●つむじ風宣伝隊

   大手の大男がやってきた

 国米増次郎、養次郎とも言う。どちらも本名である。増次郎が親御がつけた名前で、養次郎が彼が名乗った名前である。<姓名判断に訊いたらねえ、養次郎がいいと言うんでねえ>。体重百キロを超える彼がそう言って笑うと眼が無くなって幼稚園児の顔になる。姓名判断に素直だったり、会議の最中に大鼾をかいて一同を唖然とさせたりする。

 しかし経営に関しては驚くべき精密コンピューターであった。日本大学相撲部出身である。黙って眼のないような顔をして笑っていても重い迫力があるのはそのせいであろうか。その彼が藤田観光のお目付副支配人として由布院にはいってきたのは三十七年の夏の陽盛りのことであった。山田順三の経営する金鱗湖旅館が藤田観光に身売りしたという語はすでに流れていたが、眼の前にはっきりしたのは八月の例会に、小柄で眼をかっぴらいた風貌の山田順三に替わって、山のような体躯の、糸のような眼をした国米増次郎が座ったときであった。もっともこの話には不正確なところがある。山田順三はその前数ケ月、身体を毀して例会に出ていなかったからどんでん返しに国米が登場したわけではない。しかしそう思えるくらいに国米の登場は際立っていたし、また山田順三の存在も迫力があったのである。その頃由布院の日観連加入旅館は全員山田順三に訴えられていた。共同の名前入りで配ったポスターに金鱗湖旅館の名前が脱落していたからである。山田順三の話をするとながくなる。戦後由布院にきて金鱗湖の佐々木義雄邸を買いとり、湖面の使用権も村から借りて金鱗湖旅館を拓いた。

 筋骨隆々、火に油、立板に水しぶきの人物と言ったら想像願えるだろうか。たすきがけではこの人も人後に落ちる人ではない。いやむしろ大将と称はれるべき人かもしれないがその後数年で亡くなった。ここでは戦後華々しく登場して八面六腎の働きをみせ、由布院の旅館主たちの眠気を吹きとぱし、眼をむかせ、跳びあがらせた山田順三の牙城が、大手資本にあっけなく呑み込まれてしまったときの驚きを恩い起こすにとどめよう。

 細い眼をして静かに笑う国米の童顔巨躯のうしろに、滔々と流れる時代の潮流がみえた。

 由布院の旅館主たちは濃緑の山に囲まれて大きな夏雲がゆっくりと浮き上ってくるのを眺めながら新しい民謡の稽古に励んでいた。

   冷たいまなざし

 三十七年は春先から強風が吹いた。

 大分県金体が新産都に向かって雪崩れていた。別府国際観光会館の建設が進み、観光文化都市という立派な称び名が高まりつつあった。地元四バス会社が合弁して九州横断道路開通への備えを固め、鶴見山の近鉄ロープウェイ工事も大がかりに進められていた。街では後藤巡査が失踪して迷宮入りの謎を撒き散らし、そんな中で憑かれたように春まつりが県下一円に起こった。中津の春の市、別府温泉まつり、鶴崎臨港春まつり、臼杵まつり、大分春まつり、佐伯春まつり、竹田桜まつり、豊後高田観光まつり、三重、久住、日田、そして湯布院……。

 湯布院の春まつりはこの年が近年では最も盛んであった。それは新庁舎、町民ホールの落成を祝い、同時に岩男町政を祝うまつりであった。日出生台演習場を米軍が使用したためにその周辺並びに下流の湯布院町は大変な損害を蒙った。その損害を補償せよと言うのである。岩男頴一は突撃隊長になった。

 県に走り、県を跳び越して東京に斬り込んだ。戦果は農林省から日米補償七億三千五百万円、防衛庁から特損工事三億九千百万円、大蔵省から現金補償六千七百六十万円、締めて十三億九千四百万円である。これには町民みんな驚いた。「おれもたまがった」と岩男町長も言ったほどだ。簡易水道ができたばかりの小さな町に、これは天恵の福来、青天の霹靂、優曇華の花、法外な収入である。

 正月に富くじが当たったような気分が町中にみなぎった。それをやってのけたのはわしらがお医者の岩男頴一町長である。しかも要求総額は五十億を越え、内四十二億は貰ったも同然と打ちあげる。まつりが渦を巻いて盛りあがったのは当然であった。

 そのとき観光協会は流れの外にいた。自衛隊の特車大隊が大がかりなパレードを行っていても、商店街の仮装行列がシャモジを叩いて踊り歩いても、協会はびくりともしなかった。せいぜいミス湯布院の選考に協賛して審査員の一員になったり、献湯祭に参加して温泉を持ち寄ったりした程度である。それに比べると商工会は派手だった。仮装行列から手踊り、芸能大会、NHKの三つの歌、花火大会とあらゆる催しに参加して湧きたつようにまつりの中心となった。商工会は流れに乗っていた。こんなことが度重なると観光協会の人気は落ちてくる。そのせいというわけでもないが協会はしだいに町内で勢いを失い、孤立し、そして翌三十八年四月、ついに商工会に吸収されて消滅してしまうのである。

 それで由布院観光はどうなったか?どうもなりはしない。時の状況に合わせて自在に変身し、確実な足場を固めてゆく。変身の過程はこうである。

   捨て身の一撃

 温泉まつりのあとの退潮のとき六月、協会は緊急総会を開いて七つの部会をひらくことを決め、その部長に商工会の実力者たちを据えた。総務部長小野順吉一(旅館・会長兼務)、観光資源開発部長志手要(旅館)、観光資源保護部長井尾久夫(百貨店)、観光産業部長下郡坂喜(質商)、商工部長豊島雅太郎(日用品)、宣伝部長日野進一郎(旅館)、観光事業振興研究部長大津留喜久(酒店)

 七部長のうち旅館は会長を入れて三人しかいない。四人は商工会の役員である。強引な婿取り婚であり、弱体の協会が放った捨身技であった。これだけ専門的な、厄介な部会を商店の人たちがこなしてゆけるはずがない。

 それでよかったのだ。目的はほかにあったのである。

 協会の眼は遠く全九州から西日本一帯を望んでいた。耳は二年先の九州横断道路開通の音を聴いている。旅館主たちの眼は芭洋と霞を眺め、耳は雲雀の声を聞いていたが、彼等の頭の中のコンピューターが協会の眼となり、耳となって大きなまつりの準備を進めていた。それは本能が示す反射運動のようなものだった。みんな鼠のような顔付きになっていたのはそのせいかもしれない。

 まつりのスケールは大きかった。旅館主たちが結集したくらいではどうにもなりそうもなかった。町を挙げての出陣が必要であった。協会も商工会も問題ではなかった。勇士が参加してくれればよかった。そのためには町内の人のつながりが必要だった。手近かな人脈につながるためにまず商工会を婿にとったのである。観光協会の役員となった商工会の先生方のお蔭で町内の勇士たちが動き始めた。先生方を説得しさえすれば町がのっそりと動くようになった。その役は協会の若手たちが請けて水も洩らさぬ陣を張った。

 能書きの進ちゃんこと日野進一郎、仏の岩こと富永岩夫、流し眼の康ちゃんこと志手康二、ホラケンこと中谷健太郎、ワッショイの小野和俊といった面々である。こうして協会の組織は形だけのぬけ穀になり、町内での勢力も弱まりながら、実質的な行事だけは思いきりできてゆくという綱渡りのような仕組が出発することになる。七月の多士済々が登場する新民謡発表会に国府新一が涙を流したのにはこう言った事情があったのである。この策のシナリオを書いたのは誰であったか、いま調べてもわからない。

 ところでなぜ協会はまつりに冷淡であったのだろうか?外来客を望んでいる観光協会と、地元客が相手の商工会とではまつりに対する思い入れがちがうのは当り前だが、それにしてもそのちがいがはなはだしい。それなぜか?

 観光協会の中心は旅館である。その旅館は由布院の場合一ケ所に固まっていない。 盆地のあちこちの村落に散らばっている。散らばっているから村落の中で勢力にならない。村の中の一軒、あるいは二軒でしかない。それが由布院観光の特性であり持ち味なのである。

 のちに牛一頭牧場などを主導して協会が広範囲な町づくり運動を展開する下地もここにあった。そしてまつりは村単位に行われる。

 旅館は村の中に吸収され、村の一員として村からまつりに参加した。当然協会という組織は空っぽになる。組織として動けなかった所以である。組織が動かなくて中味が動く、村人としての旅館の親父が動く。それが由布院観光協会の<志>となった。<少年よ大志をいだけ>の<志>である。大志をいだいて観光屋たちはヘラヘラとひょうぐり踊りを踊っていた。

   がんばれぼろ旅館

 暑い夏が終わり朝霧がしのび寄る頃、突然日野進一郎が旅館日の春を売却したというニュースが伝わった。みんな嘘だと思った。旅館組合の組合長、観光協会の宣伝部長、そして何よりも由布院の老舗日の春旅館の主人であり、由布院観光の理論的指導者であった日野進一郎が旅館をやめるなんて……。しかしほんとうだった。あっという間に一切は終っていた。駆けつけた仲間の面々も手の施しようがなかった。経営上の問題というよりも日野の人生哲学によるものだったからである。「可能性に富んだ喧燥よりも安定した静けさを」と日野は言った。それはそれで仕方のないことだったが由布院観光は打撃をうけた。「決める前に相談して欲しかった。進ちゃんも冷てえ」。富永岩夫はそう言って歎いたが、日野にしてみれば充分考えた末の処置であったろう。こうして金鱗湖旅館に続いて日の春が新しい主人を迎えた。別府の当時の商工会議所会頭首藤克人の系列をひく会社で、押方千鶴という婦人が社長であった。凛々と玄人の匂いをただよわせる人であった。金鱗湖旅館の場合は藤田観光という大手資本が遣入ってきたという意味で衝撃的だったが、日の春の場合は由布院きっての代表的な老舗が潰れたというところがショックだった。

 旅館組合長は富永岩夫に引き継がれた。「やるでえ進ちゃん、まかせちょきない」引き継ぎの酒席で富永は顔を真赤にして唄った。

 ♪やるぞう、みておれ、口には出さぬう……

 「おうおう、貧乏たれのじょうが元気がいいのう」とことぶきの徳山介義が冷やかす。「なあに、ぼろは着てても心の錦じゃ」

 実際ぼろ旅館たちは元気がよかった。山水館の小野和俊が銅鑼声を張りあげて、小倉生れで玄海育ち、口も荒いが気も荒いと唄いだす。由布院生まれの彼が唄うと嘘吐けと言いたくなるが、立教大学のラグビー部にいた頃新宿の酒場で唄うと、地方色豊かで人気があったと言う。この唄に彼は青春の匂いを嗅ぎとっているのである。銅鑼声が終ると日の出屋の志手康二の「枯れ薄」が飄々と始まる。

 北九州中を「高原の薄がきれいです」と宣伝して歩いて「薄の康ちゃん」のあだ名を貰った志手だが、過去の長い闘病生活がいまだに尾を曳いていると思い込んでいるとこるがあって、どこか好みに脆弱なところがある。

 こうして中谷が唄い、徳山が唄い、次々に唄い継いでいまや唄新こと、国府新一の出る幕はない。「下品な唄ばかり唄う」と国府は歎いたが役者の顔ぶれはゆっくりと変りつつあった。

 突然大音声が起こった。金鱗湖旅館の新副支配人国米増次郎が立ち上がっている。「ふつつかながら詩吟をやらしていただきます」国米が始めた。部屋の隅に仁王立ちになって吟ずる国米の声量は酒席の域を軽々と越えていった。頂上では部屋を圧し、障子がぴりびりと鳴った。一同あっけにとられてこの偉大な発声装置を眺めていた。「決まったッ」と富永新組合長が叫んだ。「唄はこの人でゆこう、マイクなし、どこでも踊れるどッ、頼むでえ大飯喰らいッ」

 国米増次郎はきょとんときいていた。

   つむじ風のように

 十月八日、薄の原を横切って由布院観光宣伝隊は若戸博へ向かって走っていた。旅館を主力とする踊り手二十二名、囃子手六名。それに応援隊十名ほかを加えて総勢四十五名である。亀の丼バスの営業所長神本末好を口説いてバスを格安にチャーターした。神本自身が踊り手の一員に曳っぱり込まれていたのだから仕方がない。応援隊というのは若戸博見物の村の衆である。庭師の生島嶋生や、鯉屋の立石重行らが賑々しく参加した。酒つき、足つき、弁当つき。宿賃だけ自分持ちという話に乗ったのである。その代り踊りの間じゅう声をかぎりに囃さなければならない。「そげんこたあいいじゃねえか、一緒になっち踊ろうやッ」。わあッと一行の意気は上がった。

 早朝六時半、由布院駅前を出発、九時半に小倉に着いて駅前、朝日新聞社前、市役所前を次々に襲う。バスからばらぱらと降りてあっと言う間に太鼓が鳴り始め、マイクなしの国米の唄が響きわたり、踊りが始まる。チラシを配る。応援隊が囃す。礼を言って走り始める。つむじ風のような一団である。午前中に小倉をやって午後から戸畑、若松、黒崎、八幡を潰し、みゆき荘という宿屋に着いた。

 踊り手も囃子手もものを言わない。言えないのである。浴衣ごとしぼられてぼろ雑巾のかたまりのようになっている。応援隊の面々も空ろな眼をしている。暗闇から曳っぱり出された牛のような顔である。バタンと倒れて寝てしまった。さすがに国米は頑丈でご飯茶碗では面倒臭いと丼を持ってこさせて大いに食っている。それから按摩をすると言いだした。「明日があるからねぇ」。富永岩夫がいたずらっぼい眼をして起きて宿の人に言った。「こん人はな、相撲取りなんじゃ。わしたちは後援会のもんでな、明日福岡場所で取るけんな、応援にきちおるんじゃ」。「そうじゃ、そうじゃ」と国米が巨体を揺すって認める。「そじゃから普通の按摩じゃあ効かんのでえ、相撲取り専門の人を頼む」。呆れ顔の宿の人が曳っ込んだあと大笑いしていると、来たのである、相撲取り専用の按摩が…。国米とどっちどっちの巨漢である。正真正銘の元力士。福岡場所の力士によく招ばれるという。国米真青になった。

 翌日は福岡にとんで市内主だった場所をシラミ漬しに踊り、由布院まで夜道を走る予定であったが、これが狂ってしまった。国米が声が出ないのである。声ところか首も回らない。腕も上らない。力士按摩に揉みしだかれてしまった。「こりゃいかんわい」と国米は蚊の鳴くような声で言った。「帰って風呂に遣入って寝ます」。

 それでションボリの国米と、元気をとり戻した一行とは昼日中、快晴の国道をバスを飛ばして帰ったのであった。それからは憑かれたように旅に出た。小倉城まつりにも行った。八幡起業祭にも行った。

 どこもかも走った。踊った。唄った。そこを抑えておかないとそこから地下水が噴き出てくるとでも言うように、由布院観光宣伝隊は軒並みに九州の市や町を襲った。それは一種の新興宗教とも言えた。乙丸神楽の一座がいつの頃からかこれに参加するようになる。

   神様も汗みどろ

 その頃神楽一座と宿屋連とは気を引きあっていた。最初に言い寄ったのは宿屋側である。

 もともと神楽衆は村の祭りに雇われて舞う祭事の一団であった。村祭りは村落によって日がちがったから年に一度というわけではなかった。が、それでも数回を越えることはなかった。神楽衆は誇り高かった。長子相伝の神事である。次男以下には教えない。覚えてよそに出て行かれては乙丸神楽が分派してしまうからである。

 そんな中で神楽衆は神楽に飢えていた。年に数回では彼等の舞心が納まらない。本当に神楽が好きなのである。そこにすり寄ったのは亀の井別荘の中谷であった。中谷はまだ東京人の思考を持っている。その眼には乙丸神楽は夢幻の演じものにみえた。中谷は神楽に魅せられていった。これという客人がくると中谷は神楽衆に頼んで上演してもらった。

 神楽は奉納するもので、上演するものではないと中谷が言い出すのはもっとずっとあとのことになる。樹間に板台を敷き、かがり火を焚いて夜神楽が始まる。倉城山の上に月が照ると神楽は神がかりして冴えた。祭事の神楽はすこしずつ人の世の演じものへと変身しつつあった。