栗ヶ畑川の源流風景と水路
栗ヶ畑川源流

[栗ヶ畑川源流]
栗ヶ畑川源流

[栗ヶ畑川源流]
栗ヶ畑川最上流堰

[栗ヶ畑川最上流堰]
1 源流風景と地区の各水路の保守作業をスライドで見る

2 2012年09月05日のメモ
 ・地区の中心を流れる栗ヶ畑川は大野川の支流でその源流は豊後大野市と大
  分市の境界近くです。栗ヶ畑川の下流部は緩やかな流れですが源流域は深
  い渓谷で、都会地近くなら夏は渓谷の観光地となる様な良い場所です。
 ・この源流近くに、栗ヶ畑地区の最上流の耕作地用水路の取水堰があります。
  取水堰と水路は稲作には欠かせない設備で古くから今日まで守られてきま
  した。「犬飼町誌」によると、これらの水路は300年以上前の江戸時代に造
  られた様で、水路には岩をくり貫いたトンネルも有り改めて驚きを感じます。
  (町誌からの抜粋を最後に記載しています)
  時代と共に元の水路は改良が加えられ今日まで使用されていますが、この
  様な源流地域の水路は保守も大変です。大雨で川が増水すると水路は土砂
  で塞がれそのたびに地域の人達が人力で土砂を除去します。栗ヶ畑川には
  8本の水路が布設されていますが、地域の人達の高齢化により土砂の除去
  などの水路管理が困難になりつつある事と水路設備の老朽化の問題に直面
  しています。
 ・栗ヶ畑地区で作られるお米は美味しいと評判ですがこの様な源流域の綺麗
  な水流と良い土壌のお陰でおいしいお米ができるのでしょう。最近は国も
  山間地の水や農地の保全の重要性必要性を認識し種々の補助制度が出来て
  います。少しでも長くこの様な山間地の清流を守っていきたいですね。
  これは下流域の都市部の人達にも無関係では有りません。

       -----町誌からの抜粋-----
  [水路と溜池の 築造]
  江戸時代も中期を過ぎると全国的に凶作が続き、その上に幕府権力によっ
  て多額の出費を余儀なくされ、諸藩の財政は窮乏をきたすようになる。岡
  藩もその例にもれず財政逼迫を切り抜けるために積極的に開田・開畑を進
  めていった。
  山内部落に「新田」という地名の水田があるが、これは新しく開田した土
  地という意味である。このような新開田は新飼田とも書かれ、長畑や黒松
  の新飼とともに江戸時代に開かれた田である。開田と併行して水路や溜池
  の築造も行われた。岡藩では、三代目藩主久清が、万治3年(1660)に熊沢
  蕃山を招いて藩政についての講義を受け、その結果、城原井路や緒方井路
  が開かれたといわれている。
  犬飼町関係の記録に残っている水路のほとんどがそれより後の元禄年間に
  開通しているところから、熊沢蕃山の指導が発端となって当町の井路が次
  々に開発されたと考えていいだろう。古老の間に「熊沢蕃山が来藩の折、
  指導して掘らせた」とか「岡藩の囚人を集めて掘らせた」という言い伝え
  が流布されているが、あながち、無関係とは言えないようである。なお、
  寛政4年(1792)には、岡藩全体で井手55430、堤95か所、水溜6か所が造ら
  れていた(北村清士『農民一揆』)。
  江戸時代に造られた本村関係の井路では、長畑部落字新飼の水田を潤して
  いる「赤見ヶ鶴井手」(別名岡田井手)がある。水の取り入れ口の上の岩
  に「元禄二己」と深く刻みこんであるところから、築造年代が元禄2年
 (1689)であることが判明する。この井路は、岩山の下部をえぐり取るよう
  にして造られており、その長さは30m余りである。岩の掘削法としては、対
  岸からふいごで風を送って炭火をおこし、その熱で岩を壊し易くして、く
  り貫いていったらしい。現在も1町7反6畝の水田を潤している。岩山を
  えぐり取ったり、掘り貫いたりしてできた水路には、他に次表のようなも
  のがある。これらは、いずれも記録がないために、いつごろだれによって
  どのようにして造られたかは不明である。-----抜粋終わり-----


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