●はじめに台風ありき

 昭和二十八年七月、湯布院はひどい台風に見舞われた。由布岳の鉄砲水が土砂を押し出して川を埋め、盆地は一週間もの間泥水に浸った。農作物は腐って悪臭を発し、その匂いが町びとを不安がらせた。町びとは駅に群れ集まったが列車は来なかった。鉄道はずたずたに分断されていたのである。バスも来なかった。わずかに土建会社のトラックが別府までの悪路をひた走って生活物資を運んだ。「思えばあれが不安の始まりじゃったなあ」と富永岩夫は当時を述懐する。富永岩夫四十八才。雉子料理<桃太郎>会長。株投資家。元観光協会長。明日の由布院を考える会メンバー。由布院観光の中心勢力の一人である。しかし当時は二十二才。YMCAホテル学校を出て父が経営する旅館いよとみを継いだぱかりであった。「客は来んのに税金は来るんじゃ、その頃は税金をごまかしよったからな。だいたいの勘で税務署の衆がかけてきよった」それは大ごとじゃと旅館の代表がそろって大分税務署に免税願いにゆくことになった。

 自動車などある筈もないから鉄道に沿って歩いてゆく。山水館小野順吉、いよとみ富永佐喜義、亀の井別荘中谷宇兵衛、玉の湯国府新一、いずれも現在の当主の先代たちである。

 南由布の鉄橋まできたら線路がまがって川の上に垂れている。川は濁流である。

 山水館の小野順吉を先頭に一同静かに渡り始めた。川音が橋桁にこだまして凄い音をたてている。みんな四つん這いになって次々に渡っていった。最後に亀の井の中谷宇兵衛が渡り始めたが、これがレールにしがみついたまま動かなくなってしまった。「どうしたッ中谷さん」といよとみの富永佐喜義が声をかけると「下駄が……下駄が……」、みると中谷は客用の杉下駄をはいている。「そんなもの脱いでしまいよッ」富永が言うと中谷がそっと脚をあげてぶるッと震わせた。脱げない。また震わせた。さんざん身体を震わせた揚句ようやく下駄を脱ぎおとして中谷は汗びっしょりで向う岸に着いた。さて出かけようとすると履物がない。裸足で大分まで道中は無理だというのでまた汗をかきながら四つん這いで鉄橋を渡り、独りで由布院に帰っていった。これが世に言うルース台風で、この時天ケ瀬は旅館の多くが流出し、あるいは浸水して壊滅に近い打撃を受けた。由布院はそのような直接の損害はなく、一ヶ月も経って水が引くと町はまた元の状態に戻った、かにみえた。ところが由布院の傷は思ったより深かったのである。傷というよりもそれは老残と言えるようなものであった。

 天ケ瀬は災害復旧の社会資金を導入して換骨奮胎し、一気に近代的な温泉地として蘇った。由布院の顧客圏であった福岡との間に、それは大きな障壁として立ちはだかった。博多からのすし詰め列車は天ケ瀬でほとんど空になり、空のまま由布院駅にすべり込んだ。駅には番頭が四、五人、旗をひろげて待ち受け数十人の通勤者の中から数人の旅客をみつけてどこまでも尾いていった。それは由布院駅頭の風景であった。

 数十人の通勤者風の中には数人の税務署員も混っていた。彼等は土曜日にやってきた。

 冬が近くなると駅前は閑散として由布岳が目の前にくっきりとみえた。そんな日、彼等はビニール製の鞄を提げて旅館を一軒一軒廻り、泊り客の数を調べ、夜は靴の数を調べ、献立の黒板を覗いたりするのだった。「まあどうぞ奥にお上がり」と亀の井の中谷宇兵衛は言った。「ところで日本にゃもうお客ちゅうものが居らんごとなったんじゃなかろうか?」

 どこの旅館もほとんど差押えを受けていた。

 納税日に徴税吏がやってくると中谷は金庫兼書類入れの古い木箱をガラリと畳の上にあげて「さあいいごと持って行っちおくれ、わしゃ帳面はわからんし金はこれだけしかない」

 大なり小なり旅館はみなこんなやり方だった。徴税吏も掛取りも同じ登場人物であり、それも好ましくない人物であった。「この不況んときに旅館に金をとりにくるなんか笑わるるぞ」とかませて新入りの徴税吏を面喰らわせた主もいた。職場慰安のグループ客はバス一台借切ってマイク一本に唄を満載し、各地に繰り出した。ホテルにはホールあり、酒場あり、もちろん宴会場もあって、客はエレベーターに乗ってコンクリートの部屋に上がり、一日だけの祭りにのめり込んだ。それが観光だった。天ケ瀬が、原鶴が、宝泉寺が、次々とそれに合わせて変身していった。ひとり由布院だけが戦後の農村の乾いた文化の匂いをただよわせながら坤吟していた。

   人びとがあらわれる

 こんな状況の中で岩男頴一(ひでかず)が町長に当選した。昭和三十年二月である。青年団や全町の患者との縁を背景に颯爽の登場であった。先代の岩男干城が人気の深い医者であったし彼もまた軍医将校上りの医者であったのだ。これから五期十八年間、彼の独裁町政が華々しく繰り広げられる。発展する湯布院町の幕開きである。

 このとき由布院町と湯の平村は合併して湯布院町が誕生した。たくまずして初代湯布院町長になった岩男頴一は、並み秀れた頭の回転の速さと洞察力の鋭さ、それに押しの強さ、人心収攬の巧みさなど天性の資質を駆ってまっしぐらに町づくりに突入していった。それはじっくりと満を持する形の佐藤原太前町長に比べると目にも鮮やかな仕打ちであった。町民の多くは洞穴の中で春の嵐を聴く小動物だちのように、半ば震えながら、半ば期待に満ちて、岩男町政のキャタピラの音に耳を煩けたのである。

 翌三十一年、陸上自衛隊が開隊された。後年自衛隊移駐反対運動が起きたとき岩男頴一は激怒して言ったものだ。「あの頃お前たちは、精神病院でも刑務所でも、来てくるるものならなんでもいいと言うたじゃないかッ」

 精神病院と刑務所を一緒に引合いに出して言うのは乱暴だが、何でもいいから来て欲しいと言う風潮があったことは事実である。もっともこの風潮は三十五年に熱烈な厚生年金病院誘致運動となって現われ、岩男頴一を微妙な立場に追い込んだ。彼が町長に立候補するとき当時別府温研病院にいた弟彰を呼び返して病院を譲ったのだが、それが今日の岩男病院である。岩男彰は学究の道を望んだが家の立場から開業の病院長にならざるを得なかった。そして岩男頴一は病院理事長となったのである。

 これらの関係が厚生年金病院誘致運動に対して好ましい反応を示さなかったのは当然である。当時観光業界の指導的立場にいた小野順吉は商工会や一般町民の世論に乗ってしぶとく誘致運動を繰り返した。生来剛直な性格ではなかった彼が、やんわりと執こく繰返した運動のやり方は、岩男町政・医療体制の静かな圧力の中でしだいに実っていった。

 こうして三十七年十月、厚生年金病院湯布院支所が開所し、由布院に初めて新しい温泉保養の光都当るのだが、それまでにはまだしぱらくの道のりがある。

 さて自衛隊はすんなりと由布院に開隊したが地元の旅館はほとんど反応を示さなかった。それよりも由布院にようやく簡易水道ができ、蛇口から冷水がほとばしったことの方が重大な事件だったのである。それまでは井戸水を手押しポンプで汲みあげていたのだから。自衛隊が自然環境の中に大きな位置を占めるものであることが気にならぬほど、自然は貧しくも美しく豊かであった。三十二年夏、山水館の小野順吉は旅館主たちをひきつれて博多の中洲に蛍を放ちに行った。「蛍の里由布院」の宣伝である。前夜女中さんや子供まで動員して盆地川畔の蛍をとりまくり、翌日列車で運んで中洲の川畔に放ったのである。乱暴な話だが優雅でもある。「都会にも蛍はよう似合うなあ」ネオンがいっぱいの川辺に群れ立って、由布院の旅館主たちはのんびりと蛍見物をしたのだった。

 この頃から由布院の旅館の世代はすこしずつ若返り始める。日の春の日野進一郎が早稲田大学を出てラサ興業に勤めていたのが辞めて帰ってくる。そこに前出のYMCAホテル学校出のいよとみ二代目富永岩夫が出入りし始める。日の出屋の志手康二も上野丘高校以来七年の闘病生活を了えてこれに加わる。

 こうして最初の若手グループが誕生した。

 爾来若手による実践強行は次々に担い手を変えながら由布院観光のスタイルとして続いている。

   ボロスクーターにうちまたがって

 日野進一郎は現在岩男病院の事務長をしている所をみても経理のベテランである。富永岩夫もYMCAで学んだという以上に生来の計算名手である。この二人が、由布院の先頭に立ったとき由布院の旅館は経理の改革期を迎えた。彼等が主張した<経営の近代化>は新しい風の匂いを由布院盆地にまき散らした。

 それは岩男町政のうねりの中で一種の波に乗って拡がっていった。マスコミは九州横断道路開通の話を繰返し報じていた。国民保養温泉指定も決定的だという。世の中は新しい動きをみせ始めていた。

 三十五年秋、日野進一郎がスクーターを買った。新品長期月賦である。かつて金鱗湖旅館を創った大陸帰りの山田順三が、月賦で自動車を買って九州から東京まで跳び廻ったひそみに習ってのことである。富永岩夫も一台買った。中古極安の叩き買いオートバイである。志手康二も一台買った。同じく中古だがいくらかまともの代物であった。

 さて花の三人組は宣伝に出かけた。九州一周のオートバイツアーである。目当ては日本最大の旅行代理店日本交通公杜及び各市の主だったエージェント。荷台には水筒、握り飯、雨合羽、それに白黒印刷のぺらぺらのパンフレットを積み、家族に見送られて出発した。

 朝霧の中を走って山の上に出ると秋晴れの中の原である。みわたすかぎりのすすきが逆光の中に光っている。「美しいなあ」と志手康二が叫んだ。「切って公社の衆に持っち行ってやろうかあ」と富永岩夫。「お花の稽古をしよる女社員が喜ぶでえ」「やめよう」と日野進一郎。「花屋じゃ高うでも、山から切っていったんじゃ値打ちがないわい」。

 三台のオートバイは風を切って光るすすきの中を走っていく。

 やがて富永岩夫の車が遅れ始めた。「どうしたん?」「どうもせんッ」「おかしいなあ」「オーバーヒートしよるんじゃろ」「わしのだけがえ?」「値切り過ぎたんじゃ」「何を、現金買いでえッ」しかしどうしても遅れてゆく。小倉の公社で会おうと言って日野号と志手号はするすると離れていった。富永岩夫は顔を真赤にしながら煙を吐いて営々と登ってゆく。

 鉄輪から亀川に抜け、まぶしく光る日出の海辺を走って二台はひた走りに小倉に向かう。行橋のあたりで、もの凄い音と煙をまき散らしながら富永岩夫が追いついてきた。「大ごとじゃ、大ごとじゃ」と叫んでいる。「どしたん?」「犬をしき殺したッ」

 宇の島の警察署の前でいきなり犬の奴が跳び出してきた。よける暇もなくもろにぶち当った。犬はびりびり死んだ。「警察の人が窓から顔をあげたから急いで逃げちきたんじゃ。わしは無免許じゃからお巡りは好かん」

 これには驚いたが、とにかく逃げようというので三台は煙をまいて走りだした。

 しばらく走ると派出所がみえた。警察官が一人立っている。日野進一郎が、続いて志手康二が、緊張した面もちで走り過ぎる。ところが富永岩夫はするするとその前で停まってしまったのである。免許証をみせろと言われてあっけなく、ご用。情なそうな顔をして派出所の中に消えたが、やがて何度も頭を下げながら出てきて黙ってオートバイに乗り、日野、志手両人の前を背筋をぴんぴんに伸ばして走り過ぎてゆく。両人あわてて追いかけた。

 「なしか知らんが足がブレーキを踏んでしもうたんじゃ。踏んだらいかんち思えば思うほど足が踏みこんでしまうんじゃ」富永岩夫は首をかしげながらそう言い、それからしみじみとつけ加えたものだ。「わしはやっぱり正直者なんじゃなあ」

 この話には、帰りに同じとこるを通ったら同じ警官が立っていて、富永がブレーキを踏みそうになったら大いに驚き、<早よいけッ、早よいけッ>と手を振ったという落ちがついている。

 さて全九州宣伝旅行の壮挙も無免許とあっては強行もならず、縮小されて北九州と博多ということになった。三人は大いに張り切り、エージェントをしらみ潰しに廻って大いに売り込んだ。

 日野は端正な顔に誠実さをみなぎらせながら明朗会計とゆき届いた受入れを説いた。富永は懸命に安い料金で夕食に何品づくかを力説した。志手は童顔を紅潮させながら風景の美しさを嘆じた。「すすきの美しさがなんとも言えんのです、朝日の中にキラキラ光ってですねえ…」しかしエージエントの数は多かった。同じ科白を言いながら次々に歩いていくうちに自分がテープレコーダーか何かになった気分がして芯の底が重く疲れた。「料理の品数のじょうオーバーに言うても感心せんでえ」「明朗会計もあたり前じゃる、キャバレーじゃないんじゃから」「すすき、すすきと同じことのじょう言うて、ほかに科白はないんかい?」

 安宿の帳場のテレビをみながら三人の気は重かった。結局三人はこの旅でひとつの契約もとれず、ろくに手応えもないままに帰ったのだが、しかし初めて一人一人が自分で旅行業者に立ち向かった<成人式>の旅であった。敵の要求するものの厖大さと、こちらが提供しうるものの倭少さとを嫌と言うほど知らされた旅であった。三人は自分たちだけが戦いの全貌を知ってしまった参謀のように、孤独な重い情熱を秘めながら由布院の町へ帰って来たのである。このとき<すすきの康ちゃん>とあだ名された日の出屋の志手康二は、いま夢想園社長、観光協会副会長。温泉保養問題に造詣深く業界の指導的な位置にいる。

 しかし事態は急に進展せず、由布院の旅館はあいかわらず貧乏であった。「おうおう、貧乏たれのじょうが難しいことを言いよる」、ことぶきの徳山介義はよくそう言った。そう言われるほど由布院の旅館は老朽化していた。徳山は在日朝鮮人で同じく貧しくはあったけれど、とにかく自分でことぶきを建てた人物であった。(あったというのは四十二年、自動車事故で死亡したからである)だから彼にはそれが言えた。「いろいろ言うならまず儲けてみせにゃあ一ねえ。儲けきらん商売人は勝ちきらん相撲とりと一緒よ」そんな憎まれ口をききながら徳山はよく若手の連中に飯をおごった。金だけが頼りというところもあったが気っ風がよく、そして何よりもやさしかった。由布院旅館の先代たちと若手との間にあって、彼の存在は確かにひとつの緩衝であった。彼白身はやはり異邦人の世界を生きていた。

   太平洋戦争と姫ゆり部隊

 三十六年、新東宝が大蔵映画に変った直後、<太平洋戦争と姫ゆり部隊>が撮影された。<明治天皇と日露大戦争>で大当りをとった大蔵貢が捲土重来を期して取組んだ作品である。

 そのロケーションが由布院で行われることになった。旧陸軍時代からの演習場日出生台が沖縄戦場のロケ地として選ばれたのである。山水館の小野順吉が世諸役になって受入れ準備を始めた。「初め誰も信用せんでなあ、親父も困っちおった」と山水の当主小野和俊は当時を回想して言う。「潰れかかった映画会社なんか信用できんち言うんじゃ。それに語が大きかったけんなあ」百六十名が一カ月も滞在して一泊三食千五百円というのは当時の由布院の旅館としては夢のような話であった。山水館親子は懸命に受入れに走った。小野和俊は立教大学を出て由布院に帰ってきたぱかりだったが、このロケ騒ぎを機に少しづつ観光界に入ってくる。しかし結局父順吉と二本立ての業界参画はならず、彼は内輪固めの仕事や大学時代のラグビーを通じて町のスポーツ界に力を伸ばしていった。いま彼は順吉の跡を襲って町会議員である。父と子の関係が彼を由布院の艮間指導者の位置から政治の世界に走らせたが、業界の一隅に特異な若手戦力として存在し続けていることは確かである。現に観光の町として飛翔を続ける湯布院町に、観光畑からの議席は彼一人なのである。(その後、後述の民宿なかや衛藤昭彦が議席を得て、観光関係は二人となる)

 それはともかくこの夢のような話はほんとうだった。ある日大分県信用組合の口座に二百万円の送金があり、送金主が大蔵映画とわかって町は俄然色めきたった。配宿計画はたちまち決まり、九月初め、監督小森白、俳優南原宏治、上月左知子、仲宗根美樹ほか外人エキストラ五十人を含むロケ隊百五十名が由布院に到着した。普通ロケーションの三倍の規模である。

 戦闘は一カ月以上に渡って続けられた。毎日二百人を越えるエキストラが集められ、日出生台の沖縄戦野を跋渉し、あるいは屍を曝した。町は挙げて協力態勢を敷き、沖縄健児のエキストラには由布院中学校の生徒が動員された。自衛隊が全面協力したのはもちろんである。日本陸軍にはいよとみの先代や林理髪店の主人が進んで扮し、やがて村の世語役や団体の役員が加わった。気むづかし屋で知られた山岳会長の佐藤喜東までが協力のために軍服を着たのである。町はロケ一色で塗り潰された。近郷からも日雇いのエキストラが続々と繰り込み、村の共同温泉には乞食も棲みついて入湯滞在しながら沖縄戦線を闘ったのである。戦闘状況はまず朝、バスに乗って目出生台に着く。それから長い準備があり、やがて芝居が始まると、言われたように跋足をひいて歩く。人によっては屍体になって一日中寝ている。曇ってくると天気待ち。昼には支給された日田の三咲屋の弁当を食べ、夕方バスで送られて帰ってくる。それでも四百円ほどの日当が貰えた。「俺も行きてえ」と岩男町長(当時)も半ば本気で言った。それほどこのロケーションは緒についたばかりの湯布院町に特効的な景気をもたらせたのである。旅館がその中心になったことは言うまでもない。毎日、前夜の宿泊人数をロケーションマネージャに届け出る。スタッフはあちこちの旅館に出かけて飲み食いし、泊まったり、夜中に帰ったりするから人数の把握は曖昧である。「ロケ隊の人数より多いのですがねぇ」とロケマネが言う。「ふしぎですなぁ」と旅館主が口々に言う。ふしぎなままに金が出た。ロケ熱はいやが上にも高まった。庄内号酒店が軽自動車にビールを積んで走り廻り、富山の入れ薬よろしく「売れた分だけ金をおくれ」と旅館に入れて歩いた。旅館は家族総出で鯉の頭を叩き、味噌をすり、わらびの塩もどしをし、そんな風に戦った。昨今の湯布院のようにみんなが世話役に出るような余裕はどこにもなかった。仕方なしに請元の山水館小野順吉、和俊父子が毎日本部に詰めて、駅に送られてくる弁当五百をトラックに積んで山に運んだりしたのだった。富永岩夫も志手康二も庖丁を握って家の中にたて籠っていた。とにかく由布院の多くの旅館がこのロケで息を吹き返し、基盤を整えたことは事実である。それほど由布院の旅館は骨格が弱かった。しかし自衛隊が全面協力する戦争映画で浮上したという事実は、その後の由布院観光の宿命を暗示していた。由布院盆地の北側にひっそりと自衛隊が開隊し、その北の奥の原っぱで実弾を発射する戦争演習が行われるということ。それは日本が国の防衛を賭けてガッシリと打ち込んだ鉄の楔の一撃であったのだ。翌三十七年、由布院観光は猛反撃に出る。