第三章 焼酎を料亭に

焼酎ブームを仕掛ける

 日本中で爆発的なヒット商品になった焼酎。大分産の麦焼酎は、「これが一村一品なんだ」という 象徴的な産品になった。「豊の国づくり塾」や各地のムラおこし夜なべ談義でも必携のもの。焼酎を 片手に議論する姿は、すっかり見なれた光景になった。
 今でこそ、若い人たちが「チューハイ」とか「焼酎のミルク割り」とか、いろいろな呑み方で焼酎 を楽しんでいるが、かつては一日の仕事に疲れはてた肉体労働者が、ガード下の屋台で呑む安物 の酒というイメージであった。終戦直後にはどぶろく、イモ焼酎の時代があり、やがてウイスキーが流 行、水割りが主流になっていった。ブランデーが高級志向に乗り、私自身もブランデーのお湯割りを たしなむようになった。ところが、大分に戻ってからは、いつものようにブランデーを呑んでいると「賛沢だ」と思われ、大分でよく呑まれている焼酎に切り替えた。 「こうやって呑むとおいしいんですよ」
 ある企画会社の女性から焼酎のウンチクを教えてもらったことがある。焼酎とお湯を半々の比率で割って、大分特産のカボスをギュッと絞ってグッと呑む。クセがなく、予想外に呑み口がいい。
 そこで、私は上京のたびに、素焼き瓶の麦焼酎「吉四六」や、「下町のナポレオン」というニックネームがつけられた「いいちこ」を新橋、赤坂の料亭に持ち込み、女将さんに宣伝して歩いた。女将 さんから企業の社長に売り込んでもらおうと思ったからだ。いくらテレビのコマーシャルを流しても、 投資しただけの効果を上げることは難しい。 それよりもロコミの効果が大きい。 ある女性タレントが「痩せるためにウーロン茶を飲んでいます」とテレビで言ったことから、ウーロ ン茶が爆発的に売れたことがある。それと同じことで、有名な会社の社長が「麦焼酎をお湯で割って、カボスを入れて呑むと二日酔いしない」と言ってくれた。「酒を飲むとどうも翌日残るけれど、焼酎は残らない」と言ってくれた人もいる。 体にいい、目覚めにいいということで、焼酎が一気に売れていった。
 そのとき、私は焼酎メーカーの社長にこうお願いした。 「東京の人は飽きやすい。ブームになりかけたからといって、あまりたくさん出回るとすぐ評判を落 としてしまうから、少々すくなめに出してください」
 ハングリー・マーケット(品切れ状態)にすることで、稀少価値を高めていくのだ。 年末になると大分の焼酎がとうとう底を尽き、新橋の高級料亭「金田中」の女将から、「平松さん、 お国の焼酎を少しまわしてくださいよ」と電話がかかってくるようになった。思わず「バンザイ」と 叫びたいほどであった。大分産麦焼酎がとうとう「幻の焼酎」に化けたのである。赤坂のボトルキー プが七〇〇〇円から二万円もするし、銀座では三万円という話も聞いた。 麦焼酎の出荷量はぐんぐん伸びた。それまでの焼酎産地といえば、鹿児島の「白波」に代表される イモ焼酎、宮崎の「雲海」をトップとするそば焼酎、それに熊本の米焼酎。大分産の麦焼酎は、それ ら先発の焼酎先進県を昭和六二年に抜き去り、今や日本一の焼酎生産県に踊り出たのである。 大分の麦焼酎の歴史は古く、二〇〇年前にさかのぼるといわれる。しかし、焼酎ブームに火をけた二階堂酒造が麦焼酎を手がけたのが昭和四九年。三和酒類が「いいちこ」を売り出したのは昭和五四年。いずれもつい最近のことだ。
 五〇年度の大分県全体の焼酎出荷量が七六五キロリットル(本格焼酎課税移出数量推移=熊本・福岡国税局調べ、以下同じ)で、全国シェアのわずか一%にすぎなかった。同じ年、球磨焼酎の産地、熊 本県では五九九四キロリットル。これが五七年度には七二〇四キロリットルと十倍になり、全国シェアが五%に達した。翌五八年度に大分一万五二九三キロリットル、熊本が九九五三キロリットルと一気に逆転。 六二年度には大分六万七〇六〇キロリットル、鹿児島六万四八一九キロリットル、宮崎六万二六一八キロリットルと、それまで日本一だった鹿児島も抜き去ったのである。現在、大分県には焼酎専業メー力が九社、日本酒やワインまでも手がける兼業メー力ーが三一社ある。 無論、麦焼酎が爆発的にヒットしたのはメー力ーの商品開発と販売戦略に負うところが大きい。ここでは、一村一品運動と連動して伸びた三和酒類と二階堂酒造の二社の事例について述べよう

  美空ひばりが愛した焼酎

 美空ひばりさんが亡くなったとき、スポーツ新聞の一つがカラーで大きく「ひばりが最後まで愛し た酒」と、「いいちこ」を取り上げていた。以前、美空さんが「いいちこ」を飲んでいるというのを新聞で見た三和酒類は、美空さんの自宅に「いいちこ」を送った。その後、美空さんから礼状が舞い 込んだ。 「すっかり『いいちこ』のファンになっております」 美空さんからのこの礼状は会社の宝物になっている。「いいちこ」は美空さんの霊前にも捧げられた。
  焼酎は嗜好品だ。米や塩のように生活必需品ではない。 愛してくれる人にだけ喜ばれてほしい。 好き嫌いがあるのは当然のことで、焼酎を十万人の人よりも、十人の人に−スケールメリット (規模が大きいことによって得られる利益)よりもスコープメリット(焦点を絞った利益)」をめざす 三和酒類は、一人ひとりの客を大事にしていく。
 麦焼酎「いいちこ」を生産する三和酒類は全国四万有社の八幡本源の神、宇佐八幡がある宇佐市に ある。 その名の通り、昭和三三年に熊埜御堂、和田、赤松本家の地元三社が合併して出来たもので、翌年に 西酒造が参加した。
 経営陣は赤松重明会長(現名誉全長)、熊埜御堂英二会長(現名誉会長)、和田昇社長(現会長、三和 研究所長)、西太一郎専務(現社長)というシフト。「給料は同じ、役割分担も同じ」という「トロイ カ&ワン方式」を打ち出した。赤松会長が営業担当で、熊埜御堂会長が総務、和田社長が製造、西専 務が営業、宣伝という具合だ。  三和酒類が「いいちこ」の発売を始めたのが昭和五四年。「いいちこ」の誕生そのものが「三和の CI」の歴史であった。
 和田社長は、酒づくりに関してはズブの素人ともいえる社内の営業マンら五人を呼び、この五人に 新商品の開発コンセプトづくりを任せた。ほかの取締役もこの五人に期待をかけた。
 赤松全長は「時代の風」という言葉をよく使う。 「ちょうどアルビン・トフラーの『第三の波』が話題になったときで、それを読むと、これから確実に情報化社会がくるということがわかった。じゃァ、焼酎メーカーはこの情報化社会にどう取り組んでいけばいいのか、といった各論になると、大正生まれにはさっぱりわからん。頭でわかっても、時代の体臭を持っていない。
 そういう人間が理屈で考えても間違いを起こすだけ。ここは今の時代の"風"を嗅いで育った二〇代、 三〇代の人たちの意見を聞こう」 "風"が社内を駆け抜けた。プロジェクトチームの報告は、「とにかく匂いのないものを作ってほしい」 ということであった。当時の焼酎といえば、独特な匂いがあるのが当たり前だった。しかし、これでは若い人たちには受けない。 「透明で匂いのない、マイルドでシンプルな味」
 現在の「いいちこ」の基本コンセプトがここで決まった。研究開発のために鹿児島から杜氏(酒を作る職人)を呼んだが、どうしても「昔ながらの匂いのする焼酎」しかできなかった。代わって開発を 担当することになったのが、当時の工場長・河底伊八郎さん。河底さんも酒づくりにかかわったことはない。機械、電気をいじるのが好きな、根っからの技術屋さんにすぎなかった。
 すでに二階堂酒造が新しい麦焼酎を開発し、評判になっていたときである。三和酒類は「香りのいいもの」を追求した。先発の製品に勝るとも劣らない製品でなければならない。「匂いのない焼酎」 は河底さんの執念から生まれたものであった。  次に販売戦略である。まず、新しい焼酎の商品名を考えた。商品が売れるためには、親しみやすい ネーミングが第一だ。「いいちこ」とは豊前方言で「一番いいもの」という意味だ。
 宇佐のムラおこし運動の一つに「新邪馬台国建設公団」がある。「邪馬台国は宇佐にあり」と主張 する若者たちがグループを結成。自分たちで"総裁"を決め、通産大臣、大蔵大臣といった新邪馬台国建設公団の"閣僚"がそれぞれの仕事を担当する。女王・卑弥呼を選んだり、園遊会全の開催や叙勲の授与式。宇佐をアルファベットで綴ると「USA」となることから、日本各地のミニ独立国の元首を集 めて、「後進国首脳会議USAサミット」を開いたこともある。いわばパロディー、遊びであるが、私は地域を見つめたムラおこし運動として高く評価している。
 その新邪馬台国が自分たちの踊りを考案した。それが「そうちこ囃子」。「そうちこ」とは宇佐の方言で「そうですね」という意味だ。その地方でしか通用しない言葉であるが、言葉にはその地域の 文化がこめられている。「新しい焼酎の名前も、この地方に伝えられていた方言からとろう」
 新邪馬台国の活動が新しい焼酎の名前を決めたようなものだ。ちなみに、現在の西社長は新邪馬台 国建設公団の文部大臣を務めたという。

「下町のナポレオン」−いいちこ

 さて、新しい焼酎の名前は決まったものの、ただ決まりましたというだけではインパクトが弱い。 多額な宣伝費を出せるわけでもない。そこで、宣伝も兼ねて商品名を一般公募した。今でこそネーミ ングの募集はよくある手だが、当時としては非常に珍しいことであった。これが、新聞などのマスコ ミに流れた。 「宇佐の三和酒類が新しい焼酎の名前を募集している。応募しては……」
 広告ではなく一般記事のなかで取り上げてもらった。このときに初めて、宇佐に三和酒類という酒屋があることを知ったという人が多いのではなかろうか。 「いいちこ」という名前は最初から決まっていたわけで、知人が「いいちこ」と書いて応募し、それ が当選した。一種のトリックだったが思わぬ収穫があった。
 別府市に住む看護婦さんから送られてきた葉書に「下町のナポレオン」といラネーミンクがあった。
 もともと焼酎は一流のクラブや料亭で呑まれるものではない。三和酒類も、あくまでも大衆の酒と して、幅広く親しまれることを願って作っている。まさに「下町のナポレオン」が三和酒類のめざす焼酎であった。
 この看護帰さんのアイデアも当選にした。「下町のナポレオンーいいちこ」の名前はこうして生まれた。この葉書も会社の宝物として大事に保管されていると聞く。  早速、マスコミ各社にお知らせを送った。「ネーミングの募集」という新しい手法にマスコミも注目していた。 「新しい焼酎の名前が決まる。下町のナポレオンーいいちこ」 翌日にはデカデカと紙面を飾った。 「してやったり」  バブリシィティを徹底的に利用した作戦が当たった。
 名前が知れると、「だまされたと思って、一度呑んでみようか」というのが消費者心理であろう。 ところが、実際に呑むとこれまでの焼酎とは違う。呑みやすい。「本当に焼酎なの」とびっくりする。 「この次も『いいちこ』を呑もう」ということになる。 「『いいちこ』がうまいよ」
 今度はロコミ効果だ。三和酒類が行った調査で、「いいちこ」の購入動機のトップがこのロコミで あったというのもうなずける。
 都市での販売戦略のために、ポスターを使って売り込みをはかったことは有名だ。「いいちこ」の 販売戦略を手がけたのは日本ベリエールアートセンターの河北秀也氏。河北さんは地元の宇佐市で高 校二、三年を過ごした。三和酒類の幹部のほとんどが高校の先輩であり、河底工場長の義理の弟にあ たる。地下鉄の路線図やマナーポスターで名を馳せていたが、まだまだ若手のときで、実績も乏しかった。三和酒類が河北さんにトータルデザインを任せたのはまったくの偶然でしかない。しかし、一 つの縁が強運をもたらしたのは事実だ。
 依頼を受けた河北さんは徹底的なマーケティング・リサーチを行った。その結果、ターゲットは「 三八代、露文卒」と出た。「三〇代後半から四〇代。日本経済新聞と週刊文春を読み、年収六〇〇万 円以上。しかも地下鉄通勤をしている人」という「いいちこ」ファンの典型像を浮かび上がらせた。 「地下鉄の駅にポスターを貼ろう、それも単なる商品の売り込みだけではなく、"時代の風。を感じさ せる本物の文化を売り込みたい」
 こうして横一四五センチ、縦一〇三センチ(B倍判)の大型ポスターを毎月一枚、一週間、地下鉄の駅 構内で見かけるようになった。写真家は浅井愼平さん。すでに一〇〇枚を超えているから、ご覧になっ た人も多いと思う。大判のポスターの隅っこに「いいちこ」のボトルが置いてある。撮影先は世界中 に及ぶ。 ハワイ、ロンドン、タヒチ、ルーマニア、スペイン、スイス、フィンランドなど。国内でも千葉の房 総、北海道の富良野、長野の諏訪、東京、沖縄など。
 ニューヨークのホテルのベッドを大きく写し、そっと「いいちこ」を置いているものがある。別に ニューヨークでなくても、どこのベッドでもいいと思ラが、本物を追求する姿勢がそうさせたのであ ろう。
 三枚目のポスターでは、古ぼけた居酒屋の食器棚にコップや皿が並び、「いいちこ」が数本置いて ある。なつかしい大正ロマンチシズムを感じさせてくれる。これが「アサヒカメラ賞」を射止めた。
 昭和五九年十月のポスターには「いいちこ」のボトルがない。カラの木箱の真下に「ノー」の赤 文字。 在庫がなくなり、注文に応じきれないときであった。  ポスターは毎回評判になった。 「全部を一度に見たい」という声が高くなり、六二年四月、東京セントラル美術館で「iichikoポス ター展」を開いた。全場内にビリヤードを置きバーカウンターを設けた「プールバー」形式も話題を 呼んだ。 初日の入場者が一〇〇〇人を超し、六日間でのべ五〇〇〇人にもなった。
 次いで、季刊「iichiko」を六一年に発行。企業広報誌というよりも学術的な色彩が強い。「精神」 と「民俗」をテーマに、さまざまな領域にまたがる文化の断面を取り上げている。創刊号には「無意識の文化学 ジグムント・フロイト」を特集し、フロイト心理学を追いかけている。会社の宣伝は一切しない。 最新号(No.28 1993.10)は「感覚再現の文化学----宇宙樹林・菊・感性」を特集して、アメリカに伝わる「神々の世界と人間界を結ぶ道=宇宙樹」を取り上げている。人間の感性、感覚の定義にも触れて おり、学問的にも興味深い。 「学者による思い切った研究や、いかに先進的な論文でも、編集者の判断で載せることができる。質はどれだけ上げてもかまわない」と、河北さんは編集方針を述べている。「私たちが生活する文化とは何か」を問い、文化の本質をあらゆる分野から解き明かそうとする。 「私には企業の存在そのものが文化である。企業が売り出す商品も文化である。デザインも当然文化 である」との河北さんの思いは、三和酒類の商品づくりと同じであった。
 平成元年からは、国際版として「iichiko intercultural」を年報で刊行。日本文化を高い水準で海 外に紹介するとともに、海外からの論文も掲載している。さらに平成三年には「iichiko 文化学賞」 を創設。 優れた論文の著者を日本に招き、講演やシンポジウムに加わってもらう。第二回「iichiko 文化学賞」 の授賞式は平成五年五月に東京で行われた。 「目先の利益は追わない。季刊『iichiko』には年間一五〇〇万円の予算をかけるが、ムダ金ではなく、 学会でも高い評価を得た。何より、社員全体で企業文化を育んでいこうという気風が生まれたことが 大きい。 季刊「iichiko』は、三和酒類の象徴としての存在価値を持っているものなんです」(西社長)  東京で磨かれ、東京のセンスを十分吸収して地域に帰り、付加価値をつけて再び東京に行く。 この繰り返しが「いいちこ」を生んだ。まさに地方からの情報発信であろう。 「事実で語るというのが『いいちこ』の広告のポリシーです。絶対にウソはつかない。となると、品 質に問題があればポスター 一枚作ることもできません」  本物の情報を送ることに自信があるからであろう。
 企業文化を生む三和酒類の戦略は、醸造工場の増築に合わせて、工場全体を「酒の杜」に仕上げる というものだ。宇佐市の丘陵地を切り開いて造られた現在の山本工場は敷地面積十ヘクタール、周 辺の環境まで含めると総面積が二一ヘクタールに及ぶ。かつての山からみかん園に変わったこの土地を、 「再び元の山に戻そう」「草の匂いのする工場にしよう」という壮大なプランだ。
 工場設備の充実をはかりながら、植樹など周辺の環境整備に力を入れる。社員総出で五〇〇〇本を植 えた。 将来はハゼの木など一〇万本を植えていくという。完成まで一〇〇〇年。「今の酒づくりに深い杜の自然を加えたい」という三和酒類の遠大な構想である。
 工場裏手には「酒の散歩道」が走っている。両脇に薬草が幾種類も植えられ、多彩な花を咲かせている。「目の保養だけではなく、将来の研究材料に」という思惑もある。散歩道の中間あたりに「水の源」の 洞窟がある。三和酒類が酒づくりで求めた、地下三〇〇メートルの良質の水を見せる場所になっている。 「焼酎は九州人が育てた九州の酒です。いい水がないといい酒はできません。そこから水や自然を大切にする精神が生まれる。これも文化なんです。
 自然に溶け込んでいない不釣合な看板を、よく街なかで見かけます。商品を宣伝したいという気持はわかりますが、派手に売り込めばいいというものではありません。三和は屋外広告の看板類は原則とし て設置しないし、商品の容器は再利用のできるガラス瓶にこだわっています。モノを使ってモノを作る のが企業ですが、これからはモノを使わない、作らないという視点も重要になってくるのではないでし ょうか」  三和酒類が生んだコピーには数々の優れたものがある。「下町のナポレオン---いいちこ」もそうだが、 「おかげさまで」という企業理念、「ノースモーキング運動」「トロイカ&ワン方式」などなど。 「ノースモーキング運動」とは、社員全員できき酒をするために社内での喫煙を禁止したことである。 そして「美しき人になりたく候」
 三和酒類はひたすら品質を追い求め、一〇〇%いいものをつくろうとする。 「いつまでも焼酎ブームが続くわけじゃないが、冷たい風は我々にとってありがたい。ブームに便乗した メーカーは大変だろうけど、いい商品だけは残る。だから、いい商品を作ればいいんだ」(赤松名誉会長)
 平凡な毎日のなかにいつも向上心を求める「一ミリの差の積み重ね」(西社長)が、最終的に商品につな がるというのだ。 「ポスター一枚では効果はない。長く続けていくことによって効果があるんです」
 西社長がいちばん好きなポスターは、広い芝生の中にラグビーのゴールポストが置かれているもの。 そのなかにこういう文句が刻まれている。 「トライを決めた者もガッツポーズなどとらない。それが全員の力であることを知っているからだ」
 この一枚が社内に貼ってある。 「いいちこ」の販売戦略は、社内のモラールを高めるというインナーキャンペーンにも大きく貢献した。 会社が始まるのは朝八時。ところが、七時半にはほとんどの社員が出てきて、工場の中や周辺を掃除して いる。会長、社長も一所懸命にほうきで掃いている。社員が自発的に行っているもので、誰からも命じられたわけではない。三和酒類には社旗もマークもないが、商品づくりにかける気持が社風としてしっかり息づいている。これもCI効果といってよい。
 西社長は、マーケティングの基本は「グローバルに考えローカルに行動することだ」と言う。大分に生まれ、大分に育った地方の商品が、東京へ、世界へと出ていった。地域的なものに磨きをかけて世界に通 用するものにする。まさにその適例であろう。
 しかも、西社長は「焼酎のライバルは自動車産業だ」と言っている。自動車メーカーは車の性能そのも のを高めていくと同時に、室内の快適性を高め、車に乗ること自体を楽しませようとしている。 運転しているときは当然焼酎は呑めない。自動車メーカーと酒のメー力-とは"時間"の奪いあいをしていることになる。ドライブの楽しさと、酒を呑む楽しさ。天秤を酒に傾けさせようとする三和酒類のマーケティ ングカ。そこに三和酒類の力がある。

「元祖・麦焼酎」−吉四六

  大分県国東半島のつけ根、日出町の二階堂酒造の社員には、「自分たちが大分の麦焼酎を作ったんだ」と いう自負心がある。  二階堂酒造は慶応二年(一八六六年)、醤油屋だった本家から「喜和屋」という屋号で分家独立した。 戦中、戦後の酒屋の整理統合により、実際に焼酎の生産に入ったのは昭和二四年からのことだ。 「麗」という銘柄で米焼酎を作っていた。ところが、大分では清酒がよく呑まれており一同じような感覚で呑むと、焼酎の匂いが強すぎるといった声が出ていた。宮崎のトウモロコシ焼酎が大量に大分に流れ込 んでいた時期でもあった。 「まず、大分の人に愛される焼酎にしたい」
 杜氏でもある二階堂暹社長は何度も何度も試作を繰り返した。米やトウロモコシなど、いろいろな原料で試してみた結果、麦を使ったものがいちばん香りがいいということになった。それまでの麦焼酎は、麦 を材料にしても麹には米を使っていた。麹にも麦を使うことで、まろやかな香りの麦焼酎が誕生したのである。昭和四八年のことであった。二階堂酒造の作る焼酎が「元祖・麦焼酎」と呼ばれる所以である。
 四九年に一四四、キロリットル、八万本を初めて出荷した。その頃、大分の焼酎メーカーは八、九軒ほ どにすぎなかった。 「もともと、焼酎屋という看板を出しているところがないくらいで、焼酎は酒に比べて地味なものでした」  二階堂社長には、絶対売ってみせるという自信があった。健康志向の時代で、「麦」本来のもつ健康的なイメージがあったからだ。
 二階堂社長の狙いはあたった。私は昭和五〇年に副知事として大分に戻り、早速、県産品愛用運動を起こ した。「安物の酒」というイメージであった焼酎も、この運動に乗って次第に売れていった。 何よりも、作っている人たちに自信がついてきた。当初の一四四キロリットルから、翌五〇年には五四〇キ ロリットル、五一年には九〇〇キロリットルと生産量が増えた。 独特な素焼きの瓶に入った「吉四六」は五一年に生まれた。陶器入りの焼酎を作ろうとしたのは、こういう 理由からだ。
 当時、県が国の各省庁に陳情に行くときに、焼酎を持っていくことがあった。しかし、瓶入りのものはい かにもダサい。そこで、「東京に持っていっても恥ずかしくないような、品のいい容器を考えてくれないか」 と、二階堂酒造に相談があった。  素焼きの瓶に入った麦焼酎は、県職員のアドバイスから生まれたのである。ネーミングには凝った。 もともと、陶器入りを大分で売るつもりはない。大分の人が家で呑むならガラス瓶入りで十分だ。素焼きの瓶はお遣い物として使ってもらう。ならば、大分らしい名前をつけようと考えた。
 当時、地元の大分県民オペラに声楽家の立川澄人さん(故人)が加わって演じた『吉四六昇天』が、東京で の公演、さらには中国での公演で大成功を収めていた。これにあやかって「吉四六」をそのまま焼酎の銘柄 にした。「吉四六」とは実在した人で、本名を広田吉右衛門という。寛永五(一六二八)年、大分県野津市(現大野郡野津町)に生まれ、村役人を務めた。奇才頓智に富み、庶民と代官との間をうまくとりもち、これが後世、各地にある民話と混ざり合って「吉四六伝説」が出来上がった。この頓智語をオペラにしたのである。 もっとも、「吉四六」を「きっちょむ」とは読めない。「何と読むんですか」という問い合わせもあり、こ れも話題づくりに一役買った。「東京へのお土産は『吉四六』に替えたよ」という声が多くなった。
 昭和五四、五年に焼酎が大ブームを巻き起こす。 「まさか東京で焼酎が売れるとは思ってもみなかった」と、二階堂暹社長の長男、雅士専務(豊の国づくり塾 第一期生)が振り返る。 「昭和五〇年のときです。まだ大学二年でしたけど、父から『東京で大分県の物産展をやるそうだらセールス をやれ』と言われて、小田急デパートで"マネキン"をやりました。どうやって売ったらいいかもわからな いし、一日に二本しか売れなかった。
 ところが、昭和五八年十月に横浜に向けた「大分県一村一品の船」に乗ったときには、高島屋で物産展を開いてくれました。焼酎コーナーには開店と同時にズラーツと長蛇の列。「一人二本までです』と制限する始 末です。
 同じ服を着た板前さんが五人並んでいて、「一人二本までというから、とにかく店の者を全員連れてきた』 と言うんです。お客さんが殺気立っていて怖かったですよ。初日に予定した分がすぐなくなり、二日目の分も、 三日目の分も出してしまい、急遽工場から送ってもらいました。それでも間に合わない人には、工場から送る ということで許してもらいました」
 品薄状態はどうしようもなかった。生産が注文に追いつかない。二階堂酒造はテレビコマーシャルを打っていたが、「注文しても品物がないのに、コマーシャルだけはするのか」という声を聞き、一時期コマーシャルをとりやめたこともあった。この頃であろうか、東京の赤坂で「吉四六」のホトルキープが数万円にはね上が ったという語を聞いた。
 現在、工場は八割がたオートメーション化されている。安定した品質で供給するためであり、衛生管理面も充実できるとの理由による。「麹は雑菌を嫌うんです。工場内は清掃を絶やさない。仕込みのところでは毎日水洗いをやっています」
 二階堂社長とともに二五年間製造部門を支えてきた平岡哲次工場長の言葉は強い。  二階堂酒造は決して量産をめざさない。 「品質優先。間違いのないものだけをお客さんに出していきます。今は不景気のときですが、おかげさまで焼 酎は売れています。爆発的なブームはもういりません」 二階堂酒造は、テレビコマーシャルや新聞、雑誌への宣伝を行っているが、実際に買ってくれるのはロコミに よる効果が大きい。これは三和酒類と同じだ。 「景気に関係なく業績を安定させたい。着実ならいいんです。最近ではロンドンやパリ、ドイツ、ロサンゼルスなどにも商社を通じて出していますが、基本は一人ひとりのお客様を大切にしていくことです。このことは 社員もわかってくれているようですよ」 社員四八名。平成四年度の生産量一万八○○○キロリットル。日曜日、二階堂社長が誰もいない工場を見まわっていることを、社員は知っている。
 専門の製品開発を担当する研究員がいるわけではない。お客さんからの意見を一つ一つ製品化しただけだ。 社長が自らアイデアを出したこともある。製造スタッフが一緒になって「元祖・麦焼酎」を作り出した。社長と社員とのコミュニケーションこれが二階堂酒造を成長させたのである。

 企業に文化を、焼酎にも文化を

 三和酒類と二階堂酒造には共通の考え方がある。
 私は東京に行くたびに、「これが一村一品運動なんです」とカボスと焼酎を持って歩き、PRに努めた。カボ スの使い方、焼酎の呑み方も伝授した。それがしだいに浸透し、ブームを巻き起こした。
 ところが、ブームになっても、三和酒類と二階堂酒造は決しておごらない。「ブームであればこそ、品質に力を注げ。それが次の戦略を決める」と主張する。
 ポスターから企業広報誌の発行、そして工場全体を「酒の杜」に仕上げることによって、三和酒類は「酒の文化」の醸成をめざした。国内の全焼酎のなかでナンバーワンになり、一九九〇年には日本の全蒸留酒(ウイス キー、ブランデー、ジン、ウオツカなどを含む)のなかでもトップの出荷量となった。世界の蒸留酒のランキングでは、BACARDI(ラム)、SMIRNOFF(ウオッカ)、RICARD(パスティス)、Johnnie Walker Red Label(ウイスキー)、 GORDON'S(ジン)に続き世界第六位。 文化性を追求したCI戦略が業績にはね返った好例ではないか。 一方で、二階堂酒造は社長自らが工場をまわり、製品の品質管理を徹底させている。昔ながらの杜氏気質をか たくなに守ってきた成果が、着実に数字になって表れてきた。 いくら売れても、あくまでも地域に活動拠点を置き、目をしっかりと世界に向ける。地方的であればあるほど国際的だというのが私の持論であるが、大分の焼酎メーカーはそれをしっかりと実践し、ローカルの個性=文化 を主張している。まさに、地域と企業とのCI運動がうまく連動したといえよう。    

 

 

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