『サンデー毎日』2月14日号より

サンデー時評 大分県が輝いて見える

岩見隆夫


 快挙の主の手が小さいのにびっくりした。千代大海新大関。『スポーツニッポン』
に載った手形に重ね合わせてみたら、私の指のほうが二センチほど長かった。

 四十年余の記者歴のなかで、握手した折りに手が大きくて驚かされたことが三度あ
った。野村克也阪神タイガース監督、池田大作創価学会名誉会長、中西啓介元防衛庁
長官。肉も厚く、こちらの手が吸い込まれそうになったのを覚えている。

「大手を振って.....」
 というのは、両手を振りながら威張って歩くことで、大きな手を意味していないが
、とにかく手もカリスマ性の一部だな、と思ったりもした。

 だが、千代大海はあのきゃしゃな手でどでかいことをやってのけた。勝負師にとっ
て、手の大小なんかあんまり関係ないのだ。不況の日本列島が、どんでん返しの優勝
に沸きに沸き、その瞬間だけは憂さを忘れた。

 ツッパリ出身のあれこれなど、このヒーロー情報がたちまち全国を駆けめぐり、大
関に昇進の日、東京の都心で拾ったタクシーの運転手さんは、
「彼のお母さんがね、『いっしょに死のう』と言ったこともあるんですよ」

 とどこかのマスコミで仕入れた話を得意げに耳打ちした。情報洪水のなかで、いい
なあ、と感じ入ったのは、母親の美恵さんが、
「三日に一回警察に呼ばれたこともある不良少年だったが、自分からけんかをふっか
けることは決してなかった。盗みもしなかったし、他人に大けがをさせることもなか
ったので、普段の行動については放任していた」

 と中学時代を振り返った言葉だった。さほどほめられる話ではないが、それを胸を
張ってしゃべることができた美恵さんは幸せ者だし、しゃべらせた千代大海は本当に
すばらしいお母さん孝行をした。

 胸のすく快挙の余韻がまだ残っている。そして、出身地の大分県が輝いて見えてく
るから面白い。千代大海が学んだ大分市立碩田中学の「碩田」は古くはオオキタと読
み、それが転訛して「大分」になった、と『豊後風土記』にある。

 大分というところは、時々、人々をあっと言わせる。一九九四年夏、大分出身の社
会党委員長、村山富市さんが首相に担ぎあげられた。これも千代大海の快勝と同じで
、信じがたいようなことが突然、起きたのだった。

「つとまるかな」
 と当時はだれもが疑いの目を向けたが、首相のイスにいったん座ると、次第にいい
雰囲気になっていった。自民党閣僚の野中広務自治相とか亀井静香運輸相とか荒くれ
の武闘派が、
「自民党の首相よりはるかに立派ですよ」
 と人柄にほれ込み、強大にガードしたのだから恐れ入る。

 大分市内の村山さんの自宅が、あまりにも老朽化し、傾きかけているために名所に
なり、観光バスが寄った。ある日、私も所用のついでに見物に及んだが、玄関(とい
ってもガラガラの障子戸)をあけて入り見上げると、戦前の木造家屋だから、裸電線
が天井をはっていた。

「これが首相の実家か.......」
 と、名状しがたい感動があった。

 あとから聞いた話だが、四年前の阪神・淡路大震災の時、村山首相夫人は一人で現
地にすっ飛んでいったという。マスコミにも、気づかなく、報じられることはなかっ
たが、村山夫妻にはパフォーマンスじみたものが皆目なかった。

 村山さんは地味で一本筋が通っていた、と思う。大分県人の典型なのだろう。大分
空港から別府に向かう途中に、城下かれいを食べさせる名物料理屋がある。以前、そ
こに立ち寄った時に、
「大味必淡
 大音必稀」
 という文句を教わった。おいしい味は必ず淡泊で、いい音色は必ずかすか、という
意味だという。

 「一村一品運動」を提唱して名を馳せたアイデア知事の平松守彦さんは、この文句
が大変気に入っていると聞いた。平松さんはムラおこし先進県としての地位を不動の
ものにし、この四月の統一地方選では六選をめざす。「一品」という発想が淡泊で好
ましく、大分らしい。

 相撲の話に戻すと、大分県出身には、元横綱の双葉山がいる。三十年前、五十六歳
で亡くなったが、この巨大な存在だけはいまもだれの記憶のなかにもある。だが、双
葉山は決して派手な力士ではなかった。

 千代大海は三歳の時、父と死別しているが、双葉山も十歳で母を失い祖母に育てら
れた。境遇が似ている。二人の違いは、双葉山には肉体的なハンディがあった。

 小学校にあがる前の六歳の時、だれが吹いたかわからない吹き矢が右眼に当たり、
失明した。しかし、長い現役中、それを知るものはなく、一人でひそかに障害を克服
したのである。のちに時津風定次を名乗り、日本相撲協会理事長に就任してから『私
の履歴書』のなかで、次のように記した。

<これ(失明)は相撲に生きるものとして、明らかにハンディキャップである。それ
だけに私は、勝負に際して、できるだけ目に頼らぬように心掛け、右眼の影響が自分
の相撲にあらわれぬよう工夫した。体で相手の動きを感じとり、体で相手のすきをつ
かむようにした。そのゆえに、また人一倍修練をつんだつもりである。

 こういう心掛けと努力は、結果的にきわめて有益だった。目で見ず、体で見ず、心
で見るというぐあいで、私の相撲の技術を熟させてくれた。つまり、逆説的な表現を
すれば、右眼が悪かったから、私の相撲が強くなれたということになりそうである。>

 双葉山が死去した時の『毎日新聞』の見出しのなかに、
「不滅の偉業、69連勝」
とある。一九三六(昭和十一)年の一月場所(前頭三枚目)から三九年一月場所まで
、三年にわたって六十九連勝の偉業を成し遂げた。この連勝中に、三六年に関脇から
大関、三七年横綱に昇進、戦雲たなびくころではあったが、満天下の人気を独占した
。この間に、優勝十二回、全勝優勝八回の快記録を残している。

 双葉山、村山さん、平松さんら大分人にご登場願いながら、千代大海の晴れの大関
昇進を祝いたい気持ちが、私にはしきりにした。ただの痛快事というだけではなく、
「大分」というしっかりした、地味な土地柄の勝利でもあるよう思えたからである。

 大分県おめでとう。