●ヨーロッパ珍道中

   十七士、うごきだす

 さて由布院観光は町造り路線を走り始めた。まったく奇妙な行動を起こしたものである。

 万国博覧会から全国総合開発計画と、世の中、進歩と調和を合言葉に開発に向かって吹き荒れていた。開発という言葉には薔薇の匂いがあった。「豊前海岸の周防灘計画が実現すれば」と県の久世公堯企画部長は颯爽と語った。「産業動脈としての幹線道路が新設され、さらに通勤用その他の足として地下鉄が少くとも一本、場合によっては二本、日豊海岸を貫通することになるでしょう」。北九州から大分まで日豊海岸を地下鉄が走る。すばらしい時代がもうそこまで来ているのだ。そんなときに由布院が、しかも一般に開発好みの観光業者たちが、なぜ自然愛護や町の自立という反時代的な運動を始めたのか?そこにたすきがけの由布院観光の土性骨が埋まっているように思える。

 とまれ<明日の由布院を考える会>は動きだした。岩男町長の弟で病院長の岩男彰を会長に十六人の町民が参加して一味徒党は十七人。人選には<自然を守る会>や<十人の会>の残党が当った。なるべく全町に拡がり、全年令・全職域・全利害にまたがるようにという人選であった。猪の瀬戸の自然を守る運動をやったとき、観光協会の理事たちでことを進めたために<一部の者の動き>というレッテルを貼られて大いに苦杯をなめた。それで今度は広く野に人材を求めたのである。その中に北支派遣軍きっての銃剣術の使い手で消防団長の佐藤清隆もいた。中谷と一緒に由布院盆唄を作った盆口説きの名手である。大久保勝巳もいた。蝗攘祭りに最後まで付き合い、幾晩も藁人形を作り、裸で牛を追ってくれた椎茸つくりの篤農家である。それにぴったりとついて走り回ったあごたかこと若手の佐藤雄也もいた。機械技師から毛糸屋主人になり、商工会指導員を経て当時ボーリング場支配人、相聞歌もひねるという人物である。そのほか当時から政治家を志すと豪語する大男の山林実業青年、吉村格哉。鉄道員でありながら由布院神楽の座衆をつとめる地元生えぬきの溝口守人、農事試験場出身の農協技師、鈴木新蔵。九大出身の若手インテリ商店主、土屋誠司。商店会の世話役で村芝居では名女形をつとめる大久保昌伸。当時議長の息子で複合農業を押し進める近藤和義。それとは反対に温泉利用のシクラメン栽培で単一大型農業に賭けるいなせな青年、八川正和。それで十人。あとの六人が観光畑出身で、富永岩夫、志手康二、溝口薫平、中谷健太郎、小野和俊のご存知の面々。それに自衛隊を退職して保養所の管理人になった地元出身の衛藤昭彦が中谷の推薦で加わった。この衛藤の存在が後々、由布院観光に波乱を起こすことになるのだが、まだこのときはわからない。

 さてこの十六人に会長の岩男彰が同じ発言権をもつ会員として加わって十七人、それに公民館の佐藤春世が事務局として紅一点を添えて<明日の由布院を考える会>はもっさりと動きだした。

 もっさりと動きだしたがなにしろ個性派の総揃いだから会合は迫力に満ちている。会う度に侃々諤々の議論である。ふだんは黙々と各々の家業職務に励んでいる人たちが一旦この会に姿を現すと突然、壮士芝居の弁士に変身する。岩男町長の果敢な町建設作業の下で静かにその恩恵に浸っているかにみえた町の人々の間に、いつしか烈しい動揺が芽生え始めていたのだ。

 彼等が活躍したのは四十五年から五十年にかけての五年間である。万博に始まり、列島改造、大分新産都計画と走り詰めだった四十年代後半は、やがて石油ショック、レークサイド陥没の大地震、清水新町政の作動、岩男参議の死去と矢つぎ早やの事件の内に終幕を迎える。そして<明日の由布院を考える会>は退場し、代りに辻馬車が走り、音楽祭や映画祭が華やかに繰りひろげられる五十年代の幕が上がるのである。しかしその前に<明日の由布院を考える会>をもう少しみてみよう。そこに由布院観光の核が潜んでいるように思えるからだ。

   いざゆかん、ヨーロッパ

 <明日の出布院を考える会>は何をしたか?羅列すればたくさんのことが浮かび上がってくる。

 例えば由布院の味噌づくりを賦活させた。野立看板自粛に乗りだし、統一案内標識を町の角々に打ち立てた。東急土地の別荘開発にブレーキをかけ、そこあら自然環境保護条令を生みだすきっかけをつくった。牛一頭牧場運動を考えだし軌道に乗せた。新生活運動で全国表彰を受けた。サファリ・パークや自衛隊移駐には大騒ぎして町民に警鐘を鳴らした等々、まだまだいろいろである。

 事業予算もなく、それぞれに仕事を持っている連中がどうやってこうも派手に<大活躍>をやってのけたのだろうか?仕組みはわからないが進み方は例えばこんな具合であった。中谷と溝口と志手がヨーロッパに旅すると言いだした。向うの温泉町をみてこようというのである。ついでに<住む町><訪れる町>の両方をみてこよう。六月は雨季で商売は暇である。どうせ暇ならヨーロッパをぶらぶらしようと三人は思い決めた。思い決めたが金がない。会長の岩男彰が「しっかりみて来い」と後押しし、岩男農協長(町長)が印鑑を押して無事農協の資金が下りた。三年月賦各七十万円。大金である。しかし当時は飛行機賃が高く交通公社を通すと往復五十万円かかった。泣く泣く運賃を払い込むと残りは二十万円である。これで五十日間、ヨーロッパの小さな町をくまなくみて回ろうという、四十近い男のやることではない。みかねて岩男町長が一人十万円の調査費をつけてくれた。絶頂期の岩男町政だったから議会もすんなり通った。富永が<三人をヨーロッパに送る会>を呼びかけ、岩男町長、近藤議長、吉岩農協参事ほか町の主だった面々が多勢集まった。送り主の岩男彰会長の万歳でフラッシュがたかれ、三人のすこし緊張した、嬉しそうな顔写真が翌日の新聞紙上を飾った。なんと五段抜きである。

 <ビューティフルな町づくり、湯布院、若者三人ヨーロッパ視察>。由布岳山麓の湯の町、大分県大分郡湯布院町で、いま若者たちのユニークな町づくり連動が盛り上がっている。はったりのない、そして豊かな心情がにじみ出る新しいコミュニティを。若者たちは手始めに、町からごたごたした屋外広告を一掃する美しい町並み運動を思いだった。そして代表三人が六月三日から約五十日間、欧州の町づくリをじかに見てくるという。−−西日本新聞>

 三十七才で若者もないものだが、とにかく派手な扱いである。これで<明日の会>は代表三人をヨーロッパに派遣したことになった。かなりのデッチ上げである。しかし根のないことではない。三人が農協で金を借りてまで外国の町をみてこようと思いついたのは<明日の会>の猛烈な論戦の興奮からだった。三人の中年男は若者のように興奮する性質だった。<明日の会>は町中からの混成集団である。そのため会合の度ごとに衝突が起こる。衝突の根っこに<そこに住む人間>と<そこを訪れる人間>の見方のちがいがあった。六人の観光業者はいつも<訪れる人間>を頭に置き、その受け皿として町を考える。しかし残る十一人は全員<そこに住む人間>としての町を考えたのだ。そのちがいが会合をややこしい迷路に曳っぱり込んでいた。

 「町を美しゅうなんか言うけど、いちばんよごしよるんは、あんたたち観光業者じゃねえかいッ」と一人が言った。「みてごらん、そこいらじゅうの看板をッ」「町の者にとっちゃあ全く要らん代物でえッ」「よおし、そんなら除けるわいッ、除けりゃあいいんでしょッ」と怒鳴ったが、どっこいそう簡単な問題ではない。現実に旅人にとっては看板は要るのだ。しかしとにかくこの問題、<住む者にとっての町>と<訪れる者にとっての町>。この問題を解決しなければ由布院観光はこの先、にっちもさっちも進まないということが三人の心の臓に焼きついた。そしてそのことは彼等に調査費をつけた岩男町長にも、あるいは万歳で送り出した会の面々にも痛いほどわかっていたのだ。

   人脈の糸をたどって

 さてこうして三人の中年男のヨーロッパ・ヒッピー旅行は具体化した。ヒッピー旅行といっても目的ははっきりしている。ヨーロッパの小さな町、それも出来れば由布院くらいのスケールの町で、温泉があればなお結構ということだ。それを急いで深さねばならない。ことが大袈裟になって彼等も格好をつけなければならなかった。もうあとにはひけないのだ。

 中谷の友人に平尾浩三がいた。東大のドイツ語の教師だがドイツに八年も留学していたから<あっちのことには詳しかろう>と念のために相談をかけた。念のためにというのは平尾がまことに<実用性>から縁の遠い入物だったからである。例えば学生の頃、二人は東京・山手線・四ツ谷駅で電車を待っていた。場内放送をきいた中谷が「前には二等車がついとるそうな、後ろにゆこう」と言うと平尾は口をぼかんとあけて考えている。

 やがて列車が入ってくると「あッ」と叫んで「なんや二等車やないかッ」と大声で怒鳴った。自動車と聞こえたというのである。「山手線の前に自動車がついてくるのはオカシイやろ?そやろ?そやけどオッサンが嘘を言う男やないやろ?」それで口をあけて考え込んでいたという、そういう人物である。

 そんな彼が意外に敏速な行動をみせた。シュピーゲルという雑誌社の極東特派員ぺ-ター・クローメ氏なる人物を紹介してきて、本人が由布院をみたいと言っている、通訳には自分がついていってもいいと言う。「よし、すぐ来てくれ」というとクローメ夫妻と平尾が飛行機でとんできた。若いのに髪の毛の薄い太っちょのぺーターと、ちっちゃな可愛らしい奥さん、それにヌーボーとした平尾先生の三人は、エネルギッシュに由布院を歩き回り、夜は会のメンバーと語り、飲み、喰らい、議論し一気に旅の全貌がかたまった。ぺーターは二通の紹介状を書き、三人組はそれを持って六月四日、東京羽田発ルフトハンザでヨーロッパヘ飛んだ。この旅で彼等が西ドイツ・バーデンヴイツテンベルク州の温泉地をまのあたりにみてしまったということが由布院観光のその後の方向を決定づけた。

 中国の四人組より一人少い由布院三人組は帰国後、執こく、烈しい運動を展開しながら<温泉保養地・由布院>のイメージを固めてゆく。ときに中国四人組以上に非難され、<三匹のケコズウ(ケは強め、コズウは小僧)>と面罵されながら、彼等は<美しく、豊かな生活空間>への想いをますます鮮明にしてゆく。やがてそこから<町造り>の思想が芽生え、観光協会を押し包み、町中にひたひたと凄み始めるのだが、しかしドラマはゆっくりとしか進まない。彼等はいまなお泥沼の中を手探りで這っている。

 いったい彼等はヨーロッパの旅で何をみたのか?

   旅姿浮世花笠

 ルフトハンザのジェット機が小雨の羽田空港を飛び発って急上昇すると、とたんに溝口薫平がすやすやと眠ってしまった。志手康二は「眠れん、眠れん」とぼやきながら、ときどき鼾をかいている。中谷はメモ魔でメモばっかりとっている。暁方、アンカレッヂで給油する間に志手と溝口(当時は梅木と言った)が用足しに行ってそれっきり帰って来ない。飛行機の出発時間が来てエンジンが始動し、扉が閉まりそうになるが二人は来ない。慌てて中谷が<マッタ>をかけスチュワーデスにアナウンスしてもらった。「ミスターシデ、アンド、ウメキ、ミスターシデ、アンド、ウメキ、パリプレペロポロ…」。その頃、二人は空港の屋上で朝焼けの空を眺めながら話していた。「ああ、本場の英語のアナウンスを聞いちょると、旅情がわくなあ」。

 また、ロンドンで夜の探険にでかけた三人、ここと思う劇場に入ったら、これがポルノ・コメディで満場わあわあ笑いの渦である。出てきて志手が「ああ馬鹿らしかったなあ」と言えば、溝口薫平は神妙な顔で「いや、あれくらいでちょうどよかった。あれ以上はムダじゃ」。(帰国後、溝口は小学校のPTA役員を二期つとめた)。

 こんな具合いだったから、もしクローメ氏と平尾浩三合作の研修旅程図がなかったら三人組はただ荘然と旅を了えたにちがいない。クローメ氏の紹介状はまことに金的を射抜いていた。二通の紹介状の内、一通はクローメ氏の父上に当てたもの、もう一通はフランクフルタールントシャワという新聞杜の編集局長フラッハ氏に宛てたものであった。

 クローメ氏の父上はフランクフルト郊外の森の中のお城のような病院に入院していた。「息子の手紙に、あなた方の町はとても美しいと書いてある。あなた方の町をより美しくするために、私にできることがあればどうか言って欲しい」。

 病院からの帰り道、夕暮れのアウトバーンを時速百五十キロで車をすべらせながら、健康そうな母上が言った。「ペーターに伝えて欲しい。父上は癌である。あと三ケ月と医者が言っている」ぺーターは気が弱いから直接言わないで、それとなく里帰りを推めて欲しいと言う。三人は約束を果たし、ペーターは森の中の一室で、静かな別れの日々を父上と一緒に過ごした。

 父クローメ氏のお蔭で三人はバト・ナウハイムの保養施設とその仕組みを徹底的に見聞することができた。東大からマックスプラント研究所に派遣されていた入来正躬助教授がぴったりついての、水も洩らさぬ案内布陣であった。三人の眼に温泉保養地の容(かたち)がみえ始めた。

 案内陣と言えばもう一通の紹介状の主、フラッハ編集局長もみごとだった。三人組が訪れた日、フラッハ氏は多忙の頂点にあった。西ドイツ野党第一党の書紀長に就任するという当日だったのである。しかし案内計画は完全に用意されていた。ドイツ・スポーツユーゲント事務局の高橋のり子嬢が駆けつけてくれて、フラッハ氏と三人組の仲を介してくれた。すべてが巧くゆき、旅の全容がはっきりとみえてきた。「アウブ・ビーダーゼンッ」。力強い握手を残してフラッハ氏は黒い車の中に消えた。二年後に氏が過労のため急逝したとペーターが報せてきた。当時サファリ自然動物園反対運動のさ中にいた三人は遠くに想いを馳せた。それだけだった。時は烈しく流れていた。

 「準備完了ッ」「温泉保養地研修旅行半分終りッ」「行きますか?」「いきましょッ」。それから三人は高橋のり子嬢を先頭に外国の夜の町に出かけた。高橋嬢は兼高かおるを小型にしたような、オデコ美人である。「去年由布院にいきました」という。ドイツスポーツ選手団の通訳として随行したのだそうである。その前に湯布院公民館の重見太郎がスポーツ教育研修生としてドイツに来たとき、由布院の話を聞き、憧れていた。「日本ていい国ねぇ、あんな美しい町が生きているなんて」「ほほう、由布院も国際的じゃなあ」「イエス、アイアム、インタナショナル。インタナショナル」。

 暗い、煉瓦の物置のような酒場で、その夜四人の国際人は思いきり酒を飲んだ。酒は香り華やかなリンゴ酒だった。そこはフランクフルトはマイン川の向う岸。むかしザクセン人が棲んでいたという大衆酒場街の一角である。塩漬けの豚の臑肉、酢っぱいキャベツ、猛烈な臭いを発するチーズ。それらを次々に平らげながらリンゴ酒をあおる。酒場はしだいに混んできて楽士がはいり、唄が始まった。高橋嬢はすこし感傷的になっていた。「わたしには住むところがないのよ、ここにもないし、日本にもない」。由布院のような町がふるさとだったらすぐにも飛んで帰るわと言って彼女は「由布院に乾杯ッ」と叫んだ。「乾杯ッ」「カンパイッ」「カンパイッ」。回りがいっせいにどよめいて酒気がゆらゆらと立ちのぼった。唄はいつのまにか合唱に変っている。

 四人の日本人も一緒に腕を組んで大声で唄った。「腕を組んだとき、のり子嬢のオッパイが腕にさわってなあ」と志手が翌旦言った。「いや、困ったわい」。なに困ってなんかいなかった。溝口薫平は大きな女たちにはさまれて、ぶらさげられ、脚を浮かせてにこにこと揺られていた。振子時計のようだった。

 振子時計と言えば前の年、この三人に富永岩夫を加えた一行四人で東北の温泉場をみる旅をした。岩手から車で内陸にはいり、山越え、谷越え、<もう日本海に出るんじゃねえか>という頃にようやく夏油温泉に着いた。その洞窟風・昔懐し疝の湯にはいったとき、溝口薫平が三人の入浴シーンを写真に撮った。その写真が大傑作で三人が笑い死にするほど笑っているのである。富永などは海坊主の笑い蒸しといった風なのだ。そのとき溝口はパンツ一丁で撮影していたが、そのパンツは特大の、木綿キャラコの縞紋様パンツだった。眼の前に立って懸命にカメラをかまえる彼の特大パンツのすみっこに”振子時計”がゆらゆらと揺れていたのである。これを由布院の観光ホスターにしようという話が出たがなんとなく立ち消えになった。以来、溝口薫平は肌にピッタリのブリーフを身につけている。

   田園まさに荒れなんとす

 バト・ナウハイムをふり出しに、バト・ベリゲン、クロチンゲン、バーデンヴァイラーと次々に温泉保養地を回った三人組は、四十五日のヨーロッパの旅を了えて七月十七日、夏休み前の、ピンと張った山の空気の温泉地由布院へ帰ってきた。フラッハ氏が張り目らした政党筋と新聞関係の二重の連絡網は、クモの糸のように三人の行先を網羅していた。

 バーデンヴァイラーではホテル・ポストの主人であり、町会議員でもあるグラナヴォル氏が、スイスから英語のできる令嬢を呼び返して三人を待っていてくれたし、ベリンゲンでは村でたった一人という英語使いさんを呼んでギルギム氏が盛大な町賓待遇の宴を用意してくれていた。英語使いさんは第二次世界大戦の赤十字看護婦だったという。かぎりなくドイツ語に近いエイゴ使いであった。

 バーデンヴァイラーの遊歩公園(クワガーデン)の美しさは三人を魅了した。花咲き乱れ、鳥は啼き、ペルシャのイスマイリ派が立て籠った<山の長の楽園>もかくやといった風情なのだ。<山の長の楽園>にはハッシシを飲まされた若者が運び込まれたが、ここバーデンヴァイラーには世界中から温泉を求めてお金持ちの老人たぢがやってくる。そこでは町の<環境>の魅力が文字通り<力>となって町を支えていた。その力を維持するために、町は夜間深夜と、昼下りの睡眠の時間帯に、町内に車を乗入れることを禁止した。これはさすがに郡の行政裁判所に訴追されたがバーデンヴァイラーは町を挙げて高等裁判所に上告、二年間の法廷闘争の末、勝った。三人がバーデンヴァイラーを訪れたのはその勝訴の日だったのである。町中の興奮が三人を押し包んだことはいうまでもない。その興奮をしっかりと胸に抱いて、三人は故郷の町に帰ってきた。

 <私たち三人がドイツの町で受けたこの衝撃を、なんとか自分の町にも伝えようと、わけのわからぬ、子供らしいあがきを始めたことは事実だった。それはいまも続いている。

 あの日グラナヴォルさんは熱っばく語った。「その町にとって最も大切なものは、緑と、空間と、そして静けさである。その大切なものを創り、育て、守るためにきみはどれだけの努力をしているか?」「きみは?」「きみは?」グラナヴォルさんは私たち三人を一人ずつ指さして詰問するようにそう言った。それで私たちは真っ赤になってしまった。(西日本新聞・中谷健太郎)>

 それから七年後の昭和五十二年六月、由布院から約二十人の視察団がドイツに向けて旅立った。

 <七年ぶりに私たちはバーデンヴァイラーを訪れ、グラナヴォルさんに会った。グラナヴォルさんは過労で病気になり、一日三時間しか人に会えないという状態だった。その時間のほとんどを私たちに当ててグラナヴォルさんは待っていてくれた。町長や議員を含む二十人の町びとと一緒に私たちが町にやってきたことがグラナヴォルさんをひどく喜ばしたようだった。「きみたちは約束を守った」と彼は言った。「きみたちは長い道を歩き始めたのだ。世界中どこの町でも何人かの人が、あるいは何十人、何百人かの、けっして多くはない人たちが同じ道を歩いている」「ひとりでも多くの人が、よその町をみることが大切だ、そしてその町を造り、営んでいる”まじめな魂”に出会うことが必要だ」

 緑したたる遊歩公園をゆっくりと散歩しながら、町長以下われら日本国小町氏一同は、激しい町造りの精気にうちのめされていた。(西日本新聞・中谷健太郎)>