2001年03月29日
薬害エイズを考える集い〜和解から4年〜

オアシス・映像小ホール 18:30〜20:30
内容:薬害エイズを考えるシンポジウム
基調講演 鈴木利廣氏(東京HIV訴訟弁護団・事務局長)
「安部英・不当判決を斬る」
主催:エイズと人権を考える会、HIV薬害訴訟を支える会・大分(097-537-3344)


薬害エイズを考える集いに70名参加!

前日の安部英・無罪判決の内容を東京HIV薬害訴訟弁護団・事務局長の鈴木利廣弁護士が鋭く分析!
・ズサンな判決!
・論理のすり替え
・マスコミの論調に差がある
・裁判官のひとり上田哲裁判官は医師免許を有する
・9月判決の松村(厚生省ルート)も同じ裁判官!

被害者の怒り!「悔しくて眠れなかった」(草伏母)

「卑劣な判決、被害者不在の判決。なぜだ!もう一度力を貸してください。」
(九州原告・長島さん)

「これまでの成果を踏まえ、不当判決を跳ね返す第1歩を!」
(徳田弁護士)

判決直後の被害者のお母さんの談話
「あれは息子の判決ではない。ただの紙切れ」


3/29の集いに寄せられたメッセージ               
             東京HIV訴訟原告団 九州支部  瀬戸信一郎

 信頼していた医者が「もしかしたら重大な症状を引き起こすかもしれないな」「数十人の患者が既に感染しているから、この薬は相当やばいかもしれない」と思いながら、そのことを患者には一切説明せず、(あるいは「大丈夫。危険性は非常に少ない。思い過ごしです」と言いながら)、「相当やばい薬」を漫然と投与し続けた、その結果とんでもない病気に感染させられ、とんでもない症状に突き落とされたとしたら・・・・・あなたは、そんな医者を許せますか?
 
 「絶対やばい、非常にやばいということが医学的常識にならない限り、医者には責任があるとは言えません」「当初本人が方々で『これは相当やばいですよ』と力説し、それが公式文書でも論文でも周囲の証言でも明々白々であるにもかかわらず、当時の世界の・日本の専門家の意見は一致していたわけではないから、本人の責任は問えません」
 2001年3月28日、東京地裁の永井敏雄裁判長は、凄く単純化して言うと、このような判断を下したわけです。82〜83年当時、受け持ち患者がエイズを発症、死亡しており、安部被告本人が非常な危機感を募らせていたことを、裁判所はどう判断したのでしょう。

 自分の受け持ち患者を「日本のエイズ患者第一号だ」と力説していた事実は、いったい何だと言うのでしょうか。
 
 84年秋には帝京大患者だけで30人近い患者が既に感染している事実を知っていたことを、「非加熱血液製剤の投与が患者を高い確率でHIVに感染させるものであったという事実とは認められない」と言うのでしょうか?
これでは、「非常に高い確率で薬害が生じうると定説化しない限り、専門家でさえもそれを阻止する義務はない」ということになりかねません。
同じような薬害が生じかけたとき、それを阻止するために最善を尽くすのが専門家の務めではないのでしょうか。

 「他の血友病専門医も、その治療法をやめなかったのですから、安部被告がやめなかったとしても、それは仕方のないことです。罪は問えません。」
医師を信頼し、それゆえ悲惨な病状と死を味あわされた被害者と遺族。
医師としての反省も謝罪の気持ちさえ全く示さず、自分の責任回避のために「科学的には真っ赤な嘘」さえしゃあしゃあと言ってのけ、被害者の神経を逆なでするような発言を繰り返す被告。

 その被告には「刑事事件はなかった」と冷たく言い放つ裁判所。
生きるために、仲間を支えるためにこの数年間、必死になって働いてきた私たちは、怒りを通り越して、絶望的な無力感、脱力感に襲われました。


2001年3月28日東京地裁安部刑事事件判決を斬る
     
             東京HIV訴訟原告団 九州支部 瀬戸信一郎


(以下の文章は、医療関係の機関誌用に書かれた第一校をご本人の了解を頂いて掲載しています。)
はじめに
3月28日、九州支部に向かう車の中で判決を聞いた私は怒りを通り越して、絶望的な無力感・虚無感に襲われていました。重苦しい雰囲気に包まれた支部事務所でじっと判決に聞き入っていた事務局長は「今日は何もする気にならん!」と吐き捨てるように呟きました。その余波は今なお私たちの上に重い暗雲のように垂れ込めているような感じがします。いったいこの気持ちを誰にぶつけたらいいのか。私たちは内なる怒りを押し殺しながら、静かに反芻し始めています。

 どうしてこのような「判決理由」が出てきたのか、どうしても納得がいきません。一部朝日新聞などは「世論に流されずに冷静で客観的な判決と言える」と評価していますが、本当にそうなのか? 本当に偏りがなく公正な判決理由なのか? 私にはどうしてもそう思えません。では、どこに「絶対変だ!」と思えるような要素が潜んでいるのか?

 私は法律に関してはド素人ですし、医療問題についても無知な一患者にしか過ぎません。しかし「万人に与えられている(という)コモン・センス(常識的知性の光)」(ルネ・デカルト)があるとすれば、それに照らして「この判決理由のおかしさ、納得のし難さ」が多少は明らかになってくるかもしれない。そう考えて「ド素人」なりに分析していこうと思いました。皆さんも、私の危なっかしい歩みをハラハラ見つめながら、ぜひ、「3月28日判決のどこがおかしいのか」「なぜこんなに腹が立つのか」を、一緒に考えてみてください。

おかしな点その1:判決は本当に「両立しえたのか」「万全を期していたのか」を考えているのか?

 判決は「検討に当たっての基本的視点」で「本件当時、血友病につき非加熱製剤によって高い治療効果を上げることと、エイズの予防に万全を期すこととは、容易に両立し難い関係にあった。」と述べています。
 ここで裁判所は「血友病の高い治療効果と、エイズ予防に万全を期することは、至難の業だった」と簡単に判断しています。安部被告のような「血友病医療の最高権威」「第一人者」でならずとも、身内患者への治療をクリオ製剤に切り替えた地方の一般医も複数存在した事実を、どのように考えるのでしょうか。「例外的な瑣末な事実」としてしか見ないのでしょうか。簡単に「至難の業だった」と断じる以前に、「果たして両立し得るかどうか真剣に検討していたかどうか」を問うことこそ、科学的な態度と言うべきでしょう。また、「万全を期す」というのは一般的には「確かな証拠はまだないけれども、万が一感染などした場合、重大な結果を引き起こさないとも限らないので、念のため(万全を期して)クリオなど危険性の少ない薬剤に切り替えよう」といった対応であろうと思われます。ところが裁判官達は、以下明らかになるように、そうした「万全を期したかどうか」など始めから検討しようともしていません。「全国の血友病専門医に、抗体陽性に関する第一・第三の意味について、一義的で明確な認識が浸透していたかどうか」「普通の血友病専門医だったら絶対やらないような、しかも危険性の大きい医療行為をしたのかどうか」しか考えようとはしていないのです。実際には考えも検討もしていない「万全を期すこと」をここで引き出し、「血友病治療と感染予防は両立しなかった」と簡単に断じる材料に使うなど、笑止千万といわざるを得ません。

おかしな点その2:本当にミクロな視点があるのか?

 同じく「基本的な視点」で、判決は、「未曾有の疾病に直面した人類が最先端技術を駆使しながら地球規模でこれに対処すると言う大きなプロセスの一断面を扱うものである。したがって、その検討にあたっては、全体を見渡すマクロ的な視点が不可欠であるが、それと同時に、時と所が指定されている一つの局面を細密に検討するミクロ的な視点が併せて要請される。この問題については、数多くの資料が存在するが、事実認定に当たっては、当時公表されていた論文など角度の高い客観的な資料を重視すべきである。事後になされた供述等については、その信用性を慎重に吟味する必要がある。」と述べています。

「果たして時と所が指定されている一つの局面を細密に検討しているのか」「そうした意味でのミクロ的な視点が本当にあるのだろうか」。それが私達の突きつけたい基本的疑問です。

 彼らが「予見可能性について」以下で重視し詳細に?検討するのは、「確度の高い原資料というべきもの」「事件当時に公表されるなどして客観的な存在となっていた資料」です。「一見して人目を引く点はあるが、事象の正確な把握という観点からは、むしろ紛れを生じさせかねないエピソード」「正確性について留意を要する二次的・三次的な派生資料」「潤色していないとも限らない当時を回顧して事後的になされた論述等」は軽視されます。
 たとえ被告本人の当時の言動(当時の公的な場における発言・記録)であっても、「予見性認識を測る確度の高い原資料」とは言えないと裁判官たちは考えているようです。例えば、83年6月の厚生省エイズ研究班第1回会合の席上で安部被告は「(非加熱製剤を)毒が入っていると思いながら打っている」と発言しました。それを裏付けるように7月には受け持った帝京大患者が死亡しました。しかし、被告は同年8月の血友病患者団体拡大理事会で「3000人に注射しても一人発症するにすぎない。輸入を止めたりするのは思い過ごしではないか」などと発言しています。これらの発言は大いに矛盾しているので、安部被告の公式の場での発言であっても信憑性に欠ける「事実の正確な把握という観点からはむしろ紛れを生じさせるエピソード」だと言うのでしょうか。だから安部被告の予見性を測る物差しとしては使えない、と言いたいのでしょうか。

 そうした彼らが「確度の高い原資料」と言うのは「エイズ発症は後年HIVと同定されるウイルスのみならず発症のためには別のファクターが存在するという説が有力だった」とか「抗体陽性の意味についてもまだ定説と言えるようなものは確立されていなかった」といった「確立された定説の不存在」を証明する当時の科学的論文です。ウイルス学界・臨床医学界において「科学的定説」が確立するまで、「感染・発症に関する予見性」は確立されず、患者の命を救うために「万全の方策」を払わなくても責任は問えないと言わんばかりです。

 「時と所が指定されている一つの局面を細密に検討するミクロ的な視点」と言うのであれば、当時日本の血友病治療の最高権威と目されていた人物の周辺、および帝京大学病院の内外で、被告を含めた当事者達がどのような認識をしていたと考えられるかをまず「客観的」に推測、検討すべきでしょう。もし彼らの危機意識がどんどん薄れて行ったと言うのなら、当初の剥き出しの危機意識がなぜ希薄化していったのかを、また被告周辺人物の当時の公的言動に危機意識が感じられないと思われるのであれば、「ゆえに危機感を表明したその後の供述は信用できない」と簡単に断じるのではなく、「危機意識が希薄に思われる当時の言動の背景に医療界特有の権威的圧力がなかったのかどうか」を考究することこそ、「時と所が指定されている一つの局面を細密に検討するミクロ的な視点」と言うべきではないでしょうか。

 また、3月30日付毎日新聞 「記者の目 薬害エイズ事件裁判:欠落した被害者の視点」(東京本社版)で山科武司記者が喝破したように、この裁判で本当に「ミクロ的な視点」で吟味されなければならなかったのは、(当時のウイルス学界・臨床医学界の論争がどうだったかなどといったことではなく)「(半年間も通院しないほど軽症だった)血友病患者の手首の内出血治療に《(帝京大学患者48人中23人を既に感染させていた)HIV感染の恐れのあるエイズウイルス入りの非加熱製剤》と《感染の危険性はないクリオ》の、どちらを投与するのが妥当だったのか」ではなかったでしょうか(判決では全く吟味された形跡がありません)。

おかしな点その3:感染・発症の予見性は低かった?

 判決はこう述べています。「ギャロ博士、モンタニエ博士を含む世界の研究者がその頃公にしていた見解等に照らせば、本件当時(1985年5?7月)、HIVの性質やその抗体陽性の意味については、なお不明な点が多々存在していたものであって、検察官が主張するほど明確な認識が浸透していたとは言えない。帝京大学病院には、ギャロ博士の抗体検査結果やエイズが疑われる2症例など同病院に固有の情報が存在していたが、これらを考慮しても、本件当時、被告において、抗体陽性者の「多く」がエイズを発症すると予見し得たとは認められないし、非加熱製剤の投与が患者を「高い」確率でHIVに感染させるものであったという事実も認めがたい。検察官の主張に沿う証拠は、本件当時から十数年を経過した後に得られた供述が多いが、本件当時における供述者自身の発言や記述と対比すると看過し難い矛盾があり、あるいは供述者自身に対する責任追及を緩和するため検察官に迎合したのではないかとの疑いを払拭しがたいなどの問題があり、信用性に欠ける点がある。」

 前項と重複する部分もありますが、少々唖然とする判断なので取り上げます。まず、被告および被告周辺の、当時およびその後の言動・証言や論文などの記録を明かに軽視していることです。事件や事故を検討する場合、「現場主義」と言うのでしょうか、「事件や事故に直接関係ある証拠」の内容吟味を第一に考えることが、裁判の基本中の基本ではないでしょうか。それをなおざりにしたまま、「当時の大状況」ばかりを詳しく吟味するのは、本末転倒だと思われます。
 第2に、「当時の大状況」吟味にしても、かなり偏った視点からなされていることです。
 なお流動的な部分があったにせよ、「だから予見性は低かった」と断じるのは早計ではないでしょうか(彼らが重視するギャロ博士,モンタニエ博士に聞いてみたいものです)。「予見性が低かった」という判断を導くために、都合のいい証拠を集めていると見られても仕方ありません。

おかしな点その4:「血友病治療の最高権威」を「通常の血友病専門医」のレベルで裁いている

 判決はこう言います。「本件においては、非加熱製剤を投与することによる『治療上の効能、効果』と予見することが可能であった「エイズの危険性」との比較衡量、さらには「非加熱製剤の投与」という医療行為と「クリオ製剤による治療等」という他の選択肢との比較衡量が問題となる。刑事責任を問われるのは、通常の血友病専門医が被告の立場に置かれれば、おおよそそのような判断はしないはずであるのに、利益に比して危険の大きい医療行為を選択してしまったような場合であると考えられる。」

 安部被告は、自分がその気になりさえすれば、危険な非加熱製剤の使用をやめさせ、HIV感染を防止し得る立場にいました。厚生省のクリオへの危機回避発言を左右し全国の血友病専門医の基本的方針をリードするぐらいの力は十分に持っていたのです。エイズの感染・発症に関する情報も、当時としては日本の最先端を行っていた(だからこそ、帝京大学症例を「これこそ日本のエイズ患者第一号だ」と強力に主張し得たのではないでしょうか)。「時と所を指定する一つの局面」に限って考えてみても、少なくとも帝京大学病院第一内科においては部下のクリオ転換の進言を潰すことは出来たわけですから、被害者事例との関係においては「特別の地位と権力を有していた」と考えるべきでしょう。ところが裁判官達は、そうした安部被告の「特別の地位と力」を全く顧慮せず、「通常の血友病専門医」のレベルで判断した。これでは「最初から被告(医師)に甘いレベルを設定した」と言われても仕方ありません。ここでも「ちっともミクロでない大甘の判断」という鎧が透けて見えています。

おかしな点その5:クリオ製剤は血友病治療に少なからぬ支障をきたした?

 判決の判断はこうです。「非加熱製剤は、クリオ製剤と比較すると、止血効果に優れ、副作用が少なく、自己注射療法に適する等の長所があり、同療法の普及と相俟って、血友病患者の出血の後遺症を防止し、その生活を飛躍的に向上させるものと評価されていた。これに対し、非加熱製剤に代えてクリオ製剤を用いるときなどには、血友病治療に少なからぬ支障を生ずる等の問題があった。」

 濃縮製剤が登場するまでクリオ製剤で生活していた患者の立場から言わせてもらえば、これまた「笑止千万」です。濃縮製剤のメリットは「少量の輸注で同程度の効果を生む」「自己注射・家庭療法を可能にする」といった「便利さ=利便性」に過ぎません。「副作用が少ない」というのも、「大量に使用した場合比較してみると」といった程度です。つまりこの判断は「どんどん予防投与して積極的に運動も行おう」という、当時提唱されていた「大量投与、積極的社会生活」を前提にした議論なのです(ちなみに1979年帝京大学病院に入院した私は、ちょっとした出血にも1000単位、2000単位打つ、しかも添付文書無視の凄いスピードで注入されるやり方にびっくりしました。高い薬ですから、病院の収入を増やすといった背景もあったのかもしれません)。クリオに転換するのであれば対応は可能だと日赤は言っていましたら、「量的不足の可能性」も十分クリアできたはずです。欠けていたのは「致死的かもしれない混入物への危機意識」「患者の生命維持に万全を期そうとする専門家としての意志」だけでした。そのあたりを裁判官たちは、本当に詳細に・科学的に考えたのでしょうか?

おかしな点その6:薬害再発防止的な視点と意欲が決定的に欠けている

 判決は最後の部分でもっともらしいことを言います。「未曾有の疾病に直面した場合の対処方策等について、収集の示唆的な事情が現れている。この間の事実経過を正確に跡付けた上で、様々な角度から検証を加えて行くことは、今後の医療のあり方等を考える上でも意義があるものと言えよう。」

 このように、最後にとってつけたように「一応言及」はしていますが、全く評論家的な他人事」「きれいごと論」に終わり、肝心要の判決理由吟味の中では、「薬害再発防止に役立つような吟味をしよう」という姿勢のかけらもありません。要するに彼らの言っていることは、たとえ社会的利害関係に左右されて何もしなくても・致命的な誤りを犯しても、「学問上定説が構築されるまで」は、法的責任は問われない、ということです。まるで「患者や国民の生命・健康維持のために万全を期す」という基本に立った「薬害防止」「公害病防止」を怠っても構わない、と言わんばかりです。

 医療、特に未知の疾患や現象に立ち向かう場合の医療は、不充分あるいは不確実な医療情報の中で判断と選択を迷うのが当然です。その場合、患者の生命を左右しかねない情報内容を患者と十分共有した上で、共に考え、共に選択した結果であれば、刑事責任が問われることはないでしょう。
しかし本件の場合、それを患者側に隠し(あるいは歪曲し)治療方針選択の余地をなくしたこと、感染に関する人体実験的な気配さえ感じられること、その結果悲惨な病状と死という重大な結果を招いたことを問わないわけにはいきません(そのような結果を招くかもしれないという認識は十分成立していたと思われます)。その上、(当初は危機意識を剥き出しにし、また複数の取材に対しても比較的率直な証言をしていたにもかかわらず)一転して手のひらを返したような発言、それも「反省と謝罪」の欠片すらない、被害者の心情を逆なでするような「開き直り発言・態度」に終始しているわけです。それでも刑事責任は問えないと言う「冷静で客観的な」裁判官達!。

 もし安部被告が、率直に当時を振り返り、真摯な態度で「反省と謝罪」を示していれば、刑事責任を追及する声もこれほど高まりはしなかったでしょう。そうした「世論の発生原因」を顧みることなく,「世論に左右されない冷静で客観的な判断」に心がけているのですから、「被害者側の立場・心情への配慮が決定的に欠けている」と指弾されても仕方ありません.

付録:「個人的刑事責任を追及することで、かえって真相究明・薬害再発防止への道が閉ざされるのではないか」という意見についての私見

 「個人の刑事責任追及を恐れる余り、当時の関係者の協力が得られず、真相究明や薬害再発防止への取り組みがかえって阻害されるのではないか。むしろ、個人的刑事責任を免責するくらいのつもりで積極的協力を仰いだほうが、過去の率直な分析評価と未来への積極的改善策につながるのではないか」という意見があります。例えば航空機事故が生じた場合、パイロットや管制官の刑事責任を棚上げにして、そのかわり真相究明や事故再発防止のための提言作りに積極的に協力させるといったものです。特定の個人をスケープゴートにして、同じような立場にいた人々が頬かむりする傾向もありますから、特定の誰かにのみ責任を負わすということは不合理にも思えます。
しかし現時点において(重大な結果を招く事件や事故が生じた場合)その専門家としての社会的責任を追及する手段は、他にないのが実情です。「免責と引き換えに真相究明・再発防止に全面的協力する」ための法律的・制度的システムはありません。被害者側としては、「それができるまで我慢して待っておけ」と言われても、とても待ってはいられません。複数の航空機事故では、被害者に対する企業側の神経逆撫で対応・懐柔工作・分断工作が行われました。被害者をサポートする社会的システム作りもようやく議論され始めたばかり。そうした現実の中では「お説ごもっともながら、総論的綺麗ごとにとどまる意見」には容易には同調出来ません。
コップの中の嵐で大騒ぎの国会議員の先生方が、公害病や薬害被害者など当事者の生の声を十分聴取し、ガラス張りの議論の中で、真相究明・再発防止に具体的につながるような実効的システム作りにまい進して下さる日を、首を長くして待つばかりです。

 以上、自分のなまくら刀も顧みず、不充分な考えを開陳しました。述べ足りない部分、勇み足的な部分など色々あるでしょう。私の不充分な素人考察を一つの手がかりにして、議論を深めていっていただければと考えます。なお、以上は飽くまで個人的意見であり、原告団を代表する見解などではありません。その点はご了承下さい。
その後,皆さんもご存知の通り,検察は東京高裁に控訴しました。私たちはこれから始まる高裁の法廷において,安部被告の刑事責任の審理はもちろんのこと,一審判決の内容が、それこそ公正かつ客観的に「裁かれる」ことを期待しています。

 とまれ、私達もいつまでも脱力感・無力感に浸っているわけにはいきません。安部裁判をめぐり再度燃え上がった国民・マスコミ・関係者の皆様の反応に励まされながら、私達もしっかりとこの判決の意味するものを考えていきたいと思っています。日頃からの皆様のご支援に感謝しつつ、拙い筆を置きます。