第32話
音楽風土考
−新しい地域力の「苗床」−




 シンガーソングライター、イルカさんの唄う「なごり雪」は団魂世代の愛唱歌だ。私も好んで口ずさむ。
   汽車を待つ君の横で僕は 時計を気にしてる 季節はずれの雪が降ってる・・・・・
 大分県臼杵市は「街づくりは待ちづくり」――つまり、古いものの活かし方が分かるまで、ゆっくり待って街づくりをしようとしている。大林宣彦監督はこの発想に共鳴して、大分出身で「なごり雪」の作詞・作曲家伊勢正三さん(元・かぐや姫)と臼杵市を舞台に同名の映画を制作をすることとなった。
 「どう考えても、なごり雪の駅は上野駅です。でも私のイメージは東京駅です。寝台特急『富士』で大分へ帰るイメージ。この歌は大分に生を受け、少年時代を過ごした私の財産なんです」と伊勢さん。
 大林監督は「21世紀の今、迷子になっている人に環境破壊のないふるさとを持つ人の誇り、生きざま、希望を分かってもらいたい」と語る。10月10日でクランクアップ、来春の封切りが待たれる。
 ところで臼杵市は、明治時代、東京音楽学校教授で「早春賦」や「故郷を離るる歌」などの作詞者吉丸一昌(かずまさ)の出身地でもある。
   春は名のみの風の寒さや 谷の鶯歌は思えど ・・・・・
 春を待つ情感をこれ程みずみずしく表現している歌を私は他に知らない。大分市には「早春賦を歌う会」という女性コーラスグループもある。


〈西洋音楽の水脈〉


 たまたま臼杵市の音楽にまつわるトピックスを紹介したが、決して偶然ではない。臼杵には西洋音楽を日本で初めて、豊後府内(現・大分市)で演奏させた大友宗麟の居城があり、彼はこの地でキリスト教に帰依し、教会が建ち、オルガンによるミサが行なわれた。後に九州平定のため、自ら聖十字の旗印の船を仕立て、宮崎の北川下流を居住地とし「ムシカ」(ラテン語で音楽の意)と称した。今日も「無鹿」という地名が残されており、宗麟の西洋音楽への傾倒ぶりが分かる。


中世のムラの雰囲気が漂う田染荘
大分市遊歩公園にある西洋音楽発祥記念像
(1557年、聖週間には聖歌隊ができた)

 その後、宗麟は島津勢と戦い大敗。大友氏は滅亡し、キリスト教は禁教令によって弾圧され、西洋音楽の風土は地を掃った如く見えるが、実はそうではなかった。信者は地下に潜伏し、賛美歌は「歌おらしょ」(ラテン語のオラッィオ。祈りの意)として口承伝承された。密かに「声を和す」ことによって「恐れの気持ち」を和らげ、自らの心を慰め、信仰のエネルギーを持ち続けたのであろう。(竹井成美「南蛮音楽 その光と影」)


<競うように輩出〉


 時代は変わり明治政府成立。文明開化政策のもと西洋音楽が学校教育に取り入れられた際、この地下にもぐった音楽水脈が地表に噴出し、大分から多くの作曲家、音楽家が競うように輩出した。明治36年(1903年)、23歳の若さで大分市で死去した滝廉太郎はドイツ留学前、竹田市の岡城跡をイメージした名曲「荒城の月」を作曲。また英国人の父と日本人を母とした藤原義江は、杵築市で育ち、テナーとして欧米で活躍。大正10年(1921)、ロンドンのホールで「荒城の月」を歌い絶賛される。
 昭和に入るとバリトン歌手中山悌一さん、オペラ歌手立川澄人(清登)、現在活躍中の南こうせつさん、ソプラノ歌手佐藤美枝子さんら多士済々だ。
 園田清秀。明治36年、大分市生まれ。フランスに留学後「絶対音感早期教育」を唱え、4歳の長男高弘さんに音楽教育を実践した。氏はカラヤン指揮のベルリンフィルと共演するなど世界的ピアニストとなる。 昭和60年、園田高弘賞ピアノコンクールを大分市で開催。権威ある審査員によるこのコンクールは現在、アジア地域の若手ピアニストの登竜門として定着し国際的評価が高まっている。



〈アルゲリッチ音楽祭〉


 もう一つ。別府アルゲリッチ音楽祭がある。 アルゼンチン・ブエノスアイレス生まれの世界的ピアニスト、マルタ・アルゲリッチさんが94年、別府市に建設されたビーコンプラザ・フィルハーモニアホール名誉音楽監督に就任。95年、ソロリサイタルが10年ぶりに実現し話題となった。98年韓国出身の世界的指揮者チョン・ミョンフンさんとの共演もあった。別府から世界へ情報発信するこの音楽祭の持つ役割は大きい。
 教会音楽が信仰の力を与えたように、音楽は人に生きる力を与える源のひとつだ。 大分というローカルな場所で、グローバルに評価される2つの音楽祭は、16世紀から大分に育った音楽風土を「苗床」にした新しい地域力として地域再生の起爆剤にもなっている。


(大分県知事 平松守彦)


読売新聞12月21日号より



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