〈湯布院100日シンポ〉について

〈たすきがけの湯布院〉は、いわば湯布院のイメージ作り、ノレン作りのプロセスをいたものである。湯布院人たちが、たすきがけで疾走してきたことによってく<湯布院>というノレンは確かにできた。しかし、これで湯布院の町づくりが終わったわけではないのだ。町づくりに終わりはない、いまも湯布院の町づくりは続いているのである。中谷健太郎さんは言う。「ある種のノレンはできあがった。これからは、ノレンを裏切らないものを作る時期である」と。湯布院の町づくりは、いま、そういう段階にさしかかっている。
 湯布院の、ノレンを裏切らないための努力、町づくりの力走は続く。57年7月から三カ月間にわたって開かれた『湯布院100日間シンポジウム』もその一つであろう。この『湯布院100日シンポ』とは、コミュニティーセンターの建設をめぐって、50人の町民代表と、行政、議会が、それぞれ目一杯の努力をし、結果的には失敗に終わったのだが、その過程で見せた湯布院人たちの町づくりにかける執念にも似た熱い想いは強烈であった。その『湯布院100日シンポ』の様子、驚嘆すべきエネルギーを描いたものがある。中谷健太郎さんが、隔月誌『ぎょうせい』に寄せた一文<町づくりは平常往生−湯布院100日間シンポジウムの教訓−>がそれ。いまもなお町づくりにたすきがけで疾走を続ける湯布院の、今日的状況を記したもので、いわば<その後の、たすきがけの湯布院>といったところ。湯布院の町づくりをより深く理解する上で欠かせないレポートだと思うので、ここに併せて掲載する。  


町づくりは平常往生

−湯布院100日間シンポジウムの教訓−

 汗だくの100日間

 町議会が揉めています。私たちが提出した答申をめぐって紛糾しているのです。
 町民50人が委員会を作り、100日シンポジゥムというのをやった。その答申です。予算は町持ち。
 中味はコミュニティセンターをどう建てるかという案件で、私たちはそれに対して大変具体的な答申をしました。具体的にならざるを得なかったのです。具体的なものでないと50人の委員自身が理解できないからです。具体化するのに100日間かかりました。
 シンポジウムを開いたのが、57年7月3日で、100日目は10月12日でしたが、結審は10月5日、町への提出が翌6日と順調でありました。しかし内惰は汗だくの100日問で、その問に音楽祭、映画祭、盆地祭り、牛喰い絶叫大会等をこなして走りましたので、まあかなりのものでありました。50人委員会の中に22人の作業委員ができて仕事を進めたのですが、最初は「もっと広範囲の人の意見を聴け」とか、「50人委員の考えを充分引き出せ」といった声が出ていたのですが、最後の方は「健康に気をつけろ」「案じゃから完全でなくてもいいんじゃないか?」などとやさしい声に変ってきました。正式の作業委員会が10回、50人委員会が8回、緊急小会議5回、内容専門委2回・試算専門委4回、打合わせ10数回、調査・研究から懇談・座談はほとんど毎日です。
 そんな中からしだいに具体的な姿が浮かび上がってきて、一枚の基本構想図になり、400字詰め25枚の答申書になりました。
 内容は簡単明快です。
 @今回は見送れ
 A末尾添付のような施設にしてほしい
の二案併記。そして400字詰25枚の答申書が、その施設の内容、そうあるべき理由などを綿密に説明しているのです。
 それが議会で揉めている。今日は10月23日です。26日までに結論を出すそうですが、それでも答申後20日を経過することになります。

わかってもらうには人間的なスリアワセが要る

 この案、滅茶苦茶に急いでいたのです。6月の議会に私たちが陳情書を出して民間側の意向を容れてもらうように頼んだのですが、そのとき町長は「できれば8月中に」と言われた。それはなんぽなんでも無理ですとねばって、町長も了承したぎりぎりの線が10月12日、100日目であったのです。
 議会も13日やって、15日やって、21日やって、今度26日やるわけですから、(委員会、全員協議会等を入れてですが)とにかく精いっばいに対応してくれてはいるのです。それでもとても追いつかない。それはそうです。こっちは100日間、ほとんど毎日やってきているのだから、正式会合の数の何倍もの話合いや工夫を重ねてきている。当然ギャップが起こります。それを心配してなんとかカバーしようといろいろやってみました。


 議会の中にこの案件のための特別委員会があります。これを窓口にして議会につながろうと、かなりの回数、50人委や作業委に特別委員さんを招聰しました。一緒に討議に加わってもらったのです。もちろん全会議の記録はそのつど特別委全員に送り続けてきましたから、会の動きや進み具合は逐一知ってもらっていたことになります。しかしそれが巧く通じない。知ってもらうことと、わかってもらうこととはちがいます。わかってもらうにはそれだけの人間的スリアワセが要る。それは生理的なものだから時間がかかります。
 頑張って押込んだからといって入るものではありません。そんな風に考えるとすれば、発案者が傲慢であって、事態は大いに複雑であり、多面、多重、多岐であります。、案がすっぽり受け容られるには、廻りの状況が柔軟に変化し、敏感に反応するまで待たねばならない。
 スリアワセの営みに時間が要る。智恵や努力で時間を値切ることはできない。これが今回のシンポジウムの大きな教訓でありました。活動は平常往生です。期限付き具体案を目の前にして、大急ぎで考えを練っても、これは駄目です。それは炎天の雷雨のようなもので、大地に滲みこみません。間断なく降り続ける雨でなければ慈雨にならない。
 だから行政側から案件を示されてから立ち上がって答えるのでは殆んど無意味です。こちらから暮しの中でいつもデザインし、計画し続けているのでなければ駄目です。行政が受けに廻るのでなければ話は成り立たない。
 100日シンポなんて外道であります。

 それでもやっぱりやってよかった。
 いちばん嬉しかったのは、結審の日に企画課長と商観課長が良い笑いをみせてくれたことです。「やり甲斐があったなあ」「思う存分やったちゅう実感があるなあ」
 そう言って二人は晴々と笑ってくれました。
 彼等はほんとうによくやってくれました。
 作業委員会は夕方6時に始まります。早目の夕食を食べて、それからぶっとおしの討議が続き、終るのはたいがい12時、時には2時になります。翌日は定刻8時半の役場出勤で、日常業務の間に記録の整理・印刷・発送等が隙間潰しに入ってきて、また夜です。課員全員がその体制の中で走ってくれました。
 限界すれすれの疾走です。
 しかし彼等を疲れさせたのは仕事のボリュウムだけではない。ほんとうに彼等を押しひしいだのは人間関係です。役場の中のそれ。議会との関係、50人委員の中にもいろいろの人物がおります。その中で彼等は責任のある態度をとり続けなければならない。彼等はこの案の担当部局員です。逃げが効かない。批評的立場がとれないのです。ハンドルの遊びのない車を運転しているようなものです。創造的な仕事に最も向いていない仕組みです。
 その中で彼等は100日間を走り通した。恐しい実験でした。「やり甲斐があった」と彼等は笑ってくれるけど、ではこの形で今後もやろうとは、とても言えたものではありまぜん。
  そこで時間の問題に続いて第二の教訓、「担当部局の職員が参画する住民運動は、効果は高いがやたらと辛どい」

 それなら担当部局が参画しなければよろしいかというと、それは駄目です。彼等のお蔭でこそ100日シンポは具体的な住民案をまとめることができたのであって、彼等なしにはすべてが空中分解していたでしょう。話が拡散し、捉えどころもなく飛翔し始めると、誰かがそれを引き戻す。引き戻す先は現実の枠の中です。その枠を代表して担当部局員が話を引き据える。引き据えると同時に、そこから可能性のある方向、望ましい方向へ向けて、新しい状況を開いてやらねばならない。引き据えてしまってはおしまいです。太洋の中の航空母艦のように、論の不時着するところ必ず彼等がいて論を受けとめる。論はそこで状況を見さだめ、新しい夢を画いて再び飛び発ってゆくのです。
 そんな具合でありましたから彼等は孤独でありました。彼等自身は飛び発つことなく、しかし飛び発つ者たちのために空を切り裂き続けた。切り裂いて自由な空間を創り続けたのです。そんな彼等がいちばん望んだものは何であったか?それは仲間です。役場の仲問の参画です。彼等は黙っているけれどわかります。飢えるような孤独感から彼等は仲間に呼びかけ、何度か課長会を開いて汗みどろの討論を展開したのですが、やはりスリアワセには時間が必要という原則の下に屈せざるを得なかったのでした。
 いやそう言ってしまっては嘘になる。彼等はみごとに活動したというべきでしょう。参事や収入役まで含めて、全課長に彼等が説得論戦を挑んだとき、そして「言うべきことはぜんぶ言うた。夜中までかかった」と言い切れたとき、何かが役場の中でゴトリと動いたことは確かです。それは二人の厳しくも冴々とした眼からも明らかであります。  事実その後の作業委員会にはフリーオブザーバーの形で、課長たちが数人ずつ出席してくれたのでした。13人作業委たちも特別にちやほやはしなかったけれど、ひっそりと顔を覗かせる押しかけオブザーバーたちを、しみじみと良い気分で眺めていたのです。そして担当部局の職員たちは、まるでアパッチ砦で援軍を迎えたジョン・ウエインのようでありました。彼等が討議からそぞろな気分で仲間たちと小声に話し興ずるさまは、進行役の私をも倖せな気分にさせてくれました。ほんの数人の仲間の、やさしいかかわりの姿勢がなかったら、担当尖兵隊は討ち死にしていたのかもしれない。
 そこで第三の教訓。「担当でない職員こそ自由な気分で、どんどん参画して欲しい。仲間を殺すな」



 しかし事はそれほど簡単じゃないことはご存じのとおりです。担当部局でないからといって、役場職員が行政全般に無縁である筈がない。町長の打ち出した行政の方針を、同じ行政部内の職員が批判し、反対の議論をぶち上げてていたのでは町の経営は成り立ちません。かと言って役場の職員は問答無用、首長と議長の命令に服従しておればよろしいというのでは役場の職員は穀潰しです。穀潰しが町の経営に従事していてはこれまた町が潰れます。
 私は役場の職員はエリートだと思っております。町の中で、これほど嘱望されている勤め先はありませんし、現に優秀な連中が集まってきている。その能力に蓋をしてしまう術はないでしょう。彼等こそ町経営の中核戦力であり、プロフェッショナルである筈です。
 だから問題はひとつ、「どうやって役場職員の能力を発現させるか?その仕組みを作ることが絶対に必要だ」というのが第四の教訓です。

首長は大いなる旗印を創るべき

 それをやるのは誰か?首長であります。乱暴な言い方だけどそう言い切った方が良い。
 問題は急を要し、且つ重要だからです。
 多くの首長が町づくり、人づくりとぶち上げるけれど、役場づくりにがっぷり取り組んでいる例をあまり知りません。北海道の池田町では強者揃いの職員群に出会ってたじたじとなりましたが、多くの場合は孤軍奮闘の有能者をそのままにして、彼等がはみ出し者の栄光の中で満身創疲に立往生するのを傍観しているようにみえます。
 事は少数のはみ出し職員が討ち死にする話ではありません。役場精鋭軍が多士斉々の能力をいっばいに発揮して、能力全開でぶっ飛ばせるかどうかに拘わってくる問題なのです。財政規模30億、公債比率10%の町財政の中で、2億5,000万の自己資金を投入する経済振興策が、どれくらい財政を圧迫するのか?それを1億5,000万の福祉政策に切り替えればどれくらい楽になるのか?経済政策と福祉政策のちがい、財政施策と町経済活性との関係、それらがややこしくもつれて、職員が、特に幹部職員が、賛成、反対と揉めておったのではお話にならない。
 といって職員だから行政の長に従えという論理では全力疾走できません。その下で死ねる大いなる旗印と、その旗を織りあげる汗だくの共業が必要なのです。大いなる旗を織り上げる仕事に職員が参画しなければならない。その場を首長が絶対に創るべきです。
 またそれは大いなる旗でなければならない。それが単なる合議制や、職員に知らせる仕組みであったなら、逆に職員をまるごとブレーキ集団にしてしまうでしょう。安全を好むのは本能の一つです。給料以外の仕事を抱え込み、その給料さえも危うくしてしまうかもしれない町づくり大事業、大行進、大戦争に、参画したぐないのは自然の性向です。しかしやらなければ飢えるとき、人はやります。飢えなくとも「やるべき」の心が納得すれば人はやります。身体いっぱいの納得が大いなる旗であります。
 私は一日15時問働いております。朝8時から夜11時まで。そうやらなければ客室12の旅館で80人の従業員が生きてゆけない。ほかの仲間たちも大なり小なり似たような生き方をしております。霞ケ関の花の官僚たちもそれ以上ぶっ飛ばしていると、これは友人のエリート官僚に聴いた話。
 みんなやっているのです。店の経営も、会社の経営も、国の経営も、町の経営も、何ら変るものではありますまい。  フル回転して澄みきっている独楽もあります。エコノミックアニマルの歎きを、大乗仏教の国、日本では「曳かれ者の小唄」と言いました。 100日シンポとは?  さて100日シンポの内容です。詳しい話は省略します。仲問で本にまとめるつもりですから買ってください。  コミュニティセンターと温泉センターを併設して、これを保養温泉地構想の核にしようという案です。コミュニティセンター(以下コミセン)は防衛庁補助で57年着工。補助金は1億1,000万余りですがほぽ同額の自己負担が必要。温泉センターは環境庁と県の補助で58年着工。補助金は6,000万円で町の最少自己負担が3,000万、計9,000万円という計画です。
 つまり建物総額としては約2億のコミセンと、約1億の温泉センターが建つ話ですが、町は当初、これでは温泉センターが弱く、魅力の核になりにくいだろうから、もう1億足して2億の温泉センターにする。コミセンと合わせて総額4億の建物にするから、その代りに半官半民で独立採算に持ち込んでくれ、という話でした。なおほかに土地購入費は別に1億みるというのです。 この条件でシンポジウムは始まったのです。

*

 前述のような経過で100日が過ぎて、結審を済ませ、いま議会で減茶苦茶に揉めております。全員協議会という形で会が持たれますので傍聴できず、内容がよくわからないのですが、なんでも役場の敷地内にコミセンを建てる。それなら1億5,000万弱の自己負担ですむ。いろいろの役場の催しに便利だし、高床にすれば駐車場も広くなって町民も喜ぶ、というようなものであるらしい。温泉館は見送り。それじゃあ保養温泉地構想はどうなったのかと訊きたいのです。
 4年も前から湯布院町の基本計画として決定され、何度もお金をかけて調査し、計画書も作って、事あるごとに打ちあげてきた案件が、役場の会議室と、駐車場に化けて一巻の終りなのかと言いたいのです。商工観光の基盤整備事業としての性格づけはどうなってしまったのか?いったい100日シンポジウムは何だったのだろうか?
 私たちの結審は、
 @今回は見送ろう。充分の時間をかけて研究討議し、環境計画の上に位置づけよう。
 A自然環境を最大の魅力にして設計し、これからの町づくり建設事業のモデルにしよう。
という二案併記でした。
 @の意向が50人委員会の中に、少数ながら最後まで残りましたし、またかなりの人の気持ちの中に「時間が足りない」という感じが跡を曳きましたので、併記したのです。
 しかしこれには国の補助金を返上するという大手術がついております。これがどれくらい大変なことかは充分承知の上ですから、一見消極的にみえるこの案の、意味は重いのです。
 @でなければAでゆくべしと、100日目の夜、36人の出席者全員が結審しました。

  厳しい条件下で智恵を絞り合う

 はじめに町から「絶対に独立採算でゆけ」という条件を背負わされて出発し、途中50人委員会から「自然環境の魅力いっぱいの設計をしろ」という条件を付け加えられました。さらに街への経済的波及効果を期待する声もだんだん強くなる。作業委員会はブルドーザーで押しはさまれるような状況の中で計画を進めました。
 自然環境の魅力いっぱいの施設にするためには、まず景観の秀れた所でなければならない。そして土地は広々とゆったりなければならない。しかも街への波及効果を考えると、あまり遠い所ではいけない。そして絶対に独立採算。−投資計画を縮小するほかはありません。
 ところがコミセンは動かしようがないのです。人口から割り出した1,100平方メートル以上という枠が、防衛庁からつけられているし、また補助申請当初に600人収容の大ホールを要望している。町内の芸能グループや観光関係者からも「大収容力」の要請が上がってきます。コミセンは縮小できない。
 ならば温泉センターを縮めるほかないということになりました。

*

 これを観光関係者が了承するには、ずいぶんの思いきりが要ったと思います。彼等が保養温泉地構想を唱え始めたのは10年前です。
 ドイツの温泉地を視察して、以来仲問を説得し、団体向きの大型観光地に変身するのを内部的に懸命に食い止めながら「暮らしている人にとって素敵な町こそ真の観光地である」という旗を押し立て、「町づくり運動」の先頭に立ってきたのです。その思想の中心になったのが、はるかなるドイツ国の保養温泉地のイメージでした。音楽祭が、映画祭が、牛喰絶叫大会が、辻馬車が、緑したたるバーデンヴァイラーの想い出の上にコツコツと育てられてきたのです。  それをきっぱりと切り捨てた。
 温泉センターは補助金計画最小限度の9,000万円でよろしい。浮いた金で少しでも広く土地を買って、魅力溢るる自然環境の保養館を造ろう。そう思い決めました。一大決心でした。やっと曙光がみえたかに思えました。ところが、その金で土地は買えないというのです。金は起債で、起債は借金。起債には枠があって、必要と認められる広さ以上の土地を買うことは許されない。さらにまた、こっちが「ここしかない」と眼をつけた土地は、造成費や導入路整備に大変なお金がかかる。設備いろいろや備品・機械も大変で、結局温泉センターを縮めて浮かせた1億円はきれいに消えてしまうというのです。そして最後のどん詰めは、宿泊施設を造らなければ温泉センターとコミセンだけでは独立採算ができないという試算専門委の答申でした。冗談じゃない、そんな金などありはしないし、あっても公営の宿泊施設など、民間が許すわけがない。絶望でした。万事窮すです。

 ですがそのまま報告すれば、町は答申不能として、町の立場から裁量して計画を進めるでしょう。 こっちはギヴ・アップしたわけだからそれをどうこう言うわけにゆかない。町は既に決定している防衛庁の補助金を返したりしないにちがいないから、最小限の投資と、最小限の運営費ですむ所を考えるにちがいない。それは町舎敷地内だろうと読めました。議会内でいま出ている案と同じです。
 そうなると保養温泉地構想は完全に潰れます。
  保養温泉地の核は、温泉館、催物館、レストラン、採算上宿泊施設等が有機的に組み合わされてはじめて機能します。その中の最も大事な部分であり、最もお金のかかる催物館が、コミセンとして町舎敷地内に建設されてしまえば、もう二度と保養温泉の一環として再生してくることはあるまいと考えられるからです。
 保養温泉地構想を葬らないために、私たちは懸命に立ち直って財源を探しました。そして起死回生の一手をみつけたのです。国民宿舎の売却・再生です。
 国民宿舎は昭和37年に建てられたもので、かなり老朽していましたが、最近の(適)事件でいろいろの問題が露呈し、今後安定した経営を続けるためには、1億から1億2,000万の投資が必要なことがわかりました。
 それであればこの老残の建物を土地ごと売却して、わたしたちが眼をつけている新生の土地に蘇生させれば、土地代の差額からみて充分の敷地を買い、その上に将来性に富む、魅力的なコテージを建てられるという案がみえてきたのです。町なかの古い宿舎に手を入れ、金を注ぎ込んで維持してゆくよりも、或る種の条件をつけてそれを売り、川辺の、一望緑の新生の地に広々とファミリーコテージとして蘇生させる、この方が良いに決まっている。全力を挙げて旅館側を説得し、それでA案がまとまり、答申したのでした。
 それがいま揉めているのです。国民宿舎を売ることまかりならぬという所までは議会で決定したそうです。

*

誰もがよかれと努めた

 本日、10月26日、最後の議員全員協議会で従って町民も、役場職員も入れをい会議で、土地の購入費上限が決められ、A案が採択されたと新聞記者から情報が入りました。(ふしぎなことに記者だけは毎回出席できるのです)。  国民宿舎は売らないわけだから、その分起債が増えます。
 土地の購入を邪魔する腹ではないか等と生臭い話も囁かれたりして、下界は時雨模様の秋の暮です。58年3月末までに実施設計ができ上らなければこの話はお流れです。心意気で飛び込んでくださった設計家のY氏も辛い立場に立たされましょう。
 保養温泉地という、観光地としては最も美しい形を求めて、住民たちが、職員たちが、100日間も話し合い、町長もそれに予算をつけて、思い切った住民参画の行政を敷き、議員の方々も懸命に審議し、誰もがよかれと努めながら町づくりは泥田の中を重く進みます。そう言えば「防衛庁のお金でほんとうに美しい保養の町がつくれるだろうか?」と澄んだ眼で問うた町民もいたのでした。
 100日問付き合って下さった50人委の方にお礼を申したい。特に慎重派といわれる人たちが、ほとんど体力の限界近くまでこの仕事にたずさわり、決して投げ出さず、最後まで考え続けて下さった。そのお蔭で答申は現実的な意味を持ったのでした。
 心に滲みる、仲間との100日間でありました。