●『ふるさとの歌まつり』狂騒曲

   神輿は下る

 富士登山のあった翌夏、昭和四十三年に盆地祭りが始まった。町の中心部の商店街を踊り歩く夏の夜祭りである。これが翌四十四年NHKのふるさとの歌まつりに主要行事としてとりあげられ、湯布院の代表的な祭りとして賑々しく定着してゆく。まつりは町民あげての道行き盆踊りと、古い虫追いの行事を復活させた蝗攘(こうじょう)まつりとで構成され、地着きの人たちの郷愁を誘った。もちろん外の人たちももの珍しげに集まってくる。祭りは年を追って盛り上がっていった。そして八年目で潰れた。なぜか?その謎をえぐってゆくと、昭和四十年代後半の、華々しくも重苦しい湯布院の歴史の断面がみえてくる。

 湯布院には幾つもの祭りがある。あるいはあった。ますます盛んなものもあればほとんど消えかかっているものもある。大きな祭りがかならずしも栄えてはいない。また同じ栄えてもただ騒々しいだけのものもあれば静かに人気をつないでいるものもある。由布院盆地の総鎮守である宇岐日女(うなぎひめ)神社六所宮(ろくしょぐう)は五月の頭三日、山桜満開の湯山の下を神輿が走って盆地の西の<堰の元>にお下りする。花吹雪に幡(のぼり)がはためく<堰の元の祭り>である。これは川西地区の青年が<花芝居>で支えている。町の名士に招待状を送ってその人たちの<花>で請芝居をやるのである。「昔にくらぶれば……」と今の凋落を嘆く人もいるが苗代にかかる前の、百姓青年たちの意気が昂る祭りである。

 湯の平も同じく村鎮守の<山神社>から神輿が下る九月中秋の秋祭りが栄えている。湯の平の石畳の急坂を神輿の一団が駆けくだる。わあーッという見物の歓声の中を地響きをたてて神輿がなだれ落ちてゆく。それを下に止め衆がいて、ラグビーのスクラムよろしくなだれながら受止め、それから渾身の力で押上げ返す。その力にのって神輿は再び坂の上へ駆け戻り、もういちど雄叫びをあげながら石畳を走りくだるのである。このとき前座を勤める子供太鼓が美しい。温泉場全戸の小学生が村の組ごとに分かれて法被(はっぴ)姿もりりしく立現れる。彼等はすたすたと石畳を下り、各戸の前に太鼓を据えて次々に打ち鳴らす。はげしい動きに髪をなびかせ、汗を散らす少女もいて、大人たちのやんやの声がわく。翌朝、山間(あい)の湯の霧が静かに流れる石畳のあちこちに、神輿を担いだ青年たちの神酒浸りの寝姿がみられて祭りは終る。

   祭りの系譜

 そんな、町中から見物衆が集まるような大きな祭りもあればもっと小さな仲間内、あるいは村内だけの祭りもある。一月の小正月前に行われる津江の歩射(ぶしゃ)祭りもそのひとつで、その日の朝各戸から男一、女一が座前の家に集まってくる。

 男たちはその年の村の世話役・肝入りを決める下相談にはいり、女たちは持ち寄りの材料で料理にかかる。最近は<すき焼き>に献立は決まっている。段取りがつくと男女が全員評議に入り、すべての役員が決まる。それから<直会(なおらい)>が始まる。年の初めの宴会である。村中の男女が飲み、喰い、唄い、舞う。やがて夕餉の支度の前時間になると、三々五々、ゆらゆらと石垣沿いの道を帰るのである。

 むかしは評議の前に歩射の儀式があった。青竹を曲げて紙を張り、そこに眼の絵や魔の字を書いたものを的にみたてて村の代表が弓を射る。弓も青竹、村の代表は神官の装束であったという。この儀式はなくなったが祭りは村内にしっかりと続いている。言うまでもないことだがこの種の祭りは特定の仲間内だけで行われ、外部の人を入れない、そこに濃密な親近感がかもしだされる仕組みになっている。岳本の薬師講の祭り、並柳の農作業に入る前の春祭り、温湯の豊年祈願の天租神社夏祭り、各村の弘法大師講<お大師さま>、中秋の明月を愉しむ<めいげにち>、一年の仕事仕舞を意味する<お日まち>等々まだまだたくさんの祭りが湯布院の風土の中かに棲みついている。しかしこの内輪だけの、密度の濃い祭りもその容(かたち)を強く保っているものはまれで<めいげにち>のようにほとんど消えかかっていたり、あるいは天租神社や、塚原の甘酒祭りのように、外部の人が見物に加わって容が変り始めている例もある。

 そんな背景の中から戦後、温泉祭りが抬頭してきた。あちこちの村から白塗りのきらびやかな一団が繰り出してきて、手に手にしゃもじを叩きながら町中を練り歩く。唄はたいがい携帯用のプレイヤーからスピーカーに流れる<ぼんち可愛や>である。

 白塗りのきらびやかな踊り手たちは殆んどが農家であり、あるいはつい最近まで農業をしていた商人たちだったが、ふしぎに<ぼんち可愛や>の手踊りがよく似合った。村にはむかしから青年たちの村芝居の伝統があってなかなかの役者が揃っていた。旅役者や近郷の歌舞伎衆について所作を習い、事があると舞台に登場してやんやの拍手を受ける上手たちがいた。そんな役者たちと村芝居好きの伝統が春の桜の花と一緒に匂い出て、わらわらとシャモジを叩いて繰り出すのである。

 村内で育ってきた仲間内の祭りとは別の系譜の祭りであった。ふるさとの歌まつりから蝗攘祭りへと続く一連の夏祭りもまたこの系列のものである。

   ふるさとの歌まつり現る

 昭和四十四年六月、由布院中が沸きたっていた。NHKの花形番組ふるさとの歌まつりを迎えて興奮していたのである。役場職員が、議員が、村内の世話役が、団体の役員が、眼をかっぴらいて町内を走り回っていた。なぜか?町長がいなかったからである。

 岩男町長は外遊していた。国際自治体連合のウィーン会議に参加したのである。出発に際しては盛大な町民大歓送会が国体ウエイトリフティングの会場で行われ、後藤茂議長から旅費が贈呈された。会場いっぱいに詰めかけた町民から万雷の拍手が起こり、岩男頴一町長、御母堂、岩男彰病院長夫妻が深々と頭を下げた。秋吉昇県議会議員ほか町内名土の祝辞の内に歓は尽され、それから大分空港に見送りである。空港には後藤文夫(元文部大臣)後藤正夫(当時大分大学長・現参議院議員)木下郁(当時大分県知事)上田保(元大分市長)等がキラ星の如く並んでいて歓送の湯布院人たちを驚かせた。もっともキラ星の方々は後藤文夫を送っていって偶然岩男町長の出発に出遇ったのだという説もあるが、そんなことは問題でない。湯布院からは全町議会議員を始め、役場の課長、係長、商工会、観光協会、農協、青年団、PTA、婦人会等あらゆる団体の関係者と、いろんな関係の人たちが空港ににこにこと詰めかけた。

 万歳の声が空港にこだまし、<祝壮途、ウィーン会議参加岩男町長>の横幕が烈しくうち振られて岩男町長は飛び立っていった。そしてあとにふるさとの歌まつりの宿題が残ったのである。NHKの全国放送五十九分をもたせてなお素敵な町と言わせるだけの郷土芸能があるか?ない。ではどうやってデッチあげるか?

 宿題を受けとったのは現町長の清水喜徳郎である。当時助役で岩男町長の留守をあずかっていた。清水助役は温厚な人であったが外見以上に実務家であり、組織を動かすことよりも人に直かに当ってばらばらの動きを作り、その中から趨勢を育ててゆくような所があった。このときも彼は総務課長の佐藤忠男に推進部長の役割を押しつけ、議会や村落及び各種団体の役員に実行委員会風な協力の態勢を作らせると企画の仕事を平岡正堂、佐藤雄也、中谷健太郎の三人に任せて悠々と町長室に立寵った。平岡は役場総務課の観光担当だったが、佐藤雄也は商工会の指導員、中谷にいたっては只の旅館経営主である。町を挙げての行事に民間ばらばら組織では困るという意見もあったが温厚な清水助役はにこにこと無視した。参ったのは三人の企画屋である。<どげえするかい?>と頭を抱えた。中谷が三十五才、平岡と佐藤が三十才である。平岡は社会教育主事の資格を丸坊主の頭にみなぎらせて町中をひょこひょこ歩いていたし、佐藤は県下で最も優秀な指導員を自負して眼をみひらいて走っていた。二人は小学校の同級生である。二人の間にひっかかりはない。平岡はいま曹洞宗の名刹興禅院の住職であり、佐藤は前にも触れたようにレストラン木綿の経営者である。温厚な二人になっている。

   その前の年の事件

 さて三人は夜な夜な頭を抱え、盃を抱え、グラスを抱えて作戦を練った。この三人には前科がある。前年の四十三年に分厚い観光冊子<ゆふいん>を作ったときもこの三人が参加しているし、同じ年の夏祭りには新町を踊り歩く<盆地祭り>をでっちあげている。これは岐阜の郡上祭りに範をとった道行踊りで新町全域を交通遮断してお祭り通りにし、そこに村の踊り手チームが乗り込んできて練り歩くという趣向である。もともと由布院には村落ごとに盆踊りの風習があった。盆の十三日、村衆はうち揃ってその年の初盆の家を踊り歩く。

 その風習がしだいに薄らいできたのは戦中からで、戦後は婦人会や青年団、消防団まで駆り出しての保存運動にも拘らず、ついに勢いを盛り返すことはなかった。いまは各村落の公民館分館や、寺、共同温泉、駅前など<広場>と言えるところにはなりふりかまわずしがみついて、まことにささやかに、しかし力を込めて<供養総踊り>が続けられている。各戸から庭がなくなって踊りは村のなけなしの広場に 流れ集まって生きているのだ。その流れが村本位でなく、さらに広い単位に広がって力を掴もうとしていた。それに樟さしての企画であった。<盆踊りの強化育成>という錦の御旗が彼等にはあった。

 岩男町長がそれに朱印を与えた。商工観光係になったばかりの平岡を先頭に三人組は突っ走った。彼等の発想は自在であり、やり口はゲリラ戦に似ていた。新町通りの全域に約三百個の電飾提灯をゆらゆらとぶらさげ、真中に口説き櫓を組み、商店街の軒下に五個のスピーカーを連ねて鳴らし、太鼓は生ま音でやろうと、通りに点々と配置した。太鼓打ちはスピーカーからの口説きの声に合わせて太鼓を打つ。これは各村落に太鼓打ちの名人がいて、それらの人々に働き場を作る意味もあった。口説き手は村名と名前を紹介されて口説き櫓の上で花の舞台を踏むのだが太鼓打ちはそうはいかない、そして太鼓打ちこそ踊りのリズムを支えてゆく心柱なのである。新町の電飾提灯は新町商店会に頼み、スピーカーは立川電気ほか地元の電気屋さんの奉仕、口説き櫓も阿部建設の提供で無料で出来た。口説き、太鼓、踊りの段取りは由布院小学校の物故者供養踊りの世話人会で話をまとめ、花火は商工会に、酒・飲物は観光協会に請けてもらって、さて華々しくも大特価の盆地祭りが開幕した。佐藤は浴衣に祭手拭いをひっかけ下駄を鳴らして各セクションの間を執こい念入れをして走っていたし、平岡は初盆の檀家を回って供養の経を読みながら、踊り衆のための握り飯炊き出しに采配を振っていた。中谷は酒屋やコカコーラ本社、あるいは観光協会の大口に電話をかけまくり、「お宅のツケで飲物をとっておきますよ、もちろん花の御礼は大きく貼り出します」と辣腕を振っていた。

 さて準備終って夜がきて、交通も止まり、新町中が明るい電飾に照らし出された。三人は息を呑んで町の後ろの暗い登場口を見守った。

 やがて踊り手たちがやってきた。

 列を組んで一気に現れた。それと一緒に子供たちや見物がわんさと町に入ってきた。

 みるみるうちに町は人で埋まり、ざわめきたった。この時は由布院にいた岩男町長が浴衣姿で「やあやあ」と人渦の中に現れると祭り気分が町中にみなぎった。やがて太鼓が鳴りわたり、口説きが始まった。 山のアリャ谷々、野に咲く花も、ヤレショドッコイショ、人が通わにゃ盛りもすまい、アリャヨイヤサノセエ、ヨイヤサノセエ。

 村ごとに口説き自慢が登場して対抗の気分が盛りあがり、踊り手も区長、駐在員以下、面子にかけて踊りの先頭に立った。花で上がった酒が配られ、興禅院炊き出しの握り飯や各位提供の飲物が踊りの列の中に点々と配置された。踊り手はのどがかわけば飲み、腹が減れば食ってさらに踊った。岩男彰病院長が口説き櫓に駆けのぼって口説き始め、岩男町長がうちわを掴んで踊りにはいった。町の偉い人たちが慌てていっせいに踊りに加わった。祭りはたけなわに夏の夜を埋め、溢れた。大成功であった。気の毒に打合わせ通り律義に終了を告げ、演説をした後藤茂議長が<祭りに水をかけた>と不評を買ったが、それは仕方のないことだった。祭りの方が予定を超えていたのである。

   蝗攘祭りをでっち上げろッ

 この盆地祭り企画の前歴を買って清水助役はふるさとの歌まつりの企画を三人に任せたものらしい。三人もその成功に気をよくしていたから町を挙げての大盆踊りをまず企画の一に挙げたがそれだけではどうにもなるものではない。なにしろNHK側は全国股にかけた手練れである。少々のものでは「うん」と言わない。「誰がこげなものを招んできたんか?」という話になった。「何もありもせんのに」「民間芸能の宝庫とか言うたんじゃろう」「誰がや?」「そりゃ町長じゃわい」「町長はバッファローを飼うち吹いたち言うで」「バッファローちゃ何かい?」「西部劇に出てくる大きな牛じゃわ」それを牧野に飼うと言うのでNHKがたまがってふるさとの歌まつりを湯布院に持ってきたというのだが、当てにはならない。しかし三人は嫌いではない。「祭りか?ほいきたッ」というところがある。ホラケン(中谷)に、アゴタカ(佐藤)に、おとぼけ正堂(平岡)である。(平岡はとぼけた風貌からそう称ばれた。精力絶倫というのでオットセイのホルモン、オットホルと称はれた時代があるが和尚さまには不適当というのでこの名は廃れた)。

 三人は走りだした。

 まず脚で探るほかはない。村のどこかに何かが埋蔵されているかもしれない。それを堀り起こす所から始めようというのである。塚原、川上、川北、川西、湯の平から庄内まで三人の行脚が始まった。春たけなわの緑の村を三人は歩く。くる日も、くる日も……。塚原では甘酒祭りに当った。嬶天下の奇祭と近頃マスコミが取材する祭りだが当時は村内の親密な祭事であった。

 岳本では虫追いの祭りを掘り起こした。松明に火を点じて、牛を追いながら村中を歩き山に登って尾いてきた虫を焼き殺すという。

 乙丸ではご存じ神楽に的をしぼり、川西では扇子踊りと棒踊りを発掘した。湯の平の山神社の白熊(はぐま)、それに庄内の旦那歌舞伎に当たりをつけて詰めにはいった。

 詰めの段階で虫追いの蝗攘祭りが大きく膨らみ始め、これが歌まつりのみせ場になってさらに七年間も続くことになるのだが、このときはまだわからない。蝗攘祭りは八十年も前に消滅していたから聴きとりが大変だった。岳本の佐藤喜六老や田中市の田中到老に尋ねるほかはない。いずれも九十何才である。しかし八十年前はまだ幼児であったから記憶が定かでない。山崎の豆田千造老は「そういえばあったなあ」と述懐するに止まった。佐藤老も田中老も断片的な記憶は強いのだが、それが二人の間で合致しない。すると二人は慨嘆して仰言るのだ。「あいつも年をとったのう、そげなことも覚えちおらんのか」。

 さて二人の言葉に六所宮の立川文人宮司の資料等を加えてお祭り三人組は八十年前の虫追い蝗攘祭りの全貌を再現、あるいはデッチ上げることに成功した。ここで本来なら企画の仕事は終るのだが、相手は湯布院が初めて出過うNHK全国放送のテレビ企画である具体的な実行計画までやってくれなきゃわからんじゃないかという話になった。組織を無視して勝手な企画を推し進めることに反感もあったらしい。<思いつくのはあなたたち、やるのはわたしたちか?>というのである。えいッさあ殺せと三人組は渦の中に跳び込んだ。

 さすがに佐藤忠男課長が入ってきた。

 これで同行四人になった。もう苗代が始まっていた。四人は梅雨の前触れの細かい雨が煙る田のあぜをあっちの村からこっちの村へと歩いていった。