豊後追分
    (久住高原の唄)
 
    

 
 
 
 
 

1 久住大船
    朝日に晴れて
  駒はいななく
    草千里 草千里
 
 

2 久住高原
    すすきに暮れて
  阿蘇のいただき
    雲しずむ雲しずむ
 
 

※「朝日に晴れて」は、一般に「朝日に映えて」と歌われている。
 
 
 
 
 
 
 



 
 先月の下旬、「豊後追分」の本場とも言うべき久住高原を訪ねた。
 晩秋の久住高原は、ベージュ色に照り映える草原のうねりが果てしなく続き、はるか西南のかなたに、一条の噴煙を上げる火の山阿蘇の山容がくっきりと浮いて見える。
 「豊後追分」が多くの大分県民に愛唱されているのは、追分調のおおらかな曲節の中に、久住高原の繰り広げ各大自然の雄大さが余すところなく歌い込められているからであろう。
 以下、その生い立ちにスポットを当ててみることにしよう。
 昭和初年の頃、別府市に東大法科出身の弁護士・山下彬麿(しげまろ)が住んでいた。作詞・作曲はお手の物、おまけに天性の美声ときているから、唄が出来上がると人を集め、歌って聞かせるのが大好きという一風変わった弁護士であった。
 彼は別府観光の先駆者・油屋熊八翁(一八六三?一九三五)を取り巻く有力なブレーンの一人でもあった。昭和二年、熊八翁が紹介した工藤元平(注1)の案内で久住高原を訪れた彼は、その雄大さにすっかり魅了され、さっそく高原の唄作りに取り何かれてしまった。
 彼が作詞作曲した追分調の「由布は(注2)見えぬか」が、ニットーレコードでデビューしたのは昭和五年の頃であった。
 その後、この唄は「前に高崎うしろに鶴見…」を一番歌詞に、「久住高原すすきに暮れて…」を二番歌詞とし、曲名も久住高原の方にウェートをおいて「久住高原の唄(注3)」と改められた。
 昭和八年、三味線・琴・胡弓の伴奏で歌うように編曲された「久住高原の唄」は、やはり彼の作詞作曲になる「瀬戸の島々」と共に日本ビクターでレコード化され、広く世に売り出すまでになった。
 「久住高原の唄」を初めて聞いたのは、同じく昭和八年の頃、筆者が大分県師範学校に在学中のある日、山下彬麿の特別講座が講堂で開かれた時である。演壇に立った彼は、法律論ならぬ「国民歌謡の歌い方」などの講義をすませた後、その実例として「久住高原の唄」を音吐朗々と歌い上げたのである。
 もっぱら楽譜に拘束された音楽授業を受けていた当時にしてみれば、楽譜抜きで陶然として歌う彼の「久住高原の唄」は、まさに異色の唄であり、この唄にいたく感動した学友達は、高原の雄大さを表現するために、あれこれと工夫をこらし、互いに歌唱の優劣を競い合ったものである。
 雄大な久住高原を愛した山下彬麿は、「久住高原の唄」を何とかして青少年に歌わせたいと願っていた。昭和一〇年になって作詞された「久住大船朝日に晴れて…」は、こうした強い願望の所産に他ならない。以来これを一番歌詞とし、「久住高原すすきに暮れて…」を二番歌詞として歌われるようになり、ここに正真の「久住高原の唄」が完成するに至った。
 この「久住高原の唄」が本格的に普及するようになったのは、戦後になってからのことで、いち早く結成した萬謡会をはじめ、各種民謡団体の活躍に負うところが大きい。
 そして、「久住高原の唄」が更に多くの人々に親しまれるようになったのは、昭和三九年別府阿蘇道路(やまなみハイウエイ)が全線開通してからのことである。観光地として一躍有名になった久住高原と共にすっかり名を高めた「久住高原の唄」は、いつしか「豊後追分」とまで呼ばれるほどに成長を遂げたのである。
 今年六月、別府阿蘇道路が無料化されてから以降、久住高原を訪れる観光客はますます増加するばかりであるという。
 続く八月には、第一一回日本ジャンボリーが開催され、全国各地のボーイスカウトを中心に約三万人が久住高原に集結した。もし、山下彬麿がこの世にいたなら、きっと「豊後追分」を声高らかに歌って聞かせたことであろう。それはともかく、彼らが成人して再び久住高原を訪れる頃には、この「豊後追分」は「江差追分」などに匹敵する程の唄に成長しているに違いあるまい。
 山下彬麿は、油屋熊八翁が他界した翌年の昭和一一年京都に移り、昭和二七年四月「歌翁」と改名、昭和三〇年一〇月享年七一歳でこの世を去った。
 赤川の久住高原荘近くに建てられた「山下歌翁碑(注4)」を前にすると、六〇年前に山下彬麿が歌った「豊後追分」の歌声が、はるか高原のかなたから、今にも聞こえてくるように思われるのである。
 



注1 工藤元平(一八八九−一九六八)
久住郵便局長・久住町長・久住公民館長などを歴任する間に、久住山の開発・紹介・宣伝・登山の奨励・自然愛
護思想の普及等に心血をそそぎ、「くじゅうの父」と称されている。

注2 「由布は見えぬか」
一、前に高崎うしろに鶴見
由布は見えぬか温泉(ゆ)の煙

三、久住高原 すすきに暮れて
阿蘇のいただき 雲しずむ
(二、四は省略)

注3「久住高原の唄」
一、前に高崎 うしろに鶴見
由布は見えぬか温泉(ゆ)の煙温泉(ゆ)の煙

二、久住高原 すすきに暮れて
 阿蘇のいただき 雲しずむ雲しずむ

注4「山下歌翁碑」
山下歌翁碑建設委員会(会長大分県知事木下都)が昭和四一年に建立。
設計は磯崎新。
 
 
 
 

参考資料
・「山下歌翁」山下歌翁碑建設委員会刊(昭和42年)
・久住町民センター資料室に保管されている工藤元平の収集した諸資料

久住町観光協会 会長 佐藤貞幹
久住町大字久住 TEL0974(76)1111