● 揃ォた揃ォたよ踊り子が揃うた

   帰郷

 三十七年一月、中谷健太郎が東京から帰ってきた。中谷宇兵衛が死去したあとの亀の井別荘を整理するためである。当時二十八才だった中谷は勤め先の東京撮影所を一年間休職して、その間に亀の井別荘を建て直し、もう一度東京に戻るつもりだった。しかし事は単純には運ばない。いろいろやっているうちにミイラ取りがミイラになって、とうとう由布院に永住することになってしまうのだが、当時は一時帰郷者の匂いをふり撒きながらふらふらと「ふるさと」の中に這入ってきたのである。そして彼の帰郷が由布院観光の反撃の引き金になる。

 当時の由布院にはアメリカ西部のゴールドラッシュのような、騒然とした気分がみなぎっていた。厚生年金病院の工事が始まり、九州横断道路も着々と進んでいる。大型観光資本も動き始め、国民宿舎建設の話も出て来た。

 日出生台の米軍補償工事は強力に進められ、その総額は十億円になろうと言う。

 「湯布院はようなるで」というのが岩男町長の口癖だった。教祖の確信で彼は言った。「もう奥別府やら言わんでもようなる。湯布院で日本中にりっぱにとおるから」。そして旅館業者には必ずつけ加えた。「君たちが俺の言うとおりに頑張ればお客はしとめんごとなるど」。

 正月の新年会の席で町長にお年玉をあげようということになった。町長の裁量で決定することがあまりに多いから万事よろしくという意味である。誰がどう渡すかで猫の首に鈴の騒ぎになったが、山水の小野順吉が帰りしなの岩男町長のポケットにさっさとねじ込んでしまった。「おい、町長も返さんじゃったわい」「そりゃよかった、彼も人の子じゃ」。一同ほくそ笑んでいると、それからしばらくして町長から電話があり、別府の先進地を視察にゆくぞと言う。行動派の数人が尾いてゆくと怪しげな料亭で町長はぱっぱと威勢よく札びらを切り、仲居たちにチップを弾んで「あんたたち湯布院をよろしゅう頼むで」と言った。一同やられたと思いお年玉もパッと消えた。「さあ今夜は泊まるど。こげなときに良い子ぶって逃ぐるような奴は付き合えれんからのう」。町長がそうならこっちもとみんな腹を決めて、ことぶきの徳山は知合いの敵娼を招ぶ。富永岩夫はどれでもいいでと鷹揚な構え。志手康二とほやほやの中谷健太郎はあれこれと迷った挙句、秋葉神社の裏店の気にいった娘を連れだそうとしたが出張はしないと断られた。「いいじゃないね、ここで泊まっていけば」と、まとわりつくのを「みんなが待っちおるから付き合わんならん」と振って律義に元の怪店に戻ってくると「お待ちしてましたでえ」暗い廊下に長橘枠をはおって女相撲上りのような老女が二人ぬうっと立っている。志手も中谷も肝を潰したがとにかく町長以下一行も泊まっていることだし、帰るわけにもいくまいと老女に尾いて部屋にとおった。

 さて翌朝、光の中に鼾をかいて眠りこけている白首の老婆を起こし(それがゆうべの敵娼である)仲間の様子を訊きにやるとお仲間はあんたら三人だけですと言う。そこに徳山が顔を出し「岩ちゃんは時間で帰ったよ」「ほんなら町長は?」「あれ、町長はんは宴会のあと帰りはりましたがな、みんなに黙っとれ言わはって」。やられたと三人は叫んだ。「おう、おう、わしらの方があん人よりもよっぼど人がいいのう」。そういって徳山は笑ったが志手も中谷も黙っていた。粋な手口と言えば言えたが裏切られたような気分も残った。そんな気分はレークサイドホテルのときもあった。

 九州横断道路の山下湖畔に超豪華なホテルができるという話は前からあった。ゴルフ場もある、湖面にはヨットも浮かぶ、九州で最高級のリゾートホテルである等々、いろんな噂はあったがその実体がはっきりしない。施主と言われる九州林産に訊きにゆくと、あれは由布高原開発という別会社だからうちでは詳細はわからないと言うし、町に訊きにゆけば正式に図面等の報告を受けていないからわからない、わかり次第お報せすると言う。「お前たちが苦労してやってきたのに、これからようなるち言うときに大手がどんどん這入ってくるのは困りもんじゃのう」と岩男町長は言った。「俺もできるだけ闘いよるんじゃけど、民間の会社が許可をとって這入ってくるのは止められんのじゃ。なんぼ町長でも」。その後幻のホテルは九重レークサイドホテルとなって完成した。その落成式に招かれて岩男町長が祝辞を述べたという話を聞いて旅館の連中はくやしがったが、そのホテルに四十一年国体の折、天皇・皇后両陛下がお泊まりになって湯布院の名前をひろく天下に知らしめることになったのは皮肉なことである。

 こうして手掛りの掴めない、ぬるりとした現実と、明日の、妙にくっきりと派手やかな可能性との間に宙づりになってみんな揺れていた。そして空を蹴るあせりが新民謡という対象物にぶっつかったとき、一瞬に燃えあがって宣伝行脚のエネルギーに結晶したのである。新民謡は中谷と佐藤清隆が作ったものだった。

   自分たちの歌と踊りをつくる

 最初に新民謡を作ろうと言いだしたのは玉の湯の国府新一であり、すぐ乗ったのが富永岩夫である。国府は都城の大きな料亭の息子で、子供のときから三味・太鼓の音に浸って育っている。そのうえ板場時代に大阪や博多の巷灯でみがきあげてきたから歌舞音曲は師匠格である。ひょいと坐れば盃を持ち、盃持ったら唄が出る、通称唄新でとおっていた。

 一方富永は、YMCAホテル学校出の看板とはおよそ裏腹な土着文化人で、盃一杯でゆで蛸になり、お盆と箸を掴んで勘太郎月夜唄を踊る、それが子供の頃に村芝居の幡をかついでチンドン屋と一緒に歩いて覚えた振りだから旅芸人風に堂に入っているのである。

 そんな二人が新民謡作りを提唱した。新しい民謡を作ってみんなで踊り、九州各地を宣伝して廻るう、「じっと坐っておっても客は来りゃせんで」。

 そうじゃそうじゃと言うことになって、白羽の矢が放たれ、当ったのが中谷健太郎である。彼奴は東京で映画を創りよった。映画に歌はつきもの、それにこの頃はお神楽にくっついてうろうろしよるから、民謡づくりも好きじゃろう、とにかく無料でできるのが何よりよろしい、というようなことで中谷に依頼することに決まったのである。

 中谷は客室を増築して交通公社協定の継続審査をやっとパスしたところだった。その増築資金の借入保証人になったのが岩男病院長岩男彰で、爾来中谷と岩男の交信は<明日の由布院を考える会>をはさんで対立的な信頼関係を保ちながら延々と続くのだが、このときはまだ<文化人の出過い>といった調子を出ていない。しかし医学のほかに民俗学や郷土史に興味を持つ岩男の影響を中谷が受けたことは事実である。新しい民謡作りの中谷の態度にもそのことははっきりと窺える。

 歌詞を作るに先だって中谷は佐藤清隆から旧来の由布院の盆口説きを聴いた。佐藤は中谷と同じ由布院津江村の本百姓で、中谷の祖父已次郎が津江村に作庭や、建築や、茶、活花の法を持ち込んだとき、少年上りの佐藤は己次郎についてまわって新鮮な好奇心から多くのことを学んだ。そんなことから佐藤は何かと中谷を大切にし、戦中から戦後にかけての食糧難のときも何くれと面倒をみたのだった。その佐藤清隆が民謡作りに一肌脱いでくれた。彼は盆踊りの正調口説き手である。小柄ながらもかつて北支派遣軍きっての銃剣術の強豪であった佐藤の声は高く澄んでしかも長く、強い。その口説きの調子は数百年の由布院盆踊りの正調を伝えて明断である。

 中谷は佐藤の唄う歌詞を筆記し、暗記し、その歌詞にまみれながら新しい歌詞を書いた。

 揃うた揃うたよ踊り子が揃うた。揃うた手拍子足拍子。揃うた手拍子足拍子、エンヤラヤノドッコイショ、コリャヤノヤノドッコイショ。

 わしが在所は猪の瀬戸越えて、米の花咲くお湯どころ。

 おとたんもおかちゃんもみな出て踊れ、年に一度の盆踊り。

 きにょう生まれたべペコの鼻に、蝶がとんできて吸いついた。

 これらの詞を何百ぺんも唱え、身振りし、唄ってしだいにはっきりしてきた曲をテープにとって中谷はそれを東京の佐藤勝に送った。

 佐藤勝は黒沢明の映画音楽を担当する作曲家である。「オカシナところがあれば直して下さって結構ですから楽譜にしてください」と中谷は書いた。やがて楽譜と一緒に一通の手紙が届いた。「オカシナ所があれば自分で直しなさい」。

 その楽譜を持って中谷は中学にゆき、音楽の先生に弾いてもらったがどうもしっくり来ない。ピアノの音と民謡は合わないのである。結局楽譜はあきらめて生まの吹き込みで曲を決定することにした。

 中谷はテープを佐藤清隆に聴いてもらった。

 佐藤はひと晩中、床を叩いて太鼓の代りにしながら曲を覚えた。ちょうど苗代の頃である。「牛の尻を叩きながら唄わにゃ」と佐藤は笑ったが三日も経つと唄は原曲とはひと味ちがった佐藤清隆節に変っている。中谷はそれをテープにとり、それで覚えてもらってまた三日のちにさらに新しい清隆節をテープに入れた。こうして唄に充分の醗酵の時間を与え、もう何日待っても佐藤の唄が変らなくなったとき、中谷はそれを決定録音にした。「由布院盆唄」とそれは名づけられた。

 日観連が集まる五月の二十日会に中谷はそのテープを持ち出した。曲調は大好評であったが最終的には別にもうひとつ、気分の湧きたつような祭踊りが欲しいと言うことになった。中谷はその依頼を受けて帰った。期間は一カ月。次期例会までと言う。

   あたらしい意気

 中谷には持病があった。痔疾である。小学校からの履歴付きの代物で季節の変り目に芽を吹いてくる。ちょうど痔の季節であった。ハイテンポの唄は身体で当らないと出来ない。痛みで起きておれなくなっていた中谷は床をとらせて横になり、風呂で暖めては横になっていた。家の者が粥を持って部屋の襖をあけた途端、アッと驚いて粥の盆をとり落としてしまった。中谷が寝巻き一枚で猿のような異形の踊りを踊っていたからである。こうして痔を抑えて唸りながら作られた唄は「ひょうぐり踊り」として六月の例会に発表され、大好評で迎えられたのであった。

 ハアー年増女(おなご)と湯の岳山は、秋に色づき春に焼く、ヤッショマカショ、そげんこたいいじゃねか、一緒んなっち踊ろや。

 酒の四、五升じゃまだまだ酔わぬ、六所様とは俺がこつ。

 由布の朝霧もうこれぎりと、そっと二人で会うたぎり。

 盆の十五夜厩屋んつし寝たら、おどもおまえも藁だらけ。

 七月に踊りの発表会をしようと言うことになった。町民ホールで盛大にやろう。町民全部に訴えて層の厚い民謡愛好会を結成し、美人をひきつれて全九州を打って廻ろう。そこで踊りの特訓に這入った。場所は田中市の泉郷倶楽部。昭和の初期から戦後にかけての由布院きってのモダンな演芸場である。それが朽ちさびれて鼠の巣になっている。そこに夜な夜な宿屋連中が集まった。いよとみの富永岩夫、日の出屋の志手康二、山水の小野和俊、香椎荘の大川絹光、ことぶきの徳山介義、みかどの志手清、それに井尾商店の井尾久男、以上が男性舞踊団で、女子は各旅館から女中さんが一名ずつ計九名、男女合せて十七名の踊り手群である。それに佐藤清隆の唄、とみ香姐さんの三味。大太鼓はハカリヤ商店の新ちゃん。小太鼓、金鱗湖旅館の佐々木義雄。

 山水の小野順吉と玉の湯の国府新一は総務で中谷が演出担当である。錚々たる一団であった。ハカリヤの新ちゃんは盆踊りの太鼓打ちの名手だし、佐々木の義さんの小太鼓はむかし芸人に習ったという曲打ちがみものだった。唄新の国府新一は酒浸りの果ての入院を恐れて自づから総帥を退いたが音曲に関しては細かいにらみを利かせていた。この一団で練習が始まった。練習と言っても振付けからである。

 振付けを担当するのはとみ香姐さん。朝鮮戦争の頃みかどに這入って、そのままずっと動かずにきた地着きの芸妓である。新年会だ、行事の打ちあげだと宿屋連はほんのおひねりでよくとみ香に無理を言ったが、とみ香はいつも気持ちよく応じた。みかどの母さんもとみ香を家族のように遇していたようである。「内輪じゃないですか、旦那さん、そんな心配はしなさんな」とみ香はそう言って旅館の会合では気持ちよく酒を呑み、すぐに酔った。

 そんなとみ香を唄新の国府新一は可愛がっていたが、あるとき新しい旅館主が俺たちも客じゃ、客の前で芸者はものを食べるべきではないととみ香を諭した。国府は烈火のごとく怒って、俺たちととみ香は客と芸者の間柄じゃねえ、仲間の間じゃと怒鳴った。あとでとみ香は泣いて礼を言ったそうだが、それ以来宿屋連のロハの会席でも決して食べものに手を出さなかった。本名津守キヨ子。当時四十七、八才。横断道路が開通する直前の三十八年に仕事にみきりをつけて故郷の和歌山に帰り、土地の人の後添いになった。その夫とも数年で死別。いままた和歌山でお座敷に出ていると言う。

 とみ香の振付けで一同は踊った。来る日も来る日も雨の中をかび臭い泉郷倶楽部に通って一ヵ月の時が経った。

 七月二十日、発表会は町役場の町民ホールで行われた。踊りの発表だけでは集まりが悪かろうと中谷は大分共同映画祉から劇映画十六ミリ一本を借りて併映したが、その必要もないくらいにホールは超満員であった。映画に続いて衛藤牧之助翁の馬子唄と木挽き唄を古い民謡の代表として披露し、聴衆が良い気分に酔っているところで新曲の登場である。

 先頭を切るのは富永岩夫。続いて志手康二ほかの面々。するすると幕が上った。わあっという人いきれ。やがてだんだん納まって舞台はしんとなる。出の囃子が始まった。

 富永が先頭でもぞもぞしている。脚を揃え、両手を拡げて出の構え。それから「いいか?」と言う。「いいで」と志手康二。富永は動かない。「いいかあ?」とまた言う。「いいでえ」と一同答える。出の囃子が同じ音を繰り返している。「いいかあ」「いいちやあ」。

 たまりかねた志手が富永の背中を押し、たたらを踏んで富永は舞台に躍り出た。わあっと拍手が起こる。踊りは軌道に乗って動き始めた。次々に出てくる顔馴染みの照れ臭そうな表情に笑いと拍手が渦を巻く。大成功である。「やった、やった」と国府新一は涙をためて舞台の袖に立ち、夢中で鉦を叩いた。

 この発表会をきっかけに旅館組合は団結力を強め、さらに商工会などの関連団体に幅を拡げていった。当時公民館長だった岩屋豊洋はこの動きに眼をつけ、実験的策定を進めていた第一次五カ年計画の一環として商工青年会の結成を助言指導した。旅館の若手メンバーは積極的にそれに参加、十一月には設立総会がもたれることになる。この動きはさらにエスカレートして、三十八年早々に日観連会の中に政治部が出来、その討議の中から広く商工会の中に這入ってゆく基本姿勢が打ち出された。こうして運動は商店をも巻き込みエネルギッシュに展開されることになるのだが、そんな中で指導者の一人、日野遼一郎が旅館日の春を売却して戦列を退き、金鱗湖旅館も藤田観光に吸収されて副支配人国米護次郎が派遣されてくる。由布院は新しい時代を生きようとしていた。