中津大津絵音頭
    

 
 
 
 
 

【由来】
時は天正の夏のころ
中津の城主黒田侯(注1)は
(ハ ソウジャソウジヤ)
扇の城(注2)を築かんと
大工左官(しゃかん)や石工(いしく)をば
はるぱると播州(注3)姫路より
春夏秋冬年を経て
築き上げたる その祝い
犠牲者の霊をも 慰めんど
(ハ ソウジャソウジヤ)
踊り始めた 大津絵を
(ハ ソウジャソウジヤ)
郷土の誇りと姫路町
(ハ ヨイトサッサ)
伝え伝えて 今もなお
後(のち)の(コリャサ)世までも名を残す
(ハヨイトサッサッサ)
 

2【中津祓園】
中津祇園園の 夏祭り
かわいい子供の 手を引いて
宮居(みやい)流しき(注4)闇無(くらなし)の
老松(おいまつ)繁る 吉池に
鶴と亀とが 共に舞い遊び
沖には白帆が 数見ゆる
浜の並木に 白雪か
雲かと見ればよ 白鷺(しらさぎ)の
ひなを育てて 舞い遊ぶ
祇園囃子(ばやし)や鉦(かね)太鼓
神を慰め どっとやれ
町は(コリャサ)豊かに栄えゆく

※3〔町尽し〕
4〔祝儀〕の歌詞は省略する。

(注1)黒田侯=黒田官兵衛孝高(如水)。
(注2)扇の城=中津城。城郭の形から扇城とも呼ばれた。
(注3)播州姫路=兵庫県姫路市。
(注4)闇無=闇無浜神社。
 
 
 
 
 
 
 
 



 
 江戸時代。近江国大津宿(滋賀県大津市)で、お土産として売られていた戯画が、有名な「大津絵」で、この絵の数多い画題を綴り合わせて作った歌詞に、二上がり調の粋な節を付けたのが、「大津絵節」または「大津絵」と称する三味線歌曲である。
 これが全国的な大流行をみたのは、江戸時代末期から明治初期にかけてのことで、各地で祝い唄・座興唄等おびただしい数の替歌が作られ、中には原曲とかけ離れた別の唄に変化して、地方民謡となったものもある。
 城下町中津では、専ら踊り唄として歌い継ぎ踊り継ぐうち、歌詞も節回しも土地柄相応に変容を遂げ、ついに独特の風格を備える「大津絵音頭」として、この地に根付いたのである。
 ところが、この音頭の一〇番ほどある歌詞が、いずれも並外れの長編となっている上に、節回しも複雑に変化しているため、唄も地方(じかた)も後継者が育ち難く、それに時代感覚に合わないこともあってか、ついに昭和三五年頃を境に全く踊られないものとなった。
 それから二〇年余が経った昭和五六年一一月一日。大分県芸術祭「ふるさとのうた」の中津公演を機に、「大津絵音頭」が中津市にとって、かけ替えの無い貴重な文化遺産であるという認識が急に高まり、中津文化協会が推進役となって、その復興に取組むことになった。
 復興に欠かせないのが総譜である。昭和三〇年代に市内姫路町などで収録した録音テープ・採譜ノート、中津郷土史資料等に基づいて、唄・三味線・尺八・太鼓のパート譜をまとめた総譜を作成。続いて歌詞の選定、踊りの振りの復元などを完了するには、かなりの日数を要した。
 そして、明くる昭和五七年四月。中津文化会館に、文化協会・姫路町自治会・婦人会。・観光協会・商工会・議会事務局など各界の代表者が参集して、「大津絵音頭」復興に関する諸事項を審議・決定し、中津市挙げての復興
に向かって力強い第一歩を踏み出した。
 唄・聡子・踊りに関する諸練習は、文化協会に加盟する民謡・日舞の各団体が、それぞれ一堂に会して、それこそ超党派の体制で熱心に取組み、さらに一般市民には協会員が手分けして指導に当たるという方式を取った。
 このため、唄・踊りの普及は予想以上に速くはかどり、三カ月後の七月二六日、中津祇園恒例の「市民踊り」に、「中津大津絵音頭」の名で初登場して大好評を博し、この上無くめでたい門出となった。
 復興一三年目を迎えた今年の七月二三日。午後七時四〇分、市内福沢通りでの「市民踊り」が開始された。特設の舞台上で奏する保存会の洗練された唄と雛子につれて、一四団体六百余名の踊り子連中が、「観光中津音頭」「中津大津絵音頭」の見事な踊り絵巻を繰り広げ、立ち並ぶ観客をすっかり魅了してしまったのである。
 中津自慢の一つとして定着した「中津大津絵音頭」が、さらに全国屈指の音頭として脚光を浴びるのも、あまり遠い日のことではあるまい。



中津大津絵音頭保存会
会長 松尾義幸
中津市万田465-6
TEL0979-22-9584