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2. 民族差別とその実態
△賃金にみる差別
募集その他により大分県に居住するようになった朝鮮人の生活実態は「民族差別」「酷便」「低賃金」「最低生活」の一言につきる。
1924年(大正13年)7月の内務省社会局「朝鮮人労働者に関する状況」の調査でも「尚、大部分、朝鮮人は内地人に比し一割〜乃至六割の差額を有し・…・」と報告している。
大正13年当時の「県下、日本人労働者と朝鮮人労働者の賃金比較」がある。
(表参照)
この比較表によると大差がない。しかし、この表は宮製、机上数にひとしく、現実は日本人労働者の40〜50%であった。
△酷便・低賃金・収奪の方法
「資料」および「体験者の証言」によると、鉱山または企業体の事業主(雇用主)はおおむね次のような方法で酷使と低賃金を押しつけていた。
- 1 募集・雇用時には形ばかりであるが、賃金契約があった。しかし、その50%〜60%の賃金とした。
- 2 賃金に格差をつけ、不払もした。
- 3 グルーブごとに「請負方法」をとり、目標量を数十%割増して提示し、出来高計算をした。
- 4 労働時間を延長酷使する。
- 5 畳一枚に一人当の部屋、まずい食生活で経費のピンハネをする。
- 6 故郷への「送金」「預金」などの「口実」で賃金を差引き横どりする。
- 7 土木、河川工事等は「元請」「下請」「孫請」のような制度があり、朝鮮人は「孫請」が多く元請金額の半分以下が孫請全額の相場とされていた。
そのうえ、「事故」「水害」などの被害も自己負担とされ、「涙金」ですまされていた。当時、「土方殺すに刃物はいらぬ。雨の三日も降ればよい」とのことわざがあったが、朝鮮人土木人夫は終身飯場人夫より抜け出すことができなかったというのが実情であった。
大正14年9月玖珠の旭金山で賃金不払が原因で百二十余名の朝鮮人工夫の罷業争議があった。
証言(柳炳斗さん−当時働いていた)
「争議は、あまりにもひどい会社の仕打ちに耐えかねてのことであった。結局、300円のうち150円を支払い、残りは一ヵ月後に支払うことで争議は妥協したことになっているが全員解雇され、残り賃金は貰えなかった」
と証言している。このようなケースは鉱山・企業体に共通したものであった。したがって鉱山・企業体からは逃亡者が監視の目を盗んで続出している。
△ 朝鮮女工衰史−富士紡
朝鮮女性が日本の紡績会社に募集され働きはじめたのは1911年(明治44年)大阪摂津木津川工場に始まると記録されている。
大量の朝鮮女性が日本に「募集」されはじめたのは1922年頃からである。過酷な労働条件と安価な労働力輸入を目的に1922年、全国ですでにその数4,500人以上に達している。大分県では1916年(大正5年)頃から朝鮮女性が大分紡績株式会社(富士紡)に募集されている。最も多かったのは1920年−1930年初め頃とされているが、相当数の朝鮮人男女工が1945年の終戦まで働いていた。多くの病死者があった。しかし、こうした実数は明らかにされていない。
「大分新聞」(大正11年11月30目)は「綿にまみれて」「世の中を切り詰めて送る紡績女工さんの生活振り」の記事のなかで「朝鮮の男女工、596名」「女工の宿舎は畳15枚敷の1間に大抵14、5名づつ起居」「勤務は、午前6時から午後5時まで、夜勤は午後7時から翌朝6時まで」「女工の多くは、16、7才から20才位」「病室には幾人かづつの蒼ざめた姿がいつでもゴロゴロしている」と紹介している。
当時、富士紡で朝鮮女工として働いた彼女たちは次のような体験を証言している。
証言(鄭貴南さん、大分市)
「当時(昭和五年頃)は、日本で女工がなかなか集まらなかったので朝鮮まで行って集めたのだが、大分の富士紡では一番多いとき400人ぐらいいたかな。寮の1棟が朝鮮人女工の寮だったから。その寮は、20畳部屋が20位あったので、当時は畳1帖に女工1人というのが常識だったから、400人ぐらいいたのだろう。」
証言(ソン・モンドさん)
「大分の富士紡では食事のとき、鯖の煮たものをよく出してくれましたが、食堂の賄夫が鮪の頭を切り取って捨てて置くと、私たちはその鯖の頭を持ってきて煮て食べたのです。会社で出す食事の量だけでは、お腹が空いてたまらなかったので、非番のときなど、鯖の頭を見つけると煮て食べたのですが、それを会社側では(朝鮮人は鯖の頭を食べる。それも好物のようだ。)と思ったのでしょう。そんなことがあって鯖の煮物はお頭付きで煮て、おかずに鯖の頭だけを出すようなこともありました。」
証言(鄭在順さん63歳、慶尚南道馬山郡出身、大分市在住)
「私の働いていた富士紡の工場のなかは、埃と湿気がひどいために多くの朝鮮人女工が病気−結核と栄養失調−で死んでいきました。肺を病み、口から吐血しながら死んでいった同僚がたくさんいます。多いときには一ヵ月に二、三人も死にましたでしょうか……」
(以上、1974年調査時証言より)
△ 証言 朝鮮人2人 生埋・死亡
1991年3月11日午後2時25分、大分郡狭間町に居住する、某氏(匿名希望)より電話による証言があった。「昭和6、7年頃、谷小学校敷地工事で、朝鮮の人が2人以上と思うが、生埋めになり、死亡した。朝鮮の人の生活は無残だった。三助様墓場がある、ぜび調査すべきだ。」…
調査によると、谷村尋常高等小学校の運動場拡張工事が、昭和7年10月頃よりおこなわれた。当時、「金山と言う人が下請らしく約10人位の朝鮮人人夫が働いていた」との証言を得た。朝鮮人人夫2名以上、生埋めになり死亡したことは、事実のようである。しかし、三助墓地には朝鮮人らしき無縁仏はない。
「私は、子供の頃、冬に父の飯場に行ったことがある。父は日出台へ通じる軍事道路(玖珠町、鳴川)工事をしていた。30人位が働いていた。飯場は、やっと雨、ツユをしのぐ、ホッタテ小屋のような長家でカベはバス板で囲みスキマから寒風が吹き込んでいた。床は、板床の上に、ワラを敷き、その上にムシロを敷き、薄いセンペイブトンの万年床であった。朝起きてみるとフトンの上に雪が積もっていた。私は子供心にも、国を奪われ、故郷を追われ流浪の民となった植民地民族の悲哀を痛感した。その時の憶いを今も忘れることができない。
(チェョンソブ)
1910年代より募集され、その後強制連行された朝鮮人が、いかに大分県の発展のために「犠牲」になり、「貢献」したことか、改めて見直されるべきであろう。
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