ここまでは「たすきがけ、観光の町づくり」のいわば序幕である。これから本番の幕が開く。しかし、それを書くにはまだ時が熟していない。傷つく人も多い筈だ。歴史の匂いが、まつわるまで放っておこう。だが、その後の流れの粗筋くらいは記しておかねばなるまい。そうでなければ序幕の容(かたち)がはっきりみえてこないと思うからだ。

   それからどうなったか?

 本幕は昭和四十一年二月、岩男町長の五期当選で始まる。完全無競争、独走態勢。これから三年間が「明日の由布院を考える会」と「岩男指導体制」との力押し、からみ合い、疾風怒涛の時代になる。大分新産都計画がどっかりと居坐わり、都町のバアの数が十倍にふくれ上がってすでに完熟の匂いをただよわしていた。

 その頃湯布院は猛烈なスピードで走っていた。岩男町長のスピードである二百カイリ問題から第一次石油ショック、さらに世界的低成長時代が踵の後ろに迫っていたのだが……。

四十六年一月 大山町と接触始まる。イスラエルヘの夢ふくらむ。
    二 岩男町長、第五期就任、無競争。
    三 町有原野四十三二一ヘクタール、東急土地開発へ売却、別荘団地建設用地。
    三 ごみ処理場落成。
    三 明日の由布院を考える会、発足。
    四 農協に「みそ造り」働きかけ始まる。
    五 花水樹No三・発行。
    六 〃 No四・発行。
    六 志手康二、溝口(梅木)薫平、中谷健太郎、ヨーロッパ町造り視察、西ドイツの保養温泉地構想を持ち帰って町に働きかけを始める。
    七 学校給食センター落成。
    九 湯布院町議会、東急土地開発へ町有原野七十五・六ヘクタールの売却。
町有原野八十一・三ヘクタールの賃貸(二十年間)を可決、売却金額四億二千七百萬、賃貸金額、十アール当、年間千円。
    九 明日の会、東急土地開発土地買却問題をとりあげ、花水樹に特集。
    九 町より東急問題につき概要説明をうける。
    十一 みそ造り、農協婦人部有志によって各村落分担作業始まる。
    十二 東急土地開発と「土地開発事業についての確約書」を結ぶ。これによって開発事業に町側チェック可能となる。
    十二 花水樹No五・発行。

 岩男町政最後の幕開きに時期を合わせて「明日の由布院を考える会」が誕生している。志手、梅木、中谷の三人が西ドイツの温泉場を私費研修し、保養温泉地構想を持って帰ったのもこの年。爾来十一年、その実現に向かって執拗な歩みを続けている。五十七年の「五十人委員による百日シンポジウム」にみられた「目付きの凄さ」は彼等の情念がまだ燃え続けている証しである。

 総事業費八十二億と言われた東急ファームタウン計画が突然登場し、明日の会を中心に果敢な論議を呼び、物議をかもしたのもこの年である。一方で手造りみそが、農協婦人部有志の手で造られ始められたのもこの年。観光屋のエリートたちが、大型の観光開発に反対し、農家の手造りみそ運動を応援したという所に「たすきがけ」の湯布院の面目がある。彼等は「馬鹿」と呼ばれていた。

 四十七年はある意味で湯布院の公的な町造りが、絶頂期を迎えた年である。観光客の含込み数は百九十七万人を越えた。もちろんこれは入り込み数であって宿泊客ではない。全くの通過客が八十%以上とみてよい。町関係の施設は四十六年に続いて同じハイピツチで進められ、三月、中央公民館、七月、由布院小学校ナイター施設、八月、トマト選果場、十二月、屋内プールと矢つぎ早に竣工している。ほかに村落あちこちの施設を入れれば竣工式の赤○(マル)はカレンダーを埋めつくすだろう。

 それにくっついて離れず、観光屋たちは走っている。夏には九州芸工大の応援を得て環境設計に乗り出し、秋にはそれをまとめて一ケ月間公民館に展示し、町民の反応を求めた。同じ時期に全九州から統一案内標識のデザインを公募し、野立て看板一掃に乗り出している。町、観光協会、九州芸工大の三者協力で行われたこの計画は「道路空間の設計」と命名されて、その後の町の環境計画策定に重用された。しかし凄い勢いで竣工されてゆく鉄と、ガラスと、コンクリートの巨塊群を眺めながら明日の会の洞穴から観光屋たちがこん身の力を籠めて放ち続けたジュノンの矢は「人間の生きる場を造ろう」という標的に正しく突き刺さってひるがえったか?

 町は自然環境保護条会を策定して乱開発に待応し、青少年の町を宣言して「住民のための町」を謳い、町と自衛隊との合同運動会を軌道に載せて、和気あいあいの湯布院を幻出し、防衛庁補助金審査官の前に幻燈して走り続ける。

 この年、牛一頭牧場運動が生れ、花水樹、六号と七号が出た。


 四十八年、サファリパーク事件が起こった。

 由布院盆地東の、その名も「おとぎ野」という、月見草の乱れ咲く牧野を同じ東急土地開発に賃貸しようというものである。牧野組合も、牛を飼っている組合員と、飼っていない人との間で意見が割れ、地域的にも下流の村落が排水を心配して反対に廻ったので事は大騒ぎになった。九月、明日の会が県内関係諸氏を招んでサファリパーク用地賃貸借契約の検討会を開いたから騒ぎは大きく拡がった。観光や商工の町民もようやく賛否を分け、東急側も説得に乗り出してくる。町側も説得を始めた。安心院にできる話もからんできた。騒ぎは複雑に混濁するばかり。折しも岩男町長は副知事出馬説から一転して参議院立候補と決まり、サファリパーク騒動は急転して華々しい選挙戦が始まった。こうして四十八年は暮れてゆく。二十年に渡る、ダイナミックな岩男町政時代が終り、大資本の地方開発列島改造時代が終り、サファリパークも湯布院を去った。静かな時代が来ようとしていた。しかしこの事件から湯布院観光は内部亀裂をみせ始め、翌四十九年、自衛隊移駐反対の運動の中で致命的な状態に突入する。死に体のまゝに突走る湯布院観光の足許から次々に花が咲いた。

 四十九年、第二幕の開幕である。

四十九年二月 清水喜徳郎氏、湯布院町長当選、岩男頴一前町長、参議院当選。
      八 別府自衛隊湯布院移駐問題再燃。有志連名で統一見解を出す。
      九 自衛隊移駐反対決議、由布院温泉旅館組合。
     十二 第一次石油ショック、灯油配給、チリ紙騒動。
五十年 四月 大分中部地震・被害総額五十億円。
      五 対馬に辻馬車用の馬を買いにゆく。
      七 辻馬車走る。
      八 第一回、ゆふいん音楽祭「小さな星空のコンサート」
      九 し尿処理施設着工、事業費四億四千万円。
      十 第一回、牛喰い絶叫大会。
五十一年五月 北海道池田町・町造り視察。
      七 シンポジウム「この町に子供は残るか」
      七 季刊観光新聞「ゆふいん」発行始まる。
      八 第二回、ゆふいん音楽祭。
      八 第一回、湯布院映画祭。
      八 第一回、古典落語を聴く会。
      十 第二回、牛喰い絶叫大会。

   つるべ撃ちイベント作戦

 清水町政になって、なぜか第一次石油ショックがきて、世の中どん詰まり、し尿処理場が満杯で衛生車も立ち往生する。

 清水町長は前農協参事吉岩利夫氏を破っで当選したが、吉岩氏を推したのが岩男前町長だった。その岩男氏は参議院に当選している。ややこしい混乱が始まったがそのドまん中で五十年、大地震がきた。被害総額五十億−。

 さて、そこからどうして辻馬車が始まったのか?音楽祭が始まり、映画祭が始まったか?牛喰い絶叫大会が始まったのか?今日までそれらが華々しく続いているのはなぜか?湯布院壊滅説がただよう砂塵の下からどうやって湯布院観光は蘇ったのか?その「したたかさ」の仕掛けはいったい何なのか?

 湯布院観光は分裂直前にあった。観光業者といっても巾が広い。中にはいろんな利害関係が錯綜している。それを貫いて観光客のリーダーたちは長い間突走ってきた。その破綻はいつかはくるはずだ。四十八年のサファリパーク反対と四十九年の自衛隊移駐反対とが湯布院観光業界を決定的にひき裂いた。リーダーたちが率いてきた観光協会とは別に、旅館組合が結束を固め、弱小旅館を代表して「独立運動」を起こした。「サファリがなくても、自衛隊員の消費がなくても、食える一級旅館はいい。しかしわしらは一般ピープルのお客がなきゃ食えんのじゃ。」

 こうして皮肉なことに「弱小旅館が食ってゆくために」展開された「自然環壌の魅力を売る作戦」が、弱小旅館を食えなくするものとして糾弾され、芯の疲れる内戦が始まった。

 不況時代の幕開きの中で、町長選のシコリを浴びながら、内部分裂に手を焼く湯布院観光という舞台設定。そこに降って湧いたのが四月、壊滅的大地震であった。

 この時のリーダーメンバーは観光協会長・溝口薫平、副会長・志手康二、小野和俊、専務理事兼企画担当・中谷健太郎、顧問・富永岩夫、旅館組合長・小野和俊、副組合長・衛藤昭彦といった面々。小野和俊は町議会に這入って実質的には観光の第一線を離れ、後に催物委員として活躍する飯田忠充や清家富士男、富永等はまだ雌伏している。観光協会は常任理事会がニツに割れ、旅館組合も派を分けてまさに天下麻の混乱ぶりである。

 その中で指導者の実力が問われた。横断道路は八月まで通行不能という。テレビや新聞は火がついたように地震の惨状を写し、全国に伝えた。予約の取消しが殺倒し、湯布院中か不安におののいた。

 どうする、湯布院観光?

 湯布院壊滅説を塗り潰し、ひっくり返すために「湯布院健在説」を流そう、というのがメインリーダーたちの作戦であった。「湯布院は大丈夫だ。地震でやられてはいない。静かな、心のふるさとはいま正に健全なのだ」

 それを全国に流す。それも急いで大至急。

 まともに広告すれば数千万円の金が要る。しかも伝播力は極めて薄い。第一、お金があるわけがない。「マスコミの取材を狙え。」勝負は旧本命のリーダーたちの土俵に持ち込まれた。企画担当の中谷を中心に四十才を超える中年リーダーたちが度はずれたスピードで走り始める。

 マスコミ動員のイベントはいままでも随分やってきた。

 しかし今度はいままでと違う。まず時間が切迫している。それから続けて何度もとりあげてもらわねぱならない。単発では「湯布院健在」のニュースをしっかりと植えつけることができないからだ。

 アドバンス大分の編集長、三浦祥子氏の紹介で、東京の若手企画マン、中村金太郎、小川京子の二氏を知り、招待して三日間で「つるべ撃ちイベント作戦」の原案を叩き出した。そのまま原案の具体化にかかり、できるものから交渉に這入る。機関銃、撃ちっ放しといった騒ぎである。たくさんの人たちが力を貸してくれた。

 辻馬車作戦では、宇佐家畜保健所長、梅木国司氏(現、県農政部次長)が対馬に強力な働きかけをして下さり町議会議員の故、加藤貞彦氏が対馬まで同道して馬のみたて品定めをして下さった。KBC・TVの川西到報道部長は「田園、まさに荒れなんとす」という特集番組を組んで、「ふるさとに馬車を走らす若者たち」をPRして下さった。担当の山田龍蹊ディレクターは徹夜に徹夜を重ねて対馬ロケを敢行。文芸春秋の上林吾郎副社長は「ハイウェイに戦車が走り、町道に辻馬車が走るふしぎな町」ということで、文芸春秋本誌に六頁ものグラビヤを組んで下さった。たくさんのマスコミの友人、知人、先達が、湯布院観光ランナーたちの請いを容れて、紙面やブラウン管をさいてくださった。

 ランナーたちも頑張った。宮永、溝口、中谷、小野は一頭ずつ個人で飼育し、いざというときの代替馬とした。富永は棒を振るって愛馬を叱咤し、溝口はエルメスのジーンズに、ボルサリーノのハンチングを極めて馬車を禦した。

 第一回ゆふいん音楽祭は、これも三浦編集長の紹介で東京の音楽評論家、保柳健氏が強力に動いてくださり、九州交響楽団の岸辺百百雄氏が「意気に感じて」乗り出してくださった。由布院小学校の大島先生が生徒を率いて参加してくださり、生徒約三十名が岸辺氏率いる十五名の室内楽奏団をバックに、生れて初めて生ま演奏で歌った。野外演奏会での星空があまりに美しかったので、その夜の演奏会は「小さな星空のコンサート」と名付けられた。焼酎パーティの席上、中谷が「岸辺先生、これからも続けてください」と言うと、謹厳せん細、白面の岸辺先生は「モモヲサントヨンデクダサイ。」と言い、焼酎が美味しい。星が美しい。十年は続けようと仰言った。

 この調子で書いてゆくと、また一冊の本になるのでやめるが、例えばジャズ祭を巡っての大分市「ザドー」の得丸泰蔵氏のマニアックな肩入れ。(星空の下のジャスコンサートで、突然「スターダスト」「アラバマに陽は落ちて」などがフューチュアされたときの、得丸氏の、陶然とした顔つき)。「古典落語を聴く会」の落語協会顧問医師、寺尾尚先生の、病いを押しての徹底的お世話ぶり。先生は、志手、溝口、中谷の三人がヨーロッパに乞食研修旅行をした折、パリでお世話になった方である。その時の奥様の手料理に感激した三人は、爾来「お世話になるコネ」を大事に結び続けていたのだ。いまは病いで身動き不自由な先生があの夏の夜、篝火の明かりの中で ベアトリネエちゃん、まだネンネェかい」と唄いながら、中谷を抱いて踊りまくったのだった。

 そして牛喰い絶叫大会。佐藤清隆、衛藤一夫、近藤和義といった牛一頭牧場の面々が、秋の収穫を放り出してやってくれた。昨年、牛の全国共進会で農林大臣賞を獲った荻重利氏が、第一等の肉牛をみたててくれ、屠殺に廻してくれ、捌きの世話までしてくれる。佐藤清隆氏が小捌きの先頭に立ち、みんな血だらけで肉を担ぐ。

 秋晴れの絶叫の日には奥様も、鍋、釜、皿まで動員して、祭りまみれの一日である。足弱のお客様は耕うん機に載せて運んだ。役場の秋吉氏は騒音測定機を担いで駆けつけてくれ、元商工会指導員の佐藤雄也氏はお祭り男の面目をひっさげて、太鼓を打っての進行を買って出てくれる。清水町長も高田議長も参加して賞金スポンサーになり、町内外の多勢の「ゆふいんファン」が大声を挙げて登場してくださった。

 そして映画祭。「大分良い映画を見る会」の伊藤雄、田丼肇、三宮康裕といった面々(会員約三十名)が、ほとんど気狂いの働きぶりをみせてくれた。彼等は四日間の湯布院映画祭のために一年間を働き、半年間を段取り準備に夜更しし、前夜祭を入れて五日間を殆んど寝ずに詰めて、そして赤字を給料の中から月賦で払うのだ。さらに東京でなぜか自費自前で奔走し、作品借出しからゲストの口説きまで、のっしのっしと進めて下さっている映画評論家の白井佳夫氏。渡辺武信氏ほかたくさんの支援、参画、協力者の方たち。その名前を書き並べるだけで、また別の一冊の本になる。

 殆んどの演者、ゲストがノーギャラで飛んできてくださり、地元の宿屋は安く泊め佐伯印刷はほとんど実費。

−商店はパンフレットに助勢広告。

−航空会社は半額か、無料。

−映画会社はフィルムほぼ無料貸出し。

−音楽祭はピアノの賃貸から調律までこれもほぼ無料提供。サービスは実行委員のほかに観光関係の役員が、出ずっぱりで受入れの世話をやく。町は無い中から補助金を組んでくれ、清水町長がパーティからシンポジウムまで参加してガッチリ気分を盛りあげてくださる。もちろん会場の公民館は使用料無料。職員は全員が非常態勢。切符の販売には地元の各位は足棒、軒並み作戦。町外の人たちまでが、自称「外地駐在員」として汗だくで奔走してくださる。福岡の田中孝御夫妻(モーツァルト・アンサンブル事務局長)・寺田健一郎御夫妻(画家)、辻和子(RKB・ディレクター)・福岡の田井修二(ギタリスト)・東京の小林道夫(ピアニスト)諸先生の、あきれるほどのごひいき・肩入れがなけれぱ音楽祭は始まってもいないし、続いてもいない。映画祭に到ってはもう無数に近い人たちの「応援」と「心意気」の固まりである。ありがとう、湯布院を恋してくださるみなさん。

   地方の時代のトップランナー

 話を湯布院観光軍団に戻そう。内部のもつれはどうなったか?

 もつれはもつれのままであった。もつれのままに彼等は走った。いや、もつれが彼等の手口を一層引締め、スピードをより速めたと言える。

 彼等は後ろから斬られながらそのままの形で前に走った。

 後ろの批判派をかまっている時間がなかったのだ。

 前の乱麻を斬り払う彼等の一閃は百尺棹頭を跳んで捨身の一事にならざるを得なかった。その押し詰められたエネルギイが眼にも鮮やかなイベントを次々に生んだ。批判派こそイベント群の生みの親であった。

 批判派の旗頭であった衛藤昭彦(民宿なかや)は当時を述懐して言う。

 「どこを切っても三人が顔を出して、金太郎飴のごとあったなあ。トップの仲間の間ではわかっちおったんじゃろうけど、われわれのような、その他多勢の口には何がどうなっちおるのか、さっぱりわからんじゃった。みんなはわけのわからんままに追いたてられて、曳き廻されてち言う感じじゃった。」

 たしかにそうだった。その不満を明快に写しだしてゆくことが、みんなを曳っぱって走るのに必要誠実な方法だった。

 ゴム紐がネジ切れてしまわないために、批判派は逆の方に少しずつ、ネジをゆるめ続けた。ネジを巻く方も、ネジをゆるめる方も懸命だった。そして七年が過ぎた。「その他多勢」を名乗った衛藤昭彦氏はいま町議会議員であり、観光協会長である。同じ議員の小野和俊氏(ペンションゆふいん)と組んで大手直正面から保養温泉地構想を推し進める僚将でもある。湯布院観光の攻め口は大手、搦手、ゲリラ、正規と幾層にも重なって、構造的に展開され始めているのだ。

 

 しかし七年前、時は戦国。舞台は「石油ショック」と「大地震」と「政権交替」を背景に「乗るか反るか」の正念場であった。機関銃のように撃ち出される企画を、同じスピードで具体化してゆかなければならない。金太郎飴の顔が出ようと、尻がでようと、そんなことに構ってはおれなかった。旧派リーダー達の強引なイベント作戦が続く。

 五十一年七月の町づくりシンポジウム「この町に子供は残るか」が、新旧の亀裂を冷たく鋳型に固め、決定的なものにした。北海道池田町についで湯布院で行われた地域開発センター共催のこの催しは、ようやく全国に広がろうとする地域主義運動の嚆矢であった。町長が参加し、企画課が窓口になり、二十人から三十人の町民有志が毎晩十二時まで、六日間プレシンポをやって、二日間延べ三百五十人の全国ゲストを迎え撃ったこの会は、町中の話題をさらった。高山英華地域開発センター理事長、向坂正男総合研究開発機構理事長、川喜田二郎KJ研究所長、玉野井芳郎東大名誉教授といった大人物が続々と東京から参加。大分からも後藤孔明大分市助役、八並操五郎中津市長、姫野良平アドバンス大分社長等に加えて、最終日には平松守彦副知事までが駆けつけるという状況に町中が眼をみはった。同時にこの会を企画した数人、六日間の深夜プレシンポに参加した二十〜三十人、それに当日参加した約七十人、さらに全然参加しなかった多勢の町民たちの間に奇妙な縞紋様が生まれた。インテリ、文化人、理屈屋、能書き、喧ましもんから無学、大衆、地着き、不言実行、温厚篤実にいたる、だんだら染めの階級縞紋様である。シンポジウムは成功裡に終り、内容は「地域開発」誌に掲載されて全国に伝えられていったが、町には興奮、混乱、問題、指針、夢、当惑が残った。数人の企画屋たちは浮き上がって焦々と宙を掻いた。しかし大地をまさぐって根を生やす暇はない。彼等は走る。第二回、第三回、映画祭、音楽祭、牛喰い絶叫大会、テレビ出演、PR、新聞コラム執筆等々…。空中を飛ぶお祭りみこしである。

 祭りは砂上の楼閣だった。毎回終るごとに跡形もなく消えた。企画者たちはコロンブスの卵を永遠に割り続けなければならなかった。

 「俺たちが任され専門屋になったら駄目だ」と中谷は判断した。どこを切っても三人の顔が出るなんざあ金太郎飴を通り越して「権力お化け」だ。中谷は観光協会の専務理事を辞め、西日本新聞三十人委員会を退き、新聞、テレビや県関係の公職等から身を引いた。催し物のプロジェクトだけを虫眼鏡風に覗きながら、中谷は蟄居の姿勢に這入った。同じ頃、富永はダイエー保養所に身売りして由布院財閥になり、第一線を退いた。

 志手康二は西ドイツ風保養温泉地の夢を園芸用如露で育てる方向に傾斜。溝口薫平は文化財やPTAの役員を越えて外の舞台に一歩を踏みだす。湯布院観光は大きな世代交替を迎えようとしていた。

 五十三年、中谷は東京の猪爪範子を招んで観光協会の事務局長に据えた。世代交替に向けての敷石である。二年前の湯布院シンポジウムで猪爪は湯布院を訪れている。その赤い糸をたぐって中谷は猪爪を口説いた。猪爪が一年間という条件付きで事務局長を引受けたとき、中谷は従妹の溝口喜代子(玉の湯)に飛び込んで叫んだものだ。「万歳ッ、天の岩戸開きじゃッ。」

 中谷の眼に狂いはなかった。猪爪は役場の片隅に椅子と小さな机を貰うと涼やかな手付きで仕事にかかった。牛一頭牧場の世話、本町の婦人グループ化。花ゲリラ運動。観光瓦版発刊。もろもろの催し物進行、段取り、会議の進行記録、町企画課との接触、公民館との接触、さらに県企画総室から東京霞ケ関との連携と彼女の静かな足取りはしたたかに進む。

 湯布院観光統合本部の風景が変った。むさくるしい金太郎飴グループに替って新潟生まれ、東京育ちの美人将校がさっそうと指揮をとる。これで立ち上らなきゃ男じゃない。もちろん男たちは立ち上がった。

 飯田忠充や富永等、志手一夫が一線に躍り出た。清家富士男も細かく動き始める。協会全体が活々してきた。その精気は猪爪の足跡を伝って、牛一頭の仲間に、商工会婦人部に、公民館に、県の内部に、霞ケ関に、マスコミ関係に流れ伝わってゆく。湯布院観光の立ち直りがみえてきた。

 変化は全町に広がっていった。

 映画祭の周辺に湯布院映画愛好会が生まれ、石川栄(役場課長)ほか約十五人が会員になった。仕掛人は津末潔文(観光社員)岩尾豊文(公民館主事)たちである。佐藤俊彦(観光社員)杜多祥司(建築設計)等若手がこれに続く。夏一回だけの、日本中を舞台にした華々しい映画祭とは別に、湯布院在住の映画好きが集まって月一回、観たい映画を上映して愉しむ。本物の地域文化がようやく芽生えたという説もあるが、そんなことよりも、大分の実行委員メンバーに混じって、湯布院人メンバーが映画祭を支えて走り始めたというところが、目付所である。映画祭が観光協会を離れて、やや反抗・批判的な若者や町びととかかわり始めたとき観光協会が当初狙った「町の持ち味。自力の文化」がようやく芽生えてきた。

 このような独立運動は町内に広範囲に起ってきた。音楽祭は加藤昌邦(観光社員)佐藤博則(銀行員)末田武司(電器商)野々下一幸(竹工)らが中心になって「ゆふいんムヂイク・フェライン」を結成(音楽愛好会ということらしい)。これが観光協会の催物委員会に替ってゆふいん音楽祭のメインメンバーを受持つ。これに古美術の高見乾司・観光の秋永祥治・学習塾の滝口道弘、看護婦の溝口和加子等が参画し、公民館の岩尾豊文、佐藤春世、小野直子等が統合本部事務局を買って出る。

 観光協会が生み落とし、懸命に育て、やがてくたびれ、「もう駄目だ」と投げだす瞬間に「民衆」が登場してそれを受けとめ、担いで走る。人民万才劇的パタ一ンである。

 観光屋の稼ぎのデモンストレーションがじんわりと町造り文化運動に変身してゆくさまがみえる。かき混せが終って醗酵の時がきたのだ。小さな泡が町中に沸々と煮えたぎってゆく。

 この年、SLホテルがオープンした。

 悪評紛々のこの施設は、観光業者が町長をたきつけて造らせたものだという説があるが、これは清水町長の名誉の為にも、あるいは観光業者の面子にかけても、訂正しておかねばならない。経過や因果を説明する時期ではないのでやめるが、町も懸命に立ち向かい、手を盡くしたし、観光業界も審議委員の中核となって慎重に調査したのだ。算盤を弾き、否定し、反対し、成功するための不可欠条件を曳き出し、答申した。結果が悪ければ何にもならないと言えばそれまでだが、結果さえ良ければ方法は問わないというのも怖しい。

   世界中の人が住みたくなる町

 さて本編にも書いたが、この年五十三年六月、金太郎飴組は再度西ドイツを訪れている。今度は清水町長を初め、町議の観光委員長秋吉昭一郎氏ほか町民一行約二十名が同行した。保養温泉地町民研修団である。旅費がなく、銀行も貸してくれず、農協で農振資金を借りて、コソコソと行った七年前の旅とは雲泥の差だった。企画の進め方を巡って協会内にまたあつれきが起こり、喧嘩口論もあったりしたのだが、旅の効能は予想を上廻って波及し、湯布院町の基本構想は保養温泉地造りと決定した。流れは大きなうねりになった。「人間が、人間らしく生きれる、静かで、豊かな温泉地を造ろう」。三人が運動を始めてから七年目である。それで万歳、事が始まったか?そうはいかない。うねりはただのうねりでしかない。具体的な形も定まらないままに保養温泉地構想はゆらゆらとたゆたう。夢と話だけで一年が暮れた。

 五十四年、平松県政が始まった。清新の風が吹き始めた。その風に乗って保養温泉地構想を羽撃せようと金太郎飴組は考えた。まず湯布院の状況・豊度を掴もう。その上に確かな絵を画こう。東京の計画屋さんに依頼するのでなく、町に住んでいる者の智恵と力で・実現可能な、ぎりぎりの計画を立てよう。それにはまず自力での調査が必要だ。中谷と猪爪が東京に飛んで、総合研究開発機構の調査費五百五十万円が降りた。これで二年間、充分の調査ができる。もちろん話は簡単ではなかった。下河辺淳理事長のご好意もあったし、その上司であった平松知事の後援もあった。(下河辺千穂子夫人は三年前湯布院シンポジウムに参加してくださっている)。町長も企画課を動員して応援、県情報センターの北村四郎所長も強力に動いてくれた。中谷は陳情書の効果的な書き方を聞き出す為に、金魚の雲古となって窓口係官の橋立達夫氏に同道、沖縄までくっついていって目的を達している。

 結局のところ「調査費は県の情報センターに流す。調査の対象は湯布院を中心にしながらも近隣の大山、安心院等関係町村を含めて広域のものにする。その代りに猪爪氏を情報センターに出向させて采配を振らせる」という形に納まった。関係先達全員の厚意と智恵が生んだ智恵の輪の名策であった。中谷と猪爪は感謝しながらにんまりと笑った。にんまり笑ったまま中谷は倒れた。過労による慢性アルコール膵炎である。『三年乃至五年の安静療養を要す。』

 さすがの猪爪嬢が碧くなった。しかし彼女の足腰は弾力に富んでいる。崖っぷちを踏んだ所から彼女は攻撃に転じた。ほとんど軽やかにみえる足取りだった。

 五十五年の「安心院ムラおこしシンポジウム」同じく「ムラおこし湯布院炉端討論」「湯布院保養温泉地構想シンポジウム」などが次々に開催され、調査計画はみごとな変身をみせながら完成した。これに続く一連の県内村おこしシンポが平松県政の大きな柱になる。一村一品運動の誕生である。

 こうして湯布院は大分県ムラおこし運動のトップに立った。いや長年のたすきがけの疾走ぶりにようやくライムライトがあたったと言うべきであろう。観光軍団の中堅グループがようやく活発な動きをみせ、町中の小グループが、それぞれのドラマを演じていた。

 五十六年十一月、由布院温泉観光協会に平松知事から「一村一品運動奨励賞」が、贈られた。その受賞式に中谷は入院加療中で出席できなかったが、観光協会長の志手康二と顧問の溝口薫平が揃って顔を並べた。観光協会全員が祝福した。少々くたびれてきた三人の企画屋の隙間を埋め蓋くして、中堅の幹部たちがしっかりと走っていた。「この道でよし」と心が定まった。道は真直ぐにみえた。そして年が明ける。

五十七年二月 日本映画ペンクラブ賞受賞、湯布院映画祭を七年間続けた功績。
      二 中谷健太郎復活、商工会長就任。志手康二(観光協会長)、溝口薫平(旅館組合長)と中年晩期の三人組揃う。
      三 第一回、食べもの文化フェア開く。
      四 ゆふいん温泉祭り、盛り上がる。
      六 温泉保養館建設についての百日シンポジウム始まる。町商工観光課、企画課と共に町長五十人の深夜の努力。
      六 劇団立見席旗上げ公演、座長、岩男トマトほか座員約十名、つかこうへい作「熱海殺人事件」大好評、昼夜満席。
      七 第八回、ゆふいん音楽祭、岸辺百百雄、小林道夫、黒沼俊夫、岩田基ほか、辻音楽師、サロンコンサート等。
      八 第七回、湯布院映画祭、ゲスト関根恵子が話題を呼ぶ。
      八 盆地祭り、復活、盛大に行われる。
      九 劇団立見席・無名塾(仲代達也、山本主ほか)を迎えて、演劇祭の下準備始塞る。
      十 第七回、牛喰い絶叫大会、盛会、NHKほか全国放送。
      十 温泉保養館についての百日シンポジウム結審。具体案と設計図を町に答申。町内騒然。
      十 サントリー地域文化賞受賞。自然と文化の町づくり       。
      十一 西日本文化賞受賞、明日の湯布院を考える住民運動       。
      十一 第一回ゆふいん商業文化大学開校
      十二 同卒業式に平松知事を迎えて、「ザ・ムラおこし座長大会」。県下のムラおこしリーダー集まる。
      十二 劇団立見席第二回公演「ジョイント・コンサート守ってあげたい」
      十二 温泉保養館建設計画中断、一同涙呑む。
   

 眼がくらみ、足がすくむ疾走の年であった。

 明けて五十八年、中曽根内閣の鶏明がこだまし、軍靴の響きも近く、あるいは遠く、政府は借金だらけでお金がないという。陳情合戦を投げ捨て、先端産業導入と一村一品ムラおこしで勝負に出た平松県政も、道路、空港、治山、治水では国の援助をたのむほかはない。村の畦道から、空港経由、霞ケ関まで、厳しい道のりの中で選挙戦が始まる。農協が走って物産を固め、梅、栗、ハワイで上等ののれんまで織りあげてみせた大山町と、映画祭、音楽祭、牛一頭運動と、ゴチャ混ぜ作戦を繰り広げて「索敵な町のれん」をデッチ上げ、さてこれから物づくりにかかる湯布院町と。どこでどのようにすれ違い、火花を散らすか?

  新しい時代がくる。文化グループの一角にむっくりと登場した劇団立見席から岩男トマトというスターが生まれた。本名淳一郎で書いた処女作「失われた名作を求めて」も好評売切れ。ゴチャ混せの湯布院人が多勢集まって出版記念会が催され、訳わからずの祝辞の砲列に父親が泣いた。故岩男頴一氏(元町長、参議)の令弟。明日の由布院を考える会会長岩男病院長、岩男彰氏である。

 時が走る。

 商工観光課が出来て四年経った。鶴岡正昭課長はずんぐりとした体躯で悠々と前に進む。その足取りは外見よりも疾い。町長に頼んでタイムレコーダーを返上し、朝も夜も、日曜も祭日もない体制を敷いて走る。時が走る。

 清水町政も二期後半にさしかかった。

 防衛庁の補助金で建設される予定だった温泉保養館は百日シンポの町民討議の果てに重々しく出発進行して、潰れて消えた。絶望と希望の曼陀羅紋様の中を、どこへゆくのか湯布院。

 世界中の人が住みたくなる町を目指して、たすきがけの疾走はまだまだ続く。(完)