第23話
大 蔵 永 常 の 奇 想
−国産の基をおこさんとならば−



奇想の農学
  春寒の早朝、羽田空港を出発し福岡に向かう。自動車道鳥栖インター経由で日田市に入る。大分県主催「野菜・果樹・花き振興大会」出席のためだ。 道路から杉木立に囲まれた日田盆地が見渡せる。
  日田地域は平野が狭く、寒暖の差が大きい盆地特有の気候のため、果樹の生産が盛んだ。「日田梨」は全国でも有名で、年間出荷額は20億円を超える。
  明和五年(1768年)米麦中心の自給自足型農業から、天候に左右されず、しかも貨幣収入を目指す経営型農業への転換を主張した農学者がここ日田市に生まれた。
  大蔵永常。宮崎安貞(1623〜1697年)、佐藤信淵(1769〜1850年)と並び江戸時代三大農学者と称せられる。高校の日本史教科書で彼の名に触れていないものはないが、その業績となると県民ばかりでなく、ほとんどの人に知られていない。先般、県立先哲史料館で資料集4巻が完結。その生涯と著作の全容がほぼ解明された。
  彼の出生は農家。稲作でなく綿花の栽培が生業であった。綿花は熱帯植物であり、夏期高温の盆地が適地だ。祖父から「農の道は、我が子を育てる愛情をもって励め」と教えられた。また父は職人気質で、ハゼの栽培と製蝋(ろう)をその業とし、彼は家業に精励した。
  幼時より器用で口数が少なく「性沈黙にて奇想あり」と評されている。彼は父親より読書を止め家業に励めといわれ、漢学への途をあきらめ各地を遍歴、農民のための農学に一生を捧げる。いまひとつ彼が、新農業を農家に普及しようとした契機は天明2年(1782年)に始まる飢饉にある。米は40%減収、東北では死人の肉を食する惨状であった。また、亨保の飢饉は、全国的に虫害が発生、大凶作となった。
  凶作に対する備荒貯蓄、除蝗術等の必要性、そして何より根本的には飢饉に左右されない農産品を生産することによって農民所得を安定的に確保する。そのためには米麦に依存せず、現金収入の上がる、うるし・砂糖などの原料を栽培することを農家に薦めよう。当時の常識を打ち破る奇想天外の発想で19歳で日田を出奔、全国行脚の旅に出る。

高付加価値、高技術農業
  すぐれた体格の持ち主で身体は人一倍丈夫な彼は、九州各地を巡り、29歳の時、大阪に向かったが、九州での経路は定かでない。恐らく薩摩(鹿児島地方)に潜入して、藩の秘法であるサトウキビから砂糖を作る手法を学んだと思われる。後年執筆された「甘蔗大成」がそれを証明している。大阪から中国、北陸、東海、関東を訪歴、農業技術、作物を見聞、39冊に上る農書を刊行した。
  晩年、浜松で農業顧問として水野忠邦に仕え、忠邦失脚後は江戸に戻り89歳にて死去。没地、子孫は不明。
「だんご汁」別名「豊後鮑腸」の作り方も絵入りで紹介した著書
 彼の著作は、きわめて平易で農民が読んでも分かりやすく、また、渡辺崋山と親交があったほどで絵心もあり、すべてイラスト入りで救荒食物の作り方、砂糖・蝋精製方法をはじめ農機具の使用方法まで細かに詳述している。
  例えば「日用助食竃(にちようじょしょくかまど)の賑(にぎわ)ひ」では、米不作の時の代用食として「唐茄子飯焚(とうなすめしたき)やう」(かぼちゃ飯)の作り方が紹介され、米1升のところ3、4合は得だと述べている。大分で代用食といわれる「だんご汁」、別名「豊後鮑腸(ほうちょう)」も登場する。「うどん粉をこねばちに入れ、塩水にてこね、人指し指位を両手の内でもみのばし」といった具合だ。(図参照)
 
 また「農具便利論」では「鍬(くわ)は、国々にて3里を隔ずして違ふものなり」として各地の農機具を詳細に描写し、値段表をつけ「もしこれを見て手に入れたいものあれば模写して、ここへ送れ」と現代のカタログのような形で農民に必要な「情報」を紹介している。彼の農民への深い愛情は「雨ニモマケズ/風ニモマケズ」の詩で有名な東北農民の父といわれた宮澤賢治とどこかでつながっているように思える。  だが、この国の人たちの自立と創意工夫による文化の創造からこそ、真の国づくり、地域づくりは始まる。

国産考 − 特産品づくりのノウハウ

大蔵永常像(渡辺崋山画)
=大分県先哲叢書資料集第2巻から=
 厖大な彼の著作の中で圧巻は、何といっても特産品づくりのコツを説いた「国産考」である。(ここで国は藩のこと)
 彼はいう。「それ国産の基(もとい)を發(おこ)さんとならば其亊に熟したる人をかかえ入れて、其者にすべてを任し」モデル的に田畑に新作物を作らせ、うまくゆけば「利にはしる世の中ならば我も我もと夫(それ)にならひて」やるようになる。「終りに一国に広まりて農家の益となる。初めより領主の威光をもって教令してもかえって広まりがたきものなり」。
 行政は口を出さず民主導でやれ、ただし「其の捌口(さばけくち)をよく調べ専らお世話あらせられなば国産とも御益(おんえき)ともなるべし」。行政はマーケットリサーチに精を出せと指摘する。
 今日、特産品づくり、地域づくり、農家所得向上に苦心している関係者にぜひ一読してもらいたい。大蔵農学の今日的意義は大きい。
 彼は孤高の生涯を送り、その足跡も定でない。唯一つ日田市隈二丁目に「大蔵永常先生々誕之地」の碑と、側に梅の老木が残っているだけだ。

(大分県知事 平松守彦)


読売新聞3月16日号より


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