友さんの会社的な昔々


今は昔のものがたり・・・


入社 1970年(昭和45年)1月16日

最初はアナウンサー
友さんは、TOS入社時は「アナウンサー」でした。

そのころTOSはまだ開局前の試験放送中でしたが、2週間ほどの研修のあといきなりニュースを読みました。いまではちょっと考えられないことです。

左の写真は、新人時代・・旧社屋のアナブースで練習中。今より10キロも軽量の若き友さん。たしかに別人みたいだね。
左の写真は、初めてスタジオでTOSの選挙速報を読んだとき。なんとなく緊張ぶりが伝わって来るようでしょう?。    

これは・・県議選だったかな?知事選だったかな?単なる数字の羅列を読むだけなのに、汗だく・・・・のどはカラカラになるし、ほんとに緊張した。



ここでひとこと・・・・

このあたりの写真が全部モノクロだからって、決して「カラーがなかった」時代じゃないんだよ!

1970年代のTOS開局当時は、まだニュースはモノクロが主流だったし、OBSもNHKもそうだった。
だから、ニュースに使うスチル写真も当然モノクロだったんですよ。モノクロだと自家現像できるからね。

まあ、個人的にモノクロが好きだというともあるけど。 

放送記者として七転八倒!

その当時の「新人アナ兼放送記者」の活躍?ぶりを少しご紹介しましょう。

この写真は、たしか初めて火災現場の取材に行った時だったと思いますが、場所等は不明。
詳しいことはよく覚えてないんだけど、とにかくどうしていいかわからなかった。やたらうろうろしていたことを思いだす。

でも、それなりに働いていたことの証明。
これは悲惨な交通死亡事故現場。中を見たら血だらけで気分が悪くなり、しばらくぼう然としていたことを思い出す。

この写真は、取材に出ていったのではなくて、たまたま別大国道を走っていて事故現場に出くわしたもの。残念ながらニュースには間にあわなかったのだけど、長くTOS交通安全キャンペーンで使われた。
見たことのある人は多いはず。
モノクロームの世界、懐かしいでしょ?

私、モノクロの暗室作業はけっこう自信があったんです。現像液作るときも、お湯に手をつっこんで「50度!」とか、けっこういい勘してたんですよ。

いまでも欲しいな自分ちの暗室。

1979年(昭和54年)営業からキャスターへ復帰

その後、1974年本社営業部・1975年大阪支社営業部と、営業マン生活を送り、やっと厳しい世間に慣れてきたころ本社へ転勤。

ふたたびニュースキャスターに復帰したのは、昭和54年のことでした。顔出しニュースが始まっていました。

大阪では髪をスポーツ刈りにしていたので、まだ元に戻ってないのと、いまより9キロ太っていたので、なんか別人みたいだ。

ニュースキャスターと中継ディレクターの2足のわらじ

ニュースキャスターだけではなく、やはり番組の制作現場を兼業。

写真は昭和55年ごろのハロー大分のスタジオ風景です。

真ん中にいるのが私で、ここではフロアディレクターをしています。
生番組では、フロアディレクターの役割は非常に重要なものがあります。
その他いくつか番組ディレクターを兼任。もともと制作志向が強いこともあって、どちらかというと、その方の比重が次第に高くなってきて、キャスターのほうは多少手抜きという感じになってしまった。

写真は、なんかの中継での初代中継車の中。一番奥の私の手元に通称テレコールの電話機があるから、バレー生中継かな。
このころ「報道機動中継車」、通称ミニ中が導入されて、生中継が便利になった。
写真はトヨタ・ダイナ改造の初代ミニ中の前の私、HL−79というハンディカメラを三脚にセットしているところ。

いつでもどこにでも中継に出かける、のはすごい負担だったけど・・・・

当時最大のネックは必要人員の確保特に技術スタッフの調達。
それで、いろいろ人から教わって、中継に必要な機材の必要最低限の知識を勉強して、なんとかひとりで動かそうとした。

今はわりと簡単になったけど、その当時の「3管式」カメラの調整はかなり大変だった。

実は、たったひとりで中継したこともある。

今は昔の物語、ご紹介しました

報道制作部−営業部−大阪支社営業部−制作部−放送部−報道部−制作部−
放送部−システム開発室−システム開発部

入社以来の私の職歴です。あと行ってないのは、どこだっけ?

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