●《郷土料理の里》売り込み作戦

 湯の岳郷を撃て

 猪鹿鳥料理とは猪と鹿と鳥を組み合わせた膳組コースの名前である。もちろん花札の猪鹿蝶にひっかけての称び名だが<料理の美味い山の温泉>というイメージをすこしずつ売り出すことになる。しかしその前準備として曲布院はまことに巧妙な仕掛けを展開している。富永がはいってきたのを機に急速にグループとしての性格を強めていった別荘旅館の仲間が、共同で会食サロンを造ったのである。サロンは<湯の岳郷ガーデングリル>と称ばれた。仲間のグループが<湯の岳郷>で、その中心になるサロン庭園だから湯の岳郷ガーデングリルである。薄暗い農村観光のイメージから脱脚しようという意図もあった。仲間は万象苑、香椎荘、玉の湯、亀の井別荘の四軒で、いずれも別荘風小規模旅館であることと、湯の坪、岳本村落に属していることが共通項であった。湯の坪村と岳本村だから湯の岳郷、郷は村が合体したものである。

 これだけの仕掛けをしておいてから連中は猛烈な猪鹿鳥料理売り込み作戦に出た。マスコミはこの二階建ての作戦に巧く飛びついてくれた。すなわち、弱小旅館が経営契約をし、共同でガーデンサロンを創ったということ、これによって各旅館が各々の個性とのれんを活かしながら大型観光資本に抵抗する大量受入れができるのではないかという観光経営上のニュースと、その上に乗っかっていかにも人の気を惹きそうな<猪鹿鳥料理>というタイトルで新しい郷土料理を売り出してきたというニュースの二重構造である。湯の岳郷という経営の共同グループと、その実現の場所としての湯の岳郷ガーデングリルがなかったら、猪鹿鳥料理は単なる旅館のアイデア料理として黙殺されたであろう。したがってそれを突破口としてその後しだいに浸透していった<由布院・郷土料理の里>のイメージもまた別の様相を展開したかもしれない。

   種も仕掛けもあった

 ところで弱小の旅館連中がどうやってそのような舞台を創ることができたか?実はこの芝居、種も仕掛けもあったのである。

 共同の庭園会食棟という触れ込みのガーデングリルは、実は亀の井別荘の所有であった。由布院の会食棟はどうしても広い、緑の樹々に包まれているものでければならない。わざわざ車でお客をお連れして、喜ばれるためには緑の庭園が不可欠である。しかしみんな貧乏で土地を買う資力などとてもない。そこで中谷に白羽の矢が立った。亀の井別荘の庭がいちばん広い。その一角に建てさせろというのである。いろいろ検討したが、他人の土地にさらに他人名儀の建物を建てるうまい方法がみつからない。とうとう中谷が金をみつけて自分で建てることになった。但し外に対してはそのことは秘密にしておく。あくまで湯の岳郷のガーデングリルで押しとおそうというのである。それでマスコミは共同施設として宣伝してくれるし、各旅館もその方が豪華で都合がいい。万事めでたしであるという。まことにうまい話の陽導作戦である。

 このアイデアには下敷がある。富永が由布院観光ホテルいよとみを経営していた頃、近くに明星というバアがあった。主人がバーテンその他を兼ね、奥方がウエイトレスその他を兼ねてやっていた。主人は器用な人であッという間に小庭を造ったり、店内を改造したりする人だった。柔道の強い人で酔客がからむと「お客さん、すいませんなあ」と謝まりながら前から襟を掴んで吊るすように客を押しだす。しかしそのご主人よりも奥方の方が悪かったという。後ろから下駄で喰わすのである。ある日主人が店内に小さな岩風呂を造った。すると奥方が水着でしずしずと現れ、風呂に入って「こっちいおいで、一緒に飲もうえ」と言った。ほんとうだとすればずいぶんと前衛的なバアである。そのバアと富永岩夫とがタイアップ契約を結んだ。いわく<由布院観光ホテルいよとみ直営バア明星>というのである。

 パンフレットの裏に富永は直営バアの写真を載せた。カウンターに元陸軍戦車隊の主人が蝶ネクタイに首を締めあげて直立不動で立ち、向き合った客席には富永自身が、これも緊張した面もちで坐っている。写真屋が注文したらしく顔がすこしカメラに向けて矯正されているから主人と客とはそれぞれに関係なく、あらぬ方角をにらんで向き合っていることになる。傑作パンフレットであった。こうして富永は労せずして直営バア所有者となり、バアもまた、その信用度に厚みを加えたのである。

 湯の岳郷ガーデングリルもこの伝でゆこうということになった。亀の井別荘庭内に中谷が会食棟を建て、それが四軒共同の施設になったのはこういう筋書きがあってのことである。

    手の内は古(フル)ハウス

 こうして湯の岳郷グループは手品の手付きも鮮やかに出発した。

 ちょっと寄っていただく所を造りたかったと中谷は説明している。ぜひ由布院にお立ち寄りくださいち、あっちこっち言うて歩いておるでしょう。いざきてみると寄るところがない。風呂に入るにもちょっと飯を食うにも、ゆっくりするところがない。旅館の部屋を借りるのは億劫ですからねぇ。それでまあ由布院の応接間を造るつもりでこれを造ったんです。

 資金繰りの苦しかった中谷は極力建設費をかけないで建物を建てる方法を考えた。結局中谷は四百五十万円で建物全部を造っている。これは四十年代前半という時代性を考えても、いかにも安い金額である。中谷はとりあえず柱と屋根と縁台を造り、それに調理小屋をくっつけて、別に五十万ほどかりて露天風呂を併設すると初夏から商売を始めた。屋根は萱葺き、大きな古めかしいあずま家である。緑の木蔭をわたってくる風が小屋の中を吹き抜ける。露天風呂に浸って、湯上りに小屋の縁台で飲むビールは格別と、しだいにそんな噂が立って応接間に客がつき始めた。夏から秋までの稼ぎで中谷は建具を造り、あずま家の四方を囲った。それから中に囲炉裏を造って大きな雑木を焚き始めた。小屋は煙って煙は目にしみたが、それが評判になって客足は少しずつ伸びた。しかし冬が深くなると客数は急速に減り、やがて開店休業の毎日になった。寒いのである。寒くて風呂にも入れない。飯も食う気にならない。薪を焚けば煙い。眼に滲みて痛くてたまらない。そしてやっぱり寒いのである。会食棟は大赤字になった。それから中谷の奇妙な活躍が始まる。

    中谷、がんばる

 最初に中谷は熱量の高いコークスに眼をつけた。コークスの上に鉄板を丸めて大きな円筒を造り、乗せて発熱体にした。コークスをふいごで吹くと円筒は真赤に灼けた。そうなると、円筒の傍の客は汗を拭き、遠くの客はオーバーの中で震えた。熱風を循環させなければならない。そこで津江村の佐藤光昭から米の乾燥機を借りてダクトから熱風を吹かせた。客が怒って叫んだ。「このうえ風を吹きかけるとはどういう了見かッ」熱風は寒い室内でたちまち冷風に変っていたのである。それでは温泉熱を利用しよう。夜、店を締めてから中谷は床いっぱいに温泉を流しておいた。翌朝番頭が「大変ですッ」と呼びにきた。萱屋根の内側に湯気がびっしょりと滲みとおって、まるで山の木垂れのようにぼたぼたと小屋中に雫が落ちている。従業員が三人、傘をさして呆然と舎の中に立っていた。次に中谷はどこからか煉炭炬燵というものを買ってきて、これを全部の縁台に設置した。<上はぐつぐつ下ぽっぽ>という代物である。炬燵の真中に煉炭が仕込まれており、上で鍋物を煮ながら下もぽっぽと暖い。これは成功したかにみえたがやっぱり駄目だった。

 朝の間は熱くならないし、夕方からは火が衰えて暖まらない。それに鍋がどんなに煮立っても火勢を弱めることができないで鍋は煮え詰まってしまう。逆に弱ってきたら鍋は煮えなく閉口である。とうとう全部電気炬燵に買い替えてしまった。どうも中谷にはこういった性向がある。

 むかし東宝撮影所で稲垣浩の助監督をしていた頃『ある剣豪の生涯』という映画を撮ったことがある。その中で孔雀が万華鏡のように羽をひらくというシーンがあった。カメラを据え、役者を揃えてジッと待つのだが孔雀は羽をひらかない。時間はずんずん過ぎてゆく。「中谷よ、どうにかならんかね」と稲垣監督が冷やかすと中谷はすぐに小道具に走っていって大きな鏡を持ってきた。それを孔雀の前に立てて息を呑んでいる。中谷が説明して言うには孔雀は鏡に映った自分の美しさに興奮して羽を拡げるかもしれぬ。孔雀は羽をひろげなかった。また中谷は小道具へ走っていって今度は大きな扇子を持ってきた。それを孔雀の前に突きだして広げたり縮めたりしてみせている。意図は明白である。その晩酒の座でこの話が大笑いになったとき中谷は言った。「あのときはあれしか思いつかなかったんです。ほかに方法がなかった」。

 考えて、それしか思いつかなかったら、ほかに方法がなかったらそれをやってしまう。中谷の発想の漫画的とも言える思いきった飛躍と、現実との間にしばしば起こる喜劇的な断層はこの辺りに起因するように思われる。由布院観光の企画担当者を自認する中谷のこの性向が、良いにつけ悪いにつけ由布院観光にある種の影響を与え続けたことは否めない。

 そこから後年の牛一頭牧場や辻馬車の運行、さらに夏の映画祭、音楽祭、秋の牛喰絶叫大会などの奇妙な催しが生まれ、町外に話題を町内に戸惑いを振り撒くことになる。

 とまれ湯の岳郷ガーデングリルはしだいに軌道に乗り始め、それを中心にして湯の岳郷グループは活発に動き始めた。その最初の作戦が猪鹿鳥料理による<郷土料理の里>のイメージでっちあげである。その戦闘状況はこんなぐあいであった。

   戦場に流るる歌

 その頃、猪は玉の湯の国府新一が猟師仲間からたまさか買うていどで、ほとんど料理として定着していなかった。それを湯の岳郷連中がたまたまご馳走になったことから話が起こり、こんな美味いものがあるのならこいつを名物に仕立てあげようということになった。早速富永が探索にでかけ、佐伯の谷本精肉店が大量に扱っているという話を聞いて帰った。

 翌朝、富永と中谷は車で走った。富永は運転席に、中谷は助手席に。その頃は富永は車を買い替えていたがそれでもかなりの古物であった。扉はしっかりと閉まって、開けるのに骨折るほどだったが、替りに車底に風孔があった。雨降りの日に水溜まりを飛ばすとシートの下から水が噴いてズボンがびしょびしょになった。それでいつでもビニールの風呂敷をダッシュボードに持っていた。

 二人はその日の売上を帳場の金庫からさらって持っていた。たかだか四、五万円ずつのばらばら札束だったが貴重な軍資金だった。中谷はそれをコール天の背広のポケットにねじ込んでいたが、富永は腹巻に巻いていた。オードバイに乗って宣伝に走り回った頃の遺物のゴム布腹巻である。胃を悪くしないために買ったと富永が言い、あんたにゃ必要なかろうとみんなが言った代物である。(五十三年にヨーロッパを回ったときに富永が同じ腹巻からおもむろにドル紙幣をひっぱりだすのをみて一同あっと驚いたものだ)。

 谷本精肉店に着くと御主人が親切に応待してくれて猟師の家まで案内してくれた。途中富永は酒を買い、猟師の家に着くとすぐにそれを差出した。猟師の顔がみるみるもみくしゃになってそれから昼の酒盛が始まった。突撃隊長の富永は盃三杯で仁王様のようになり、ユンタ節の色唄を唄いまくった。中谷は酒を飲み続け、軍歌を唄い続けて猟師の顔をさらにもみくしゃにした。持ってきた売上金を預け、猪が獲れたら送ってもらう話を決めて表に出ると陽差しは黄色く夕景に変っていた。そのとき土間のすみに転がっている獲物が眼についた。そりゃ何かいと言うと鹿じやと言う。

 「角(つの)がねえからつまらん、要るならあぐるで」。富永と中谷は大喜びで貰いうけ、鹿を客席にのせて帰路についた。猪肉買入れのコネはできたし鹿まで貰ってしまった。鹿料理の可能性もでてきたわけだ。大成功である。ところが帰ってみると香椎荘の女傑伊藤スミは鹿の屍体を一目みるなり「キャッ」と悲鳴をあげるし、玉の湯の国府調理御大はあんまり遅いと腹をたててどこかに飲みに出てしまっている。

 どうする?どうすると言ったってどうにもしようがない。鹿を捌かねば。捌いて肉塊にして冷凍にでもせねぱ。鹿は腐りやすいと聞いている。板場は上っているし、上っていなくてもこんなもの頼んだ日には即刻証文巻いて帰られてしまう。そんな状況の旅館戦線であった。安い給料で、頼み参らせて働いてもらっていたのである。「よしッ、やろうッ」富永が庖丁持ってきた。中谷もすっかり酔いが冷めている。玉の湯の暗い裏庭にゴザを敷き、裸電球を吊して鹿を捌きにかかった。腹は割ってあったがほかはそのままである。脚をむき、はずし、皮を脱がせ……骨をはずし、肉を切り……筋を採り……。犬が吠え、列車の入替えの音が聞こえ、寒い。お茶を飲み、また始める。やがて鶏が鳴き、ようやく肉塊をビニールに包んで箱詰めにし了えたときに白々と夜が明けた。

 「さあ冷凍しにいこう」。息をつく暇もなかった。鹿は冷凍せねば、冷臓では色が変って変味すると谷本の御主人から聴いていたのだ。冷凍は別府の日冷倉庫しかない。早朝の、銀色の霜の道を別府に向けて走った。♪いやじゃありませんか軍隊は、金の茶碗に金の箸、仏様でもあるまいに、一膳飯とは情ない。富永が唄い、中谷が拍子をとって古物乗用車は別府山道をひた走る。後部席には鹿肉の箱が乗っている。日冷の倉庫は二十四時間営業していた。受付を済ませ鹿肉を担いで厚い二重の扉を入ると急に鼻毛がチリチリと立った。凍ったのだ。それから少しずつ寒さが身体に凄み込んできた。

 「その辺に置いておきない」そう言って係の人はどこかへ行ってしまった。「よいッ、よいッ」富永が中谷の肩をつつく。みると怪しげな山がある。なんと鶏てあった。裸にむかれた鶏が凍って積まれている。その向うにはすけそう鱈の山がある。SFの風景である。富永がコーンと蹴とぱした。

 すけそう鱈が一尾、固い音をたてて床を滑っていった。三回蹴ると入口の扉の傍にきた。さっと身をかがめて富永がそれを掴んでオーバーの中に入れた。帰りは鼻唄で「よいッ、腹が減ったどうッ」と殿様のお帰りである。万象苑の風呂に入ってついでに掃除をして、さて食卓に坐ると熱々のご飯に鱈と葉っぱと油揚げの煮物が並んでいる。二人は倖せな顔になって煮物の椀を抱え込みがんばと頬張ったのだがそのまま箸を置いてしまった。臭いの臭くないのってお話にならない。そこへ国庫新一がやってきて、やあやあ夕べはすまんじゃったと言いながら鱈の煮物を嗅いで、「こりゃ肥料じゃろう」と言う。「肥料じゃあるもんか、大事に冷凍庫に保管しちあった」「ほんなら動物園の餌かな、カバかなんかの」。せっかく苦労しち採ってきたのにと富永怒っているが仕方がない。「よいッ、生卵を持ってこいッ、飯にかけて食う。どうかいあんた」と中谷に言えば中谷は慌てて手を振り「わしゃいらん」と言う。富永が笑って「ありゃ嘘じゃがあ」と言うのだが中谷はいやいやと手を振るばかり。事はこうである。

 いつかなんぼ食うても病気にならぬという話が出たことがある。「入口から出口まで、わしゃ病気ち言うものになったことがねえ。いつも上等、ぴかぴかじゃ」と寛永が言った、「そげなことはあるめえ、いつか腹が痛えち言いよった」「そりゃあるでわしも、人間じゃから。しかしそれから病気にならんち言うんじゃ、腹が痛いときは下かな、上かなち考える。下のときはすぐに便所に走る。一発で終りじゃ」「上のときは?」と誰かが訊いた。「上のときかい、そんときはもったいねえから鶏小屋に走る」。この酒落が効きすぎて中谷は富永家の卵が食べられなくなったのである。もっともこの手の酒落は仲間内ではよくやっていて、いつか霧島の高原ホテルに泊まったときのことである。風格のあるいいホテルだがロッヂ風な造りになっていて部屋に便所がない。朝、寝起きに小便にでていった中谷が浴衣の前を抑えながら戻ってきた。どうしたん?と志手康二が説くと、廊下のウエイトレス・ステーションに美人が坐っておってお早ようございますち挨拶しよる、そじゃからその前を通って便所にいかれん、と中谷は前を抑えている。それを訊いて富永が「そんなら洗面所ででもしちおけ、せわしいのう」と言うと中谷はすぐに洗面台でじょうじょうとやったという。真偽のほどはわからない。しかしそんな話が飛び交うほどヘコ替えの仲間であった。ちなみにヘコ替えとは兵児(ヘコ)、すなわち褌をお互いに交換して締めるほどの仲ということだ。

 こうやって兵児替えの湯の岳郷仲間から猪鹿鳥料理が生まれた。猪は旧来の味噌煮を改めて醤油味のスープ煮にし、鹿は刺身一本にした。鳥は塩胡淑をつけて焼鳥である。いずれも毎夜集まって自分たちが飲み食いする中から生まれた献立である。一世たちから受けついだ鯉、椎茸、わらび、山芋、あるいは洋皿、中付、茶碗蒸しといったいわゆる客のためのふしぎな食いものではなくて、自分たちが毎夜食べる美味い食いものそのものがべースになった。こんな当り前のことが出発点になって湯の岳郷グループはしだいに着実な足取りで歩き始める。それを支援する強力な援軍がいつのまにか舞台の脇に控えていた。写真家の大崎聡明、佐伯印刷の平岩八重子副社長、グラフィックデザイナーの岩尾浩介たちである。