●ロンゲスト・ヤード

 昭和三十七年から始まった旅館二世たちのたすきがけ総力戦は、三十九年の九州横断道路開通を機に戦線拡張の砲列を縮小し、四十年から四十五年にかけては各人が実力をみがきながら、しっかりと由布院の個性を創ってゆく方向に向かった。それが四十年の別荘旅館・湯の岳郷グループの結成であったし、猪鹿鳥料理の創製であったのだ。湯の岳郷は四軒の小さな民家風旅館に過ぎなかったが、それらが別荘風という個性を強烈に打ちだしてきたとき、ほかの旅館群も各々の個性を明確にしなければならなかった。そこから後年いろいろの雑誌で紹介された近代ホテル風、別荘旅館風、観光旅館風、入湯滞在旅館、国民宿舎その他という<旅客に親切な旅館の表示法>が生まれてきたのである。

 猪鹿鳥料理もそれだけを言えば冬場の、それもマスコミ狙いのアイディア料理にすぎなかったが、そこから旧来の<久大名物鯉と鮎>式の郷土料理を大きく踏みだした新しい郷土料理が生まれてきたことも事実である。続いて冬場だけとか、材料が高いという短所を補って手打ちそばや、味噌や地鶏の料理が工夫され、十年後の今、ようやく形を整えようとしている。つまり由布院の、一見アイディアに富んだ、、観光路線の展開は息の長い創造の道程の断面だということである。

 その息の長さが次々にマスコミを誘い込んでゆく。昨年からあぜ菜を売りだしているが、これを試食するために町内旅館諸氏はもちろん、大分・別府や福岡の顧客が動員されているのだ。それも「菜の花畑に入り陽うすれ」というキャッチフレーズで、一面の黄色いあぜ菜の畑の中で、地鶏の鍋に青々と煮て供するのだから顧客たちはたまらない。たちまち宣伝担当になって各々の市に帰ってゆくのである。    

   しぶといやり口

 全くのところ由布院人のやり口はしぶとい。例えばそばである。玉の湯の板場兼元主人・故国府新一はその名も唄新と称ばれる唄上手だったが実はそれは五番目の好きで、一に角うち、二に生そば、三四がなくて五が三味線というのである。三味線にはもうひとつお色気の方もあったのだが、それはともかく一の角うちが過ぎてとうとう国府新一は他界してしまった。

 その国府が元気な頃、宣伝旅行にゆくと必ず「ちょっとそばを食べてくる」と言ってバスを降りる。のれんをくぐって、ちょっと食べて出てくるのだが、その速いこと、そば屋を見つける勘のよさにはみんな驚いた。そば好きといっても国府はほとんどそばを食べない。「ザルッ」と頼んで、追いかけて「酒ッ」と言う。ざるが上ってくるまではコップでまずいっぱい。ざるが上ってきたところでひと箸だけすすりこむ。それからコップでもういっぱい。さっぱりと口を洗ってお代を置き、のれんを割って表へ出る。これに付き合っているうちに中谷がそばに惚れた。

 だいたい中谷は惚れやすい性質で目新しいものに抵抗力がない。井尾百貨店の井尾孝則は「新しい酒がでたらここに持ってくるんじゃ。あんたがいい、いいち言うて宣伝してくれる」と喝破して中谷を苦笑させたが、事実中谷の”かぶれ頭巾”は相当のものである。中谷はそば食いの旅を始めた。東京、岩手、福島、長野と、そば処の有名な店を訪ねて主人に会い、語り、食べ……ビジネスホテルに泊まって旅を続ける。そんな旅から帰って中谷は裏の鯉精の母堂・故佐藤キソノについてそば打ちを始めた。佐藤キソノは村の旧家の出である。だから当然そばも打つ。中谷は親切この上ない師匠に恵まれたのだった。そうしながら中谷は長野から特上極めつけの干しそばをひいて湯の岳庵のメニュウに入れた。そうやって<そばが美味い>という評判をとりながら平行してそば打ち修業を重ね、ある日<本日よりそば手打ち>と書き出したのである。客席からちらほらみえる所で鉢巻姿で中谷はそばを打ち始めた。<いままでのそばが干しそばだったのなら手打ちならどんなにか美味しかろう>とお客は思う。<あんなに一所懸命捏ねたり、のしたりしておるから美味しかろう>とお客は思う。勝負はあった。当時、店先でそばを打つそば屋は大分、別府にまだ一軒もなかったのである。次に中谷は友達の家を廻り始めた。そば粉とめん棒を担いで「ごめんッ」と台所に入ってゆき、配膳台を借りてそばを打つ。手付きはかなり怪しいのだが湯の岳庵のそばはいま評判だし、それに何よりも美味い。摺りたての粉で、打ちたての、ゆでたてだから美味いのが当り前だが、それを小学校の頃から徒競争どん尻、鉄棒、跳び箱いっさい駄目の中谷がやってみせると何となく手品めいてみえてくる。「打とうえ、打とうえ」と中谷は言った。「わけはねえで、すぐできる」。それほどかぶれ屋でなかった友人たちは自分でそば職人になろうとはしなかったが、それでもそばはすこしずつ由布院に根づいていった。町内の土産品店や鉄道弘済会でも半生まのそばが売れ始めた。流した汗の量に比べればまことにすこしの実りでしかなかったが、この先たっぷりの時間があると中谷は思っている。

   国体すんで春がきて

 昭和四十一年九月、第二十一回大分国体が終ると由布院にかすかな変化が起きた。それは緊張感を伴った静けさといったものであった。

 何かが解き放たれるのを待っていた。町を挙げて迎え入れたウェイトリフティングとホッケーが町びとに<全町>の感触を植えつけていった。国体運営委員会の記録班の中に四人の会が結成され、玉の湯の梅木薫平、当時公民館長の故岩屋豊洋、現協会理事の井尾孝則、当時公民館現興禅院住職の平岡正堂等が集まって酒のまにまに<町>を考え始めていた。両陛下をお迎えして駅舎は美しく生まれ変り、陛下をご案内した駅長が「あん気の強い秋月駅長が、手と足が逆になっち、どうしてんまともにならんじゃったと」という話もすこしずつ薄れてゆき、岩男町長が山の名前を訊かれて「あれは普通の山です」とお答えしたという話も消えていった。道には大急ぎでやった花いっぱい運動の名残りのコスモスが咲き乱れ、それもやがて枯れ伏して冷たい雪まじりの風が吹く頃になると町は死んだように動かなくなった。そして明けて四十二年二月、岩男町長が無競争で四期町長就任を決めた直後、秋月駅長は由布院駅を去り、太田末男駅長が着任してくる。

 太田は闊達な人物であった。がっちりした短い身体に大きな顔をのせてそれがいつもにこにこ笑っていた。その人なつっこさは天性無類で、着任早々、仏の岩こと、富永に「あんたの顔はお神楽舞うならはいらんで」と言わしめたほどである。そのときさっと神楽舞いの振りをしておどけてみせたのがいかにもインテリ風でおかしかったと中谷は評する。かつて国鉄労組の中央執行委員長として活躍。「東京駅の丸ビルの一角を占拠してなあ、週刊誌のグラビヤいっぱいにこの大きな顔が出たこともあるんじゃ」。そういって呵々と笑うとき太田駅長はいかにも満足気にみえた。しかし実際は尖鋭化した国鉄労働戦線の陣頭でみせしめ風に、あるいは引替条件風に処断された一揆世話人たちの一人であったらしい。佐倉宗五郎の昔からこの系譜は変っていない。彼等を仲間専従の大将として支え続けてゆくほど組織の力は強まっていないのだ。

   陸軍自動車部隊

 春がきて、桜吹雪に花が散り、岩男町長も無事無投票四選をきめてめでたしの季節が始まった。観光軍団もあい次ぐ観光パブリシティの全国表彰で大いに気をよくしている。国体を乗り越えた個々の勢いが町中に溢れようとしていた。温泉祭りのミスたちを連れての九州行脚宣伝には太田駅長が先頭に立った。「いまは汽車屋じゃけど昔は車屋で」。陸軍自動車部隊歴戦の勇士だという。「運転は任しておきなさい」と言う科白に一同感激して、分隊長になって貰い四つの分隊は九州四方面に向かって次々に散っていった。太田駅長の隊は熊本、長崎隊である。後席に美女三人、運転助手に中谷がついて、薫風の九州横断道路をひた走る。さすが帝国陸軍自動車部隊栄光の勇士。車は糸を曳いたように大草原をよぎってゆく。♪ああ堂々の輸送船……

  ところが市中に入り始めると勇士の様子がすこしおかしくなった。車がやたらとがぶるのである。急停車しようとしたりする。中心街にかかると車は勝手に停まったり走ったりし始めた。自由自在である。中谷が「駅長さん、どうかしたんですか?」と訊くと太田駅長はしっかりとハンドルを握り締めて「わしは走るッ、あんたは信号をみておいておくれッ」と言うなり真一文字に走りだした。驚いたのは中谷である。「赤ッ、青ッ、人間ッ」「人間はよけこなすッ、信号だけみておいておくれッ」あとで太田駅長が述懐して言うことには「ジャングルには信号はなかったからなあ」戦後二十年、横井さんも吃驚りの大戦勇士である。

 さて一年足らずで太田駅長は佐伯の駅長に栄転し、由布院を去った。あとに大らかなやる気と懐しい想い出が残り、それらを廻って由布院観光衆たちはうごき始め、夜な夜な集まって町を語る機会が多くなった。国体の余熱と岩男町政四期の圧迫感も作用していた。「何かをやらねばならぬ」と由布院衆たちは感じ始めていた。しかしそれが何であるか、どこから手をつけていいかがまだはっきりしていない。湯の岳郷に集まった近郷のタレントたち−−大崎聡明や岩尾浩介や佐伯印刷等のお蔭で、由布院観光の宣伝印刷物は全国的に高い評価をさらっていたが、町の実態はまだ未熟だった。恰好いいパンフレットが、ポスターが、実態と関係なくマスコミに乗って飛んでゆく。そんな雰囲気であった。それでも「いいところだけを宣伝する」あるいは「一部の者の特長を由布院全体の特長のように扱う」といった批判も起こった。しかし事態はすこしずつ明らかになっていった。由布院の個性美がみえてくる。この姿こそが日本中にうけるといった形がしだいにはっきりしてくる。「これでゆくしかあるまい」「この手でゆこう」。しかし実態はまだ遠い。<中味を造らねば>という声が土の中からにじみ出るように出てきた。その声はだんだん大きく響きわたり、翌四十三年のお祭り創りから四十五年以後の果敢な町造り運動へと巾広く展開してゆく。その長い、執拗な動きを支えたのは四十一年に復活した由布院温泉観光協会の組織である。

   地下水は流れる

 風邪に潜伏期があるように、酒に醸成期があるように、観光動向にも胎動期がある。鉈の切れ味分厚くて、少々の木や竹なら切り払い、それでいてときには鬚のひとつもずぱっとそり落してみせる、人間機関車秋月作夫が四十年二月、由布院駅に着任してすぐに手がけたのが由布院温泉観光協会、湯の平温泉観光協会、それらを統括する湯布院町観光協会という組織の編成であった。これはまず殆んど潰れかけていた由布院温泉観光協会を自力で復活させたという点で大いに評価されると同時に由布院、湯の平、塚原という三つの温泉場を具体的に活かしながら湯布院町という統括的な組織として考えようとしたところに意義があった。この考えはその後も地下層を流れ続け、五十四年七月、町に観光課が設置されるのを機にもういちど組織の表面に浮かびあがろうとしている。これは観光課ができて観光行政が大きく動き始めようとする、その鼻先の勢いを嗅きとって、素早く<協調連携>の路線にたぐり込もうとする観光ゲリラ戦略の一環である。

 <町観光課の仕事をお手伝いしましょう。事業委託をさせてください。補助金は要りません。私たち由布院、湯の平、塚原が合議してお互い満足のゆくような形に、責任以って事業をやってゆきます。どうぞその仕事、私たちにやらせてください。>衣の下に何かが見えないでもない論法だが行政と町民との関係をみごとに正当化しているからこの運動はすこしずつ前に進んでいる。秋月駅長が構想を打ち出して押し進め、小野順吉由布院温泉観光協会長がサポートし、中谷が規約の草案を書き、平川町観光係長がそれをチェックした協会創りの熱い日々から十二年の時が流れている。

 そんな風に事態はすこしずつしか進まなかった。

 協会会員に会員章の看板を造って配布したり、各旅館の入浴券を案内所で発売することを始めたり、道の角々に旅館の案内標織を立てることを考えたりしながら観光軍団のインテリたちは、なぜか自分たちの血管が大きく脈搏ち始めていることに気づいていた。それは翌四十三年から始まる斬新で果敢な町造り実践行動の、いわば予兆であったのだがそのときは誰もそうと知らない。引越しの片付け仕事のようにあわただしく駅内観光案内所の充実を始め、天ケ瀬観光協会の上広事務局長を引きぬいて案内所長に据えると後事を託してエリートたちはわっしょいと旅に出かけていった。

 ゆく先は富士登山。加わったのは富永岩夫、志手康二、梅木薫平、中谷健太郎、小野和俊といった面々である。

   富士山麓・美女笑う

 さて一行は別府に集結、別府勢と合流して夜行列車で熱海へ。そこでバス二台に分乗して十国峠から箱根遊覧、白糸の滝、河口湖と順調に旅は進む。このツアーは別府交通公社が管轄内の若手観光関係者を対象に組んだ名物ツアーで、旅館、ホテル、弁当屋、ドライヴインの若社長、奥さま、嬢さま、店員、女中、支配人いり乱れての満艦飾の一行である。中にいちだんとはなやいでいるのが亀の井バスの車掌の一団で、その廻りにはいつも矯声が絶えない。翌朝日本晴れの富士の裾野をひた走る頃には矯声のまん中に小野和俊の胴間声がところ狭しと響き渡り、流し目の康こと志手康二の目が輝きわたるのだった。

 さて五合目まででバスは帰ってゆき、いよいよ富士登山にかかる。富士は眼の前にある。「行きますぞうッ、私に尾いて大きな声でえッ」と真黒い顔の、ぐるぐる眼の強力が怒鳴り「六根清浄ッ(六根清浄)、お山は晴天ッ(お山は晴天)、元気を出してッ(元気を出して)、ぼつぼつ登ろうッ(ぼつぼつ登ろう)」。青年、中年、お嬢、おばさん入り乱れて登山が始まる。先頭に尾いた方が楽だと聞いて由布院軍団は先頭のグループにかたまったがやがてワッショイの小野和俊が落ち、続いて流し目の康ちゃんが落ちていった。小野はラグビーの選手だし、志手は<身体にいいゴルフ>をやっているのだが富士山は苦手らしい。山男の梅木薫平と同じく骨皮派の中谷が意外に強い。達磨型の富永岩夫はものも言わずにぴたっと先頭の強力に尾いている。田植え用の手甲脚絆に地下足袋をはき、丸い顔を手拭いで包んで頭にちょこんとコール天の登山帽をのせている。身体を透明なビニール合羽で包んでやたらと長い杖をついているのが異様である。ほかの連中も似たりよったりで登山家の梅木薫平だけがベレー帽にポンチョという風に決めている。後ろの方に落ちてゆきながら小野はしきりに大声でしゃべっている。廻りにはあいかわらず矯声が湧く。車掌の美女たちである。志手は公社の高橋を相手に喘ぎながらしゃべっている。

 「そうかい……うちの前で……道路工事をしよったんは……あんたの姉さんかい?」「そうじゃ……わしの姉じょうじゃ」「……あんたの姉さんか……よいとまけちゃあ……知らんかったなあ」「……ずうっと由布院に……よいとまけに……行きよったんじゃ」「……姉さんが……よいとまけちゃあ……まったく……知らんかったなあ。」それを聞いて先頭の富永が「よいとまけ……よいとまけち……言うな」と言えば志手は「ほんとなあ……わしゃ……正直なもんじゃけん……よいとまけち、出るんじゃ」と謝まり、高橋は「いいわ……よいとまけは……よいとまけじゃ」と言う。その顔をみて富永が「あんたん顔は……強力そっくりじゃなあ」と言い、なるほどとみんな驚いて、それからは公社の高橋は<強力>というあだ名になった。

   男女順番お構いなし

 さて八合目の山小屋に着いた。この華々しき一行はここでごろ寝するのである。それも普通のごろ寝ではない。板敷のすみからすみまでふとんが敷きつめてある。枕はふとんの数とは関係なしに並べられ、しかも上・下両方に置かれてある。つまり人はふとんの上・下から脚を突込んで突き進み、そのまま場所を占拠して横に寝てしまうという仕組みである。これが男女順番お構いなし、好きな所にお休みなさいというのだからまことにありがたい。さて修学旅行よろしく、きゃッ、きゃッと並んでお揃いの夕食を食べ、高いサントリーレッドを飲んでしまうとすこしは身体が暖まり、気分がゆらいでくる。そこで一人、また一人、ふとんにもぐりにゆくのである。やがて寝室に静寂が訪れた。かすかにものの動く気配がする。中谷の隣は別府のホテルの女人であった。「こういうときは親切にするもんで」と交通公社の高橋に教えられていた中谷は、女人の肩がすかないようにふとんをかけてやったりなどしたが、それが親切であったかどうかあとになって考えてもわからない。

 ふと気がつくと誰か向う側から太股のあたりをそっとつついてくる。そっと、ほとんどわからないように、しかし次第にはっきりとサインになってきた。中谷はなるほどと合点して勇躍親切に応答を返し始める。質疑応答はだんだん深く静かに潜行し<よし、わかった>というところで向うの脚が急にひくッとひっこんだ。ふとんの向う側がゆっくりと動き、顔が覗いた。「何かッケンちゃんかッ」。富永岩夫であった。

 それから富永は怒ってお奈良を連発し、念の入ったことに脚をあげて中谷側のふとんを持ちあげ、ふわふわとやり続けたので中谷も戦意を喪失して眠りに就いた。流し目の志手康二もさるあたりに当りをつけ、隣床を空けて当りの忍んでくるのを待っていたら、こともあろうに梅木が忍んできたというので銷沈した。ワッシヨイの小野はサントリーレッドを飲みすぎてうちとられ、太いびきをかいて廻りの美女たちを頻卑戚足させたに止まる。梅木がなぜ志手の許に忍んだかについては諸説あるが、遅くなって寝床がなかったというのが真説らしい。何故遅くなったか?美女と話していたから。昼間、彼女の荷物を担いであげたら大いに感謝され、誘われ、話しこまれたというのである。もっとも一説によると話し込んだのは美女のお付きの六十幾つの乳母の方で、美女はすやすやと居眠りをしていたそうな。この説には信憑性があって梅木は老婆に惚れられる性質がある。かつて京都祇園のある宿に泊まった折も、そこの老女将に惚れられて一同大いに迷惑した。なにしろ遊んで夜半に帰ってくると「旦さんがお風呂おすみになるまで決して上らしまへん」と三ツ指ついて迎えられ、それから梅木との話が始まるのである。ちなみに老女将は独り暮らしし、元祇園の芸妓の上りである。御年八十一才であった。