加藤正人(民謡研究家)

大分県行進曲

    作詩・庄武 憲太郎
    作曲・江口 夜詩

耶馬の流れの水清く
 久住の原の空高し
南蛮船の行き交いし
 波路はいずこ豊の海

昔大友宗麟が
 残せし文化花と咲き
世に六聖の名もしるく
 千代に輝く自尊の碑

みことかしこみ清麿の
 遺烈は香るいまもなお
神のみいづは照らすなり
 あおげしづめの宇佐の宮

つきぬ温泉(いでゆ)のささやきに
 あつきめぐみの栄(さかえ)あり
みのる田畑うるわしく
 日に間けゆく十二郡

空は晴れたり野に山に
 ああ百万のはらから
躍進の意気ほがらかに
 歌うわが里豊の国




 平成6年版大分県民手帳の巻頭に、〃大分のうた〃として真っ先に掲載されているのが、
ほかならぬ「大分県行進曲」である。歌入りのローカルマーチとしても名高いこの行進曲
は、昭和10年に〃豊州新報〃(大分合同新聞社の前身)が、創刊50周年を記念して歌
詞を公募、その一位入選作に曲を付けたものである。
 作詩者・庄武憲太郎(昭和20年歿)は、大田村出身。国語・漠文を専攻、旧制中学で
教鞭をとるかたわら作詩活動を続け、詠進歌・消防歌・校歌など数多くの秀作を残す。
 作曲者・江口夜詩(昭和53年歿)は、古賀政男とともに、歌謡界の双壁とうたわれた
作曲家。「急げ幌馬車」・「長崎のザボン売り」・「憧れのハワイ航路」など、多数の
ヒット曲を生んだ。
 「大分県行進曲」は、ふるさと大分の豊かな歴史・自然をうたいあげた歌詞が、ほれぼ
れする程の名調子であり、しかも軽快なリズムに乗って歌う節回しが、おおらかで親しみ
やすいこともあって、コロムビアレコードでデビューするや、たちまち県下に行進曲ブーム
が巻き起り、至る所で「耶馬の流れの水清く…」の歌声が盛んに聞かれるようになったの
である。l
 「大分県行進曲」が、県内にとどまらず広く全国的にまで有名になったのは、この行進
曲の素晴らしさに着目した日本体育ダンス研究会が、「希望の光」と題する踊りを振り付
け、これを学校ダンス教材として採用したときからである。幸運の波に乗った「大分県行
進曲」のリズムは、学校教育の場を介して、全国津々浦々に響き渡り、豊の国大分県の名
も又、一躍天下に轟かせることになった。
 昭和13年、筆者が小学校教師として教壇に立つようになった年である。そのころは
「大分県行進曲」の最盛期であり、学校のレコード棚にある各種レコードの中で最も早く
傷むのは、この行進曲であった。特に運動会シーズンともなれば、消耗は一段と激しさを
増し、新しく購入したレコードでもA面・B面ともども溝が磨り切れ、本番用として更に
もう一枚購入しなければならなかった程である。このような状況であったから、子供たち
の心を強くとらえ、子供たちの間で最も人気を博した歌は、言うまでもなく「大分県行進
曲」そのものであった。彼等は、この行進曲を歌い、踊り、行進するなかで、ふるさと
大分の美しさを知り、ふるさと大分を愛する心情をおのずと培ったのである。
 さすがの「大分県行進曲」も、戦後すっかり歌声をひそめていたが、昭和35年、大分
合同新聞社が創刊75年を記念して、郷土出身のバリトン歌手・立川清登の唄で再レコー
ディングして復活の日を迎え、再び興隆の一途をたどることとなった。
 近ごろ、「大分県行進曲」のレコードについての間い合わせが寄せられてくるが、おお
かたは小学生時代に、この行進曲で踊った等の経験を持つ人達からのものである。県下の
こうした高年者達の心の中には、今もなお「大分県行進曲」の生気が、いきいきと脈打っ
ているに違いあるまい。
 「大分県行進曲」は、半世紀の長い年月にわたって、郷土の歴史と自然を讃美し、県民
の大同団結をはかるテーマソングとしての、重要な役割を果たしてきた掛け替えの無い
〃大分のうた〃なのである。
 激動する平成の新時代。県土のあちこちで自然荒廃の姿が目につき、「みのる田畑うる
わしく…」も先行き不安に思われるこのごろである。今こそが、県民こぞって「大分県行
進曲」を声高らかに歌うときではあるまいか。

六聖=昭和10年のころは、福沢諭吉(中津)・三浦梅園(安岐)・帆足万里(日出)
広瀬淡窓(日田)・田能村竹田(竹田)・広瀬武夫(竹田)を六聖とした。

一二郡=昭和10年のころは、大分県の行政区域は、大分・別府・中津の
3市と12郡から成り、郡部が県土の大部分を占めていた。

百万のはらから=昭和10年の大分県人口は98万人であった。
 現在は124万人を数える。

レコードのA面は歌入りの行進曲、B面は歌なしの行進曲
となっている。