●西九州号が走った

 三十九年四月、西九州号が走った。長崎から日田、大分、別府を結ぶ急行列車である。

 これが由布院、湯の平を貫通する。歓迎に手を貸しておくれという話が駅長からあった。

 ときの駅長は野田亀長、山の小学校の校長先生といった朴訥な風貌の人である。ホームに草花を植えて愉しんだり、<奥別府ゆふいんのしおり>という文集を出して、それを構内の観光案内所に置いてくれたりした。それがガリ版の手作りだから、かかった費用の総計が千冊で七百円だったという好もしい人物である。その亀長さんからの依頼である。よし、一丁やろうぜと連中起ち上がった。

 ほかならぬ亀長さんの頼みじゃし、それに何と言うても長崎からの直行急行列車の開通は嬉しい事件だったのである。公民館と商工会がのど自慢と踊りを受持つと言う。よしッ旅館は芝居でゆこうということになった。それで一同集まった。日の春の新経営者押方千鶴夫人は浄瑠璃の大家である。どうでも忠臣蔵をやろうと主張なさる。場面は<松の廊下>である。それはえらいことじゃ、とてもできぬと言うのだが押方夫人はなにレコードで覚えれば簡単じゃ、私が教えてあげるからと、押方ならぬ、押しの一手でとうとうそういうことになってしまった。

 それで一同稽古にかかる。場所は山水館の大広間である。山水の小野和俊が若手代表で白塗りの判官になり、香椎荘の大川絹光が上野介を勤める。

 香椎荘は朝鮮の漁業王といわれた香椎源太郎中将の別荘のあとで、中将の没後、奥様がのんびりと旅館経営の真似ごとをなさり、大川絹光がその下できりきり舞いの台所廻しをやっていた。そのせいで顔がくしゃくしゃになっていた。そこを買われての上野介役抜擢である。さて稽古はずんずんと進み、応援隊も夜食持参で詰めかけて、「大根屋あッ」などと叫び始めた。こうなってくるとやっている方も熱がはいってくる。大川上野介は<鮒じゃ、鮒じゃ>と大声を挙げ、小野判官は眼をむいて頭をふり回す。その傍で倍くらいの振幅で頭を振っているのが押方大監督である。この人がいちばん迫力がある。

 ある日、大川上野介がわしゃ辞めると言いだした。夜、稽古がすんで家に帰ってからもういちど大きな声で科白をなぞる。それが毎晩続くので女房が嫌がるというのである。

 「ゆうべは近所から苦情がきたち言うてな」

 ゆうべは<笑い>を稽古した。 うふッ、あはッ、うふッ、あはッ、うふッ、あはッ、うふッ、あはッ、ばあッ、はッ、はッ、はッ……。これを一晩中やった。それはたまらぬ。笑いは夜中に稽古しないことにしてまた練習が始まった。

 こうなってくると見物では我慢できない連中が出てくる。「俺たちもやろうや」といよとみの富永岩夫が言いだした。「そうじゃなあ、やってもいいで」と日の出屋の志手康二が相槌を打つ。志手がこう言うときはかなりやる気があるのである。亀の井別荘の中谷が何か段取りしようということになった。いろいろ言うても、もう日数がない。それで一晩で寸劇を書いた。むかし東宝で社長シリーズのシナリオの手直しなどをやっていたからこの種のものには慣れている。富永が抜け目のない乞食、志手がいなせなやくざ、それに役だたずの浪人が出る。

 結局浪人は中谷がやることになった。寸劇だから時間は短く、科白は少い。その少い科白が覚えられなくてうんうん言っている。富永は小学校の頃、旅役者に入れあげていたからなにをひとこと言うにも旅役者の大見得がはいる。志手は色男だから照れてしまって小さな芝居を手みじかにやる。中谷は悪乗りして胴間声で椿三十郎風にやるからとても三人がひとつの芝居をやっているとは思えない。勝手に出てきて、なにか怒鳴り合っている異様な三人という風景である。それがわざわざ名乗り出て、格調高い忠臣蔵の前座に割り込んできたから押方大監督、機嫌が悪い。

 しかしこの三人、芝居こそ目茶苦茶だが日野進一郎なきあとの若手指導者たちだからお年のお偉方も黙ってみている。しかし三人はそれなりに考えあってのことで、こういうときにインテリ風に格好つけていたのでは目前の、横断道路開通に伴う観光ラッシュを乗り切ることはできない。それゆけワッショイで全員勢いよく乗り切ろうぜという、いわば明快直線型指導路線のデモンストレーションである。

   渦の中の論客たち

 それというのもこの三人、昨三十八年から今年三十九年にかけて、かなりうるさく論を重ねて由布院観光の路線を固めてきた。当時由布院は、周辺を岩崎産業や明治不動産の侵蝕に脅やかされ、近鉄の鶴見山ロープウェイは運航を開始し、九重のゴルフ場やホテル工事は山下湖畔に着々と進められていた。そんな中で観光協会は町の商工会に吸収合併されて消滅してしまったのである。

 富永はそのとき群の中心にいた。三十七年秋、日野進一郎が日の春を売却して戦列を離れたあと、その座を継いで旅館組合長になり副に志手康二を指名した。いつもことぶきの徳山から<貧乏たれのじょうが>と冷やかされていた<にぎり飯のような旅館>のチームである。会計に上田屋の上田豊老が入り、理事には若手から中谷が入った。

 こうしておいて富永たちはその主力を日観連の会合である二十日会の論戦に注いだ。その頃二十日会は金鱗湖旅館を藤田観光に売却して身軽になった山田順三が再び支配人として返り咲き、論客の中枢にいた。

 三十八年の正月明けは寒かった。豪雪が久大沿線地方を襲い汽車は走らず、塚原は雪の中に孤立して自衛隊の出動を待つという有様であった。町人は集まって炬燵に腰までもぐりながら、横断道路開通後の湯布院の話、大分新産都の可能性の話、岩男町政をめぐる選挙話などに入り浸っていた。そして二月、予想どおり第三期の岩男政権が誕生した。無競争であった。岩男指導体制はいちだんと強くなった。山田論客の主張はこうである。

 湯布院は観光の条件に恵まれている。横断道路の開通は天の時である。いまこそわれらが観光協会を強化して豊かな湯布院町を築くときだ。観光立町こそ湯布院町の道である、岩男町長と組んで政治の力を導入し、総力を挙げて観光立町に遭進しよう。

 山田の論の底には<俺がそれをやる>という言葉が秘められていた。時の協会長は山水の小野順吉である。協会は弱体だった。理事に商工会幹部を引き入れて協会を強化してゆくという捨身のやり方も一時は成功したかにみえたが、所詮無理があった。容れものよりも中身が大きくて容れものが割れてしまったのである。弱小の協会は会費も商工会に集めてもらい、月百円のうち八十円が商工会費で二十円が観光協会費といったやり方でどうやら形を保っていた。その弱体に代って俺がやる、岩男町政と組んで俺が観光を走らせようと山田の論旨は叫んでいた。

 山田の論は正論であった。政治の力を導入しなければ町は勢いよく動かない時期にきていた。論は標的を射抜いて力があった。しかし富永たちはそれに乗らなかった。彼等が主張したのは商工会との合併である。時の流れがそうなっていると彼等はみた。協会が独力で力をつけるには現状はあまりに弱すぎる。

 無理に強化しようとすれば逆に潰される恐れがあった。町の肝入りたちはどこか観光を恐れていたのだ。それになんと言っても眼の前に迫っている観光の大津波は大き過ぎた。協会を強化して迎え撃つスケールをはるかにそれは越えていた。商工会でも青年会でも、手の空いたものはみんな手を貸してくれと言いたい状況であった。岩男町政と組んでそれをやることはいっけん可能にみえてどこか無理がみえた。岩男町長もそのことはわかっていたようである。商工会に入って思いきり観光の部活動をやればいいという話は、実は岩男町長の方からでたものであった。行政上その方がやりやすいというのである。危険がいっぱいの申し出であったがそれを承知で旅館主たちはその話に乗った。

 小野協会長もあっさりと承諾してくれた。

 こうして観光協会は消滅したのである。朱に交わっても赤くならない。商工会に手練者を送り込んで逆に商工会を観光色に染めあげてやろう。そんな気概を胸いっぱいにして協会は商工会の中に入っていった。

 そのとき送り込まれた手練者が富永岩夫と中谷健太郎の二人である。

   さあ来い、芸能大会

 さて三十九年四月一日、西九州号は日の丸の旗をなびかせて長崎から由布院駅に滑り込んだ。校長先生風の亀長さんがゆっくりと挙手の礼をしてこれを迎える。町人一同歓呼の旗波である。平戸、長崎、佐賀平野、文明開化が列車に乗って山なみの向こうからやってきた。山なみハイウェイより一足早い。さすが国鉄、うつ手が速いですなというと亀長さんはにこにこと笑って何度もうなづくのだった。西九州号開通祝賀会は町民ホールで行われた。次々に登場するのど自慢の面々。これに旅館がNHKのアナウンサーを送り込んだ。黒の上下に蝶ネクタイをしめたダンディな人物がホール一杯の観衆を前に驚くほど軽妙洒脱な司会を進める。これが実は金鱗湖旅館の新しい副支配人で新貝忠昭。陸士出の藤田観光社員である。前任の大男国米増次郎が九州横断道路開通を狙って阿蘇に独立していったあと、入れちがいに派遣されてきた人物である。だから誰も知らない。晴れやかな登場であった。しか しそれから三年間この人物は悪戦苦斗の連続の果てに、報われることなく金鱗湖旅館を去ってゆく。夜中の二時でも三時でも、一本の酒にも付き合って、家族中が徹底した稼業をくり広げたのだが、ついに花咲くことはなかった。

 さて舞台にことぶきの徳山介義が登場した。背中に座ぶとんを結わえつけて名月赤城山を唄うこれ以上下手には唱えないという唄だった。在日朝鮮人から日本に帰化した彼はにこにことそれを唄った。

 背中の座ぶとんをゆすりながら♪首をこ脇に貫太郎背負い、登る赤城の山坂を、と科白も律儀に全部唱えた。その指導は芝居通通の富永岩夫がつけたものだ。万雷の拍手だった。

 みんな口が悪くてやさしくて、ちょっぴり意地悪な徳山を好いていた。それから三年後乗っていたタクシーが崖から落ちて徳山は死んだが、通夜の席でみんなはこの日の徳山の下手な唄を思いだして笑い泣きしたものだった。

 さて続いて踊の部では前助役の日の新の日野光男が三番叟を踏んだり、日の春の押方千鶴夫人が男以上に男らしい舞いを舞ったり、女中さんたちの自慢が続いたりして、旅館もやるのうという印象が会場に流れた。

  観光協会が商工会に吸収されて一年の時が経過していた。その間に旅館は日観連の二十日会や旅館組合により集まって、すこしずつ独自の働きの仕組みを築いてきていた。富永や中谷が商工会の理事に入って商店の大物理事たちをあちこちの観光宣伝に曳き廻している間に旅館仲間では着々と内部固めが進んでいたことになる。

 芝居の部の始まりである。幕が開くといきなり乞食の富永がとび出してきて意味もなく大見得を切り<これは彼の癖である>、科白をがなる。それがタイミングが早過ぎて、場内騒然で何も聴きとれない。たちまちすんであとはすることもなく立ち往生している。そこへ白塗りの志手康二が振り分け荷物に三度笠でやっと出てきた。これがいい男振りで場内からきゃあッと矯声が上がる。「コウちゃんッ」志手の白塗りの顔が桃色に染まって、とたんにコウちゃん、科白を全部忘れてしまった。それを思いだそうと舞台の上を右往左往するから中谷三十郎があわてて舞台にとんででて科白を渡す。しかし志手の耳はもう何も受けつけない。もはやこれまでと中谷が舞台中央で見得を切り、科白を言おうとして眼をむいたらその顔をみて前列の子供がわあっと泣き出してしまった。それでお仕舞いである。押方大監督の苦虫入り大眼玉をいただいたが、なに忠臣蔵だってそうおごそかにいったわけじゃない。

 大川上野介は夜半の稽古を禁じられたせいか、うふッ、あはッがどうもうまくない。本番ではそれが突拍子もないものになってきて、まるで交尾期にはいった雌猫なのである。あれよあれよといううちにだんだん上へのぼりつめ、それがどうにも止まらない。押方大監督も驚いたがどうしようもない。どうなることかと見ていると、やがてきょとんと打ちどめになった。それでも歌舞伎の笑いの、ゆうに三倍は笑ったことになる。大川上野介も肩で息をしていたが、それにも増してくたびれたのは合わせて見得を切っていた小野判官で、細い眼が垂れてしまった。その挙句に小刀を抜いて「おのれ上野ッ」と斬りかかろうとすると、後ろから跳びだしてきた好の井の野与惣兵衛がその長ばかまをのっしと踏んだからたまらない。どたりと前につんのめった。驚いた野与惣兵衛は「ごめん和俊さんッ」と判官の本名を呼んで詫び、曳き起こしてからもういちど「判官、ご短慮ッ」本科白と一緒に力任せに羽がい締めにした。

 そしてそのまま判官を引き倒してしまった。

 「放せ、放せ」と小野和俊は本気で言ったのだが野は科白と思ってしっかりと最後まで羽がい締めの手をゆるめなかった。

 こんな風に事が運び、一同くたびれ果てて町民ホールの前庭に腰をおろしているとコカコーラの差し入れがきた。差入れ主は梅木薫平と名乗って丁寧に頭を下げた。玉の湯の娘婿ということだった。外国製のベレー帽をかぶって肩を斜めにしたこの細身の男が、それから数年ののち、湯布院観光に大きな役割を果たすようになるとは誰も知らない。

   会議は踊る

 この頃が湯布院観光の醗酵の時期であった。いろんな要素が混ぜ合わさってしだいに形をなしていった。例えば日観連の二十日会には観光部・経営部のほかに政治部というのができて中谷が長となり、町とのかかわりを深めてゆくことになった。町とのかかわりというのがつまりは岩男町長とのかかわりだった。そのときから由布院観光は岩男町長の命令一下で事業補助などを決めてゆくような時期が続く。

 中谷と二科の大崎聡明が組んでカラー絵葉書を作り、それが商工大臣賞をとったのをきっかけに各種パンフレット、ポスターを次々に製作、金は出すが口は出さぬという岩男町長の美意識に棹さして勝手気ままに泳ぎ廻った時期であった。しかし筏は流れに乗りすぎたようだ。岩男町政はブレーキに故障を起こして突走り始める。湯布高原荘や湯布院ハイツなど各種の外資が導入され、コンクリートとガラスの建設が始まった。中央公民館が、温室プールが、商工会館が小学校が、次々に建設されてゆく。そのたびに牧野やいろんな町有・村落共有の財産が売却されていった。台風の災害から町をどう守るかという、いわば治山治水の時期を過ぎて、町に建物が建ち始めたとき、町は日本列島改造の急流に乗っていた。岩男船頭が一本櫓で漕ぎ進める筏は一直線にどこかに向かっていた。その頃から由布院観光は急に流れに抗してブレーキをかける方向に動き始める。昭和四十五年、高度成長の危機がようやく叫ばれ始めた頃である。しかし三十九年当時の醗酵期にはまだ一本の路線はみえていない。由布院観光は混迷の中にいた。

 二十日会の政治部会が岩男町長を招び、久保建設課長を招び、志手税務課長を招んで執こく町政の分析を進めている同じ時期に、観光部会(部長富水岩夫一)の方では<いま由布院にもっとも必要なもの>としてキャバレー、バー、芸妓を挙げ、その誘致を進めている。

 それが単なる座興でなかった証拠に、日の春の押方夫人の許に別府第二検番の出先機関として由布院検番が誕生し、それが有名無実に流れたあとは、芸妓二人を身請けして、曲りなりにも由布院に芸妓ありの看板を打ちたてた。そのときの身請費用は二十万円で、二十日会が三万円、芸妓会が三万円、旅館主たちが銀行から個人借りして十四万円を捻出してこれに当てた。そういうわけだからしばらくしてこの芸妓が行方不明になったときは旅館主たちも眼の色を変えたものだ。結局芸妓はそのまま蒸発、旅館主たちはこれに凝りて二度と芸妓誘致を言わなくなった。

 一方志手康二が長を務める経営部会は従業員確保に懸命であった。二十日会が主体となって職業安定所から仲番五十人を一括お世話願おうと計画した。この計画を押し進めるために富永、志手、中谷の三人は県下の温泉を調査して歩いた。長湯温泉で大きな民家をみつけたので立ち寄ってみると、年の頃十六、七の可愛い娘が出てきた。声をかけると黙って奥に入ってなにか説明している。聴くと「色男んじょうが三人きちおるわあ」。三人すっかり嬉しくなって年寄りといろいる話すうちに、うちの娘でよけりゃ雇うておくれという話になった。それじゃ娘さんの好きな人の所においでと言うと娘さんは言下に「こん人んところ」と志手康二を指さした。志手は頬を染めて嬉しがり、娘を伴って意気揚々と引き揚げたが後日になって、娘が脳膜炎を患っていたことがわかり大慌てで娘を返しにゆくことになる。富永と中谷は手を叩いて喜んだ。「コウちゃんもたいしたもんじゃ、誰からでも好かるる」。そう言って富永は執こく志手をからかうのだった。

 新大分市がスタートし、新産都指定が本決まりした年である。街は農工併進による繁栄の夢に満ちていた。