触らせてくれ」
ぼくは躊躇った。しかし、触って貰うしかない。
「・・・・もう一度だけですよ」
部長はもう一度ぼくの股間を撫でるように、まるで愛撫するように触った。
「・・・・間違いない。ホントに付いてない。しかし、どうして・・・・」
「ぼくにも分からないんです。今朝起きたら、こうなっていて・・・・」
「今朝起きたら女になっていた!?」
「はい。そうなんです」
「うーん、そうか。・・・・困ったな」
「今日のプレゼンテーション、誰かに替わってもらうことはできないでしょうね」
「君が調査したことだからねえ。交代と言われて、すぐに代わりのできる人間はいないだろうな」
「じゃあ、どうしたら」
「別に問題ないだろう。君のことは、今日、プレゼンテーションする重役たちは知らないだろうから」
「そんなこと言っても・・・・」
「大丈夫だよ。いつも通りやりたまえ。うまくいけば次期課長なんだからな」
「は、はい」
「まだ時間はある。ちょっと資料を点検しておこう」
「お願いします」
ほんとにこのままプレゼンテーションに行っていいのだろうか? 一抹の不安を抱えながら、ぼくは部長の点検を受けた。
30分後、ぼくは社内の部長以上の重役を前に、プレゼンテーションを行っていた。勿論、声は極力低くして。
「今回のマーケットリサーチの寄りますと、CPUのスピードよりも、いかに使いやすく、多くのソフトがバンドルされているかと言うことがパソコン選びの大きな動機のひとつに・・・・しかし、ある程度熟練したユーザーからは、必要のないソフトも多いという批判も多く見受けられます。・・・・」
プレゼンテーションは無事終わった。ぼくは、ホッと溜息をついて椅子に座った。
「なかなか上手かったよ。これで、君も次は課長だ」
部長がぼくの耳元でそう囁いた。
「それでは、杉本千春君のリサーチに従って、時期戦略を決定することにする。みなさん、異議はないかね」
「異議なし」
「異議なし」
重役たちは一斉に賛意を表した。
「それではその線で。あとは企画部にやってもらうことにする。じゃあ、解散だ」
重役たちはぞろぞろと部屋を出ていった。ぼくも部屋を出ていこうとすると、部長に呼び止められた。
「社長が、呼んでるぞ。お褒めの言葉がありそうだ」
「お褒めの言葉ですか?」
「そうだ。こんなことは滅多にないことだぞ」
ぼくは、かしこまって社長の前へ進んだ。
「杉本君と言ったかね。なかなかいいプレゼンテーションだった。女性にしておくのは勿体ないな」
一瞬ぼくは言葉に詰まった。それになんて言いぐさだ。女性にしておくのは勿体ない? 女性を馬鹿にしてないか?
「あのう。ぼくは・・・・」
「無理に男の格好はせんでもいいよ。うちは男女平等が徹底されているのは知ってるだろう?」
男女平等はいいけど、女性にしておくのは勿体ないと言った言葉と矛盾しないか?
「あ、はい」
「女性は、女性らしくした方がいいよ。君のような美人が、そんな格好をしていたら、台無しだよ」
「はあ・・・・」
「じゃあ、ご苦労さん」
社長がぼくの肩をポンと叩いた。
「あのう。社長・・・・」
ぼくは男ですと言いたかったが、今は立派な女だ。どう説明していいか迷っている間に社長は大会議室を出て行ってしまった。
「部長。ぼくは女だと思われてしまいましたよ」
「君は女なんだろう?」
「今は女ですけど、元に戻ったら・・・・」
「戻らない方がいいような気がするな」
「どうしてですか?」
「今の君なら、きっと社長に気に入られる。そしたら、課長どころか、すぐにわたしを追い越してしまうかもしれんよ」
「そんな・・・・」
止めてくれよと言いたかった。社長は、気に入った女子社員を秘書にして、金に物を言わせて愛人にするという噂が、イヤ噂じゃない、ほんとの話しがあるのだ。
「あの噂。部長も知ってるんでしょう?」
「ああ、知ってるさ」
アッケラカンとして、部長は言った。
「ぼくは結婚しているんですよ」
「女同士で結婚が成り立つのか?」
そんなこと、考える余裕もなかったから、考えてもみなかった。
「・・・・でも、現実に結婚してるんですから」
「男なら、出世を優先した方がいいと思うが」
「ぼくは、今は男じゃありません」
部長は肩を竦めた。
「出世に興味はないと?」
「・・・・そんなことはありませんが」
「結婚にしたままでもいいじゃないか。別に減るもんじゃなし」
ぼくはそんな部長の意見に腹が立った。今は女のぼくに、体を武器にして、出世しろと言っているようなものだからだ。
「女を武器にして、出世しろとおっしゃるんですか! 部長がそんな人だとは知りませんでした」
ぼくは部長を睨み付けた。
「あ、いや。言い方が悪かった。君が女として頑張ってくれればと言いたかったんだ」
言い訳がましく、部長はそう言ったが、本心はぼくの指摘したとおりのようだ。はらわたが煮えくり返った。
「ぼくは元に戻ります。元に戻って、男で勝負します!!」
そう啖呵を切って大会議室を出た。