陣屋の歌


    作詩・作曲 挾間奉安
      編曲    加藤 正人
 

 
 
 
 
 

一 権現岳(ごんげんだけ)の 先陣に
  猿渡川(さわたりがわ)を 血に染めし
  遥かに聞こゆ ときの声
  陣屋の森に 響くとき
  戦運神に祈るらん
 

二 塩松君は すでに亡(な)し
  御身(おんみ)の身代わり 果たさんと
  其の場を救う 庄次郎
  陣屋に戻り いとまごい
  敵の彼方に 消えて行く
 

三 由布に黒雲(こくうん) 湧き起こる
  城主追っ手に かかりけり
  みたまを追いて 父逝きし
  積翠山(せきすいざん)の 石の上
  悲憤伝えて
 

四 時は移りて 高長谷山(たかはぜやま)の のぼる月光(つきかげ)
  父子あわれ幾星霜のろし場に仰ぐ夜
  陣屋の森に 人絶えて
  空しく石塁 とどめなん
 
 



 挾間町のほぼ中央部、鬼ケ瀬地区にそびえ立つ高長谷(たかばぜ)山の麓に、「挾間陣屋」の跡がある。豊薩戦の最中、挾問城主・狭問鎮秀(しずひで)が島津軍の侵攻に備えて構築した隠し砦だと伝えられている。その石塁上に立つと、挾間町とその近隣地方を戦乱の渦中に巻き込んだ豊薩戦の歴史が甦ってくる。
 天正六年(一五七八)に始まった豊薩戦は、同年一一月、大友軍が日向高城・耳川で大敗を喫して以来、戦いの主導権は常に島津軍の手中にあった。
 天正一四年三月、ついに大友宗麟は豊臣秀吉に救援を求めなければならない程、島津軍に追い詰められたのである。
 同年一〇月、島津軍は義弘・家久の二軍に分かれ、それぞれ肥後・日向方面から豊後に侵攻してきた。一二月、宗麟の息子大友義統は戸次川の戦いで家久軍に大敗、高崎城(高崎山一に退却して戦ったが利あらず豊前の龍王城に逃れた。
 この合戦で大友軍のしんがりを務めた狭間鎮秀は、義統が龍王城に到着した合図の狼煙(のろし)を見届けると、急ぎ挾間へ引き返し一族郎党三百人と共に権現岳(庄内町・城山)の出城に立て寵り、肥後方面から朽網(くたみ)を抜けてきた義弘軍四千を迎え撃った。
 戦いは壮烈な攻防を繰り返し、城の下を流れる猿渡川(芹川)が血に染まる程であった。城中では戦死・傷病死する兵が相つぎ、鎮秀の一子塩松丸も病にかかり、城中から脱出中大竜(おおたつ)(庄内町)で倒れてしまった。戦況が膠着状態となった同月下旬、両軍和睦を結んだが、この時の人質交換で塩松丸の死を隠し、同じ年頃の二宮庄次郎が身代わりとなった。
 明くる天正一五年三月、秀吉の大軍が豊後方面に向かったというので、島津軍は、退却を開始、ついに五月に入って秀吉に降参した。ここに至って豊薩戦も漸く終結し、苦境にあった義統はほっと安堵の胸を撫でおろし、おまけに秀吉から豊後国を与えられたのだから、まさに感激の極みであった。
 ところが、ここに思いもかけぬ大事件が勃発した。鎮秀は、義統から追討の命を受けた由布院衆の手によって六所宮(湯布院町)のほとりで、あえない最期を遂げ、急報を受けた鎮秀の父義鑑も又、積翠山龍祥寺(挾間町)の庭石に座して、あわれ自刃し果てたのである。鎮秀最期の地に建てられた供養墓には、鎮秀は天正一六年六月二日に戦死と刻まれている。
 それにしても、終始大友氏の一族として本家に忠誠を尽くした鎮秀が、豊薩戦の終結後において、何故本家の手によって果てなければならなかったのであろうか。
 「陣屋の歌」は、このような悲運の城主・狭間鎮秀にまつわる戦記を、叙事詩風の格調高い筆致でうたいあげたものである。
 平成元年、挾間詩道会の発足二〇周年記念吟詠大会に際し、構成吟「陣屋の森」の終曲として、この「陣屋の歌」が発表されるやたちまち大反響を呼び、その歌声はまたたく間に挾間町全域に拡がり、ついには町の盆踊りとして踊られるようにまでなった。
 平成二年、挾間町は「挾間陣屋」近くのゆかりの岡に「陣屋の村」を開設。そのめでたい祝賀行事の中で、町文化協会の大正琴部員八○名が、この歌の大合奏を行って「陣屋の村」の門出を祝福したものである。以来「陣屋の歌」は「陣屋の村」のテーマソングとして歌われ、その歴史的価値を一段と高める役割をも果たすことになった。
 「陣屋の村」は、現在では宿泊・研修施設の童里夢(ドリーム)館を核にして、温泉館・歴史民俗資料館・中門会館・芸術工房・野外ステージ・吊り橋等々が整備され、観光客・研修グループが引っ切り無しに来訪するという成況ぶりである。
 豊薩戦が終わって、四〇〇年の歳月が流れた。「陣屋の村」裏手の高長谷山(二三七メートル)に登って「狼煙場(のろしば)」近くに立つと、南西の方角に位置する峻険な権現岳は、大将軍山(だいじようごん)にさえぎられて見え難いが、北東には狼煙で合図を交わした高崎山(高崎城)、北西には由布・鶴見の高峰が手に取るように望見される。
 勇敢なる豊薩の戦士たちは、これら悠久のたたずまいを見せる有縁の山々を、いかなる感慨をもって見つめたことであろうか。


 
作詞作曲者・挾間奉安氏略歴

大正13年挾間町に生まれる。現在大分合同新聞通信部・挾間町詩道会副会長・尺八伴奏者・吟号幸霊・俳号花月・漢詩俳句の秀作が多い。
現住所 挾間町鬼瀬
TEL 097(583)1769

参考資料〔挾間の「陣屋」を推理する〕
  平成4年3月18日「第11版」
            二宮昭二
 

陣屋の村童里夢館
挾間町鬼瀬971
〒879-55
TEL0978583)3007