●自然を守る会が誕生

   猪の瀬戸を守れ

 四十五年七月、合歓の花の咲く頃だ。玉の湯の溝口薫平が走ってきて中谷に囁いた。「大事じゃ、猪の瀬戸がゴルフ場になるでッ」  「なにえッ?」と中谷が跳びあがった。彼には慌てる癖がある。二人は車で猪の瀬戸に飛んだ。猪の瀬戸には高原の湿原植物が花咲いてゴルフ場にはなっていない。当り前だ、計画が発表されたばかりなのだ。「この花は守らにゃ」と溝口薫平が囁く、「そうじゃ、ゴルフ場なんかとんでもねぇ」と中谷が叫ぶ、運動神経ゼロの二人は興奮していた。この興奮がその後の由布院観光に大きく影響することになる。

 最初に観光協会の理事会に駆けこんだ。会長の小野順吉が了解し、その日のうちに理事会の中に<由布院の自然を守る会>が生まれた。

  次に溝口薫平が<山の仲間>に呼びかけた。

 彼はいまでこそ英国製のスーツにフランスのネクタイを締め込み、イタリーの靴をはいて県庁に現われたりしているが、いやまたときにはリーのジーンズ上下にボルサリーノのハンチングをかぶり、ジバンシーのスカーフをひらめかして辻馬車の上から「ホイホイ」とテレビに登場したりしているが、元はむくつけき山男である。それもかなりの実力者であったらしい。往年の美少女、ただ今いい女の後輩たちが口を揃えて<薫平さんはこわかった>というからである。焼酎を三杯もあけるとほの明るい声で<坊ケづる讃歌>を四番までとろとろと歌ってみせるいまの彼からは想像しにくいのだが仕方がない。ついでに言うと彼の<坊ケづる讃歌>歴は古い。彼が初めて由布院観光に登場して<どうぞよろしく>と挨拶した四十年の二十日会の宴席で、彼はそれを歌いだした。一番が終ると二番、それがようやく終ると三番と、歌はとめどなく、不思議な抑揚で続く、爾来溝口はそれしか歌わなくなった。ある年夢想園の宴席に一人の登山家が舞い込んだ。彼は坊ケづる讃歌の名手だという。

 さっそく地元名手溝口との一騎打ちが始表った。

 その結果わかったことは、坊ケづる讃歌というのは一番から四番まで曲が同じだということである。それまで由布院の衆たちは各々の曲がちがうと思い込んでいたのだ。それくらい堂々と歌い、歴史の古さを誇る溝口坊ケづるだから最近の芹洋子なんぞ足許にも寄せつけるものではない。ああやっぱり溝口薫平は山登りでは実力者なのである。

 その実力者の溝口が山の実力者仲間に声をかけたから<猪の瀬戸の湿原植物を守ろう>という山男たちの声があちこちに上がり始めた。当然、各界に連鎖反応が起こる。当時の読売新聞は偉い人たちの反対意見を写真入りで次々に連載した。県自然愛護の会々長・岩男頴一。湿地植物研究家・荒金正憲。厚生省自然公園指導員・南崎大海。九州山岳保護協会理事・梅木(溝口)薫平。日本星虫学会県支部長・秦野多喜生。別府市文化財保護委員会々長・池田三比古。由布鶴見の自然を守る会々長・堀藤吉郎。九重の自然を守る会理事長・赤峰武。等々。

 一方中谷は戦略家である。事は急を要する。短期間に多くの人に運動を伝えるにはマスコミに動いてもらうほかはない。マスコミは知名士に弱い。そこで<知名士一〇〇人へのアンケート>というのを考えだした。猪の瀬戸を知っている県内外の知名士に、くわしいアンケートを送り、その意向を、もちろん反対の意向だが−新聞紙上に発表するというのである。作戦は図に当った。アンケートを送られた一〇〇人の知名士はそのほとんどが開発反対、あるいは慎重論の立場をとり、各新聞はそのことを大々的に報じた。

 一〇〇人の知名士の中には次の人たちがいた。上田保、福田平八郎、生野祥雲斎、荻原井泉水、水江太一、草本刑垣、服部公一、糸園和三郎、宇治山哲平、賀川光夫、高山辰雄、磯崎新、三雲祥之助、原田種夫、後藤勲、鈴木義司、加藤真一郎、後藤久馬一、山口馬城次、長野重一、佐藤敬…………。

 さあこうなると騒ぎは大きくなるばかりである。十一月二日には木下県知事が読売新聞紙上で「厚生省認可に必要な県の意見書では十分に検討する。また厚生省に自然保護を働きかける場合も全面的に協力する」と開発反対の意向をぶちあげた。これで勝負はついてしまった。万博景気に乗ってさっそうと進出してきた伊藤忠系西日本レジャー開発もその計画を中止せざるを得なかった。

   花と、水と、樹と

 こうして由布院は観光地としてその処女性というか、潔癖性を守った。いや人によっては猪の瀬戸保全運動を利用して由布院は自分の潔癖性を売りこんだのだという人もいる。だいいち猪の瀬戸は別府市である。由布院管轄ではない。それをあんなに派手な反対運動を巻き起こして大騒ぎをする必要がどこにあるかというわけだ。「自然を大切にする由布院というイメージを売り込むためのあれは運動じゃったんじゃ」。そうとすれば溝口、中谷は食えない男だし、彼等を泳がせてバックアップした由布院温泉観光協会もなかなかの旦那衆ということになる。そして何よりも火がついたように県下町村長に訴えてみせた岩男町長が大した役者ということになるがそんなややこしいことはどうでもよろしい。ただこのときの由布院観光の身の処し方が当時の自然愛護の風潮の先頭を切って眼にも鮮やかであったことは確かである。

 これで大受けした由布院観光はご機嫌よろしく<町造り>の路線を走り始める。よその観光地ではみられない奇妙な運動がこうして始まった。

 例えば四十五年に何が起こったか?三月に万博が始まり、世界中の人が日本に集まって日本中の人が大阪茨木に集まった。日本中が開発熱に侵されて、そこいら中が<眺望絶佳・交通至便>になった。<現地案内・電話ゼロ番>になった。七月には翁草花咲く中の原に労働省の湯布院ハイツが、八月には西の由布院高原に大手東邦生命が、それぞれ町当局の斡旋で進出、この夏も蝗攘祭りはドンガン、ドンガンと賑わって、そして十一月、なぜか三島由起夫が腹を切り、十二月には石井組幹部の出所祝い、まだほかにも三月は赤軍派による日航<よど号>乗っとり事件。六月、七十年安保新宿市街戦と盛りだくさんに続く。全国津々浦々の村や町には国鉄が吹き鳴らす<ディスカバー・ジャパン>のファンファーレが鳴り響いていた。その頃由布院では−

 <あちらで古い家が壊されたと聞き、こちらで巨木が伐られたと聞く。その度びに焦立たしい気持でいっぱいになり表す。どうか木を家を大切にしてやってください。>

 <巨木は一朝一夕には育ちません。巨木は私たちよりも前から由布院に住みついている。いわば土着の先輩です。なんとか折合って仲よくやってゆきましょう。

 家にしたところで、私らがそこでオギャーといわせてもらった生みの親の場所なのです。なにも壊してしまわなくても、幾らかそこはゆずり合って内部改造程度で仲よくやって参りましょう。便利の、合理性のといったところで、しょせんは流行のもの、そんなものを追いかける愚はやめにして、由布院独自の、動かぬ美しさの中で堂々と生活しましょう。>

 <わたし達が子供に残してやることのできる唯一のものは、この町の落ちついた、節度のある美しさだと思います。遺産も、いろんな実用施設も、そんなものは日本中に散在していて、決して子供たちの魂を内部から豊かに形成してくれはしないのです。>

 四十五年十二月に創刊された町造りの雑誌〈花水樹〉の編集後記にある。落差はひどい。

 子供に何を遺して死ぬか、これは身近なわりにハッキリしない問題のようです。財産のない人は言うまでもないのですが、財産のある人も、現行の相続税制度と、今後の大きな見通しからみて、大して期待はもてないような気がします。とすればほんとの話、何を遺してやれるのか?こういったこともじっくり話し合いたいですね。
昭和48・7・花水樹No8・編集編後記

 

   暴力団放免祝事件の真相

 十二月九日午後二時旅館組合の緊急理事会が万象苑で開かれた。石井組二代目の出所放免祝いが日乃春旅館で行われるというのである。これには慌てた。旅館の方はすでに受けてしまっている。急に断わる理由がない。かと言って全国からどんどんと親分衆や兄貴たちに乗り込んでこられては由布院は目茶苦茶になる。ニュースは新聞テレビを通じて全国に流れるだろう。そうなったら自然愛護もクソもない。どだい遊興の店も少く、娯楽の施設も乏しい温泉地だが、何はなくともゆったりと暮しの情緒がただよう町というので少しずつ小さな頭角を現してきているのだ。それが<暴力団ご愛用の町>となったのでは実もふたもなくなってしまう。由布院観光の危機じゃということになった。「旅館の宴会場だけじゃなかろう、町中に買物に出るじゃろ」「いや儀式じゃからな、観光旅行じゃないんじゃから、土産買いやら出らんわい」「土産は買わんでも煙草のひとつとか、下の方の兄ちゃんはラーメン食うたりするろ?」「汽車で来る組を出迎ゆる兄ちゃんたちが並ぶんじゃねえかな?」「いや、あげん人たちは車でくるわい、バリッとした外車でな」「外車できても車置場も、廻し場もねえけん、結局駅にゆくろ?」

 駅に集まるのなら商店街にも、というので商工会に緊急電話で、井尾久雄や大久保昌伸がとんできた。「とにかく揉めんごと」という。それは旅館も同じだ。恐い。かかわりたくない。「駅前だけでも店を閉めさするかい?」それがよかろうということになった。地区理事に伝言がとぶ。「こういうことは電話じゃあ悪い。口移しに言うのがいちばん確かじゃ」

 <明日午後二時、騒ぎに塞ぎこまれないために店を閉めましょう>。「ちょっと待った」と中谷が口をはさんだ。「それだけいやあ結局のところ<暴力団に鎮圧された由布院の町>ち言うことで報道されるでぇ、なにか<由布院はついに犯されなかった>ち言うようなイメージづけができんかなあ?」それからまたみんなでひとしきり揉みあげて、やがて名案が出た。<明日午後二時、騒ぎに巻きこまれないために店を閉めましょう>これが商店への伝令内容、<明日午後二時、全商店が暴力団に抗議してシャッターを降します>これが各新聞社、テレビ局へのメッセージ。

 溝口と中谷が受話器にとびついてマスコミにメッセージを伝え、理事たちは各々の地区に伝書鳩となって飛んでいった。

 翌十日午後二時、マスコミ大取材部隊のカメラの前で次々に商店のシャッターが降された。それは西部の悪漢の襲来に備えるメキシコの町のようであった。そしてまもなく、黒の上下に身を固めた紳士たちがパッカードに乗ってやってきた。人っ子一人いない町に紳士たちと、警官たちと、報道人たちとが、にらみ合って対峙した。儀式はとどこおりなく進み、終り、冬枯れの道を黒い大型車が音もなく引揚げていった。町中はしんと静まっていた。やがて夕餉のときとなり、町はかすかに息づき始めた。そして夜のニュースから活気が戻った。「石井組二代目放免祝いに対して由布院の全商店並びに旅館はシャッターを降ろし、店を閉めて無言の抗議をしました」。どのテレビも同じ報道をしていた。「やったッ、やったッ」と理事たちは手を叩いた。翌朝の新聞がまた豪華だった。「全店シャッター降ろす、石井組の放免祝に抗議」(朝日新聞全国版)「町ぐるみの勇気・湯布院の”暴力”抗議行動」(大分合同新聞社説)等々。それから町の勇気を讃える論調・投書等が数日間続いた。これには仕掛人たちもすっかり照れてしまって苦笑しながら家に籠ったものだ。しかし町中は上機嫌だった。「大工と左官がいちばんせわしかったち言うで。あちこちの旅館が工事中ち言うために急に雇うたから」「タクシーの運転手がよろこんだと。急に休みになっち、みんなで別府に遊びに行ったち」「岳本のフードセンターがパンが売れたと、あっこだけが連絡もれで店を開けちおったんち」「いや別府のラーメン屋が儲かったち言うで、若い兄ちゃんたちが由布院中、食うもんがねぇち言うてみな別府に降りてラーメンを食うた」

 こうしてわけのわからない間に放免祝い事件は終ってしまったのだが、またしても由布院は全国にその潔癖な<たたずまい>を売りこむことに成功した。今度ばかりは電光石火のことの進展に采配を振る間もなかった岩男ワンマン町長が「こけてもただじゃあ起きん連中じゃ」と大息したという。実は岩男町長、なんとか放免祝いを中止させようと警察を訪れ、<費用弁償は町がするから>とまで申しでて、石井組に断られているのである。それでも警察ともども執拗に折衝をくり返して<看板・花輪は出さない>などの条件をとりつけている。しかし主役はあっさり住民グループにさらわれた形だった。そこで大息が出たわけだが、この大息は深い根っこから出たものでその後四十九年、町長を辞して参議院に出馬するまでの五年間、<こけてもただでは起きん連中>にしっかりと疳の虫をひっぱられるのである。  

  由布院戦線異常あり

 さてそれからどうなったか?ニクソンのドルショック、円切上げで日本中が騒いだのが四十六年、その不況の匂いをおさえ込むようにさっそうと登場するのが田中内閣の列島改造論で四十七年、二月に連合赤軍の浅間山荘事件があり、続いて米・中が国交を始め、五月にはようやく沖縄が返ってくる。そして湯布院では岩男町長が五選を決めて絶頂期を迎えていた。同時に<こけてもただでは起きん連中>の町をみつめる眼が急激に厳しさを増す時期である。

 四十六年二月、町長無投票就任が決定すると同時に三月、荒木の町有原野四三・二ヘクタールが東急土地開発に売却された。それは農場と別荘地とを組み合わせた 新しい計画で<東急ファームタウン計画>と呼ばれた。総工費八十二億円という。しかしその話は大分合同新聞のすみっこを飾りはしたものの、町内にはなんの波紋も起こさなかった。事は巧く運んでいた。

 その頃観光協会は岩男町長のブルドーザー式政治力になんとか流されまいとして、五年前に立案された町観光協会と由布院・湯の平両支部、そして町内有識者、各団体による観光審議会という形を強化することに没頭していた。しかしこれがまったくうまくゆかない。かんじんの町観光協会長を岩男町長が兼務していたからである。当時は商工会・農協・森林組合からあらゆる団体の長を岩男町長が兼務していた。<おれのしちおらんのは婦人会長ぐらいのもんじゃ>と町長自身苦笑したものである。そんな仕組みの中で町民の動きがうまくまとまるはずがない。岩男町長は轟々とキャタピラを鳴らして自らの政治路線を驀進するし、町民諸氏も亦その町長から少しでも多くの甘い汁をいただこうと媚態で迫るだけである。そんな状況を背景に外部から労働省の湯布院ハイツ、東邦生命の由布高原荘、東洋マツダの東友会館などが続々と進出、しかも町当局あるいは町議会関係者の斡旋ではいってきた。そのほか大企業の保養所も急ピッチに増え、その数は四十五年には三軒から一挙に数十軒にふくれあがった。そして総額八十億円という東急ファームタウンの開発計画がさっさと議会で決定されてゆく。しかも町内にほとんど話題も、興味も、噂も起こってこない。これは恐しい景色だった。町中が憑かれたように何物かに向かってなだれていた。

 それを止めるのは観光協会ではない。いや何ものも止められないかもしれない。しかしそれでも<なんとかせにゃあ>と思う者たちがいた。中谷や溝口や、それに同調する富永、志手康二、小野和俊たちであった。彼等は観光協会理事会の中に<由布院の自然を守る会>をつくって猪の瀬戸事件や暴力団放免祝い事件に対処してきた強者たちだった。ゴルフをする組、しない組に分れてもながい間<同じ釜の飯>を食ってきた胸に滲みる想い出があった。それが彼等を結びつけた。そのほかに四十一年の国体以来続いているグループ<十人の会>がある。公民館長の和尚岩男豊洋を中心に、前出の興禅院おとぼけ正堂ごと平岡正堂、商工会指導員あごたかこと佐藤雄也、井尾百貨店の二代目、ジェームス・コパーンばりのたか坊こと井尾孝則等が集まり、それに百姓から近藤和義と八川正和が新しく加わっていた。のちに近藤は牛一頭牧場運動の中心的推進者の一人となり、八川正和は温泉利用のシクラメン栽培で新しい由布院の農業の先達となる。このグループに当初から溝口薫平がおり、中谷が加わっていた。由布院に<能書きを並ぶるせわしい会>が二つあり、それが<由布院の自然を守る会>と<十人の会>で、二人は両方にはいっていたことになる。それで二人は由布院一せわしい連中ということになった。そのせわしい連中が画策し、走り廻ってせわしい二ツの会が合体する。

 会は爆発を起こし、融合離反して滅茶苦茶になり、その噴煙の中から新しく<明日の由布院を考える会>が姿を現した。岩男頴一町長の弟・岩男病院長岩男彰を頭にいただいた<町造り頭脳集団>という触れ込みである。恐しげなものが立ち現われてきた、と町民諸氏は思ったかもしれないが一味徒党は単純に張りきっていた。四十六年三月、東急ファームタウン進出計画とほとんど同時期である。由布院観光は打ちあげ花火のように勢いよく町の夜空に拡散していった。花火模様を載せて全国に散っていったのは町造りの雑誌〈花水樹〉である。

 <いつもながら貴町の出版物(観光ポスター、パンフレット、リーフレット等)のすばらしさには感服致しております。今度の小冊子も、アイデアといい、企画といい、体裁といい……秀れたスタッフの皆様のお骨折に敬意を表します(日田市、池田範広)>

 <私の最も好きな由布院温泉、由布岳、幼年の時より由布院が楽しい思い出となるようにと、五人の子供をつれて再度訪れました由布院、ささやかで、つつましい人間の倖せを探究させたいと念願している私です。どうか揺れつつある由布院の自然の環境をそのまま美しく保って欲しいと念願するものの一人であります。(福岡、安河内英二・医師)>

 <花水樹いただきました。日本全土からホタルがいなくなっても、由布院だけにはホタルがいるというようにお願いしたいものです。養殖に努められる秦野先生に宜敷。(鎌倉、荻原井泉水・俳人)>

 <素晴しい雑誌「花水樹」、わざわざお送り下さいましてお礼の言葉もござい表せん。ふる里を持たない人間の悲しさ、これは由布院の方々にはとてもお判りいただけないことでしょう。空も、風も、土も、しっとりとうるおい、そこに住む人々と共に息づいている……流れる水も、一茎の草も「自分たちのもの」と確たる手応えの持てる環境……それがどんなに素晴しい幸福なのか、案外と忘れておられるのではないでしょうか、恵まれたふる里を持ち、そこに住み続けている人達はこの大きな賛沢を、いとも気軽に浪費しておられる場合があるようで、「わが町」と呼べるものを持たない私たちが旅に出て、悲しみや腹立たしい思いを味わうことがよくあります。(東京、根岸幸子・TV製作者)>

 <この会が由布院の自然を保守的に守るだけでなく、前向きに取組んでおられることを知り、近来何よりの快心事と衷心より喜んでおります。中学生時代から私の一番好きな由布院……いつまで大分のように激変することなく、その自然を守りぬいて下さい。何か私共でお役に立てる面がありましたらお手伝いさせて頂きたく存じます。(大分、野中憲一・会社経営)>

 とにかく話し合いましよう。今、私たちがどうしてもこれだけは欲しいと思っているものは何であるのか?車で気持ちよく疾走できる道であるのか、それとも車の走らない静かな歩道であるのか?原野を売ってそのお金で豊かな生活を楽しむことなのか?それともその原野を利用して何ごとかを始めることなのか?子供を一流の大学から一流の会社・官庁に入れることなのか?それともこの由布院の町に親子ともども一緒に生きるように導くことなのか?
昭和48・7・花水樹No9・編集後記