2001年3月28日
安部英 帝京大学元副学長に
無罪判決

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2001年3月28日東京地裁安部刑事事件判決文(抜粋)

宣告日時 平成13年3月28日午前10時
裁判所  東京地方裁判所刑事第10部
       裁判長裁判官 永井敏雄
          裁判官 上田 哲
          裁判官 中川正隆

事件名   業務上過失致死被告事件
被告人   安部 英

目次
主文
理由の骨子
理由の要旨
     第1 検討に当たっての基本的な視点
     第2 業務上過失致死罪の前提となる被告人の立場
     第3 本件被害者のエイズ発症・死亡原因
     第4 エイズ研究班当時までの事実関係の概要
      4.1  エイズの発生等
      4.2  エイズ研究班
     第5 エイズ研究班以後の
            結果予見可能性に関する事実関係
      5.1  米国におけるエイズ発症者及び死亡者の増加
      5.2  エイズ原因ウイルス研究の進展
      5.3  「HIV抗体陽性の意味」等
      5.4  T4/T8比低下の意味付け
      5.5  HIVの感染の可能性
      5.6  HIV感染症の治療の見通し
      5.7  本件における結果予見可能性のまとめ
     第6 結果回避可能性及び
             結果回避義務に関する事実関係
      6.1  医療行為の評価に関する基本的な考え方
      6.2  血友病の関節内出血
      6.3  補充療法の評価
      6.4  諸外国における血友病治療方針
6.5 本件当時の我が国の
         血友病治療の実態とその理由
      6.6  AIDS調査検討委員会
      6.7  我が国における国内血の原料不足問題
     第7 被告人の本件刑事責任
      7.1 本件における過失の判断基準
      7.2 松田医師のいわゆる「進言」について
      7.3 木下医師のいわゆる「進言」について
      7.4 他の医療施設における治療方針との関係
      7.5 「被告人による医療水準の形成」論について
      7.6 刑事責任の存否
     第8 結語
(主文)
 被告人は無罪。

(理由の骨子)
1 検討に当たっての基本的視点
 本件は,血友病患者である被害者が大学病院で非加熱濃縮血液凝固因子製剤(非加熱製剤)の投与を受けたところ,同製剤がエイズ原因ウイルス(HIV)に汚染されていたため,やがてエイズを発症して死亡したとして,同病院で科長等の立場にあった被告人が業務上過失致死罪に問われている事案である。本件当時,血友病につき非加熱製剤によって高い治療効果をあげることと,エイズの予防に万全を期すこととは,容易に両立し難い関係にあった。当時公表されていた論文など確度の高い客観的な資料を重視すべきである。事後になされた供述等については,その信用性を慎重に吟味する必要がある。

2 予見可能性について
 本件当時,HIVの性質やその抗体陽性の意味については,なお不明の点が多々存在していたものであって,帝京大学病院には,ギャロ博士の抗体検査結果やエイズが疑われる2症例など同病院に固有の情報が存在したが,これらを考慮しても,本件当時,被告人において,抗体陽性者の「多く」がエイズを発症すると予見し得たとは認められないし,非加熱製剤の投与が患者を「高い」確率でHIVに感染させるものであったという事実も認め難い。被告人には,エイズによる血友病患者の死亡という結果発生の予見可能性はあったが,その程度は低いものであった。このような予見可能性の程度を前提として,被告人に結果回避義務違反があったと評価されるか否かが,本件の帰趨を決することになる。

3 結果回避義務違反について
 医療行為は,一定の危険を伴うが,治療上の効能,効果が優るときは,適切と評価される。本件においては,非加熱製剤を投与することによる「治療上の効能,効果」と予見することが可能であった「エイズの危険性」との比較衡量,さらには「非加熱製剤の投与」という医療行為と「クリオ製剤による治療等」という他の選択肢との比較衡量が問題となる。刑事責任を問われるのは,通常の血友病専門医が被告人の立場に置かれれば,およそそのような判断はしないはずであるのに,利益に比して危険の大きい医療行為を選択してしまったような場合であると考えられる。他方,利益衡量が微妙であっていずれの選択も誤りとはいえないというケースが存在することも,否定できない。
 非加熱製剤は,クリオ製剤と比較すると,止血効果に優れ,副作用が少なく,後遺症を防止し,その生活を飛躍的に向上させるものと評価されていた。これに対し,クリオ製剤を用いるときなどには,血友病の治療に少なからぬ支障を生ずる等の問題があった。このため,本件当時,我が国の大多数の血友病専門医は,各種の事情を比較衡量した結果として,血友病患者の通常の出血に対し非加熱製剤を投与していた。この治療方針は,帝京大学病院に固有の情報が広く知られるようになった後も,加熱製剤の承認供給に至るまで,基本的に変わることがなかった。こうした当時の実情に照らせば,被告人が非加熱製剤の投与を原則的に中止しなかったことに結果回避義務違反があったと評価することはできない。

4 被告人の刑事責任について
 血友病治療の過程において,被害者がエイズに罹患して死亡するに至ったという本件の結果は,誠に悲惨で重大である。しかし,開かれた構成要件をもつともいわれる業務上過失致死罪についても,犯罪の成立範囲を画する外延はおのずから存在する。生じた結果が悲惨で重大であることや,被告人に特徴的な言動があることなどから,処罰の要請を考慮するのあまり,この外延を便宜的に動かすようなことがあってはならない。関係各証拠に基づき具体的に検討した結果によれば,被告人に過失があったとはいえない。
(理由の要旨)
第1 検討に当たっての基本的な視点
 非加熱製剤は,従前の血液製剤に比べて高い評価を受けていた。他方,エイズは,後天的に免疫不全症状を呈する予後の極めて悪い疾病である。血液などの体液を介して伝播する性質があり,このため非加熱製剤の投与を受ける血友病患者は,エイズの危険にさらされている旨が指摘されていた。こうした事情から,容易に両立し難い関係にあった。すなわち,非加熱製剤を使用すれば高い治療効果は得られるが,それにはエイズの危険が伴うことになり,また同製剤の使用を中止すればエイズの危険は避けられるが,血友病の治療には支障を来すという困難な問題が生じていた。このため血友病治療医らがエイズへの対処法を模索しているという状況にあった。
 さらに,エイズと血液製剤の関係は,世界各国で長期間にわたって広く関心を集めてきた難問であり,それだけに数多くの資料が存在する。
 本件において直接問題となるのは,昭和59年ないし昭和60年当時における被告人の行為であるが,時の経過による記憶の減退や変容という問題を避けて通ることは難しい状況にある。現に,記憶が完全に欠落しているというような例もみられたところである。関係者の供述内容を吟味するに当たっては,このような時の経過に伴って生ずる問題にも十分留意する必要がある。

第2 業務上過失致死罪の前提となる被告人の立場
  この点については,第一内科長の地位にあったことや血液研究室の責任者という地位にあったことが,それだけで直ちに業務上過失致死罪との関係における被告人の行為の評価を決するまでの事情といえるか否かは,必ずしも明らかではない。また,被告人の行為と実際の治療行為との間に他の医師が介在していたことは事実である。しかしながら,関係各証拠によれば,被告人は,第一内科長かつ血液研究室の責任者という指導的地位に就いていたことに加え,血友病の治療について抜きんでた学識経験と実績を有すると目されていたことから,これらに由来する権威に基づき,自ら第一内科における血友病に係る基本的治療方針を決定していたものであり,本件当時,同内科において非加熱製剤が投与されていたのは,被告人の意向によるものであったことが明らかである。このような血友病診療の実態に照らせば,本件当時,同内科において血友病患者の出血に対し非加熱製剤が投与されていたことについて,被告人の過失行為の有無を問題とすることは,法律上十分可能というべきである。弁護人は,本件被害者に対する非加熱製剤の投与については,被告人の行為は法律上関連がなく,被告人の過失責任を問題とする前提が欠けているかのように主張するが,この主張は,被告人が第一内科において決定的な影響力を行使して非加熱製剤を投与する体制を構築し,かつそのような体制を維持していた事実を無視し,非加熱製剤の投与に関する被告人の役割をことさらに過小評価するものであって,事の実態から乖離しているものといわざるを得ない。

第3 本件被害者のエイズ発症・死亡原因
 関係証拠によれば,本件被害者がHIVに感染した時期は,昭和60年5月10日ころから同年7月8日ころまでの間であったと推認される。被害者は,本件投与行為によりHIVに感染したものと推認するのが相当である。また,関係証拠によれば,本件被害者は,HIV感染に起因する悪性リンパ腫により,平成3年12月に死亡したものと認められる。

第4 エイズ研究班当時までの事実関係の概要
4.1 エイズの発生等
 エイズは,昭和57年に米国で定義がなされた疾患概念であるが,昭和58年半ばころには,西欧諸国等においても数十名程度のエイズ発生が報じられるに至っていた。そして,エイズ患者の予後については,その死亡率が極めて高いことが当初から広く知られていた。

4.2 エイズ研究班
 厚生省薬務局生物製剤課の郡司篤晃課長は,昭和57年暮れころから,米国で血友病患者からエイズ発症者が出たとの情報に接するなどして,我が国の血友病患者にもエイズが伝播する危険性があるとの危機感を抱き,エイズ研究班を設置することとし,被告人がその主任研究者(班長)に選ばれた。
 エイズ研究班においては,エイズに該当するか否かの検討が行われた。ここでは,昭和58年7月5日に帝京大学病院第一内科において死亡した血友病B患者の症例(帝京大1号症例)が検討の対象となり,被告人は同症例がエイズであると強く主張したが,他の班員の反対によって,エイズと認定することは見送られた。
 また,血液凝固因子製剤に関するエイズ対策として国内自給体制が議論され,班員からは,第[因子製剤を自国で賄うことを現実的な目標にするのであれば,クリオ製剤を併用すべきである,患者の便利もある程度犠牲にすべきではないかなどといった意見も出されたが,被告人は,非加熱製剤の治療効果や自己注射療法における利点などを強調してこれに反対し,血液製剤対策の検討のため,風間睦美帝京大学教授を委員長とする血液製剤小委員会が設置されることになった。
 血液製剤小委員会においては,加熱製剤については治験を行うべきであるとされ,クリオ製剤については,成人の関節内出血等のほとんどの出血については,「クリオでは確実な治療が不可能なもの」とされた。

第5 エイズ研究班以後の結果予見可能性に関する事実関係
5.1 米国におけるエイズ発症者及び死亡者の増加
 エイズ研究班が終了した後も,米国におけるエイズ患者は増加を続け,昭和59年11月26日現在,サーベイランス定義に合致するとして報告されたエイズ患者数は6993名に達し,そのうち3342名が既に死亡したとされ,血友病患者のエイズ発症例についても,同年10月14日現在で合計52例となり,そのうち30名が既に死亡したとされるに至っていた。

5.3.1 問題の所在
 本件における被告人の結果予見可能性に関する最大の争点は,被告人がギャロ博士に依頼して昭和59年9月ころに入手した帝京大学病院血友病患者48名のHIV(HTLV−V)抗体検査の結果,約半数の23名が陽性であったという,関係各証拠により明らかに認められる事実の意味付けをめぐるものである。 この「抗体陽性の意味」をめぐっては,当事者双方の主張の対立自体が,かなり複雑難解なものとなっている。

5.3.9 被告人の認識
 被告人が発表していた著書や論文類の記載等に照らすと,本件投与行為ころまでに,被告人が,HIV抗体陽性者はウイルスに感染している者であるという基本的認識を抱いていたことは認められる。しかし,被告人自身による著書等の記載によれば,被告人の認識も,こうしたHIVの特殊な性質を本件当時においては認識していなかったものとみるのが自然である。
 帝京大1号症例は,昭和58年度のエイズ研究班において,班長であった被告人の強い主張にもかかわらず,エイズ認定がされなかった。被告人は,帝京大1号・2号症例について,これらがエイズであると考えていたものと認められるが,そもそも,ある医師が一定の考えを得たからといって,それが医学界一般に受け入れられる前に,あるいは医学界の反応がむしろ否定的である間に,自らはその考えに基づいて行動すべきであるとし,結果予見可能性の前提事実として考慮すべきか否かは,一つの問題である。帝京大1号・2号症例は,結局,本件第一投与行為の後である昭和60年5月30日のAIDS調査検討委員会に至って,正式にエイズと認定されたものであるが,そこに至るまでに紆余曲折があったことには留意する必要があるというべきである。
 
5.5 HIVの感染の可能性
 関係証拠により認められる現在の知見によれば,我が国の血友病患者におけるHIV感染のピークは昭和57年ないし昭和58年であったと認められ,帝京大学病院における抗体検査結果データに照らしても,本件当時(すなわち昭和59年11月末ころから昭和60年5月12日まで)の非加熱製剤によるHIV感染の客観的な危険性は,正確に認定することは不可能であるものの,単回感染率はもとより検察官が主張する全期間を通じた累積感染率においても,高いものであったとは認め難い。したがって,本件公訴事実中の「被告人が,非加熱製剤の投与をなお継続すれば,HIV未感染の血友病患者をして高い確率でHIVに感染させることを予見し得た」という部分は,その前提となる「高い確率でHIVに感染する」という客観的事実自体が認め難いといわざるを得ない。

5.6 HIV感染症の治療の見通し
 被告人らが本件当時ころに発表していた論文等の記載からは,近い将来,HIVに対するワクチンが開発されることに大きな期待を持っていたことなどが認められる。このような見通しは楽観的に過ぎたものであったことが明らかであるし,楽観的な見通しに安易に頼ってHIV感染の危険を軽視することが正当化されるものではなかった。しかし,当時の実態としては,今後はその研究が急速に進歩するだろうという期待を多くの臨床医に抱かせるものであったことも事実であった。

5.7 本件における結果予見可能性のまとめ
 以上のとおり,本件における被告人の結果予見可能性については,本件公訴事実をそのまま認めることはできない。すなわち,非加熱製剤の投与によって,血友病患者をHIVに感染させる危険性は予見し得たといえるが,それが「高い確率」であったとは客観的に認め難いし,HIV感染者について「その多く」がエイズを発症するということは,現在の知見においてはそのように認められようが,本件当時においてそのような結果を予見することが可能であったとは認められない。
 しかし,他方において,こうした「高い」,「多く」といったことを別にすれば,本件当時においても,外国由来の非加熱製剤の投与によって,血友病患者を「HIVに感染させた上,エイズを発症させてこれを死亡させ得る」ことは予見し得たといえるし,被告人自身が,現実にそのような危険性の認識は有していたものと認められる。換言すれば,本件において,被告人は,結果発生の危険がないと判断したわけではなく,結果発生の危険はあるが,その可能性は低いと判断したものと認められる。

第6 結果回避可能性及び結果回避義務に関する事実関係
6.1 医療行為の評価に関する基本的な考え方
 医薬品は,人体にとって本来異物であり,治療上の効能,効果とともに何らかの有害な副作用の生ずることを避け難いものであるが,治療上の効能,効果と副作用の両者を考慮した上で,その有用性が肯定される場合にはその使用が認められる。したがって,こうした医薬品を処方する医療行為についても,一般的に医薬品の副作用などの危険性が伴うことは当然であるが,その点を考慮してもなお,治療上の効能,効果が優ると認められるときは,適切な医療行為として成り立ち得ると考えられる。このような場合,仮に当該医療行為によって悪しき結果が発生し,かつ,その結果が発生することの予見可能性自体は肯定されるとしても,直ちに刑法上の過失責任が課せられるものではない。外国由来の非加熱製剤を投与することに伴う「治療上の効能,効果」と「エイズの危険性」との比較衡量が問題となる。それぞれの治療方針のプラス面とマイナス面を考慮し,各医療行為を比較衡量して判断する必要があるものということができる。そして,こうした医療行為の選択の判断を評価するに当たっては,通常の医師であれば誰もがこう考えるであろうという判断を違えた場合などには,その誤りが法律上も指弾されることになるであろうが,利益衡量が微妙であっていずれの選択も誤りとはいえないというケースが存在すること(医療行為の裁量性)も,また否定できないと考えられる。

6.2 血友病の関節内出血
 関節内出血は,直接に生命の危険にかかわる症状ではないものの,ついには肢体不自由者となるという,重大な後遺症をもたらす症状である。
 したがって,本件当時において,関節内出血を起こして病院を受診した本件被害者に対する医師の現実的な選択肢として,補充療法を行わないという治療方針を考慮すべきであったとは認め難い。

6.3 補充療法の評価
 本件当時,補充療法が当然の方針となっており,クリオ製剤から非加熱第[因子製剤に移行し,推進されつつあるという状況にあった。そのような状況において,血液製剤によるエイズ伝播の問題が起こってきたのであり,本件当時の血友病治療医は,この問題を契機として,その治療方針を変更すべきかどうかの判断を迫られることになったものと考えられる。
 治療的観点から濃縮製剤をクリオ製剤と比較した場合の長所としては,治療効果が優れていること,アレルギー反応がほとんど見られなくなったこと,生命にかかわる副作用であるアナフィラキシーショックの危険性もほとんどなくなったこと等があった。
 また,濃縮製剤とクリオ製剤とでは,投与のしやすさや,保存・保管・持ち運びの容易さなどの面でも,大きな差があった。 クリオ製剤の致命的な短所は,自己注射療法に不向きなことであると認識されていた。濃縮製剤による自己注射療法が,血友病専門医に共通のものであった。
 これに対し,非加熱製剤をクリオ製剤と比較した場合に,感染の危険性が高いことは,エイズが問題となる以前の時代から指摘されていた欠点であった。非加熱製剤が開発されてからは,感染症のリスクの程度が高くはなるが,その点を考慮してもなお,止血管理の容易さや後遺症の防止の点で優り,自己注射療法も容易になる非加熱製剤による治療が遙かに優れていると判断してこれに切り替えたものであった。

6.4 諸外国における血友病治療方針
6.4.1 米国
 NHF医学諮問委員会は,昭和59年10月,エイズと血友病治療に関する勧告を行った。血友病治療医に対する勧告には,新生児,4歳以下の幼児及び過去に非加熱製剤を投与されたことのない血友病A患者等の治療について,クリオ製剤の使用を勧告し,濃縮製剤を扱う者は,エイズに対する防御効果は未だ証明されていないという理解の下で,加熱製剤に変えることを是非とも考慮すべきであると勧告するなどの内容が含まれていたが,他方では,治療を控えることによる危険の方が,治療に伴う危険よりも遥かに勝っているから,出血した際には,担当医師の処方に従い,凝固因子による治療を継続すべきであるともされていた。

6.5 本件当時の我が国の血友病治療の実態とその理由
 感染の危険を重視する等の理由から,外国由来の非加熱製剤を使用しないという治療方針を維持していた医師も存在した。しかし,多数の血友病患者が通院していた医療施設である,東京医科大学病院,荻窪病院,聖マリアンナ医科大学病院,神奈川県立こども医療センター,静岡県立こども病院,名古屋大学医学部付属病院及びその関連病院,奈良県立医科大学病院等においては,いずれも加熱第[因子製剤が供給されるようになるまで,その原料血漿が外国由来であるか否かにかかわらず,非加熱第[因子製剤の投与が継続されていた。

6.6 AIDS調査検討委員会
 AIDS調査検討委員会は,昭和60年8月に加熱第[因子製剤が供給されるまで,非加熱第[因子製剤の使用中止などが討議されることはなかったし,また,加熱第\因子製剤の承認は最も早いものが同年12月であったが,これが供給される前に非加熱第\因子製剤の使用中止が討議された形跡もない。

6.7 我が国における国内血の原料不足問題
 本件当時,仮に被告人が,血友病A患者の出血の大部分に対し,国内血由来のクリオ製剤を用いるという方針に転換することを考えた場合に,それが現実に可能なものであったか,また,当時の被告人の立場において,そのことを認識することが期待できたかも問題である。
 検察官は,対応することが可能であった旨を主張している。
 しかし,帝京大学病院のみがクリオ転換をし,他の医療施設は従来どおり外国由来の非加熱製剤を継続するということが現実的にあり得たと考えられるかが疑問である。換言すれば,通常の血友病専門医が帝京大学病院の特別な情報を知れば,結局,ほとんどの血友病専門医がクリオ製剤に転換するということになり,全国的な需要の殺到に見合うほどにクリオ製剤が供給可能であるのかが問題とならざるを得ないように思われる。
 次に,クリオ製剤の製造能力自体も,机上における推論という性格は否定できないのではないかという疑問がある。また,クリオ製剤に転換した場合に,全国の医療機関におけるクリオ製剤の需要が,当時の我が国における非加熱第[因子製剤の現実の年間供給量の3分の1で済むという主張にも同様の疑問がある。
 さらに,本件当時の客観的状況に照らせば,献血の増加やFFP製造用の血漿の一部を凍結クリオの原料に回すことなどによる原料確保が可能であったか否かは極めて疑わしい。

第7 被告人の本件刑事責任
7.1 本件における過失の判断基準
 まず,刑法上の過失の要件として注意義務の内容を検討する場合には,一般通常人の注意能力を基準にしてこれを検討すべきものと解される。そして,ここでいう「一般通常人」とは,行為者の属性(医師という職業やその専門分野等)によって類型化されるものであると考えられるから,本件においては,通常の血友病専門医の注意能力がその基準となるものと考えられる。本件において刑事責任が問われるのは,通常の血友病専門医が本件当時の被告人の立場に置かれれば,およそそのような判断はしないはずであるのに,利益に比して危険の大きい医療行為を選択してしまったような場合であると考えられる。
 
7.2 松田医師のいわゆる「進言」について
 松田医師は,昭和59年9月ないし10月ころ,被告人に対し,非加熱製剤の使用中止と加熱製剤の早期導入又はクリオ製剤への転換を提言したと供述した。 こうした事実があったこと自体は認められるが思い付きでなされたものであったとみざるを得ない。

7.3 木下医師のいわゆる「進言」について
 木下医師は,昭和59年11月ころ,被告人に対して,非加熱製剤をクリオ製剤に切り替えるべきであるという意見を述べたことがあると供述した。
 しかし,切羽詰まった「進言」という見方をするには余りにも遠いものである。同医師が,自身に対する責任の追及を緩和するため安易に供述したのではないかという疑いは,ここでも払拭し得ない。

7.4 他の医療施設における治療方針との関係
 帝京大1号・2号症例,ギャロ検査結果,T4/T8比検査結果などの帝京大学病院で得られた情報は,遅くとも昭和60年3月ないし4月には,他の血友病専門医が知り得る状況になっていた。のみならず,同年3月には栗村医師による全国各地の血友病患者のLAV抗体検査結果が新聞報道され,他の研究者らの抗体検査も開始されて,帝京大学病院以外の医療施設においても,自らの施設の患者の抗体検査結果を把握しつつあった。そして,同年5月には,AIDS調査検討委員会によって,帝京大1号・2号症例などの3例がエイズと認定され,また,同年7月までには,我が国においてエイズ認定された血友病患者は5例に増加していた。
 昭和59年11月ころにおいては,被告人と他の施設の血友病専門医との間には相当の情報格差があったといえるが,その後は,次第にこの情報格差は解消され,昭和59年11月ころに被告人が有していた情報に比べても,より広範で充実したものであったように思われる。それにもかかわらず,血友病専門医が,こうした情報を得た結果として,昭和60年8月ころに加熱第[因子製剤が供給されるに至る前に,外国由来の非加熱第[因子製剤の使用を中止したという例はほとんど見当たらない。このような当時の実情に照らせば,帝京大学病院において,外国由来の非加熱製剤の投与を原則中止するという判断をしなかったことが刑法上の過失の要件たる注意義務違反に当たるとみることは,いかにも無理があるように思われる。

7.5 「被告人による医療水準の形成」論について
 当裁判所は,本件において刑事責任が認められるのは,通常の血友病専門医が本件当時の被告人の立場に置かれれば,およそそのような判断はしないはずであるのに,利益に比して危険の大きい医療行為を選択してしまったような場合であると考える。被告人の過失の有無を判断する注意義務の基準が通常の血友病専門医であることは,動かし難いものと考える。
 もっとも,当時のエイズ研究班の班長であった被告人の言動がそうした政策決定に影響を及ぼしたものであるという指摘は,考えられないものではない。しかし,本件公訴事実において,被告人の結果予見可能性の前提として摘示されているのは昭和59年5月ころのギャロ博士の「HIV同定」以降の事実のみであるから,被告人の過失の成否は,やはりそれが問題とされる時点において,刑法上の業務上過失に当たる注意義務違反行為が存したと評価されるかどうかにかかるものであるといわなければならない。
 昭和58年度のエイズ研究班における討議の結果,クリオ製剤の適用範囲が極めて限定的なものとされ,加熱製剤が治験を行った上で導入されることとなったことは,今日の視点で振り返れば,もとより遺憾なことであった。しかし,この方針は,被告人が関与していない血液製剤小委員会の第1回会合で各委員のコンセンサスに基づき実質的な方向付けがされ,その後の中間報告から最終報告に至るまで,同小委員会の見解は一貫していたと認められる。この間,被告人は,中間報告の後,同小委員会委員長であった風間医師をこの答申に関して激しく叱責するなどのことがあったが,本件証拠関係に照らせば,このことによって同小委員会の方針が変更されることはなかったことが明らかであり,この叱責がなければ同小委員会が最終報告をクリオ製剤適用拡大の方向に変更していたであろうと認めることもできない。
 また,加熱製剤の治験の経過については,被告人が第1相試験の実施にこだわったことや治験統括医をいったん辞任したことなどがなければ,加熱第[因子製剤の臨床試験の開始が早まった可能性があることは否定できないが,どのような影響があったかを正確に推認することは不可能であるというほかない。

7.6 刑事責任の存否
 以上に検討してきたところによれば,通常の血友病専門医が本件当時の被告人の立場に置かれていた場合に,本件で問題とされている出血に対して非加熱製剤の投与を控えたであろうと認めることには,合理的な疑いが残るといわざるを得ない。したがって,被告人に公訴事実記載のような業務上過失致死罪の刑事責任があったものとは認められない。

第8 結語
 本件は,エイズに関するウイルス学の先端的な知見が血友病の治療という極めて専門性の高い臨床現場に反映されていく過程を対象としている。科学の先端分野に関わる領域であるだけに,そこに現れる問題は,いずれも複雑で込み入っており,多様な側面をもっていた。これらの問題について的確な評価を下すためには,対象の特性を踏まえ,本件公訴事実にとって本質的な事項とそうでない事項とを見極めた上で,均衡のとれた考察をすることが要請されている。
 業務上過失致死罪は,開かれた構成要件をもつともいわれる過失犯の一つであり,故意犯と対比するとその成立範囲が周辺ではやや漠としているところがあるが,同罪についても,長年にわたって積み重ねられてきた判例学説があり,犯罪の成立範囲を画する外延はおのずから存在する。生じた結果が悲惨で重大であることや,被告人に特徴的な言動があることなどから,処罰の要請を考慮するのあまり,この外延を便宜的に動かすようなことがあってはならないであろう。そのような観点から,関係各証拠に基づき,被告人の刑事責任について具体的に検討した結果は,これまでに説示してきたとおりであり,本件公訴事実については,犯罪の証明がないものといわざるを得ない。
 よって,刑事訴訟法336条により無罪の言渡しをすることとし,主文のとおり判決する。