関塾タイムス・特別企画
二十一世紀を担う君たちへ

平松守彦氏 1998.4 関塾タイムス

大分県知事
平松守彦氏に聞く

「継続は力」。挫折や失敗を乗り越えて努力し続ければ、必ずむくわれる時がくる。

「一村一品運動」をはじめとするユニークな活動で、全国にその名を知らしめた大分県。数々の斬新なアイデアを打ち出し、地域づくりの先頭に立ってこられたのが、平松守彦知事です。地域を担う人づくりにも力を注がれ、就任から19年の時を経た今もなお、大分発のプロジェクトに精力的に取り組まれています。そのパワーにあやかるべく、直撃インタビューさせていただきました。

母の死に奮起し、病弱を克服
 子どもの頃はたいへん体が弱い、いわゆる<虚弱児>で、よく風邪をひいては学校を休んでいました。母親からも、「よい成績よりも、まず皆勤賞をもらいなさい」と言われていたほどです。ところが、いつも私の体を気づかい、あれこれ心を配っていてくれていたその母が。中二の時に突然亡くなってしまったのです。これからは自分でがんばらなきゃいけないんだと思った私は、剣道部に入って鍛錬に励みました。そして中学の五年間を無欠席で通したのでした。
皆勤賞を墓前に掲げたときは、生きていたらどんなに喜んでくれただろうと、涙が止まりませんでした。
 同時に、がんばればできないこともできるようになるという自信は、その後の人生に非常に励みになりました。その意味では、母の死が、私の人生の最初の転機であったといえるかもしれません。今こうして元気でいられるもの、母が天国から見守ってくれているんだと思っています。

父の残した「継続は力」という言葉
 また、私は父にも大きな影響を受けてきました。父は別府の出身でしたが、広島の師範学校を出て、名古屋で教師として勤めていました。しかし教頭の時に妻、つまり私の母の実家に頼まれて、大分に戻り家業の帽子製造卸商を継ぐことに。まったくの畑違いの仕事でしたが、やがて商売は軌道に乗ったようです。
 となると、やはり教育への夢が捨て切れなかったのでしょう。ちょうど私が生まれた年に、私財を投じて大分市内に夜間中学を創立したのです。昼間に働いている人たちに勉強を教えるという、今の定時制のはしりでした。父自らも、昼間は帽子商経営し、夜は教壇に立ちました。
 働きながら学ぶのは、相当にたいへんなことです。父は常々、「入学時は百人いた生徒も三年後の卒業時には二、三十人になっている。しかし眠い目をこすりながらも努力を続け、きちんと卒業できた人は必ず世の中の役に立つ」と言ったいたものです。
 そして、ここに校訓掲げられていたのが「継続は力なり」という言葉でした。学校は戦災で焼失するまで二一年間続いたのですが、今でも卒業生は「継続会」という会をつくり、集まっています。中には市役所で要職についている人もいれば、弁護士になった人もいます。今でもそんな父の元教え子の方たちは、「『継続は力』と励ましてもらって勉強を続け、学校を出たことがどのくらい自分の力になったかわからない」と話してくれます。

a 入試の失敗を乗り越えて
 さて、一方、私は中学卒業後は熊本の旧制第五高等学校に進みました。ここは漱石の小説『三四郎』の主人公が通っていた高校でもあります。白線帽をかぶり、太い鼻緒のついた朴歯のげたをはくと、気分はまさに三四郎。戦時中とは言え、自由な校風の中、存分に青春を楽しみました。三年の時には学内自治会の委員長である代表総務となり、何かと忙しく走り回っていました。
 ですが、そうこうしている間にも戦局はいよいよさし迫り、高校三年の授業を半年繰り上げて修了することに。そしてその年の八月、私は東大の法学部受験しました。ところが、もとより勉強していなかったこともあって、結果は不合格。初めての挫折、しかも一緒に受けた親友は合格をもらっていて、この時ばかりは落ち込みましたね。
 そんなある日、普段はあまり話したこともなかった叔父から、一通の手紙が届いたのです。そこには「大学に落ちたことなんか大したことではない。一番恐いのは人生に自信を失うことだ。だから自分を信じ、もう一度勉強してチャレンジしなさい」というメッセージが綴られていました。そんな叔父の言葉に勇気づけられて、戦後、再び東大にチャレンジする力を得たと言っても過言ではありません。この手紙は、今も大切に持っています。
 叔父の言うとおり、挫折など、それをはね返す力さえ持てば恐くありません。だからPTAのみなさんの前でお話しする機会があれば、言うんです。「受験に失敗することより自信を失うことの方が恐い。私もその経験がある」とね。

ムラおこしを実現した「一村一品運動」
 東大卒業後は、東京で通産相の役人生活を二十六年間続けました。思いもかけず当時の大分県知事に請われ、大決断をして副知事として大分県に戻ったのは昭和五十年のこと。実に三十四年ぶりの帰郷で、五十一歳にして、第二の人生を始めたわけです。
 いざ副知事として県内をまわってみると、住民たちから聞かれるのはやれ道路が悪い、福祉がなってない、行政が悪いなどなど、嘆きばかり。しかし、嘆いてばかりでは地域が活性化するはずありません。そこで思い至ったのが、各地で全国に誇られるような特産品をつくったらどうだろうということです。知事になった昭和五十四年、初めて開いた市町村長との話し合いの席上で私はその考えを発表し、「そうしたら私がセールスマンとなって全国に宣伝する」と約束しました。こうして始まったのが「一村一品運動」です。県は呼びかけるだけで補助金は一切出しません。あくまでも自主的な運動でなくては意味がないからです。
 この考えを直接県民に知ってもらおうと、「まちづくり懇談会−知事とふるさとを語ろう」を開いて地域を精力的に歩き回ったり、県提供のテレビ番組を市町村に無料で開放し、ふるさとの一品を自慢する自主制作番組を始めたりもしました。こうした活動を続けているうちに、徐々にヒット商品が生まれ、手応えが出始めました。自分たちが一生懸命やれば全国に有名になり、地域に誇りがもてることを実感してもらえるようになったのです。そしてこの運動は全国的にも有名になり、日本新語・流行語大賞の特別功労賞までいただきました。

地域づくりは「人づくり」
 大分県の「一村一品運動」は、単なるものづくりではありません。それを支え、育てていくのは地域の人々です。私は、この運動をきっかけににて、地域をより活性化させていくためには、人間を育てることが大切であると考えました。
 そこで、思い出したのが父のやっていた夜間中学です。昼間働いている人たちが夜に集まり、自分たちの地域をいかに活性化するかということを勉強する場をつくったらどうだろうか−そんな発想から、「豊の国づくり塾」が生まれました。
 ここには、教科書もなければ専門の先生もいません。講師には、焼酎を作って日本一になった人や、湯布院の町づくりをした人など、実践活動で何かを成しとげた人を呼んできます。二年間の課程の中で、誰の話が聞きたいか、何をやりたいか、すべて塾生自身で決めるのです。
 初めて十五年になりますが、これまでに千人以上の卒塾生を送り出しています。その顔ぶれは、サラリーマンもいれば先生も、農協の職員も主婦も、、と実に豊かです。

継続の力はなり あらためて感じる「継続の力」
 そして、ここの塾訓として掲げているのが「継続は力なり」です。何かを成そうとする時には必ず挫折もある、失敗もある。でもそこでやめたら自分たちの地域づくりはできない、ということを説いているつもりです。
 私自身、地域行政にたずさわり、しみじみ実感するのは、地域づくりの道ははてしなく、なかなか完成には至らないということ。しかし「継続の力」で、毎日毎日同じこと繰り返しやっていくことが、やがてひとつの力になる。そのことだけは、固く信じています。これは父が私に残してくれた、一番好きな言葉ですから。
 日常生活でも、「継続」を実践していることがあるんですよ。それは毎朝、三十分間歩くこと。知事になってからも休むことなく、雨が降っても土曜も日曜も関係なく歩き続けています。ずっと元気でいられるのも、この健康法を続けているおかげと思っています。

学び続けることが、財産になる
 それからもうひとつ、好きな言葉にゲーテの『ファウスト』に出てくる「努力すればむくわれる」があります。これを読んだのは学生時代ですが、本当の意味が分かったのはつい最近のことです。「継続の力」にも通じるのですが、自分がこうと信じる道を見つけたら、決して努力することをやめてはいけない。いくら効果があがららいように思えても、続けていたら必ずむくわれる日がくるということです。
 いつも県庁の新人職員を迎えるときには、訓示として必ずこれを言います。いくら仕事をまじめにやっていてもその時の状況や上司との関係で認められないこともある。反対に、適当にやっていて認められるような人もいるかもしれない。でも、そこでくさっていてはいけない。まじめにやっていれば、神様は見ていてくれます。バカ正直であることをやめてはいけないと思うのです。
 こうして、何十年も前に両親や書物から学んだことが熟成されていくように、いくつになっても、何をしていても、学んだことは人間の一番の財産になります。そしてそんな場をつくっていく、人づくりこそが私の財産でもあります。
 二十一世紀はもう、すぐそこまできています。大分県の未来は、ますます元気です。これからの主役となっていくみなさんも、地域づくりという目的に向かってがんばっているさまざまな人がいることを心の励みに、学ぶこと、努力することを続けてほしいと願っています。

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