朝鮮人「強制連行」大分県の記録

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三、朝鮮人従軍慰安婦について

従軍慰安婦間題は日本帝国主義者とその軍隊の野蛮な「正体」をさらけだした国家的犯罪であろう。最近、韓国、共和国、フィリピンなどで従軍慰安婦の「体験証言」が、相次ぎ、その「実態」がさらに明らかにされつつある。
「従軍慰安婦」に朝鮮女性が狩り出され始めたのは1930年代中頃からと言われている。その方法は、「女子挺身隊」の名目で狩り出したものがもっとも多く、「欺まされて狩り出された女性、又は「女狩り」で強制拉致された。
年令は、14、5才から20代初めが多くその数は約13万〜15万名といわれる。また、「女子挺身隊」として運行され「遊廓」に売りとばされたり「女ゲンー女人買人」に欺され、売りとばされた朝鮮女性も少なくない。

△大分県においては「朝鮮人従軍慰安婦」の記録、資料は不明であるが、その一例として「日本の敗戦直後、特攻隊基地のあった、鹿児島(鹿屋)などから逃げのびて来た従軍慰安婦の朝鮮女性がいた。女子挺身隊の一員として軍需工場で働くということで連行された。行きついたところは軍の慰安所だった。彼女は「慰安婦は、兵隊用、将校用に分けられ、一日に10人、20人と、昼夜の区別なくもてあそばれた」といっている。

△「鯛生金山」に「遊廓」と言われた、「朝鮮楼」「満州楼」があった。「朝鮮楼」は、現在、その跡地のみ残っているが「満州楼」は、その家屋が現存している。
「朝鮮楼」について、地元住民の、正確な「証言」はない。しかし、年寄りの人より「時々朝鮮服を着た女性が5、6人いた」のをみたという話を聞いたことがある、などの証言はあった。今後の調査・解明が必要である。

[証言]朝鮮人慰安婦−20〜30名  斎藤紀男氏(79才)

「昭和20年(1945年)の初めごろのことでした。
私は当時、満州の熱河にある赤峰という街はずれに駐屯していました。ハイラルからの混成部隊で、一個大隊ほどの規模で約1,000名近くの兵員がいました。別名が「真栄城部隊」といい、そのなかに約200名近くの朝鮮人の兵隊がいました。軍服は着用していますが、襟章(階級章)はなく、いつも30名ばかりの日本人の兵隊が、拳銃を付けた小銃を構えて監視していました。逃亡をおそれてのことのように考えられていましたが、彼等には特別訓練を受けさせるとか、教育を受けさせるというようなこともしていなかったようでした。
赤峰地区は八路軍(※中国共産党の軍隊・人民解放軍の前身)の勢力範囲にあり、住民の排日色が強かったせいか、朝鮮人の兵隊には銃も与えられてはいませんでした。私はたまたま無線班の事務のようなことをしていたのですが、部隊は満州鉄道の警備が任務で、万里の長城線まで討伐に出かけることもよくありました。
彼らは、今から見れば”弾よけ”ではなかったか、と思います。しかし、終戦近くの6月ごろには全員、いつの間にかいなくなっていました。(中略)
部隊には慰安婦がいました。20名から30名だったようでした。士官以上は日本人の女を相手にしていましたが、兵隊クラスはみな朝鮮人の女を相手にさせられていました。朝鮮人の慰安婦は軍属として配置され、一応下土官待遇ということで、「兵隊」より格が高かったので、飲んだくれたりしているときなど『私は下士官だぞ、こらっ、そこの兵隊、おいっ、上等兵こっち来い!』などとわめいたりしているのを見かけたものです。(この項は、「私のみてきた大分県朝鮮人民族五○周年史」より)

[証言]漢口、武昌に、朝鮮人慰安婦 (電話による某氏の証言)

「中国の漢口・武昌には、陸軍特別慰安所があった。漢口には相当数の慰安婦がいた。武昌では1ヵ所だけで、30余名の朝鮮人慰安婦がいた」、また、漢口、武昌での朝鮮人慰安婦間題につき「漢口慰安婦」なる、元陸軍軍医、長沢健一氏の著書(1983年7月出版)がある。参考にされたし」

△大分県が関与

大分県では「県」が直接従軍慰安婦の「中国渡航取扱い」について、関わった記録がある。

 時放第八二号
  昭和十三年四月二十五日
   大分県知事        粟屋 仙
外務省ァメリカ局長殿
        済南其他膠済鉄道沿線渡航者取扱方に関する件

「内容を訳すると
済南その他膠済沿線渡航者に関しては、本年二月八日付、米三機密合第五八○号貴信の趣旨により取締中なるが、右によれば、同方面への初渡航者に対しては、日本で所轄警察署長より身分証明書を下付してはいけないと解せられそうろうところ、最近済南在留者にして、同地総領事より、酌婦雇用のため、帰国する旨の証明書の下付を受け、当地方において、酌婦を募葉し、管下所轄警察署に対し、身分証明書、下付方出願せる事例これあり。右は特に総領事の証明書を有するをもって、@身分証明書下付相成差支え無きや、尚、同方面皇軍慰安所の酌婦等募集をなす旨の在支公館又は、軍部の証明書を有する者の募集せるA酌婦等に対しては、身分証明書下付相成差支え無きや、疑義これあり。何分の御指示相得たく、右及禀伺いそうろうなり。」(了)

これに対し、同年5月4日付、外務省(アメリカ)局長名で、大分県知事宛、左記の旨、回答している。

(内容訳す)
「本件に関し、四月二五日付特旅第八二号貴信でもって、御申越しの趣、丁承。右貴信記載の事例は、前段及び後段の○○○○
本年二月二三日付内務省受警第五号内務省受警保局長受渡航婦女の取扱に関する依命通牒により、御取扱相成渡支支障なき者なる限り、身分証明を発行せられ、差支えなく、この段回答申す。」

こうした「公文書」は、地方行政機関まで従軍慰安婦問題に深くかかわっていたことを証明するものである。

△「従軍慰安婦」に関する証言 (韓国女性問題資料集ょり)

其の一 軍の慰安規定

慰安所での日常はどんな風だったのかと言いますと、『軍医官の戦場報告意見集』(不二出版・高崎隆治編・解説)に昭和19年12月、山第三四七五部隊の内務規定が載っているのですが、その中に軍人クラブに関する規定があります。軍人クラブとは慰安所の事です。慰安所をどのように使うかということが業者に対してと、兵隊に対してと、それから慰安婦に対して書かれています。その中で重要なことを二、三あげますと、ここは軍人、軍属以外は使えないと規定されています。また、慰安婦はここの外へ出てはいけないと書かれています。それは軍の機密が漏洩するのを恐れてのことだと思います。慰安所には兵隊たちがたくさんくるので、いろいろな部隊の機密が民間に漏れる恐れがある訳です。他に衛生サックを使用することが書かれています。それから時間は四十分単位で料金は将校が三円、下士官、軍属は二円五十銭、兵は二円というふうに出ています。時間に関しては兵隊が十二時から十七時、下士官が十七時から二十時、将校は二十時から二十四時と書かれています。しかし、兵隊は十二時から十七時までというのは勤務中なので休日でないと利用できません。これを見ると、山三四七五部隊に出されていたのとほぼ同様に他の部隊でも慰安所が利用されていたと想像されます。そして慰安所に行く時には上官から使用許可書と衛生サックを渡され、軍人クラブを利用したということです。

其の二 「処女供出」「処女狩り」 韓国梨花女子大学 尹 貞玉教授講演より

日本軍が、朝鮮の未婚の女性を慰安婦に「狩りたてる」ことに決めたのは、満州に駐屯していた関東軍が、中国侵略を決定した1937年だと思われます。この時の女性の年齢は17から20歳まででした。もともと日本女性の売春婦たちが、慰安婦として関東軍満州駐屯の初めからおりましたが、性病が多く、大分年をとっておりましたので、今後、中国との戦争で必要な体力に満たないと計算したからだとのことです。厳しい儒教的な朕を受けている朝鮮の女性は性病の心配はないと考えたのでした。この経緯については麻生徹男の『花柳病の積極的予防法』の中で詳しく述べられております。その頃朝鮮では、こうした未婚女性の連行のことを「処女供出」とか「処女狩り」と呼ぴました。関東軍首脳部の命令は、総督府に下り、道・郡・面・里に下り、軍人が駐在所の巡査の協力で、面書記や里長を先に立たせて、主に娘の多い貧しい小作人の家から未婚女性を半強制的に、また半ばだまして狩りだしたのでした。たとえば軍隊の食堂で働くとか、兵隊さんの洗擢をするとか、看護婦の助手になるとか、一日3回白いご飯を腹いっぱい食べられてたくさんもうけられるといって誘いました。南京大虐殺(1937年12月13日)直後からは本格的に「女狩り」が始まり、1943年から1945年にかけて戦場が拡大するにつれて井戸端で、田畑で、道で、工場で、家の中まで軍靴のまま乱入して14歳ぐらいから30歳くらいまでの女性を、暴力的に連れ去りました。その数は10万から20万人ではないかと推測されます。

慰安婦1人が1日に100人も相手

慰安婦の需要は「ニクイチ」といわれ、日本軍人29人に朝鮮女性1人で計算されていた。しかし、日本敗戦直後には、慰安婦1人が1日に日本軍人を100人まで対応させられたという。1938年頃には、軍が直営する「陸軍娯楽所」を置き、慰安婦を監督した。

其の三 済州島の慰安婦狩り 吉田清治(私の戦争犯罪1983年)

労務報国会の下関支部動員部長だった自分が、どのように慰安婦を「狩猟」したかの告白である。
私は済州市駐屯の日本陸軍の協力で11人の歩兵と軍用トラック2台を得た。
1943年5月、この頃朝鮮の人たちは日本軍に連れて行かれると彼らの「飯」になるものと思っていた。吉田の徴用隊はまず初めにカッ(帽子)を作る家を襲撃して20〜30人の女子の中から8人を引きずり出した。女性たちが悲鳴を上げると、壮健な朝鮮男子4〜5人が道を塞いだ。剣を差した銃を突き付けられても男たちは手を振り上げて朝鮮語で必死に抗議した。隊員たちが銃剣をつきつけたとき初めて男たちは逃げた。「アイゴーアイゴー」と泣き叫ぷ女性たちをトラックに押し込んだ。トラックが林の中に入って行った。吉田は徴用隊長の指示に従い隊員たちにいま狩猟してきた女性たちと「遊」ばせた。

ソンサン浦のボタン工場でのことだ。しきりに躊躇する社長をどなりつけ工場の中に入った。女工は30人程いた。徴用隊が”作業停止!”と叫ぷと女性たちは悲鳴を上げた。使えそうな女性を選んでいると、ある老婆が隊員の腕にしがみついた。横にいた他の隊員が老婆の頭の手拭いをわしづかみにし、頬を打った。妊娠しておなかが大きい女性のチマを上げて下着の中のおなかをのぞきこんだ。
年配の女工が吉田の所に行き「朝鮮人の女をどうしようとするのか、朝鮮人も日本臣民じゃないのか」と日本語でくってかかった。吉田は「戦争のためだ、じゃまするな!」とどなりつけ、その女工は朝鮮語で泣き叫びながら引き続き吉田に立ち向かって行った。吉田は彼女を押しのけた、他の徴用隊員が握りこぷしで彼女の顔を殴った。この工場での”収穫”は16人。
門の横で見守っていた社長は言葉もなく帰って行った。星を見ながら部隊本部に到着したとき、軍人たちは歓声を上げ女性たちを迎えた。

△従軍慰安婦、共和国での証言

1992年8月朝鮮人強制連行真相調査団日本人側連絡協議会が、朝鮮民主主義人民共和国を訪問、元従軍慰安婦10名からの証言を聴集した。(大分県からは日本側調査団 松下 学 事務局長が参加した)

其の一 キム・ョンシンさん

私の故郷は、両江道ポチョンボです。現在は両江道セイサン市シンザン里15班に住んでいます。私の家族は、父と母、兄、妹2人、弟の7人家族です。父親が病気のため、母親が日雇いをして働き家族を養ってくれました。家が貧しかったため父に「おば(父の妹)を訪ねて行ってみろ」と言われました。
ヘリョン(会寧)に行きましたが、おばはいませんでした。しかし私はそこに止まり13歳から18歳まで他人の家の家事を手伝って働きました。

だまされて

私は1924年10月21日生まれですが、18才になった1941年に背広を着た男が訪ねてきて「お前たちによい仕事を紹介してあげる」と言うので、他人の家で働くよりもいいと思い、「行きます」と言いました。そして「そこはどこですか?」と聞きましたが、男は何も言わず「とにかく行ってみよう」と言うので、そのままついて行きました。
ついて行ったら15〜19歳ぐらいの女の子が14人ほど集まっていて、一緒に車に乗せられました。そしてヘリョン駅で降ろされ、お昼ちょっとすぎぐらいに汽車に乗せられ、タ方着いた所はアオジというところでした。
−直接軍部には行かずアオジまで行ったんですか?
アオジ経由でチョンアブトンまで行きました。チョンアプトンに着くと「降りろ」と言うので降りてみると、幌つきのトラックが待っていてそれに乗せられました。
トラックに乗せられ30分位して着いたところに山間部落がありました。そこには軍服を着た人たちが一杯いました。そしてもう少し行くとソ運と中国の国境地帯で、軍人もいっぱいいましたが、若い娘も大勢いました。

−何人ぐらいいましたか?
9人か10人いました。
「ここはどこですか」と聞いたら、その娘さんたちに「どうしてこんなところに来たのか」、「ここから生きて帰ることはできない」と言われました。そして倉庫に運れて行かれ着物を出されて「チマチョゴリを脱いで着物を着なさい」と言われ、ためらっていると殴られ、無理やりパンツまで脱がされ着物を着せられました。

名前はエイコ

そしてョンシンという名があるのに「これからはエイコだ」「絶対に朝鮮語を使うな。使ったら殺すぞ」と言われました。
−先ほどハルモニはソ連国境地帯と言われましたが、そこは豆満江の近くですか?
はい三豆満江の近くです。
−そこからは豆満江が見えましたか?
川が見えるほど近くはなかったけど、この国境の近くでした。
−トンドリ、ソンゴリ、シナサンドン、ハクソンリ、サヘリという地名がありましたか?
サヘリはわかりますが他はわかりません。あとチャアクトン、ヘンイリなどがありました。
サヘリにも慰安婦がいたんです。ヘンイリには慰安婦がいなかったため私たちが連れていかれたんです。一部の人はトラックに乗せられ、他の所に連れていかれました。その日の夕方、着物を着せられた何人かが木造の建物に連れて行かれました。木造の扉があって、…… 一間で、二人ぐらいが入れる狭い所で……
暗くなると夕御飯を持ってくるんですけど、小さな茶碗に麦御飯とつゆのようなおかゆだけでした。怖くて食べれませんでした。食べた人も中にはいましたが。
こうして部屋にもどり、どうしてもここから逃げなきやいけないと思いました。そう思っていたら、夕方私たちを連れてきた将校が(星が三つついていました)入ってきて、さしていた日本刀を置き、上着を脱いで一番初めに私を犯しました。
−その将校の名前はわかりますか?
覚えていません。将校は名前を名乗らなかったし、恐ろしくて将校の名前も聞けませんでした。
−そこにハルモニと一緒に残った女性は何人ぐらいでしたか?
14人です。
−他の所に連れて行かれた人は何人ぐらいでしたか?
他の所に連れて行かれた人数はわかりません。しかし先ほどの将校は私服を着て出て行くと、何日かしてまた新しい女の子を連れてくるんです。そしてまた、着物を着せてどこかにつれて行くんです。話すことさえ禁止されていたので、だれがどこに連れていかれたかわかるはずもありません。
−その当時、日本の軍人は何人ぐらいいたか覚えていますか?
よくわかりません。だけどサヘリ、インリイとかに一杯いました。
−重要なことなんですけども、ハルモニを連れにきた将校も私服を着て募集したんですか?
はい、そうです。区長と一緒に。
−区長と?同じ朝鮮人なのに
区長は朝鮮人じゃなかったです。
−区長は朝鮮人じゃなくて日本人だったのですか?慰安所を経営していたのは軍隊でしたか。
ただ単に軍隊なんですよ。
−軍隊だけで、その中には民間の人はいなかったんですか?
その中には一般の人は入れません。軍人だけですよ。

七人の将校に輪姦

初めの日に七人の将校がかかってきました。七人もの軍人に輪姦された。起き上がる間もなかった。休みはなく、食事は死なない程度のもので栄養失調で体を動かすのも気怠い状況であった。大勢の相手をするし、粗末な食事のため何人か栄養失調で病気にかかった。
−そこで病気に罹って死んだり、体が弱ったりした女牲はどうなるんですか。
みんな連れて行ってしまいます。
−どこに連れていくんですか?
わかりません。そしてまたどこからか新しい女の子を連れてくるんです。
−軍人たちはハルモニにいくらかでもお金を渡しましたか?
誰がお金をもらったからといって、そのような行為をしますか。誰がお金をもらったからといって、日に40〜50人を相手にそのような行為をしますか。
−軍人たちはお金を出してそのような行為をしたんですか?
違いますよ。ただですよ。
−お金を払わずに。
誰がお金をもらったからといってできる行為ですか。できますか。……

みせしめ−のため日本刀で首を切り殺す。

ある日、カワダトキコという女性が、私より年下でしたが、朝鮮語を使ったんです。それを将校に開かれて「来い」と言われたのです。朝鮮人慰安婦はみんな集められました。そして「今、朝鮮語を使ったので見せしめに殺す。」「朝鮮語を使ったらどうなるかよく見てみろ」と言うのです。そう言って日本刀を取り出しました。娘たちが怖くて顔をおおっていると、その女性の首を切ったんです。娘たちは悲鳴をあげながら逃げ出しました。それからはお互い顔があっても会話もせずに見合わせるだけでした。
−お互い会っても会話をさせないという手段ですね。その時、何人ぐらいの女性が集まったんですか?
14人いて1人殺されましたから13人です。
−病気になってよそに連れていかれるとはどのような状態でしたか?
栄養失調です。
−もう動けない状態ですか?
人間としての行動ができない状態です。
−病気になって連れて行かれた後、どうなったか解りますか?
聞いてはいないんですが、体も弱り、病気でもう使いものにならないですから、想像としては近くの豆満江に投げ捨てるんではないかと恩います。
−当時、医者が束て検査するということはありましたか?
その時、医者がいたかどうか解りません。みんな「サック」を使うので、女性は苦しかったです。体も悪くなり、生きる気力を失くし、何日か食事も取らなかった。そこに将校が来て酒を飲みながら相手をしろと強要され、これを拒むと頭髪をつかみ、頭を床に叩きつけられた。どうせ死ぬのだからと思い、将校に飛ぴかかりもみあいとなった。騒ぎを聞きつけ大勢の人が来ると将校は刀をぬいて割腹自殺をした。(日本の敗戦を知っていたと恩われる。)
将校の自殺が私のせいだと言われ訊問をうけた。両方の手足を押えつけられ、口をこじあけられ、腹がふれあがる程に水を飲まされた。膨れ上がった腹の上に板を乗せ、二人が板の上で飛び跳ねた。口と鼻から水を吐き出しそのまま気を失った。

−休憩はありましたか?
休憩なんか無かったです。夜も昼も。夜は寝ているときまできて、朝は朝で。目曜日なんかはずっと並ぷんですよ。そしてズボンを脱いで「まだか、まだか、早く、早く」と列をなして待っているんです。起ぎ上がる暇も無いほどです。私は「アイゴー、アイゴー」と泣くんですけど、一人出てはまた一人と次から次へと入ってくるんです。
終戦間近の1945年8月13日に、このままでは殺されると思い、3人で逃亡した。3人で行動すれば捕まると思い、別々に行動した。私は夜トウモロコシ畑を伝わり山に逃げ込み、2日間飲まず食わずで逃げた。3日目に中国人の家で食べ物をもらい、故郷に帰りたいと思いチョンジン(清津)に行き、物乞いをしながら故郷に向かった。しかし、慰安婦であったことが恥ずかしく故郷には帰らなかった。
47年経った現在も兄妹には連絡を取ってない。
今回名乗り出たのは、テレビや新聞で従軍慰安婦には、日本政府、軍はかかわってなく、民間業者が行ったとか、慰安婦には金を払っているとかの報道がなされていることに、とても腹が立ち、このままでは死に切れないと思い、名乗り出た。

其の二 キム・セグクさん (77歳)

私の故郷はサリョン市のフンリという所です。現在住んでいるところは開城市のケブングンというところです。生年月日は陰暦の1916年11月15日です。
私が16才のときは着るものにも食べる物にも事欠く状態でした。その時、フクダという人が「一杯食べれるところに連れて行ってあげる」と言ったので、その日車に乗ってついて行きました。
その人について行き車に乗って降りた所が釜山港でした。そこには朝鮮人女性が20人ぐらいいました。その後何も知らされず、船に乗せられて上陸した所が下関でした。下関に降りた途端フクダが私に「お前はこれから朝鮮人ではない。朝鮮語を使ってはいけない。お前のこれからの名前はシズエだ」と言いました。
そして大阪にある日本の病院に連れて行かれ、そこで小間使いとしてこき使われました。蔑まれながら雑用を全部やらされました。

挺身隊−従軍慰安婦

18歳のとき日本の正月にあたる1月1日に、初めて院長が姿を現しました。そして院長は刀を持って私の部屋に突如入ってきて、「シズエ、お前は俺の言うことを聞け」と言い、口を押さえて襲いかかってきました。
私は二年間この病院で働かされましたが、院長は「お前はもう18歳なんだから、もっとよい所に連れてってやる」と言い、「そこに行け」と日本の軍隊があるところに行くように言ったのです。
今は”従軍慰安婦”と言っていますが、当時は”挺身隊”と言ってました。私は満州の新京という所に駆り出されました。つぎはハルピンその次はチチハル、モットウコウと連れ回され、最後には船に乗せられ上海に運れていかれました。
そこには朝鮮女性が数多くいました。そこにいた姉さんたちが「お前はどうやってここに来たのか?」と尋ねたので、私は「お姉さんたちと同じように連れてこられた」と答えました。
建設隊が作った中国の家に入りましたが、一畳の部屋に押し込められました。

1日に40〜50人の相手

私は12番という番号をつけられました。その番号は40番までありました。そして歩兵などの日本の軍人が部屋に入ってきたのです。一日に40〜50人の相手をさせられました。その後も上海からハンハオ、南京、トウヨウ、ヒショウと軍隊に連れまわされました。日本の軍隊の中でも九州第六師団が一番悪かったです。普通、日本の軍人は胸にマークをつけていましたが、九州第六肺団は腕のところにつけていました。私はこの師団で12年間働かされました。私は我慢に我慢を重ねて生活していたのですが、この師団はお酒を飲むと酔っ払っては、私の部屋に入ってきて刀を抜き、壁や廊下にたてて「お前は俺の言うことを聞かないと命がないぞ」「お前を殺すぞ」と大声を上げ、「こら、朝鮮人、言うことを聞かないと殺すぞ」とおどすのでした。そして軍人は一列にならんで私がある人の相手をしていると、終わってもいないのに入ってきて「早くしろ」と言うのです。
このようなことを繰り返すのです。私はこれ以上耐え切れないと薬を飲んで自殺しようとしました。二回試みました。しかし、アキカワという大隊長が「こいつはしっかりしているから、いつ、どこでも使える」と二回とも生き返したのです。けれど、あまりにもぷったり、殴ったりするので「もう死んでもいい」という覚悟をし、私は両手を広げて「私は朝鮮人だ。死んでも構わない。殺せ」と言うと、それを見ていた隊長が「見てみろ。こんなにしっかりしているのをなぜ殺すんだ」と言って生かしたのです。
結局私は同じ生活を繰り返すしかありませんでした。ある日、50人も相手をして疲れて倒れてしまいました。するとノーシンという薬を飲まされただけでなく、大隊長はタバコに火をつけて私の鼻の中に入れたり、「エイ、コノヤロー」と言って私の子宮の方にも入れ、最後には子宮の周りを焼き付けたのです。焼かれ、使えなくなったのにその次の日からも相手をさせられました。それでも満足しない日本の軍人は、今度はシェパード犬を連れてきて「もう俺は飽きた。今度はお前の番だ」と言い、犬を放したのです。犬が襲いかかって来て、あまりの恐ろしさに「助けて」と悲鳴を上げました。その悲鳴を聞いて私の友だちが駆け付けて来てくれて、助かりました。

妊娠すると殺す

また私の友だちが妊娠したのですが、「おい、なんだお前」と言い、彼女の腹の上に乗って堕ろさせ、胎児を放り出し、彼女を殺し、「ほら、鮮人は死んだぞ」と言って、皆を呼び集めたのです。あまりの恐ろしさに失神した人も多数いた。もう一つ忘れられないことは、日本軍隊が私が生活しているところから約ニキロメートル離れているところに大きな穴を掘って、「天皇陛下に…。気をつけ。」と言って、中国人の首切りを始め、その切った首の頬を針金で通してつなぎ「おまえらも言うことを聞かないとこうなるぞ」と言って、見せしめとしたことです。日本軍隊は敗戦前に「戦争はもう負けた。もう何年ももたない」と言っていました。そのため私が朝鮮語で話しているのを見ると、蹴ったり、殴ったりととても神経質になっていました。
そして4ヵ月たった頃、「どうしても父母に会いたい。故郷に帰りたい」という願いから、朝鮮人から中国のお金500円を借りて朝鮮に帰ってきました。
朝鮮に帰ってきたら父母はすでに亡くなっていませんでした。
いま賠償問題が提起されていますが、立場を逆にして考えていただければよく分かるとおもいます。私が言いたいのは、お金の問題ではなく人間の良心の問題なのです。12年間の苦労と無残に殺されたもののことをよく考えてみるべきではないでしょうか。日本に帰られたら、私のこの苦痛にみちた体験を全国の皆様にお伝え下さい。

以上、証言の一部であるが、「キム」さんその他の証言は生々しく、とても文章として書くこともできないものである。慰安婦にさせられるいきさつ、慰安婦として受けてきた仕打ち、本人の無念な気持ちなどの証言の場面では調査員全員、涙をこらえることが出来なかった。証言が終わりキム・ヨンシルさんは、同行の中村記者(朝日新聞記者)の手を取り、「もし私がまともな生活が出来ていたら、あなたぐらいの孫に囲まれ、幸せな生活をしていたでしょう。二度とこうした不幸な出来事が起きないように若い人が頑張って下さい」と話をした時には涙で顔も上げることもできなかった(松下事務局長所感)。

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