第二章 花ひらく「一村一品」

「何もないことから始まった」−ムラおこし湯布院町

「映画館ひとつない町の映画祭」
「音楽ホールのない町の音楽祭」

 どちらも、湯布院の人たちがつくった湯布院のキャッチフレーズだ。何もないことを逆手にとった イベントがすっかり定着し、毎年全国からファンを集めている。 湯布院映画祭は毎年八月に一週間にわたって開かれ、湯布院は映画づけになる。監督や脚本家、出演俳優がノーギャラで参加し、映画論をたたかわせる。
 平成五年の目玉は、一九二七年(昭和二年)に制作された伊藤大輔監督の幻の名作『忠次旅日記』の上映だ。大河内伝次郎扮する国定忠次が大活躍するこの映画は、公開当時から絶賛を浴びた傑作。 日本映画史上不朽の名作といわれながら、戦後、フィルムの所在がわからなくなっていた。そのフィルムが前年広島で発見され、東京国立近代美術館フィルムセンターが修復復元した。九州での上映は この湯布院町が初めてになる。私が幼い頃、大河内伝次郎はスターであった。胸をときめかせた思いがよみがえってくる。
 これまでの映画祭でも、封切り前の話題作や、名作といわれるもの、はてはアニメやロマンポルノ まで、ジャンルを問わず優れた作品を上映してきた。それだけに、本当の映画ファンにはこたえられない。
 高原郷にクラシックやバロックの美しい音色が響く「ゆふいん音楽祭」。出演費用はなくても、演 奏家は湯布院を訪ね、音楽祭をつくりあげる。「小さな星空のコンサート」は多彩で豪華だ。
 ゆふいん音楽祭は、平成三年から「ゆふいん西洋音楽探訪」を三回シリーズで開いた。湯布院は隠れキリシタンの里としても名高い。第一回は西洋音楽史家・皆川達夫さんを招いて、「西洋音楽伝来と天正遣欧使節」をテーマにした。翌四年の「秀吉が聴いた西洋音楽とサカラメンタ提要」では、少 年使節がヨーロッパから持ち帰ったとされる四つの楽器を再現して聴かせた。最終回の五年は「ザビエルの光と影」と題し、隠れキリシタンが歌い継いでいた「歌オラショ」をテーマに、天正少年使節の帰国後の運命をたどった。
 天正少年使節の正使・伊東マンショは、豊後のキリシタン大名・大友宗麟の名代としてローマに派遣されている。しかし、帰国はキリシタン禁令が出たあとで、使節のメンバーはいずれも数奇な運命 をたどらざるを得なかった。音楽は歴史の波に押し流された人たちを奏でていた。
 映画祭、音楽祭の例をみてもわかるだろう。
 何もない湯布院の名が全国に知れわたり、毎年三八○万人の観光客が訪れている。由布院駅に置かれている観光案内所が観光サービスを行っているが、平日でも旅館の確保が難しくなっていると聞く。 観光客だけではない。イギリス外相、中国副首相、上海市長、旧ソ連大使、アメリカ大使。行政や民間の視察者も数えきれない。まさに湯布院町は「大分県の迎賓館」ともいえるほどだ。 農業と温泉の町、大分郡湯布院町。大分県の中央部にあり、人口一万二〇〇〇人。何もない湯布院町が、何とどう取り組んできたのか。
 昭和四五年、湿原植物の宝庫に大手業者がゴルフ場を建設するという話がもちあがった。中谷健太 郎(亀の井別荘総支配人)、溝口薫平(玉の湯旅館社長)、志手康二(ホテル夢想園社長・故人)の三氏が中心になって、全国の文化人、学者グループなどへ呼びかけ、マスコミも加わって反対運動を展開して いった。県も開発反対を唱え、業者は撤退した。
 しかし、自然保護だけを唱えても地域に人は残らない。そこで「牛一頭牧場運動」を始めた。都会 の人に牛のオーナーになってもらい、その資金で子牛を買う。配当は米や地元の特産品。ところが、 米を都会に送るのは食管法違反と農林水産省からクレームがついた。中谷さんから私に相談を持ちか けられた。ちょうど国土庁時代の知人が農林水産省にいて、解決策を出してくれた。このアイデアは ヒットした。全国から出資の申し込みが殺到し、受け入れ側の対応ができなくなるという事態になっ た。  百頭突破記念に招かれた私は、牛の鼻紋のついた感謝状をいただいた。牛から表彰された知事というのは聞いたことがない。この感謝状はわが家の家宝になっている。牛のオーナーとの交流会は、毎 年十月十日に由布岳のふもとで開かれる「牛喰い絶叫大会」。湯布院牛のバーベキューに舌つづみを打ちながらの大声大会はテレビで全国に流れる。
 中谷、溝口、志手の三氏は湯布院の自称「金太郎アメ」だ。昭和五〇年四月、湯布院に直下型地震 が発生し、「湯布院がつぶれた」とうわさされたとき、三人は次々に新しい企画を実現していった。 辻馬車を走らせたのはその三か月後。由布岳にはパカパ力走る馬車がよく似合う。 一六世紀の南蛮貿易時代の食文化を探る「食べもの文化フェア」は毎年秋に開催。ポルトガルやスペ インからのお客さんも交えて、お国自慢の郷土料理を作る。"食の外交"は和気あいあいだ。
 若者たちの文化活動も動きだした。
 「ゆふいん源流太鼓」(長谷川義代表・メンバー五人)は四〇〇年前のリズムを現代に復活させた。 上半身裸、裸足で打つ勇壮な太鼓には感動を覚える。劇団「立ち見席」(岩尾淳一郎主宰)は、活発な 動き、ストーリーの意外性が若い人に支持され、東京での公演には"立ち見席"ができるほどだ。「ゆふいん寄席」は「ゆふいんわらおう会」(尾崎章五会長・運営委員五人)が主催する。学校寄席も あり、湯布院の子どもたちの楽しみだ。月に一度の定期寄席には大分県出身の落語家(現在三人)が参加する。
 町の自慢は手づくりの美術館がたくさんあること。「由布院空想の森美術館」「末田美術館」「中門コレクション古陶院」など、小規模だがそれぞれの美術館が個性を主張している。美術館めぐりに疲れたら、「フローラハウス」に立ち寄るといい。ランを手がけて二〇年になる安藤正子さんが、かわいらしい工房を建てた。ポプリの芳ばしい香りが漂い、誰でもポプリ加工ができるし、ハーブ茶のサービスも嬉しい。「湯布院ハーブワールド」は平成五年十月にオープンしたばかり。ハーブレス トランやハーブの露天風呂も楽しめる。"ハーブの文化"も根づきそうだ。
 これに湯布院の"顔"がもう一つ加わった。日本を代表する建築家、磯崎新さんは大分市の出身。 県内には氏の手になる建築物がたくさんあり、建築を志す学生が"磯崎めぐり"をしている。平成二年十二月、JR由布院駅も氏の設計により生まれ変わった。湯布院の四季の変化や霧にマッチするように 全体を黒色で統一。入口は空から光が落ちてくるように高く、明るい。併設のギャラリーではいつも 絵画展や写真展などが開催されている。四年六月には、磯崎さんが加わった国際建築会議が駅舎で行 われ、会議の模様は衛星中継で全国に紹介された。 「建物はその土地を動かないが、いったん文化性を獲得すると強力な情報発信装置になる。地球上の小さな辺境が一気に世界性を獲得してしまうのだ」
 氏の言葉は湯布院町への賛辞であった。  自然保護への努力が逆にリゾート地として注目を浴び、湯布院町は大分県で最も高い地価の上昇率を示した。生活環境整備が進まないうちに開発ばかりが先行すれば、湯布院がいちばんの売り物としていた自然のよさがこわれてしまう。致命的だ。
 そこで、湯布院町は「潤いのある町づくり条例」を平成二年九月に制定した。条例の特色は、町の成長を町が管理すること。開発を規制する地域と開発を誘致誘導する地域に分け、建築基準法よりも厳しい規制を敷いている。湯布院の町の人たちが自分たちの町をどうしていくのかを、この条例は外部に対して明快に訴えている。これもCI運動のひとつだ。

  十一戸で年間十四億円の大葉を売る−大分市

 十一戸の農家が年間十四億円の販売額をあげていると聞くと、驚かれるに違いない。 一戸あたりの平均が一億二七〇〇万円にものぼる一村一品が大分市の大葉だ。この数年間の売り上げ を紹介すると、七億八六〇〇万円(昭和六三年)、十一億一〇〇〇万円(平成元年)、二一億一二〇〇万 円(平成二年)、十四億九〇〇万円(平成三年)、そして平成四年は十三億三四〇〇万円−伸びは急激だ。
 大葉というのは品種名で、一般的には青ジソといったほうがなじみが深い。よくソバや寿司の薬味に使ったり、刺身に巻いて食べる。
 大分で大葉の生産が始まったのはそれほど古いことではない。昭和四七年、大分市滝尾地区に住む植木南雄さんが大葉の栽培を始め、五二年には生産農家が五戸に増えたことから、大分市農協(現JA大分市)のなかに大葉部会を設立した。以後、庄内町や湯布院町にも大葉農家が生まれ、広域共販体制 を整えていった。平成元年には、販売額が野菜単品として県下で初めて十億円を突破したのである。
 大分産の大葉が急成長したカギは、消費の伸びに支えられたこともあるが、ユニークな労働システ ムによって安定した労働力が得られることであろう。JA大分市・大葉部会の部会長を務める植木さん はこう話している。 「いま、うちのハウスで働いてもらっている人は五〇人。そのうち、毎日収穫作業を手伝ってもらっ ているのが四八人で、残りの二人が社員として栽培管理を担当しています。大葉は水耕でも土耕でも 栽培できますが、収穫作業は葉を摘み取るだけで、手に土がつかない。きれいで、楽しい仕事をお願 いしているんです」
 しかも、収穫を担当する畦は一人ひとり決まっており、勤務時間もまちまち。仕事のできる時間に来ればよい。ここには3K(きつい、汚い、危険)の暗いイメージはない。 「農業といっても、ここは企業と同じです。主婦の方はきれいな服を着て来ますし、ちゃんと化粧を していますからね」
 大葉を作るコツは、いかに病気の発生を少なくするかということだ。消費者の自然志向もあるので、 農薬はできるだけ少なくする。最近では、無害な虫が害虫を退治する生物農薬の方法を試みている。
 大葉部会では毎月、会員が集まって討議する。技術的なこと、流通のこと、後継者のこと−さまざまだ。販売戦略も部会が共同で練り上げる。大葉は通年需要のある作物だが、特に八月と十二月の需 要が多い。大分からは関西以西の市場に出回る。九州の市場ではすでに八割のシェアを占めている。 「ほかの産地がこれから大葉生産に取り組もうと思っても、それは無理なんです。当初の施設経費が かなりかかりますし、技術的にも、うちの部会に追いつこうと思ったらかなりの時間がかかります。 夜間は電灯をつけ、花を咲かせないようにする。花が咲けば成長がとまるからです。その電照の時間 やコントロールが難しい。私たちはそれを成しとげたという自負心を持っています」
 最近ではアメリカ市場への進出を考えているという。日本レストランが多くなって、寿司店からの 需要が多いためだ。大葉は冷蔵保存すれば一週間は鮮度が保たれるという。アメリカヘ空輸しても十分採算がとれると強気だ。 「人手さえあれば規模を大きくしたいし、田舎にも進出したい。過疎地にはピッタリの一村一品ですよ」と、植木さんは話している。
 
  "サイン入り"野菜の「木の花ガルテン」−大山町

  「○○さんのキュウリ、今日はないの」 午前十時半、福岡市にあるスーパーに大分の品物を待ちかねていた主婦たちが群がる。お目当ては 日田市・郡六つのJA(旧農協)から運び込まれる新鮮な産品だ。「日田地域一村一品・木の花ガルテン」がこのスーパーに設けられたのは平成四年七月。わずか三〇平方メートルのコーナーに、三トントラックで運ばれた荷が山積みされている。曲がったキュウリ、 大きさ不揃いのナスビ、真っ赤に熟したトマト。干したタケノコやまんじゅう、ハーブケーキ、ジャ ムなどの加工品もある。どれも市価より安い。
 普通の商品と異なるのは、すべての製品に生産者の名前のシールが貼られ、生産者が自分で決めた値段が手書きされていること。同じキュウリでも値段がまちまちなのはそのためだ。従って、消費者 は「この人」と決めた生産者のものを買うことになる。
 商品は二時間余りでほとんどが売り切れ。一日の平均来客数は約一〇〇〇人。売上高は月間一〇〇〇万円以上。予想を上回るスタートになった。 「木の花ガルテン」は、JA大山町が平成元年、独自のJA販売店として町内に第一号店を開店した。 白壁と木枠とがうまく組み合わされたドイツ風の瀟洒な建物で、温かい雰囲気が伝わってくる。建物 を造るときには、矢羽田正豪・JA大山町渉外部長が全国を見てまわった。山梨県の清里にオープンし ている工房にヒントを得て、組合長をはじめ、JAの幹部や担当者も山梨に連れて行ったうえで決めた。 さらに、設計にあたってはわざわざ大山から大工を連れて行き、勉強させた。 「全員で見に行くことで職員の意思が統一されるんです。しかも、研修を兼ねていますので視野が広 がります」と、ここにもCI効果が顔をのぞかせる。
 大山ガルテンは三棟の建物(売場面積一〇〇〇平方メートル)からなる。ユニークなのは梅蔵資料館。四〇〇年前の梅干しを展示するほか、町で生産された梅干しの瓶がずらりと並ぶ。梅蔵資料館ではジャズ・ フェスティバルが開かれる。ステンドグラスから色とりどりの光が投げ込まれる。奏てられる音楽は楽しい。 ガルテンの設立にかかわった矢幡欣治町長(当時は同町農協理事)は、「青果として出せない規格外品 などを加工し、付加価値をつけて売れないか」という発想でスタートした。参加農家も、当初の一五〇戸が今では四〇〇戸に膨らみ、品数や種類が増えた。しかも、兼業農家が家庭菜園的に作った規格外の野菜も出荷できるようになったため、本来は家族で食べるための野菜が出回っている。つまり無農薬の野菜ばかりというわけで、これが消費者にも人気を呼んだ。
 JA大山町には、ほかのスーパーやデパートからもアンテナショップを開設してくれといった申し入れが次々にきている。平成五年九月には、福岡市東区のスーパー「サニー松崎店」内に新たな「木の花ガルテン(五〇平方メートル)」をオープンした。  日田郡大山町。今でこそ地域づくりのメッカとして全国に名を馳せている町だが、昭和三〇年当時は、日田杉に囲まれた山峡にある人口六四〇〇人の小さな町だった。その町の名物農協組合長が「梅、 栗植えてハワイに行こう」をキャッチフレーズに、全町に梅と栗を植えて高収益農業を呼びかけた。
 当時の農協組合長は矢幡治美さん。米麦と畜産が主流のとき、大山町の農家は行政に背を向け、梅 と栗に取り組んだ。山間の斜面でもできるし、経済成長と食生活の変化で肉を中心にした食品が多く なるため、梅のようなアルカリ性食品の需要が増えるに違いないと読んだ。しかも、青果だけでなく、 付加価値をつけて売る。  矢幡組合長は、農家に米の追放、牛の追放を呼びかけ、農業にも新しい経営感覚が必要だと、明治生まれの人には農業をやめてもらう"明治追放運動。も展開した。町議会からつるし上げをくい、県の農政部からも是正の指導を受けた。
 しかし、「農業は楽しいものだ」という組合長の考えを、若者たちは圧倒的に支持した。これがN PC(New Plum & Chestnut)運動である。まだ海外旅行が珍しい時代に、自分たちがハワイに行ける。 これが若者たちの希望と自信を生んだ。果樹生産は飛躍的に増えていった。 続いて、第二次NPC(New Personality Combination)が三九年から始まり、人づくりを目標に新たな 運動が展開された。その中心が「世界を知ろう会」の若者たちであった。 「世界を知ろう会」はイスラエルのキブツで農業研修を受けた人たちで構成している。最初にキブツ を訪れたのは矢幡組合長の長男、矢幡欣治現町長ら三人。共有農場で、共同生産による共同生活を三 か月間体験した。徹底した集団主義による農業に、自立への道を模索するふるさとの姿を重ね合わせ たに違いない。
 この三人が「世界を知ろう会」を結成し、次の仲間を送り出した。海外研修の効果は、労働の価値観、協業の必要性、個人と地域の結びつき、相互扶助、地域の自立へと広がっていった。「世界を知ろう会」の先取り精神が、新しい農産物の加工研究や新たな事業への挑戦につながっていった。
 いま、大山町では第三次NPC(New Paradise Community)運動が進行中。都会に劣らない居住環境をめざし、大山を文化集積団地化する構想を進めるものだ。町を八つのブロックに分け、ブロックごとに 文化を共有し、産業を共同化する「文産団地」の形成。つまり、八つのキブツをつくりあげようというのだ。 その文化情報の発信基地が大山町の役場の中にある。役場の専用スタジオから町内全世帯に町独自のナマ情報を送っている。大山町有線テレビ(0YT)が正式の局名で、昭和六二年一月に開局した。 受信世帯は千一二〇戸。通常の番組のほか、自主放送、農業気象放送、ファクシミリ放送など多様な放送サービスを行う。特に農業気象放送は全国でも初めてで、気温、湿度、風速、風向、雨量など、 町内四か所に設置した気象観測装置で測定したデータを、スタジオから二四時間放送している。霜な どはちょっとした山がげや谷でもおり方が違う。農家はその情報を見ながら、それぞれの対応ができ ることになる。  午後六時からの番組では、「大山梅祭り」や「小学校運動会」といった定例ニュースのほか、町の国際交流員ワトソン君による「ワンポイント英会話」や、ドイツからの国際交流員アンニャニプーデ ガストさんの「ドイツ語講座」など、盛りだくさんの番組が制作されている。先の湾岸戦争では、イ スラエルに若者を派遣しているだけに、現地に国際電話を入れて町民に情報を送った。 平成五年六月には、初めて町内全戸を対象に視聴率調査を実施。定例ニュースは二七%が「必ず見 ている」と回答、ときどき見ている人を加えると、八○%以上の町民が関心を持っていることがわかった。町議会中継も四〇%以上の人が「必ず見る」と回答しており、行政への関心の高さが表れた。 自主番組のひとつが、平成四年十一月に開かれた第十八回「日本ケーブルテレビ大賞」番組コンクー ルで最優秀賞を受けた。「五三三人の梅干し物語」がタイトル。制作のきっかけは一人の主婦のアイ デアからであった。 「全国には大勢の梅干し名人がいる。楽しみながら梅干しを作っているおばあちゃんの味自慢大会を 開いたらどうか」
 題して「梅干しばあさん大集合」。大山町の河津ナミエさんが地域づくりアイデアコンペ(国土庁 主催)に応募し、みごと国土庁長官賞に輝いた。
 一個の梅干しには、地域に育まれた風土や文化がこめられている。このアイデアを地域づくりに活かそうと、町が事業化し、全国から手作りの梅干しを募った。応募者総数五三三人。さらに梅干しシンポジウムも開催した。こうしたイベントが先に述べた梅蔵資料館の建設につながっていったのであ る。 この過程をテレビ担当のスタッフ五人が丹念に追った。その番組が日本一になったのである。ちなみ に、番組は四年十一月にNHK衛星放送で全国放映された。一人の主婦のアイデアが日本中を駆けまわっ たのである。
 一次から三次のNPC運動は、前の課題に次の課題を付加することで積み重ねていった。梅、栗でスタ ートした高次元農業は新しい形を加えた。五〇品目を超える多品種加工品、エノキダケ、ナメコなどの栽培、バイオ技術を駆使した生長点培養のラン栽培、ハーブ等の新作物の導入。
 大山農業の理想は、余暇を楽しめる農業、週休三日制農業だ。JA大山町文化部には余暇を担当する職員がはりついている。これまでハワイに送った研修団は二三回。大山の子どもは中学生までに必ず 一回はハワイを訪れている。中国への研修団は二〇回を超え、アメリカ・アイダホ州やヨーロッパ研修も行われた。町民のパスポート所持率は日本一だ。
 米を作らなくなった大山町。しかし、大山の町民はおいしい米を食べている。 「山形県の友人から、米がなくなって大変でしょうと、どっさり米が送られてきました。それで、大 量に買いつけて組合員に販売しています」
 米を作らない大山で日本一おいしい米を食べている。皮肉なことだが、これも地域づくり活動の成果であろう。 「私はリーダーではなく、シーダー(種をまく人)だ」と言っていた矢幡治美さんは、五年十月一日 に世を去った。享年八一歳。「昭和十年頃には"ナナハン"をとばしていたよ」と笑う顔を思い出す。 夢のある農業を築こうと、ムラおこしに心血を注いだ一生であった。いま大山農業を支えるのは、そ の種が芽を出して、育った人々である。 「とにかく貧しかった。お金が欲しかった。耕地が欲しかった」
 町が制作した『大山の二〇年』という映画は、こんなナレーションで始まっている。農家の努力が 大山の農業を変えたのだ。

  作った人の顔が見える「ハウスみかん」−杵築市

 一村一品運動について話してほしいと、講演依頼がよくくる。私は講演のなかで、農産品にも付加価値が必要だと唱える。そのときによく使う例が杵築市のハウスみかんだ。  普通、みかんが出回るのは秋口にかけてであろう。小さい頃、運動会にまだ青いみかんが持ち込ま れ、口を酸っぱくして食べたものだ。ところが、今ではハウス栽培のおかげで、みかんも初夏には初 ものが出る。
 昭和六三年六月、杵築市で育ったハウスみかんの初セリがあるというので、東京神田にある中央卸売市場に出かけた。夜も明けきらぬ頃、オレンジ色のハッピを羽織ってセリ台に立ち、大勢の仲買人 を前に、大声で「大分の一村一品の代表はシイタケ、カボス、そしてこのみかんです。何とぞよろし く」と売り込んだ。
 当日はご祝儀相場も手伝ってキロあたり五〇〇〇円の高値がつき、関係者を喜ばせた。キロ五〇〇〇円といってもピンとこないかもしれない。高級車といわれるトヨタのクラウンが一・五トンでだい たい三〇〇万円、キロニ○○○円だから、単価でみるとミカンのほうが倍以上の値である。
 杵築市でハウスみかんの栽培が始まったのは昭和五〇年のこと。みかん価格が低迷しているなかで、 五人が杵築市農協(現JA杵築市)ハウスみかん部会を結成した。この五人はもともと農家ではない。 市役所に勤めていた柴田芳彦さんが「ハウスみかんをやろう」と言いだし、近所に住むタクシー運転手や大工をしていた人を誘った。次に、柴田さんの恩師で高校の理科の先生も引っ張り込んだ。五人は毎日午前と午後に集まり、技術的なことはもちろん、社会情勢、家族のことまで相談し合った。
 当時はオイルショックの時代であり、燃料費と収入が同じ年もあったと聞く。しかし、市場視察や 栽培技術研究に力を注ぎ、家族的な強い絆で乗り切った。施設みかんの安定性が見直されてきたので、 生産の拡大をはかった。
 全国に先駆けたハウスみかん遠隔監視システムの導入も品質の向上に役立った。ハウス内の温度をJAが無線でコンピューター集中管理するものだ。それまでは、ハウス内の換気扇が三〇分でもとまる と、温度が六〇度まで上昇していた。そのため、生産者はいつもつきっきりで、精神的な負担も大き かった。その温度管理が的確になり、安心してほかの作業に専念できるようになった。  さらに、老人、中堅、青年層の結合にも特徴がみられる。手作りみかんは人手が必要で、根気いる地味な仕事。これはおばあちゃんにやってもらう。低コストとか新技術をつくり出していくのは若者の担当だ。それをリーダーシップでつなぐ中堅層。みんながうまくかみ合い、それぞれの能力が発揮 できた。
 高付加価値の手作りみかんとは、どういうものか紹介しよう。
 普通、みかんは選果機を通して等級分けする。しかし、選果機を使うとキズがつきやすいので、卵を扱うように丁寧に手作業で選り分ける。また、みかん園の周辺部でとれるものは、色・味はいいがキズが出る。中心部はキズはないが味が少し劣る。一本の木でも、なっている部分でみかんの味が違 う。そこで、おじいちゃん、おばあちゃんには園の周辺の一番おいしいみかんを取ってもらい、布で拭いて手詰めにする。これが、手作りの「杵築寿みかん」。いま、おじいちゃん、おばあちゃんの組織「寿会」には七五人がいる。
 毎年お中元シーズンになると、東京・新宿にあるフルーツショップから商品カタログが送られてく る。カタログにこうあった。 「ハウスみかん」大分県杵築市・冨来三吾さん直送。
 品物ごとに生産者を紹介し、本人からの直送をPRしている。値段も結構高い。こうなると、みかん も昔の「正宗の銘刀」なみで、制作者銘入りの逸品となる。
 現在、杵築市のハウスみかん農家は一七四戸。平成五年七月には全戸にファクシミリを導入してい る。取引市場や小売店一消費者のニーズを全国各地から送れるし、緊急の注文などにも対応できる。 万全の情報や指導を全生産者に徹底するとともに、有利な販売体制の確立にもメリットがある。生産高は二〇億円を超え、愛媛、蒲郡と並んで全国有数のみかん産地に成長した。結果として、この町は 自動車工場よりも付加価値の高い産業を誘致したのと同じことになる。
 全国的な特産品ブームが巻き起こり、ふるさと宅配便が大はやりだが、これからは地方の特産品も、 大量定時出荷ものとヒューマンブランドものとに二極分化していくように思う。地域のリーダーの育成をめざす「豊の国づくり塾」の塾生から聞いた話だが、最近では都市の消費者から直接名指しで注文がある。これが縁で、四季折々の品や便りを添えて出荷をするケースが増え、全出荷量の三〇%を超えるまでになったという。
 ハイテク製品と異なり、農産品は地域の風土、伝統、文化の産物だ。モノより心の時代。消費者はその地域の文化との出会いを味わう。生産者と消費者の人間関係をベースにした市場開拓(ヒューマ ン・マーケティング)が、これからは大切になってくる。

  どんな料理にも0Kのカボス−竹田市

  「大分県はどんな特色を持っていると思いますか」
 上智大学の名誉教授で社会学を専門にされている鶴見和子先生に聞いた。
 すかさず「カボスの国です」と答えられたことを覚えている。「少しカボスを絞ると料理が引き立ちます」とも。「食は大分に在り」と言われた鶴見先生には、大の大分ファンになっていただいている。
 今ではカボスも有名になった。まだそれほど知られていない頃、私は渋谷のハチ公の銅像の前でカ ボスを通行人に配ったことがある。みかんのように皮をむく人がいたり、酸っぱくて食べられないと 文句宣言う人もいた。「徳島のスダチと同じように使ってください」というと、「ああそうか」と納得してくれたものだ。
 光沢のある緑色の皮を乾かしておいて、夏にこれを焚いていぶす。つまり、カイブスがカボスに転訛したといわれる。この香り高く酸味の強い柑橘類は、瀧廉太郎の作曲になる『荒城の月』で有名な 竹田市の特産品である。
 竹田市は九州の屋根、阿蘇・久住・祖母の連山に囲まれた人口二万足らずの町。市内に湧出する水は国の名水百選に指定されている。
 その竹田市に日本一が二つある。薬用や食用として用いられるサフラン、それにカボスである。 栽培面積、生産、出荷量ともに全国一だ。カボスはまろやかな風味と独特な香りでいろいろな料理に使用され、ビタミンCを多く含んでいることから自然健康食品として注目されている。最近では都市 部でも人気が高く、贈答品としても喜ばれている。
 焼酎がブームになったが、大分産の麦焼酎を五分五分にお湯割りにして、カボスを絞って入れる。 これが「カボチュー」。フグの刺身か城下カレイの刺身を、これまたカボスをたらした酢醤油につけ、 これを肴に一杯やると、「よくぞ大分に生まれけり」とうなってしまう。
 カボスを利用した加工食品もたくさん作られている。カボスサワー、カボス酒など二十数種類。天然果実酢の「果母酢一〇〇%」は一億円産業。次いで、ドリンクのCサワーが売り上げ五〇〇〇万円。 ほかに「かぱすもろみ」「カボスこしょう」、粉末の「香味」、入浴剤や石鹸もある。
 加工技術は難しかったようだ。カボスの命は香り。ところが、八○度の熱で殺菌すると香りが逃げてしまう。この研究に時間がかかった。 「カボスの果皮に緑のところと白いところがありまして、その境目に油泡、つまりオイルの層があり ます。これが香りのもとだったんです」
 JA竹田市の理事で、かつて営農部長のときに加工に携わった厳島孝敏さんは、殺菌をしたあとでオ イルを混ぜればいいと気づいた。次の難題はオイルの抽出であった。これも和歌山県経済連との共同研究で解決した。
 加工に力を入れるJA竹田市は、面白いことに加工場を持っていない。 「製造のノウハウを持っているだけで、実際の加工は外部に委託します。施設を持つと維持費や減価 償却費がかかりすぎます。市場競争に勝つには、余分な施設を持たないことなんです」−JA竹田市・ 和田俊隆特産課長)  売ることは作ること以上に難しい。ホテル、ドライブイン、土産物店をはじめ、バーやキャバレーにも行った。夜にならないと店が開かないため、竹田に帰り着く頃は日付が変わってしまうことも多 かった。ネを上げそうになる職員を激励する日が続いた。
 その結果が現在の数字となって表れている。平成三年度実績で一〇一〇トン、四年度は一四九〇ト ン。加工品は四年度実績で二億五〇〇〇万円を示している。県下のカボスの総生産量は、三年度は四 五一〇トン、四年度には六一六〇トンを記録している。  

  海中の清水に棲む城下カレイ−日出町

  故人になられたが、映画評論家の荻昌弘さんは杵築市に居を構えていた。大分生まれでもない荻さん に「どうして大分に家を持たれたのですか」とたずねると、「大分の食に魅せられたからですよ」と 答えられた。
 荻さんは「関アジ、関サバは逸品だ。東京に行くときには、大分空港ロビーの寿司屋で関サバをバ ッテラ(サバ鮨)にして持っていく。これが東京の人には大好評だ」とおっしゃっていた。
 きわめつきは城下カレイ。「僕は城下カレイがあるから大分に住もうと決心したようなものです」 と、破顔一笑された。  日出町は秀吉の正室ねねの一族、木下侯の居城のあった城下町。日出城跡のすぐ下に広がる海の中 に、清水の湧き出るところが二、三か所ある。その付近に生息するマコガレイ----これが城下カレイ である。句は五月。日出城跡周辺で「城下カレイ祭り」が行われ、約四〇〇キロ、二〇〇〇人前のカ レイの刺身がふるまわれる。刺身のほかに吸い物と酢の物、それに握り飯がついて一〇〇〇円と格安 サービス。ただし、販売が始まる一時間前から行列ができるから、早めに行かないとご馳走にありつ けない。
 城下カレイの歴史は古い。天保年間、端午の節句になると、日出藩では殿様から傭人まで、年に一 度の祝い膳にカレイ料理が出された。四年に一度の閏年には、生きたカレイを早馬で将軍に献上した という記録もある。
 このカレイを、フグの刺身同様、薄びきにして菊花状に皿に盛る。カボスをたらした刺身醤油に、 青ジソ(大葉)、ネギ、モミジおろしの薬味を入れ、キモをとかして食べる。舌ざわりもよく、かすかに甘味があり、木下謙次郎の名著『美味求真』にあるごとく、「香味優逸にして、確かに魚膾の首位 に推すべき値打ちがある」  城下カレイ専門の料亭が「的山荘」である(日出町、敷地五〇〇〇坪、建物三〇〇坪)。 『海は甦える』(文芸春秋社)は江藤淳さんが十一年をかけた作品だ。その完結記念に登場人物たちの ゆかりの場所を見物しようと、まず大分にやって来て的山荘を訪れた。 「日出の的山荘という料亭は、別府湾を見下ろす景勝の地に位置している。なんでも昔は鉱山主の所 有だったそうで、普請にも賛を尽した趣きがある。(略)城下カレイは美味で、『的山』という地酒も さっぱりと口当たりがよかった」(文芸春秋・昭和五九年五月号)  明治末、成清博愛が日出町で金山を掘り当て、「馬上金山王」として巨富を築いた。成清は大正二年に旧日出城三の丸跡地を買い取り、別邸「的山荘」を建築。高崎山を築山に、別府湾を泉水に見立 てた借景がすばらしい場所である。  昭和三九年、義父の勧めもあって、的山荘は城下カレイ専門の料亭として開業した。板前は町内で 女将をしていた佐藤トクさん(故人)が引き受けてくれた。腕もよかったが、当時は女性の板前という のは珍しかった。
 現在の的山荘を盛りたてている女将は三代目の成清信輔さんの妻、康恵さん。俳句や狂歌をたしな む。これまでにいちばん忘れられない思い出は、昭和五二年に皇太子ご夫妻が植樹祭でおみえになっ たときのことだという。 「少し離れた所でお見送りをしていました。すると、美智子妃殿下がコースをはずれて近寄られ、 『おいしかったですよ。頑張ってくださいね』と声をかけてくださいました。トクさんもこの頃はま だ元気で、車椅子でお迎えをしたんです。トクさんは部屋に呼ばれて、『今日は楽しみにして来まし たよ』と、お言葉をいただきました」
 康恵さんにとっても、トクさんにとっても、人生最良の日であったに違いない。  作家の小林秀雄さんも的山荘を愛されていた一人であった。小林さんはよく夫妻で来られた。いつ もムッツリしていて、康恵さんには怖いという印象が強かったらしい。 「あるとき、いつになくお顔がやさしくて嬉しそうにみえました。何かおありになったんですか、と 奥様におたずねしたら、先生は今日『本居宣長』を脱稿なさいましてね、とお答えになりました」
 そのときの小林先生の顔がとても印象的だったようだ。  残念ながら、城下カレイは量産がきかない。やはり、郷土料理はその土地で、風物、地酒とともに 味わうのが一番だ。東京から日出町まで飛行機を使えば二時間余り。ことさら宣伝したわけではないが、的山荘のファンが東京に多いのもうなずける。
 昭和五九年、地域の資源を活用した料理で日出町の一村一品を全国に紹介し、地域活性化に貢献し たという理由で、私は的山荘に一村一品運動の功績賞を贈った。 「大任を終えし夕ベの花芙蓉」 皇太子ご夫妻に食事を差し上げたあとにつくった康恵さんの句である。    

 金山をよみがえらせた鯛生博物館−中津江村

 金を埋蔵する山は地中の金の精気が頂上から立ち上がる。昔の山師は「神灯」と呼び、これをたよ りに金を探しあてたという。 ------大分県と熊本県の県境、日田杉が密生する津江山系の奥深くにある鯛生金山。江戸時代、この金山が幕府の目をかすめてひそかに発掘された。このあたりは幕府直轄の天領で、日田には西国郡代がおかれ、「日田金」と呼ばれる公金貸付業者の集まる金融の中心地。この郡代に勤める武士が金山に目をつける。これに代官と幕府の隠密も加わった。---
 松本清張作『西海道談椅』はこんなストーリーで、妖気とスリルに満ちた時代小説になっている。
 だが、これはフィクション。実はこの金山は、明治二七年に行商人の拾った石が金鉱石とわかった ときに誕生し、大正から昭和にかけて東洋一の産出量を誇った。従業員、家族合わせて一万人以上。 山間の峡谷に一大市街が現出、不夜城といわれたネオン街もあったと郷土史にある。小学校や中学校 の社会の時間に習った人もいると思う。しかし、その後、産出量の減少により昭和四七年閉山。教科書からも姿を消し、村はすっかりさびれて、人口一五〇〇人足らずになってしまった。
 当時の斎藤隆一・日田郡中津江村長が、村のお荷物になっていた廃坑利用を思いついた。全長一〇〇〇メートルの旧坑道内に、臘人形を使って全盛時代の削岩、選鉱、積み出し風景をリアルに再現し、 客を呼ぼうというものだ。私は斎藤村長からこの構想を聞いたとき、すぐにこの伝奇小説を思い出した。早速、PRのため清張さんに小説のテレビドラマ化をお願いした。ヒロインには大分市出身の古手 川祐子さんを、という願いもかなった。
 昭和五八年四月、清張さんをお迎えしてテープカットが行われ、地底博物館・鯛生金山がオープン した。清張さんにはナレーターも引き受けていただいた。金山に入ると、マグシーバーから清張さんの声で説明が聞ける。博物館の人気はうなぎ上りで、夏休みには車が長蛇の列。一日の入場者数が七 〇〇〇人を超えた日もあった。地元の新聞は「今や中津江村は、昼間は過密状態」と報じた。
 ただ、こういう施設は一度行くと、なかなか二度訪れるということはない。入場者数をどれぐらい維持することができるか。これは企業努力である。村役場から出向した営業担当職員が、全国各地の 旅行代理店をまわった。慣れない仕事であったが、必死の思いでオープンにこぎつけた村長の覚悟を知っていた。福岡の旅行代理店には九州観光のルートに乗せてもらった。
 斎藤村長は次々と新規の客寄せ策を講じた。オープンの翌年に鯛生金山資料館を建設。坑内にはレーザー光線を取り入れ、霧を人工的に発生させた。光があたると虹のようになる。固定したままの臘人形を動くようにした。一度来たお客さんが、二度も三度も訪ねてくるよう努力を続けた。
 年間売り上げは、入坑料一億五〇〇〇万円に、コンニャク、ワサビ、シャクナゲ、エビネ、金粉入りの酒といった村の一村一品が三億円。販売ルートがないため細々としか作らなかった農家が元気になった。特にワサビの需要が増えた。ワサビは高地で、しかも水がきれいな所でしか栽培できない。 九州では中津江村が最大の生産量。そこで、村ではワサビのバイオ研究所をつくり、苗の供給を自前で始めた。ワサビは加工品としても出荷した。 加工場は次々に大きくなった。
 かつては村の重荷であった廃坑が、ついに"金の卵"に変身した。マイナスをプラスにする"逆転の発想"で、再び「神灯」がこの山から上り始めたのである。 「もし失敗したら、俺が首をくくる」とまで公言した斎藤村長は、常に村民の幸せを考え、村の発展 を願うリーダーであった。博物館が軌道に乗るとわかると、「これで首をくくらずにすみました」と 笑っておられた姿が目に浮かぶ。
 六三年四月、斎藤村長は病に倒れ世を去ったが、その遺志は北村村長に受け継がれた。
 坑内には二匹の金の鯛が飾られ、人気の的になった。鯛生金山の関連施設として「鯛生スポーツ基地」を整備、付設の地域活性化センターでは鯛生焼やアクリル加工の実習ができる。家族旅行村では 宿泊も可能。ラグビーの九州代表や中学、高校チームが合宿し、今では九州のラグビーのメッカにも なった。 高度成長時代、自治体はじっとしていても税収が伸び、住民サービスは向上した。これからはそうはいかない。創意工夫する市町村と、惰性でいくところとは格差がつく。企業経営と同じことだ。

  丸干しイワシを追っかけろ−米水津村

 日本一の丸干し産地は、県南の米水津村宮野浦地区にある。代々続いたイワシ加工。それも、小さな湾内でとれたイワシだけを加工していた。空っ風に吹かして作業をするが、夏場は蒸れてしまってまったく加工できない。作業はせいぜい三か月ぐらいで、本当の季節商品にすぎなかった。「年間商品に育つとは夢にも思わなかった」  日本一のイワシ産地に育て上げた高橋治人(高橋水産代表・前米水津水産加工協同組合長)が振り返 る。 「企業である以上、毎日仕事をしたい。少なくとも会社というからには…」
 高橋さんは「イワシ加工業はもうダメか」とつぶやかれていた昭和四六年に帰郷、家業を継ぎガムシャラに働いた。まず量の確保だ。丸干しにするのはマイワシの一歳魚だけ。イワシの群れは暖流に乗って移動し、各地の海で産卵する。東九州に来るのは五月、六月のほんの一時期で、冬には宮城県 の金華山沖にいたる。まさに"イワシ前線"を追っかけての旅であった。 「一年中漁ができるというのは大発見でした。冷凍庫のない時代に、タンクを塩と氷で冷やしながら トラックを走らせました」  若いからできた。"追っかけ"をやったのは宮野浦の男たちが初めてであった。ほかの産地は近くの湾に来たイワシを使うだけで、年間操業のノウハウは持っていなかった。"追う"ことは、宮野浦の湾 が小さかったから生まれた逆転の発想であった。  丸干しの乾燥場は、冬場、北風が吹きつける港であった。高橋さんは冷風乾燥機を開発し、人工の空っ風をつくった。原料の冷凍技術が上がり、配送、輸送も冷凍車で運ぶことができるようになった。 高橋さんは消費者の好みにも気を配った。最初は丸干しイワシを木箱で送っていたが、都会ではこれ を高い人件費を使って仕分けする。それなら、人件費の安い自分のところでやったほうがもっと高く 売れる。大量消費の時代から個食の時代。最終的には家族が一回で食べてしまえる量ということで、 十匹入り一〇〇グラムのパックにした。東京市場と名古屋市場では消費者の好みが違い、売れる商品も違う。 「情報は足で稼ぐしかないんです。一か月に二度は上京します。夜の九時になると全国の商品が集まり、五時過ぎからセリ。この間に情報を吸い取ってしまうんです」
 良い商品があれば全部持って帰る。少しずつもらって、帰ってからゆっくり分析するという。それ がまた宮野浦の商品づくりに役立つのだ。  マーケティング活動は各地の漁師にも及ぶ。仕入れは市場を通さず、漁船との直接交渉で取り引き する。安く買いたたかない。イワシは値段が安いので、扱いが粗雑になりやすい。漁師に細かく指導 して、買い入れる分は特別扱いにする。このとき、漁師から各地の情報を教えてもらうというわけだ。
 もう一つの特徴は、仕入れ、労務管理、失業保険といった業務は共同で行うが、商売の根幹は別々という方式だ。味も、作り方も、販売ルートも異なる。 「宮野浦ブランドをつくったらどうかという話はあります。しかし、共販だと怠けるほうが勝つんで す。自分が一所懸命作った商品で、他人に負けないという自信があるから、自分のブランドで売る」
 伸良しクラブではうまくいかない。産地間競争の前に、産地内競争がある。その結果、東京市場で米水津の業者同士がトップ価格を争うまでになった。
 現在、宮野浦水産加工組合には十九の業者がいる。ほとんどの業者は、Uターンしてきた若者が後継者として頑張り、競争心が強い。 「文化というのは一所懸命に働いているところから生まれるんです。頬かぶりをしたばあちゃんが魚を扱っていて、潮の香りがしてくる。都会では、頭が悪くても歯車に入れば生活ができる。田舎は頭が悪ければダメ。優秀な人間しか残れません」
 宮野浦の丸干しは。ロサンゼルスまで運ばれる。パッケージには「いわし丸干し」と書いてあるだ けだ。これが"日本らしさ"なんです」と、ここでもマーケティングの強さをみせていた。  ライバルとなっていた産地が後継者難で生産が落ちているのを尻目に、宮野浦では業者が競い合って、品質の良さと、いろいろな加工品の開発で業績を伸ばしている。 「全国から商品の引き合いがあります。これまで順調に伸びてきて、平成四年度の組合全体の売り上げは三〇億円を突破しました」(山田実・米水津水産加工協同組合長)  村は順調な伸びを見越して、一万平方メートルの水産加工団地を造成した。希望が多いので、工場 が手狭な業者を優先。いま、新工場建設ラッシユが続いている。景気後退のなか、ここだけは「元気いっぱい」だ。

  車えびと心中覚悟で−姫島村

 平成四年十一月、姫島車えび養殖株式会社の出荷ラインは毎日早朝から車えびの出荷作業に追いま くられていた。車えびの出荷は普通六月半ばから十一月までの半年間。年末はその三分の一を占める。 国内のほかの産地や、台湾など外国の産地で病気が発生し、生産量が落ちていたこともあって、姫島車えびは売り上げが一気に増え、六年連続で年間一五億円を超えた。作業に忙しい職員の表情にも嬉 しさがあふれている。
 東国東郡姫島村。国東半島がら洋上五キロの地点にポッカリうかぶ姫島。周囲十七キロ、東西七キ ロ、南北四キロの小さな島で一島一村。姫島の名は日本書紀にみえる。「新羅の一少女が姫島に渡っ て比売語曽の神になった」とある。人口三二〇〇人。毎年ウラ盆の八月十四日から三日間、島は鎌倉時代から受け継がれた盆踊りで染まる。特に、キツネの扮装をした子どもたちが軽妙な踊りを見せる 「キツネ踊り」は、コマーシャルで一躍有名になった。訪れる観光客も年々増加している。  姫島はもともと塩の島であった。ところが、塩が工業的に作られるようになって、昭和三四年に製塩業が廃止。残された一〇〇名の従業員の雇用と、塩田跡地利用の問題が藤本熊雄村長の肩に重くの しかかった。このとき、塩田跡地を利用して始めたのが車えびであった。しかし、技術未熟で失敗。
 出会いは、人生や村の行く末も決定づける。藤本村長は一人の"車えび博士。と出会った。藤永元作さん。車えびの孵化に執念を燃やし、損をしてもへこたれることなく、ついに車えびの養殖技術を 商業ベースに乗せた人物だ。車えび養殖が産業として成り立つのだという二人の強い信念が、三八年 に「瀬戸内海水産開発株式会社・姫島養殖場」を発足させた。作家の今東光氏や大宅壮一氏らの出資 もあり、「文士えび」として新聞紙上を賑わした。しかし、稚えびを大きくすることができず失敗。  四〇年、瀬戸内海水産開発は姫島養殖場を手放すことになり、村が買収した。「姫島車えび養殖株式会社」を設立したものの失敗続きで、累積赤字は昭和五〇年までに一億五〇〇〇万円に達した。銀行も資金提供を見送るなかでの村の経営であった。
 五一年に初めて七〇〇〇万円の利益を出した。実に十七年目の黒字であった。といっても、成功の原因は天候に恵まれたこと。五五年には冷夏と長雨で車えびが病気にかかり、一年で一億二〇〇〇万 円の赤字を出した。理由は技術不足のために出荷が安定しないことであった。民間への払い下げの話 があったが、村長は車えびとの心中覚悟で続行を決意していた。
 技術革新は悲願であった。藤本村長は藤永博士のもとで研究を進め、山口県に養殖場を持つ山下泉さんを迎えた。山下さんは水質、水温、酸素含有度、さらに餌や適正な生育数をきちんとデータ化して管理した。外から買い入れていた稚えびを自家生産に切り替えた。その結果、五六年度には一四〇 トンの出荷で七億五〇〇〇万円という過去最高の売上高を記録した。このとき以来、車えび養殖は成功が続いている。  六一年度に十億円を突破。六三年度には十六億二〇〇〇万円に達した。養殖池は十四か所一三九 万平方メートル)になり、生産量は二五〇トン。国内シェアの一割を占めるようになった。もちろん、 一企業としては日本一である。ここで養殖された車えびのほとんどは、生きたままオガクズに詰めて東京市場に空輸される。江戸前の車えび、生簀は姫島にあり---というわけだ。
 なぜ藤本村長がここまで真剣になったのか。島を去る若者にハンカチを振ることしかできなかった 歯がゆい思いが、藤本さんを駆り立てたのである。島に企業が来ることはあり得ない。ならば、自前で企業を興すしかないのだ。村民は車えび養殖に消極的だったが、村長の情熱が伝わり、徐々に事業参加するようになった。車えびの成功は、村長を中心とする村民のチームワークの勝利であった。
 藤本村長は昭和五九年十月、七三歳で他界した。後を継いだのが長男の昭夫さんである。五五年、 父から「えびは絶対に儲かるから、えび会社に入れ」と説得されて、東京からUターンした。その年 に大赤字になったのだから皮肉なものだ。この赤字は、逆に本気になってやらねばと覚悟するきっかけにもなった。前村長の死後、村民から推されて無投票で村長に就任した。 昭夫さんは流通部門の強化を急いだ。六三年三月に姫島商事株式会社を設立。販売と広告企画を一手に引き受け、贈答用商品のPRに力を入れた。東南アジアから安価なえびが入ってくるので、販売基盤を急いで固めておかなければならないからであった。いま、営業マンは全国のデパート、小売店をまわっている。 「関東、関西、それに福岡が中心です。今年は品物が少ないため、とにかく入れてくれと言われてい ます。強気で商売できるのはいいですね」と東清高・営業部長。
 姫島で生産される車えびの九割が市場出荷で、直販は一割にすぎない。市場出荷は安定してさばけるが、中間業者が入ることで消費者のニーズが直接伝わりにくいし、価格が変動しやすい。一尾三〇 〇円で出荷したものが、東京市場から小売に出たときには八○○円にはね上がっていることがザラに ある。高級料理店に出されたときには、見当もつかないという。直販への展開がこれからの姫島の戦 略だ。  現在、姫島車えび養殖株式会社で八○人が働き、姫島商事には四人がいる。「雇用と村の基幹産業の確立」を掲げた藤本熊雄村長の志は、これからも引き継がれる。

  一村一品運動の三原則

 一村一品運動を総括すると次の三点に絞られる。
 第一は「ローカルにしてグローバルなものに仕上げること」。私は「ローカルであればあるほどグ ローバルである」と考えている。地域の特色を出せば出すほど、国際的に評価される。文化とは優れてローカルなもの。もちろん、ローカルなものが、即グローバルなものではない。それに磨きをかけ、 内容を洗練させなければならないことは言うまでもない。
 二番目は「自主自立・創意工夫」。上から提唱された運動は長続きしない。自らがリスクとアカウントを背負うほうがうまくいく。県が一村一品を指定して育成するのであれば、うまくいかなかったときに、県が買い上げてくれ、補償してくれ」ということになる。大事なことは「やる気」である。 地域が何をするか-----それは地域住民の自主性に委ねられている。県は側面から支援する。  三番目は「人づくり」である。一村一品運動に成功した地域に共通点があることに気づかれると思 う。いいリーダー、地域の核となる人がいたということだ。リーダーとは"コロンブスの卯を生む人" でなくてはならない。過疎地だからといって悲観することはない。逆転の発想で、「障害になっていること、困難にぶちあたっていること、それが地域づくりを成功に導く糸口である」ことを知ってほ しい。
 一村一品運動は単なる特産品づくりではない。特産品を生み出すにいたるまでの努力、やる気をど う起こさせるかである。人がやったことに「ああそうか」とうなずくのはやさしい。だが、最初にコロンブスの卵を立てれば、それを見た感動が部下を鼓舞する。リーダーは常に逆転の発想を持つこと だ。
 良いものを全国的な規模で作るなら、県外から大資本がやって来てやればいい。そういうことをやっている地方もある。それは別の次元の話だ。あくまでも地域の特色を出し、住民の創意工夫でやっ ていく。これが結局長続きするのだ。大資本の導入は効果が現れるのも早いが、うまくいかねばすぐ 引き揚げとなる。終焉も早いことを忘れてはいけない。
 大分県では、優れたリーダーの哲学を学ぼうと、昭和五八年に「豊の国づくり塾」を開塾させた。 私が塾長になり、県下十二塾の塾生一人ひとりに入塾許可証を手渡した。一塾約三〇人、夜学を中心に二年間の課程。一年目は地域のリーダーから地域づくりの成功例や失敗例を聞き討論する。二年目からは実践課程に入り、自分たちの地域で実際に取り組んでもらう。 これまでに各塾とも二期生まで卒塾し、卒塾生は合計七七八人。さらに、卒塾生が中心になって各地域でも次々に市町村塾が誕生した。二四塾、七一九人。豊の国づくり塾、市町村塾の大学院も設立し た。「豊の国づくりこすもすコース」だ。卒業生一四五人。これらの塾生たちが地域住民を巻き込んで運動を展開する。  塾生を囲んで夜を徹しての地域づくり論議。麦焼酎を片手に口角泡を飛ばす。地域づくりに取り組 む遣は険しい。しかし、必ず未来は開けるものである。地域を愛する人がいるかぎり、過疎は怖くな い。そういう人を育てたいと思っている。「人づくり」こそ一村一品運動の究極の目標である。  地域に「やる気」を起こさせる。地域CI運動はさらに深く深く住民の運動へと広がっていく。

  一二三万人のCI運動    

 さして資源のない大分県だが、一村一品運動を通じて、住民にいい意味での競争意識が生まれ、やる気が起こったことは確かだ。大分の一村一品運動が地域おこしの一つの代名詞になり、視察者や研 究者が海外からもやって来る。そのことが逆に地域の人たちに誇りを感じさせ、さらにやる気を起こさせている。
 モノだけをみると、大分の一村一品はカボス、シイタケ、大葉、城下カレイと、いかにも小規模で、他県の名産や銘柄品に比べるとひ弱だし、県民所得もさほど増えていない。過疎率(全市町村に占め る過疎市町村の割合)は七七・六%と全国一位。
 しかし、私は「大量生産で全国市場を席巻する日本一のものを作れ」と言っているのではない。ベ スト・ワンよりオンリー・ワンを狙うのだ。それぞれの地域の創意工夫で、その地域にしかないものや観光資源を売り出し、それによって地域の人たちが充実感を持ち、良きリーダーが育っていけばい いと思っている。県下にたくさんの塾生が生まれ、それぞれの地域で地域づくりに取り組んでいる。 そういう目でみれば、かなり成果があがったと思う。
 ただ、現在の東京一極集中のなかで、地域の活性化はますます環境が厳しくなっていくし、若者の流出もとまらない。モノづくりを通しての人づくり、人づくりを通してのモノづくりを今後も粘り強 く続けるほかに道はない。継続は力である。 生産中心のGNP(Gross National Product=国民総生産)型社会から、充足度中心のGNS(Gross National Satisfaction=国民充足度)型社会への転換期を迎えるいま、経済だけの豊かさではなく、心の豊かさを含め、地域が本当の豊かさを享受していかなければならない。社会の高齢化が進むなかで、豊か な人生をめざして、一村一品は「一村一文化」「一人逸品」へと進む。県民一人ひとりが一つずつ誇れる文化を持つことだ。 一二三万人のCIを集積して、二一世紀の大分県を、モノも豊か、心も豊かな「豊の国」にしていくの である。ここに、これからの一村一品運動がある。  

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