加藤正人(民謡研究家)

豊後万歳

前経(まえぎょう)

一々億々 千秋御万歳楽と誉め奉るは白髪の次郎 ごまんの太郎
春景がおめでたや 今年の春の年男が つるの葉をば口にくわえて
四周の山をば押し戴いて 誠にめでとう候いける 大乗法
法華経は文宇の数が 六万七千八百余文字の中にも
大般若経とうやまって申すなり

舞いことば

さてこそ目出度き平成六年正月二日の 御祝儀にママラの万歳 (万才)
アイタシコ アイタシコ ひびは痛うてもあかぎりゃ切れても
足腰ゃ痛うても 立ったらじわじわ舞わずばなるまい (万才万才ママラノ万才)
その舞常な舞にて候わず 昔後白河法皇のおん時 左京や彼京(あきょう)
宰相大臣 春日の社に集り給いて ヒュガドン ピイガシャンと御祈祷なさるや
朝日に舞鶴 ツルツル鶴こそ舞い立ち給えば (万才) 国家は安全
お家は御繁昌と これ又めでたや (万才万才) 浮世の宝をあらあら申さば、
一にはお命 二には福徳 三には幸い 四に又お家の御繁昌の宝をあらあら申さば
(万才) 祖先が宝よ 爺ちゃん宝よ 婆ちゃん宝よ ボンこそ宝よ 嬢こそ宝よ
中でも宝はカカこそいっちの宝よ (万才万才オママラノ万才)
百姓衆の宝を一々申さば鋤・鍬・もうがに田地田畑(でんちでんぱた)
牛こそ宝よ 馬こそ宝よ(万才万才)
 代田も大方できればナラシのつさ手がこれ又誰々 (万才) 恵比寿に毘沙門
弁天 福禄 大黒なんどが縦横つきならし (万才) 植え手にとりては誰々
上ん段の千が力力 下ん段の万が力力 (万才)
命の長いのが お鶴にお亀に お万にお千やお百なんどが 大きな出べその土手まで
まっくりからげて 山田も迫田も やれしょぼ やれしょぼ ちょぼちょぼ
ちょぼりと植えたる その田の稲では (万才)
中手に晩生(おくて)九重に農林 一目ぼれにこしひかり もち稲なんどが
近山の栗んごつ 奥山の椎んごつ ばっちりばちつと実りて御座れば これ又めでたい
(万才万才ママラノ万才)
何もかも実りの良いこと 一町で一万 二町で二万 一粒万倍取り上げなさるりゃ
(万才) 西に八つ八つ 東に八つ八つ八棟のお蔵をおん建て並ぶりゃ
大福長者と庶民に仰がれ 万人に祝われ 御家内の寿命の長さが 鶴とや千年
亀とや万年 先ずはこの家のお机いに
豊後初春寿万歳 誠におめでとう舞い納め候 (ママラノ万才)

注1、舞いことばは、スぺースの関係
で抜粋して掲載した。

2、はやしことばの「マンザイ」に
「万オ」を当てる。


 正月がやってくると、豊後万歳が村々を訪 れ、一軒一軒、おめでたい初春を寿いで回っ
た。大抵は、右手に日の丸の扇を持った太夫 格の”舞い手”と、締め太鼓を携えた才蔵役
の”囃し手”ての二人連れであった。
二人とも烏帽子(えぼし)を戴き、背に旭日と鶴・松 の模様をつけた舞衣(まいぎぬ)を
まとい、縦縞の袴をはいて、白足袋に下駄ばきの出立ちであった。
 門口に立って、「明けましておめでとうござ います。万歳のご祝いにあがりました」など
と挨拶をすませると、”囃し手”が締め太鼓を 軽快なリズムに乗せて打ち始める。すると、
”舞い手”もぱっと扇を広げ、軽やかに舞い 始める。舞いことばの要所要所に、”噺し手”
が威勢よく「マンザイ」と合の手を入れるか ら、浮き浮きする景気のいい万歳舞いとなる。
 舞い終ると、舞衣の袖の下に隠し持ってい た片手づかいの手獅子を取り出して、家の
人々の頭をかんでやる。獅子にかんでもらう と、無病息災は請け合いであった。
 万歳は、このように門口で舞う”戸口(とぐち)万歳” が普通であったが、特に希望があれば、その
家の広間に上がって”座敷万歳”を舞った。 この場合は、丁寧に前経から読み始め、舞い
ことばも臨機応変に追加して、めでたさの振 幅は一段と拡大されることになる。したがっ
て、御祝儀の方も数倍したことは言うまでも あるまい。
 豊後万歳は、全国的には余り名を知られて いない。しかし、豊後万歳が盛行した国東半
島の歴史に照らすと、六郷満山の仏法と無縁 ではなく、その発生も又、相当古い時代のこ
とになるだろう。こうした観点に立つと、我 らが豊後万歳は、河内・三河・大和などの著
名な万歳と肩を並べる程の、価値ある郷土芸 能として誇り得るのである。
 その貴重な豊後万歳が、全く行われなくな ったのは、大正時代の終りから昭和十年ごろ
にかけてのことであった。それでも、近年ま では、見様見まねで豊後万歳を身につけた芸
達者を、あちこちで見かけたものだが、今で は見る影も無くなってしまった。
 ところが、平成の新時代に入って、その豊 後万歳が思いもよらぬ玖珠郡の地で、再び舞
い姿を見られるようになったのである。
 平成元年、玖珠郡内の有志が、町おこしの 一環として、「豊後七福人会」を結成。翌二年
から正月二・三の両日、郡内各地を回って福 を呼び込む「七福神の宝船巡行」を実施する
ことになった。豊後万歳は、この巡行の中で 舞われるというのである。
 五年目を迎えた今年の正月二日。九重町の 第三番目の巡行地、筋湯温泉広場に出向いて
豊後万歳の舞い振りを見ることにした。
 しばらく待つうちに、酒樽・米俵・いちご・ 椎茸等の玖珠郡産品を山程積んだ宝船が、先
ず御入来。次に、大人・子供二十人の扮する 七福神たちがバスに乗って入場。続いて、潜
り抜けると運が開けるとされる。「至福の門」、 餅搗き道具一式、放送機材などが車で運び込
まれ、荷台に畳三枚を敷きつめたトラックが 最後に到着。これが他ならぬ豊後万歳の舞台
である。
 総勢四十数人が広場に集結すると、七福神 の面々は、いっせいに旅館街に出かけ、一軒
一軒福を呼び込んで回る。この間、広場では 分担ごとに諸準備が進められる。
 七福神が役目を呆たして広場に戻ってくる と、早速餅搗きの段となる。蒸しあがった餅
米を臼に移し入れ、入湯客も一緒になって、 ペッタン・ペッタンと搗く。
 それと前後して、いよいよお待ち兼ね、豊 後万歳の開波と柑成る。舞い扇をパッと打ち
間いて、”座敷万歳”さながらに、三畳狭しと 威勢よく舞い立てる。舞いことばは、めでた
尽しの文句を豊後方言まじりに、次から次へ と並べたて、おまけに有らぬ向に脱線した滑
稽なアドリブも飛び出すとあって、観客は終 始にこにこ顔、めでたく舞い納めると拍手喝
采が沸き起こる。
 餅搗きが終ると、餅を観客に振舞い、全員 でフィナーレの七福神音頭を踊って締めくく
る。その後休む暇もなく、諸道具を取りまと めて、次の巡行地に向かって出発した。
「豊後七福人会」では、町おこしの重要な 一翼を担う豊後万歳の後継者育成をはかって、
昨年二月に豊後万歳保存会を結成、国東町川 原の豊後万歳継承者・坂本達美さん(七八)
に、指導を受けてきたが、今後さらに勉強を 続け、素時らしい万歳に仕立て上げようと、
会員一同互いに励まし合っているところであ る。豊後万歳の降盛ぶりを、大いなる期待を
もって見守ることにしよう。
(豊後七福神会・会長岩下恒之・九重町松木、


94(H6)2月号