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(二)徴兵・軍務用員・従軍慰安婦の動員
日本の侵略戦争拡大にともない多くの朝鮮青年と若い女性まで兵士・軍務用員・従軍慰安婦として狩り出された。
(1)徴兵・志願兵による動員
1「志願兵」による徴兵
1938年2月「陸軍特別志願兵令」が公布され、朝鮮青年の志願兵徴兵が始まる。「復員局資料」によればその数は1938年〜1945年まで計17,688名となっている。また1945年に公布された「海軍特別志願兵令」による徴兵は1943年のみで3,000名となっている。(但し1944〜45年は記録されてない)
従って「志願兵令」による徴兵数は合計20,688名となるが、1944年およぴ1945年度分を合計するとさらに多数となる。
2「徴兵令」による徴兵
1944年徴兵令が公布される。これによる徴兵は1944年〜1945年までに陸軍186,980名、海軍22,290名となっている。したがって「徴兵令」による徴兵は合計209,270名となり、志願兵徴兵を含めるとその合計数は229,958名となる。
「徴兵」による「戦死者・犠牲者」はきわめて多数である。しかしその数は公表されていない。
(2)軍務要員(軍属その他)の連行
軍務要員いわゆる「軍属その他」は、1941年より動員される。
「大蔵省(日本人の海外活動に関する歴史的調査−朝鮮編第9分冊)及「第85回帝国議会説明資料」によれば「1939−45年における軍要員連行数は145,000余である。(表参照)但し、「復員局・厚生省の発表によると、154,907名」となっている。
この表では、1945年南方への連行数が不明であるが合計数は326,535名となっている。したがって合計数150,000余はうなずけない。
戦時中、「従軍慰安婦」として多数の朝鮮女性が戦線に動員され、その数約130.000〜150,000と推定されるが、これは320,000の中に包含されると思われる。
以上の数字のうち、明白なものとして、合計364,196名(公安調査庁前掲書、復員局資料)である。
△ 戦死者、犠牲者について
徴兵、軍務要員として動員された人たちのなかにもきわめて多数の「戦死者・犠牲者」があった。しかし、その数は公表されていない。
左記の資料は、南方方面に送られた朝鮮人軍務要員の「送出」「死亡」に関する一例である。
資料1
「陸海軍要員トシテノ朝鮮人労働者ノ送出ハ大東亜戦争勃発以来相当多数ニ上レルガ、就中昭和十六年九月以降海軍ノ要求ニ基キ南方ニ於ケル緊急土木作業ニ従事セシムル為、海軍作業愛国団トシテ三二、二四八名ヲ斡旋送出セルヲ最多トシ、陸軍ノ要求ニ依ル主ナルモノトシテハ北部軍経理部要員一、三二〇名、米英俘虞監視要員三、二二三名運輸部要員一、三二〇名等ニテ此ノ外鮮内ハ素ヨリ内地、満州、支那及南方方面へ多数ノ要員ヲ斡旋送出セリ。シカシテ現在迄ニ起因シテ死没セル者二、一四二名(「タラワ」「マキン」両島ニ於ケル玉砕者六一、二〇〇名ヲ含ム)行方不明七三五名ヲ出セリ。」(強制連行資料より)
資料2
「右ノ外国民徴用令ニ拠ル徴用ニ依リ送出セル労務者ノ数ハ昭和一七年一月以降現在迄ニ二二、七八五名ニシテ之等労務者ハ横須賀、呉、佐世保、舞鶴、大湊、鎮海、各海軍施設部及南方ニ於テ目下就業中ナルガ更ニ九月上句迄ニ九、五〇〇名ノ送出方手配中ナリ」(強制連行資料より)
証言 朝鮮兵部隊大半が全滅 金光一さん
昭和19年に朝鮮青年にも徴兵令が施行されて、その第1期に僕はかかり、昭和18年頃に蒙古におりましたけれども、徴兵検査は旧満洲の奉天で受けました。それから入隊してハルピン経山でバクセキと言う所がありますが。つまり、関東軍の中でも抗戦派だったと恩うんですね。自給自足態勢で、断固抗戦するというような計画じゃなかったかと思うんだけれど。僕たちは、そのバクセキの部隊に行きました。まず食生活からして、大豆が半分、食べ慣れんとあれはなかなかたべられなかったですね。そして、牛前中は畑作りをしたんだけどね。じゃがいもとかとうもろこしとか…
腹がへって、生のじゃがいもを取って食べたことを経験しています。あれ、普通は食べられないんです。じゃがいもの生ちいうのわ。でも本当に腹がへると食べるんですね。
その後、私たち新兵さんは国境地区の部隊に移動させられました。この部隊は大半が、私たち朝鮮青年の部隊でしたけど、ここに派遣されてね。言うなればまともな訓練も受けんうちに、直接ソ軍との戦闘に遭遇してね。大半が全滅くらってしまった。まあ僕自身も別に逃げまどって、うまく生き残ったと言うことでもないんだけれども、…
だから19年の入隊したのが3月で、20年の8月15日ですね、いわゆる終戦というのが、そのコンシュン(琿春)地区で敗戦を迎えてですね。
戦後、旧満洲の奉天にもどって、約1年位おってから、だんだん雰囲気がおれなくなって、それじゃもう国に帰ろうかということで…南朝鮮(韓国)が故郷ですが、いろいろな話によると、鴨緑江、豆満江を越えて故郷まで行くことは困難だということでした。
それで、日本経由で国に帰ろうということで、昭和21年9月23日、佐世保上陸で、日本に来たわけですが、来てみると今度は船が止まっちゃってね。国に帰ることができなくて、それから日本に知り合いもいないし、ちょうど別府で当時米軍キャンプの大土木工事が始まっとるということで、別府に来たわけです。
生まれて初めて飯場に入った。まあ、飯場、土方ですね。あの頃は現代化されていないから、すべてコンクリを手練りした時期でした。
僕は、徴兵されて−放り出されて、別府まで来た経過をざっと今申し上げましたが、チャンスがあれば特攻隊に行こうという考え方持っていましたね。それは、いわゆる人種差別、民族差別に対する、慣りからです。自分たちが勇敢に戦って戦死していけば、その後の我々の後輩は差別なく対等に人間らしく扱ってもらえるんじゃないかと、漠然とした幻想を持ってましたからね。勿論「徴兵」に関する何等の保障もうけておりませんし、今も差別の中で生きていることを考えると、憤りしかありませんね。
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