朝鮮人「強制連行」大分県の記録

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三章 大分県下における朝鮮人運動と協和会

県下において植民地支配からの解放、民族の独立、民族差別、蔑視、待遇改善を要求する声は強制連行された職場、土木工事の飯場、集団部落生活のなかで日常会話となっていた。しかし、組織的な団体および運動については明らかでない。
県下においての「朝鮮人運動」としてみられるのは、日本の植民地支配に対する、いわゆる「反日的」といわれた諸活動であり「雇用時、契約した賃金不払などに対する罷業」、(労働争議)「強制連行現場よりの逃走」「生活権主張」などの抵抗運動であった。
1925年(大正14年)「日帝」は、悪名高い「維安維持法」を公布し、同年7月「特別高等警察」を設置、徹底した取締、検挙、拷問、虐殺をほしいままにした。「日帝」の朝鮮植民地支配の36年間、「不逞鮮人」「反日分子」の「レッテル」を貼られたら、それは「死刑宣告」を受けたと同じで、生きてゆけない時代であった。したがって、こうしたファッショ暴圧下における抵抗や争議は「歴史的意義」をもつものである。反面、県下には日本の「皇民化政策」「戦時体制」に協力する動向があったことも事実である。特に大分県は内鮮融和、協和会運動の「特徴的な県」であったといえる。

一、県下における「朝鮮人運動」

(一)「反日運動」の実例

内務省調べによれば1916年4月17日現在、大分県には10名の「要監視」の朝鮮人がおり、1934年には民族主義に立つ「容疑朝鮮人」2名、翌年には「共産主義」者1名の「要監視朝鮮人」がいたという。ただしその実態は不明であり、運動を展開した記録はない。しかし日本の治安当局が「民族主義者」と警戒する朝鮮人がいたことは事実であろう。彼等は多少を間わず、同胞たちを啓もうしたであろうし、同胞たちもまた、彼等を擁護したと思われる。したがって大分県で「民族主義者」たちが、逮捕された記録はない。

△「朝鮮の独立」を宣伝

内務省警保局「社会運動の状況」(1937年)によれば、「本籍・慶南東業郡冠面梅鶴里、住所 大分県下毛郡新和村大字今津、居住の金次根が(流言、時局犯罪)で逮捕され3ヵ月間の禁錮刑に処された」とある。事のあらましは「今度の事変で、日本が敗けて支那が勝った方が良い、支那が勝てば、どこかの強国が援けて朝鮮が独立する。仮令、日本が敗け、我々朝鮮人が殺されても、夫れは、一時の犠牲で、朝鮮が独立すれば子孫の為にいい、朝鮮人は、朝鮮人の精神を忘れるな」といったからだとされている。

△不敬罪 (天皇、皇室に対する不敬の罪)

「特高月報」(1941年分)によると、大分市王子町3丁目、自動車運転手、金三寿(当22才)本籍慶尚南道、晋州郡奈洞面巣山(不敬罪不隠落書)により起訴されている。彼は「本年8月頃より、大分市各所にしばしば不敬、不隠の落書・或は貼紙等を為した」ためであった。しかし、どのような内容の貼紙・落書であったかは記録にない。

△篤声に憤激

「特高月報」(1944年6月分)によると左記のような(移入朝鮮人労務者対現役軍人の傷害事件)なるものを記録している。おそらく民族的に蔑視された、ののしりをうけ憤激しての抗議行動であったと思われるが、高原某がその後どのような「処罰」をうけたのか、その後の「消息」は不明である。

(二)労働争議及、逃走

県下に募集、徴用(強制連行)で動員された朝鮮人労働者の争議、抵抗は意外と多い。当時の状況から「争議」「抵抗」を起こす、また「逃走」すること、はたいへん困難なことであり、勇気のいることであった。

△連行−逃走の抵抗

徴用による強制連行者の抵抗は、まず「逃走」することではじまった。前述し、証言にもあったように「逃走」して捕まると「半殺し」にされた。それでも逃走者が続出した。
「日本官庁統計」によると強制連行朝鮮人のうち「三万余名が逃走した。」とある。佐賀関製練所では26・4%が逃走し、鯛生金山では2月10目60人を連行したが、わずか10日後、そのうち7名が逃走している。「逃走」はまさに価値ある抵抗であったといえる。

△旭金山、30余名が罷業

1925年(大正14年)玖珠の旭金山で30余名が、罷業した。これは大分県における朝鮮人の最初の集団労働争議であった。争議の原因となったのは賃金不払であった。工夫たちは鉱主宅に押しかけ、当日不払賃金の半分を勝ち取った。

△佐賀関製練所70名が争議

「特高月報」(1940年5月)によれば、佐賀関製練所においても70名の争議がおきている。(注・契約違反、待遇改善の争議と思われる)

△尾平鉱山−50余名が争議

「特高月報」(1940年2月分)によれば、尾平鉱山に於いても50余名の争議がおきている。

大分縣大野郡長谷川村所在三菱鑛業尾平鑛業所に於る移住朝鮮人勞働者五十名は、客月十五日賃銀支拂問題に(應募時の賃銀一日二回二十錢以上と云ふ契約なるに事實はニ回十錢なり)關連し、罷業を決行し、何れも所持品を取纒め、歸鮮せんと計畫するに至りたるため、所轄署に於て調停し、應募時の契約通りの待遇をすることゝ爲し解決せるが、其の間同日鮮人代表と事業所側とが車務所内に交渉中、鮮人代表は言語不通にて交渉の追認せざる爲、偶々内地人勞務係が之を毆打したる爲鮮人側は遽に憤激し屋外に飛び出し一何を叫合し事務所の側に蝟集し投石する等の不穏動向を示し、硝子戸數牧を破壊する等の紛擾事件ありたり。

△坂市−待遇改善のストライキ

1945年7月、坂市(東京第二陸軍造兵廠)の製造所に263人の強制連行者がいた。このうち「班長外43名」が「国民貯蓄および国元送金貯金」の強化を実施した事業主に対し、その緩和と待遇改善を要求して、ストライキに突入した、所轄署は、労働者を最重に説論し、職場に復帰させるとともに、主催者側に対し、貯蓄その外、苛酷な点を指摘してその改善を指導した(「特高月報」(1943年9月分))とある。
佐賀関製練所、尾平鉱山、その他で「言語不通」「叱責」とあるが、これは全国至るところで紛争の原因(口実)とされている。その内容背景が記されていないが、当時、民族差別、蔑視のののしりが日常茶飯事であった。「言語不通」で朝鮮人代表が日本人労務係に殴打され、抗議行為(尾平鉱山の投石など)が、いっそう大きくなっているが、これは使用者側の「お前らに何の文句があるか」「朝鮮人のくせに」という差別意識で横暴さが「言語不通」という理由にされたにすぎない。坂市紛争は、現金所持を最低限に規制し、貯蓄を強化したことが原因となっているが、これは逃走防止の目的があったといえる。また「国元送金」も多くの場合「送金の確証」がなく、「貯蓄」は、返済もないケースが多い。

△「生活権」のための集団運動

1938年(昭和13年)6月29目、大野郡三重町役場で郡内廃品回収懇談会が開催された。朝鮮人業者代表は招待されなかった。除外されたのである。当日、裴寅煥外十数名は役場に集合し、三重警察署長外当局側につぎの陳情を行なった。

「我々鮮人も事変以来、国防献金・労働奉仕等相当銃後活動に務め来たるに不拘、今回の懇談会に我々の代表を出せしめず、且つ我等の生業を奪うが如き計画を為すは甚だ不都合なり。自分等の生活問題も御考慮願い度し。」

大分県は8月1日、廃品回収取扱問屋業者38名を指定した。うち、朝鮮人業者12名が入っていた。(「特高月報」同年9月分)。三重町での陳情は、生活権を確保するための行動であり、県下最初の当局に対する集団運動であったといえる。また当時、「古物商」に指定されなかった北海辺郡臼杵町に在住する20余名が「朝鮮人のみの廃品回収取扱組合を組織」し指定問屋に対抗せんとしたが所轄著により解散させられている。(内務省警保局資料による)

△その他の紛争

1924年(大正13年)8月16日付大分新聞に「200余名の鮮人乱闘」の記事が報道されている。直入郡玉来町での出来事であるが、その原因は同地の鉄道工事に従事する朝鮮人労働者の「賃上げ要求」に端を発している。「金賢元」なる人物が「賃上げ要求の懇親会」を開こうとした。これを探知した竹田警察署により「懇親会は禁止」されたが、「主唱者の鮮人は吉田組内鮮人が警察に密告した」との思い違いからであったと報道されている。

争議・逃走・抵抗運動には必ず代表者となるリーダー(指導者)がいるものである。県下各地にいろいろな抵抗運動が起きており、争議までには至らなくとも交渉段階で妥協したものまで入れるときわめて多くの抵抗運動があったし、リーダーも居た。こうした運動のなかで募集、または連行された朝鮮人は「団結」して生きて行くことを教訓として学びとったといえる。

二、協和会及内鮮融和団体とその動向

日本は在日朝鮮人に対する「管理支配」と「皇国臣民化政策」の一つとして「内鮮=(日本人と朝鮮人をさす)融和・協和」の美名のもと、いわゆる「融和団体」の組織を奨励推進した。在日朝鮮人運動といわれるものの歴史をみると、いつの時代でも「支配権力」に反抗し「民族の主権自主性」のために闘う「組織と運動」がある、反面「支配権力」に「迎合・協力」し「その手先的役割」に利用される団体、運動なるものがあり、動向がある。これらの運動はおおむね「官制的」なものだった。しかし、「官制的」なものに「迎合・協力した面」もあったといえる。大分県においての融和団体とその運動、あとで一元化される協和会運動なるものがその例であろう。

(一)内鮮融和団体の動向および民友会について

大分県では1922年(大正11年)「親睦相互扶助」の名目で、初めて「在留朝鮮人団体」が生まれた。大正期には「2団体」しかなかった。(注・これからの団体の動向は不明である)
1930年2月11日、大分市、八幡村で「大分内鮮民友会が結成」された。つづいて、同年3月「高田鮮人同志会」、1931年「別府鮮人同愛会」、1931年7月「中津鮮人同和会」、その他「東国東郡内鮮共和会」「大分市在住朝鮮料理屋組合」「内鮮青年会」など、最盛期には「12団体」があった。もちろんこれらは「地域的」「同業的」「年齢的」な集団で、日本官憲の目からみても労働団体、左翼的思想団体、民族主義的な団体や運動に結びつくものは1団体もなかったとされている。(在日朝鮮人論考より)
(注・当初これらは「同胞間相互の親睦・扶助的なものであったと思われる。)
ただし「大分内鮮民友会」だけは日本人役員および会員を持ついわゆる「内(日本人)鮮(朝鮮人)融和を目的」とするものであった。(後述する。)これらの地域的、同業的、親睦・相互扶助団体がいかなる背景、過程を経て「内鮮融和団体と変貌していったのかについての具体的資料はない。
ただし、1936年(昭和11年)日本内務省は「融和・親睦団体の官憲による統制」を強化するために「協和事業団体設置及同実施要旨」を定めた。これにより、大分県では学務部長を代表者とする「協和事業団体大分県社会事業協会」を設置した。全国的には、この年、78の融和・親睦団体が減少したが、大分県では逆に2団体増となっている。いずれにせよ、1936年度内務省による「統制要旨」が、大分県における「内鮮」融和団体とその活動の具体的促進の契機となったことは言うまでもない。
県下の「内鮮融和運動」は急ピッチで進められた。これは「大分県では政府及当局が危慎するような融和団体の假面をかぶって、民族運動をなすなどの団体がなかったこと」、また「民間人が主導し、行政・警察が背後から関与する(内鮮融和運動)が効を奏した」(大分県史、朝鮮人と大分県より)ことであった。
1938年1月分「特高月報」によれば、志願兵制度実施の発表があったとき、いち早く志願手続、その斡旋方を申し出るものの多かった県の一つに大分県があがっている。また同年1月から4月にかけて当時県下13の「融和団体」が志願兵制実施祝賀会を開いている。
さらに、「内鮮融和」団体として特記すべきことは「大日本国防婦人会中津支部」の分会として1938年(昭和10年)8月11日約60名の朝鮮人婦女により「半島婦人分会」が結成されたことであろう。佐伯市「内鮮協親会」においても大日本国防婦人会佐伯内鮮婦人修養会を結成している。(「特高月報」1938年4月2日朝鮮人運動日誌より)
これらの、婦人団体の組織化は、その後協和会時期にいっそう拡大し「動労奉仕」などをしている。いかに「官制的」なものであったにせよ、これは全国的にまれな大分県における「融和団体」の動向(運動)が特異なものであったことをものがたっている。

△大分内鮮民友会

「大分内鮮民友会」は大分市および八幡村に居住する朝鮮および日本人も役員、会員とし、官庁、警察、地域の日本人有力者と密接なつながりをもち、徐日鳳、吉田房次が中心となって1930年2月11日の(紀元節日)に結成されている。
同年9月7日第1回総会を開催しているが「同会の主旨」として「内鮮人友愛」をうたっている。(大分新間記事参照)大分内鮮民友会は、県下における「融和団体」の代表的なものであった。その団体と「運動」につき「大分県史−朝鮮人と大分県」は次のように記述している。

「内鮮民友会は内鮮融和の集会場として、八幡村に内鮮融和会館建設を計画した。昭和7年、徐日鳳と日野精一ほか5人の日本人が発起人となり、知事田口易之以下多数の有力者の後援を得て、工費1,500円の寄付を募った。翌8年4月23日には落成式を挙行した。来賓の大分市長(代理)・市会議長・市会議員を含め、三百余人の参列者があり盛会であったという。内鮮民友会は、このように県・市当局と密按な関係を保って活動した。内鮮民友会幹部徐日鳳・後藤義男・吉田房治らは、会館建設とともに「終焉之安処」である墓地の建設を発起し、「義財」を募集した。4年9月八幡村字大山の山林を買収し墓地を建設、さらに8年には同村大字神崎の日本人所有の墓地を買収した。会館と墓地建設の際には、富士紡大分工場の朝鮮人女工たちからも1人あたり70円もの大金を集めたといわれている。女工たちが金を出し合って墓地を買い入れた例はまれである。」

当時、富士紡朝鮮人女工だった鄭ハルモニは次のように証言している。

「その頃、富士紡には400人位朝鮮の女工さんがいた。「死んだ人のため墓地を買う」「皆んなのため会館をつくる」といって、役員らしき人が募金に来た。たしか1人当り70円ぐらいむりやりとられた。女工には大金だった。」

注1 当時、女工日給は2円50銭前後であった。
注2 民友会会館について民友会会館は解放後事務所集会所として利用されその後、同胞の住宅としても利用されたが老朽し、現在、建物はない。
注3 墓地について墓地を買収したことは事実のようである。しかし、現在、朝鮮人墓地はない。鄭ハルモニは「墓地まで日本人にとられてしまった」と嘆いていた。

「大分民友会」は、日本神社、皇居への「朝鮮人参拝」が強要されたことに先だち、西大分の杵原神社の境内に「大分民友会」の「石柱」を寄贈している。また1939年「朝鮮人志願兵制度実施祝賀会」も開催した。「大分民友会」が「協和会事業」に「積極参加」したことはもちろんであり、会長徐日鳳は「創氏改名」の大分県における第1号となっている。民友会創立者の吉田房次は大分県協和会の副会長となり、その「功労」により「高松宮家」より「銀製の花瓶」が下賜されたという。

注・1947年5月3日付で「徐日鳳、後藤義男、吉田房次参氏頌徳碑」なるものが建立された。しかし、いまは王子神社境内に横倒しのまま放置されている。

(二)大分県協和会について

△協和会について

協和会は1939年(昭和14年)「中央協和会」が設置される。
「協和会」なるものには二つの大きな目的・任務があった。その一つは「朝鮮人の管理・統制・取締」であり、もう一つは「皇国臣民化政策」と戦争への「動員」推進であった。「朝鮮人の管理・統制・取締」は日本政府の最も重要視される政策の一つであった。
日本は1940年12月8日、太平洋戦争(第2次世界大戦)ヘ突入する。それに先だち、朝鮮民族をその「人的資源」として1939年、強制連行を強行する。日本全土に、朝鮮人が激増した。大分県では前年度に比ベ2倍に急増する。当時、朝鮮民族の日本植民地からの解放、独立を願う運動は増々拡大していた。とくに金日成将軍による民族解放抗日武装抗戦の影響は朝鮮半島のみならず、日本にまでおよんでいた。下関・釜山を住来する「関釜連絡船」には、公然と「独立大将金日成将軍」とまで書かれた。日本政府が朝鮮人の民族運動を極度に警戒し、治安上の対象としたことはいうまでもない。協和会は、官・警・民間による朝鮮人管理・統制・取締りの一大監視組織であった。(特高警察管理統制ともいう)
また、協和会は「会員証の常時携帯」を義務づけ、「寄留簿の取扱」「故郷への訪間の証明書」等を発行している。会員証がなければ尋問拘束され、安心して歩行も出来ない。寄留簿(朝鮮人の住居証)がなければ食糧の配給も受けられない、証明がなければ故郷にも帰れない。協和会は朝鮮人の「食う」ことも「歩く」ことまでも菅理・統制した。

注 在日朝鮮人(韓国人)外国人登録証の常時携帯が義務づけられており、違反すれば刑法により罰金その他の処罰をうける。また、国籍による政冶的差別があるが、現在もなお(協和会時期)と共通した朝鮮人の管理・統制・取締・民族差別がつづいている。

協和会はまた、朝鮮人に対する「皇民化政策」「戦争への動員」の推進組織であった。「皇民化政策」とは、朝鮮人を「天皇に忠節を盡す臣民」につくりあげることである。(皇国臣民の誓詞参照)
また民族固有の朝鮮語文字の使用を禁止し日本語を便用させ、民族的習慣ご風俗まで日本式にかえさせ、はては「創氏改名」まで強行した。こうして、朝鮮民族の民族性までもことごとく抹殺し、日本人に同化させる、前代未間の野蛮な植民地支配の特徴的政策であり、徹底した愚民化政策であった。

△大分県協和会について

大分県協和会は、1939年(昭和14年)10月、厚生省社会局長、内務省、警保局長より、道府県長官あて「協和事業拡充に関する通牒」が発せられ「道・府・県」単位の協和会設置が、指定された。
大分県協和会は、同年11月27日、結成され、発足する。会長に県知事、副会長に警察部長、学務部長、常務理事に特高課長、社会課長があてられ、以下理事、幹事が置かれ、評議員としては主として、各地方の代表の外「大分民友会」などいわゆる「内鮮融和運動」の関係者、吉田房次や、朝鮮人連行企業代表によって構成された。
大分県協和会は「皇国臣民の本分を体得せしむるため、国民精神の作興、協和事業の趣旨の普及徹底、矯風強化、保護救済、福祉増進、協和事業に関する調査研究を目的」としていると報道されている。
大分県協和会も、また、もちろん県下朝鮮人に対する、管理・統制・取締、皇民化を目的とし、その推進母体となった。大分県協和会の発足にともない、従来の「内鮮融和団体」といわれるものは、すべて協和会に一元化(統合)される。
県下では、その翌年までに、各警察署管轄地域単位に警察著長を「支会長」とし、同じく地域の官・警・民間有力者による19の「協和会支会」が結成される。この支会には、朝鮮人を支会員とし、補導員184名、正会員3,632名准会員7,905名、会員合計11,537名となっている。
協和会支会は、朝鮮人強制連行企業体毎にもっくられていく。また(支会)の役員、指導員に一部の朝鮮人が登用された。当時、県下居住朝鮮人数は101,858名とあることからみてそのほとんど会員となり100%に近い朝鮮人管理統制体系がつくられたことになる。
大分県における「協和会運動」は、きわめて「活発」なものであったという。貝体的に、その事業(運動)内容をみると、「皇居遥拝」「君が代斉唱」「皇国臣民の誓詞、暗唱・朗読」「神社参拝」「家での神棚設置」「徴兵・志願兵・徴用参加」「軍事向上・炭坑への報国労働」「出徒兵士歓送」「国防献金」「愛国貯蓄」「勤労奉仕」「創氏改名」「朝鮮語の使用禁止」「日本語の習得」「朝鮮服−チマチョゴリ−の使用をやめ、日本服モンペ等の使用、はては「日本式礼法の習得」「日本料理の習得」などにまでおよんでいた。まさに、民族性の抹殺であり、こうした「協和会運動」なるものは日本の敗戦までつづけられた。
しかし、こうしたファッショ的暴圧・管理・統制も結局においては在日朝鮮人を日本の「皇民」にし得なかった。
注 前述した「皇民化」政策は、その後の在日朝鮮人生活に多くの過禍を残した。解放後「内鮮融和運動」「協和会役員」など朝鮮人同胞から僧しみの対象された者は「他の地方」ヘ移動するか、また「日本人への帰化」の道をたどったケースが多いとされている。また「創氏改名」による日本名使用は民族差別のためにいまもなお、多くの在日同胞のなかでつづいている。

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