岩波書店 図書 1997/8より

 丸山眞男先生の思い出

            平 松 守 彦



 丸山眞男先生が亡くなられる半月前、平成八(1996)年七月三十一日。真夏日の
午後、東京都新宿区にある東京女子医大消化器センターに療養中の先生を訪ねた。
 特別顧問になっていただいている「大分県先哲叢書編纂審議会」刊行の『矢野龍渓資 料集第一巻』に序文をお願いし、この本が出版されたのでお礼かたがた、久しぶりにお 目にかかる機会を得たのである。
 病室に入り、ベッドの側の椅子を奥様にすすめられ座ると、
 「お元気で活躍のようで……」と、先生特有のハリのある高い声で笑いながら話しか けられる。
 鼻から栄養剤を注入していたためか、しゃべりにくそうな感じで、私が聞きづらくな るのを見て、奥様が分かりやすく言葉を言い直して下さる。

 『矢野龍渓資料集』が完成するまでには九年の歳月がかかった。
 昭和六二(1987)年六月、先生は、大分県出身の筑紫哲也さんの案内で、ごく親 しい数人の方々と、国東半島にある三浦梅園旧宅や、中津市の福沢諭吉旧居、日田市の 広瀬淡窓咸宜園などを訪ねるため来県された。
 戦後、復員し、大学時代「東洋政治思想史」の講義を聴き、依頼、先生に私淑する私 が、我がふるさとに知事としてお迎えするめぐり合わせに深い感懐を覚えた。
 折角の機会でもあり、対談をお願いしたところ、地方分権を日本で初めて説いたのは 福沢諭吉であり、『分権論』(明治十年)という著書があることを教えていただいた。  「大分には諭吉を始め碩学が多い。大きな時代の始まりは、辺境の地から始まる」と 言われ、大分の先人たちの著書を蒐集、顕彰することを私にすすめられた。そして、佐 伯市出身の矢野龍渓(1850―1931)は、明治時代の代表的ジャーナリストであ り、ベストセラーとなった政治小説「経国美談」の著者でもある、是非、叢書に入れて もらいたい、私が序文を書く、とまで言われた。
 大分から帰京されて後は、体調がすぐれず入退院を繰り返し、『龍渓資料集』の序文 を脱稿されたのは平成八年四月で、原稿用紙十六枚。すべてに推敲されたあとがあった。

 「矢野龍渓とはそも何者なのか」に始まる序文掲載の本を差し出し、「矢野龍渓の著 作や業績は、大分県民の間では余り知られておらず、私もこの序文で初めて思想の一端 にふれることが出来、大変勉強になりました」と申し上げると、嬉しそうに分厚い本を 少し痩せた両手で高くかざして読まれた。奥様が「良かったですネ」と語りかけると、 「そうだ。本当にいい本が出来た。矢野龍渓は面白いヨ」と笑われた。皓い歯が印象的 だった。途中で疲れたのか奥様が代わりに本を持たれると、「頁をめくってもいいヨ」 と熱心に読み進まれた。
 久しぶりの再会なので、お聞きしたいことが一杯ある。「福沢は脱亜入欧という言葉 を本当に言ったのでしょうか」
 先生「福沢はこんな言葉を使っていない。だけど、同じ意味のことを言っている。そ れは日本中心の興亜論、アジア観の台頭を恐れ逆説的に言ったものだ。脱亜入欧は福沢 の真意ではない。むしろ誤解されている」
 話の途中、看護婦が入室して脈をとり、薬を差し出す。病室に急迫した異様な空気が 漂っているように思える。
 「あの六月、日出町で食べた城下カレイはおいしかった。家内も一度連れていきたい ネ」
 「是非お願いします。待っています。」
 話が大分訪問のことになると、いかにも楽しそうだ。
 大学時代、私たちの間で読まれたハンス・ケルゼンの「純粋法学」のことに及ぶと、 「ケルゼンはユダヤ人で、ナチス・ドイツ時代のユダヤ人は厳しい境遇にあったんです ヨ」と、やおら窓辺に置いてあった一冊の本をとり私に示す。『アーレントとハイデガー』 (E・エティンガー著、みすず書房)という本で、帯には「十八歳の女子学生と哲学教 授の出会い、そして秘められた恋」とある。早速手帳をとり出して書名を書きとめる。
 「とにかくユダヤ人の思想は難しい」とつぶやかれる。
 御令息も入室され、看護婦の出入りもあり、これ以上の長居はお体にさわると思い万 感の想いをこめてご挨拶申し上げ席を立つ。
 「こんな山奥まで来ていただいてありがとう」と言われる。急遽、武蔵野の自宅から 病院に運びこまれ、遠い病院におられると錯覚されているのだろうか。
 室を出てエレベーターまで来た時、女性秘書の方が「これを先生が読んでいただくよ うにと」と新聞の切り抜きを持ってきてくれる。亡くなられた大塚久雄先生の告別式に 寄せられた弔辞が記載されてあった。

 二週間後の八月十七日深夜。ちょうど『図書』の企画「私の選ぶ文庫本三冊」に福沢 の『文明論之概略』を紹介し、先生の『「文明論之概略」を読む』上中下(岩波新書) のことを執筆しているときに、福岡にいる西日本新聞社の記者より知事公舎に電話が入 り、死去を告げられる。
 思えば七月末、亡くなられる直前の元気な時にお目にかかれたのは、まさに僥倖であ り、最後の訪問者の一人ではなかったか。そして矢野龍渓の序文は絶筆ではなかったか。 『丸山眞男集』第十五巻解説では「本稿が事実上の絶筆となったといってよい」と書か れている。
 八七年大分でお目にかかって以来、私が出す手紙には、必ずと言っていいほど返事を いただいた。
 先生から教わった福沢の『分権論』にヒントを得て、中央政府は、通貨、国防、外交、 地方政府は、教育、福祉、医療など住民に身近な行政と二分化し、日本をブロックに分 けた分権国家、日本合州国(United States of Japan)にしようという構想を述べた 著作『「日本合州国」への道』をお送りしたところ、早速おハガキをいただいた。
     「私は「地方分権」という用語そのものが、本来中央が持っている権限を地     方に委譲するという意味あいをもちますので、かねて問題視しておりました。     ……中央政府を経由しない直接的なグローバリズムの方向はいまや非現実的ど     ころか、ますます切実な意味を帯びるようになりました。いつかお目にかかっ     た折に申し上げた福沢の議論でさえ、現在は不十分です。幕末でさえ、薩・長     などが独自に外交権をもっていたおかげで、幕府は下関戦争や薩英戦争の全責     任をとらないですみ、内心ホッとしたのではないでしょうか」
 地方分権ではなく地方主権で国家体制のありようを考え直すべきというおハガキから、 拙著『私の日本連合国家論』(岩波書店、七月新刊)が生まれることになった。

(ひらまつ もりひこ・大分県知事)